【ミリオン・ダラー】(1)
「どうだろうか。君にとっても悪い話ではないと思うが」
優雅にグラスを揺らしながら、ラグウィードは微笑んだ。
今なら、彼の微笑みの理由がはっきりと分かる。俗に言う営業スマイルというやつである。
俺がカウンターで仕事をしている時に浮かべている笑顔と、極めて性質の近い笑顔だ。
「現在、セージの奴や、アウランティアとどのような契約になっているのかまでは詳しく分からないが、私に委ねてくれれば君個人に対して、今以上のカクテルに対する報酬を支払うことを約束しよう」
どうやって、とは聞かない。
カクテルをもっと金儲けに生かす方法は色々と案に上っていた。
例えば、カクテルという技術の使用料を特許のようになんらかの形で取ること。単純な金儲けの話だけでなく、そうした方がカクテルに対する安心感や信用が増すのでは、という意見もあって色々と考えもした。
だが結果として、技術を独占し金儲けにも利用する方向の考えは、理念が違うと却下されたのだ。
「お誘い自体はありがたいと思いますが、なぜこのような場所で?」
ひとまず、あまり相手の気分を害し過ぎないように気をつけながら、探りを入れる。
なにせ、今は営業中なのである。客同士の商談ならまだしも、接客中のバーテンダーを口説くには場所が悪過ぎるだろう。
ましてや、この場には俺だけでなく、他の従業員達の目もあるのだ。
「ああ、そうだね。確かに不躾ですまなかった。ただ、前々から考えていたことが、君のカクテルが余りにも美味しくてポロリと洩れてしまったのだよ」
「それは、ありがとうございます」
「それで、どうかね? また場所を改めて欲しいというのであれば、別の日に改めて約束をさせて貰えればと思うのだが」
と、余裕の言葉を吐きながら、ラグウィードの目には微かな焦りが見える。
どうせならば、この場の勢いでなんとかしてしまいたい、というような気持ちが見え隠れするようだ。
俺の観察するような目に気づいてかどうか、ラグウィードはさらに条件を提示してくる。
「ついでに、調べさせて貰ったが、あの炭酸飲料については、クレーベル商会が独占的に契約を結んでいるらしいね。確か、総利益の2%が君達のロイヤリティになるんだとか」
「よく、ご存知ですね」
「そちらについても、私の懇意の商会が興味を示していてね。私達ならの4……いや5%払っても構わないと思っている」
また、金の話である。
別に、金の話をするのが悪いわけではない。生きていくためには当たり前の考えだ。
問題があるとすれば、このラグウィードという男は、金をちらつかせて俺を引き抜こうとしているのが明白な点。
「なぜ、今になって自分なのでしょうか。先程ご自身でおっしゃられたように、今現在、カクテルの普及に関して、自分が明確に携われる箇所はありません。そういう意味では、自分を引き抜いたとしてもあまり意味はないと思いますが」
確かに俺を引き抜けば、カクテルの知識自体は手に入れられるだろう。
だが、既に動き出している領主様やクレーベル商会、アウランティアカを止めることはできない。
動き出した流れに便乗するならともかく、その流れから利益を奪うのは難しい。
彼の提案は遅きに失したと言わざるをえない。
と思ったのだが、ラグウィードはにっこりと笑う。
「正統性、というストーリーがまだ残るだろう」
「正統性ですか」
「カクテル──それに伴う一連のストーリーを、広く民衆にアピールするための鍵、それが君だよ夕霧君」
正統性、その鍵が、俺。
「初めから一貫して、君の功績は『スイ・ヴェルムット』のものとして扱われてきた。しかし、真実は違う。そしてその真実を武器に、正統な『カクテル』を売り出す。君さえこちらに来てくれれば、そういったストーリーを作る準備がある」
ラグウィードは静かに、されど扇情的な抑揚を持ってそう言った。
演説慣れ、というか交渉慣れしているのだろうか。誘うようなその物言いは、なるほど確かに、彼に付いたらその通りになるのでは、と思わせるだけの迫力があった。
具体的な案など何一つ出していないにも関わらずだ。
「……申し訳ありませんが、とても上手くいくとは」
俺は、少しだけ踏み込んだ言葉を選んだ。
何を考えているのかはわからないが、それでも、あまり悪戯に踏み込んで痛い目を見ないように諌めるくらいのことはしてもいいと思ったからだ。
だが、ラグウィードは笑みを崩さず、声をひそめるように言った。
「夕霧君。今、魔物が活性化しているという話を聞いたことは?」
「それは、当然ありますが」
「……ここだけの話だよ。私には、その活性化を上手く利用するアイディアが既にある」
「……それは……」
そこだけは、ニュアンスは全く違えど、領主様と話をした内容とかぶった。
だが、その先を告げるラグウィードの目は、領主様とは違って爛々と輝いているように見えた。
「ここでは詳しい話はできないが、どうか一度、私の言葉を信じてみないかね?」
俺に分かったことは、ラグウィードは俺の知らないなにかを掴んでいるらしく、先ほど俺を誘った商談に絶対の自信を持っているのだということだ。
その答えを聞くには、きっとラグウィードの誘いに乗る必要があるのだろう。
さて、それに対して、俺はどういった返事をしたものだろうか。
俺たちの会話は、はっきりと聞こえていたのだろう。先程からチラチラと様子を窺っているフィルに、俺は尋ねた。
「フィル、今何時だ?」
「はい? 午後十一時半を回ったところです」
そうである、閉店三十分前ということは、食べ物のラストオーダーの時間だ。
飲み物にはラストオーダーの時間は設けていないが、片づけは半分以上終わってしまっていることだし、悪いがここで切らせてもらうこととしよう。
「ラグウィードさん。お話の途中に申し訳ありませんが、本日は当店側の都合により今の時間にラストオーダーとさせていただきたく思います」
「……そうかい」
「そのお詫びと言ってはなんですが、私の方から、先程のお話に対する返答として一杯のカクテルをご馳走させていただければと」
「ふむ」
俺が心からの営業スマイルを送ると、ラグウィードもまたにやりと笑い返してきた。
どうやら、俺がご馳走したい、と言った点から、なにやら良い匂いを感じ取ったらしい。
まぁ、俺がどのような返事をするにしても、作るカクテルに手を抜くことはありえない。
そして、今回は、こっちの都合でラストオーダーを取ったというのもあり、お詫びも兼ねて少々特別なカクテルを作ろう。
「フィル。オヤジさんのところから、ちょっとアレを貰ってきてくれ」
「アレ……あ、分かりました」
俺があえて主語をぼかして伝えてみると、フィルは少し悩んだ所で答えに行き着いた。
そう。今回の材料の一つは、実はこのカウンターの中には存在していないのだ。
別に普段から準備しても良いのだが、日常的に使うことはあまりないので、油断すると悪くしてしまうし、かといって厨房に行けば切らしていることはほとんどない。
というわけで、必要になったときに厨房から分けてもらうことになっている。
「アレってなんですの?」
「少しは自分で考えようか……」
そして、そんな取り決めを確かに伝えたはずなのだが、サリーは頭からすっぽりと抜けている様子であった。
まぁ、サリーが扱うにはまだ早い材料とも言えるしな。
呆れを呑み込み、フィルが戻る前に他の材料も揃えておく。
まず、グラスは逆三角形のシルエットが美しいカクテルグラス。清潔な布で軽く拭いたら一度作業台に置き、今回使うシェイカーとして、少し大きめのものをチョイスする。
グラスの準備を終えたら、常温で保存されているグレナデンシロップを準備。
次にコールドテーブルの冷凍庫部分から、ベースとなる『ジーニ』と氷を取り出し、代わりにグラスを詰める。
最後に冷蔵庫部分から冷やしてあるレモン果汁に、スウィート・ベルモット──『スイ・ベルモット』と、クレーベル商会とよしなになってから大分手に入りやすくなった南国の果実ジュース『パイナップルジュース』を取り出した。
今回のカクテルに関しても、複数のレシピが存在して表記が揺れているのだが、個人的にはレモン果汁を入れたレシピの方がスッキリしていて好みだ。ラグウィードの好みにも合うだろう。
と、俺が準備を終えたのを見計らったように、フィルが厨房から例のブツを手に戻ってきた。
「はい。卵です」
「ありがとう」
そう。今回使うやや珍しい材料とは、この卵──その中でも卵白の部分である。
もともと、この世界には卵を生で食べる風習はないようなので、目の前のラグウィードがやや眉をひくつかせた。
「ご安心を、安全に処理をした清潔な卵を使用しております」
まぁ、その辺については俺が門外漢なところの魔法でどうにでもなるようだ。
殺菌の魔法とか、夢が無いにも程がある。腐敗防止の魔法とかもな。だが、飲食店ではそういった魔法のほうが攻撃魔法よりよほど実用的なのだ。
話が逸れたが、材料が揃ったところで作業に入る。
まず、レモンを六分の一にカット。無駄な部分を切除したのち、ナイフで軽く切り込みを入れながらメジャーに果汁を絞り入れる。足りない分をジュースで補って、10mlだ。
材料が多いので、流れるようにその他の材料も計り入れて行く。
ジーニが30ml、パイナップルジュースが10ml、スイート・ベルモットが10ml、グレナデンシロップを1tsp。
そして、最後に卵白を卵一個分。正確には鶏卵半個分なのだが、今回持ってきて貰った物は、鶏卵より小さい種類の卵なので一個分とした。
卵黄の部分は、オヤジさんにリリースしておけばあとで美味しく調理してくれるだろう。
それらを計り入れたシェイカーの中は、やはりというか軽くかき混ぜてみても卵白のとろりとした感触が残っている。
その卵白をよく撹拌するために、今回は大きめのシェイカーを選んだのだ。
シェイカーにトングを使って氷を詰めていき、八分目ほどまでいったら良く閉める。
まな板の上に、ココンと二回打ちつけてから、俺はシェイカーを構えた。
大きめのシェイカーを用意してはいるが、今回は生クリームを使うときほどハードシェイクをする気は無い。
卵をかき混ぜるのに必要なのは力ではなく要領だ。
大きめのシェイカーの中で、氷を気持ちいつもより弾ませるように、静かに八の字を描く。
少し抵抗感のある感触が最初に指先から伝わってくるが、氷が卵を叩くにつれて、ゆっくりととろりとした抵抗が砕けて、柔らかな感触に変わって行く。
耳で感じる音と、指先から感じる手応え、そして経験から基づく『勘』のようなもので、朗らかに、高らかに、シェイカーの中の世界が変わる瞬間を待つ。
カコラン、カラコンと氷の声もいつもより楽しげだ。
そして、卵白が完全に他の液体と馴染み、また、その液体そのものが混ざり合い、一つになったタイミングで、俺はゆっくりとシェイクを終えた。
冷凍庫から冷やしたグラスを取り出すと、俺はラグウィードの前にある空のグラスを下げると同時に、そっとカクテルグラスを差し出した。
「失礼いたします」
それら一連の動作に断りを入れた後、シェイカーの蓋を開け、中からとろりとしたピンク色の液体を注いだ。
とはいえ、卵白そのもののイメージからすれば、その液体はずいぶんとサラサラしている。
卵を撹拌したとき特有の泡立ちが、静かに液面に広がっているのが、卵らしくもあり、また、ピンク色と合わさって美しくも見える。パイナップルジュースも泡立ちやすい材料なので尚更だ。
そして俺は、ラグウィードへの返事としての意味も合わせて作った、このカクテルの名前を告げた。
「お待たせいたしました。【ミリオン・ダラー】です」
百万ドルの夜景、とは言わず、そのままストレートな百万ドルである。
まぁ、この世界のお金の単位はドルではないのだが。そこはご愛嬌であろう。




