選択の自由(8)
「マスター、なんか悩んでるのか?」
「え?」
俺の隣に座っていた常連の男性、イソトマに尋ねかけられて思わず固まってしまった。
場所はイージーズ。そのカウンターの一番端のほうに俺は早い時間から座っていた。
スイやノイネ、イベリスはあれからもう少しデータを集め、『試作銃』の再調整にかかりきりだ。そんな三人と離れた俺は、一人でぼんやりしたいと思った。
そう思ったのに、どうしてだか仕事場に来てカクテルを飲んでいるのだから、俺は多分バカなんだと思う。
サリーの動きがやや鈍いが、それでも潰れてはいないのを確認して安心した。
それから昼間の『カクテル』の件を考えていたところで、今日はこれまた早い時間に来たイソトマが隣に座ったのだ。
そうすると一人黙っている訳にもいかないので、結局悩み事は頭の隅においた筈だった。だが、ふと会話が途切れたタイミングでそんなことを言われてしまった。
「えっと、そんな風に見えます?」
「あー、いやなんとなくな。その変な言い方だけど、笑顔がちょっと違う気がして」
指摘されて、そんな仏頂面をしながら会話していたのかと不安になる。
だが、イソトマは小さく否定した。
「そういうんじゃなくて、今日はいつもよりよく笑ってるな、と」
その言い分に、俺は少し考えてハッとした。
何も考えないでいるときに、俺は癖で笑顔を浮かべる。俺にとって営業中の微笑は、無表情と変わらない時がある。
だが、その事実にイソトマが気づいていたというのが、一番の驚きだった。
と同時に、彼が気の良い常連であるだけでなく、一人の人間として部下をたくさん持った上司であることを再認識した。
「なんか悩みの一つでもあるんなら、俺で良ければ聞いても良いぞ?」
イソトマのその言葉は、とても魅力的に聞こえた。
だが、俺がその言葉に答えるよりも早く、イソトマの更に隣にいる女性が明るく口を挟んで来た。
「えー。イソトマさん、それって変じゃない? 普通にいつもより笑ってたら、良い事があったって話でしょ」
「え、ああ。はは、そうか、そうだな。いや、ははは」
女性の指摘を受けて、イソトマは少しぽかんとした後に、そう言って笑った。
女性はそれから、今度は俺に向けてニヤニヤとした目を向ける。
「で、マスター。何か良い事があったんでしょ? なに? とうとうスイちゃんに告白されたとか?」
俺はそんな彼女に、嫌な顔ひとつせず相変わらずの笑顔で応えた。
「いやいや。そんなのありえないですって」
「えー? じゃあじゃあ、お姉さんとかどう思う?」
「そりゃもう魅力的すぎて、とても自分じゃお相手できませんとも」
「あはは! もう!」
俺は女性の笑顔を見たあとに、チラリと彼女のグラスも見る。残りは二口分くらいだろうか。そろそろ、注文を取ったほうが良いな。
近くで別の女性客と話しているフィルに目をやる。彼もこちらを気にかけていたようで、すぐに話していた客との会話を中断し、こちらに来る。
俺はそれを確認しつつ、やや芝居がかった口調で女性に言う。
「ではでは魅力的なお姉さま。そんな素敵なあなたに合う、素敵なカクテルをもう一杯いかがです?」
「あー、マスター。またそうやって飲ませようとするんだから。今日はこれでおしまい」
「え、もう帰っちゃうんですか? 今日のフィルは、いつにも増して面白い話と、美味しいカクテルを用意してますよ」
面白い話、の所にアクセントを置いた。
近くまできていたフィルは、その単語を拾って苦笑いしながら会話に入る。
「総さん! なんでそうやってハードル上げるんですか」
「え、じゃあ面白い話できないの? バーテンダーなのに?」
「で、でき、できますよ」
「よし、美しいお姉さん。ほら、フィルはスタンバイOKですよ。あとは一杯頼むだけ」
フィルのやや自信なさげな断言を、俺は大袈裟に拾って女性に投げ返す。
俺とフィルのやり取りを面白そうに眺めていた女性は、自身のグラスを傾けて仕方ないな、と口では言った。
「じゃあ、面白い話に免じてもう一杯。つまらなかったらタダだからね」
「責任重大だぞフィル」
「総さんがハードル上げたからじゃないですか!」
フィルの悲鳴もそこそこに、女性はフィルに向かって色々と話を振り出した。
その会話を上手い事抑えながら、フィルは女性に注文を取り、適度に相槌を打ちながら作業に入る。彼が最初に会話していた女性客も様子を窺っているので、すぐにフィルを挟んで三人での会話になるだろう。
俺がそれを確認し、自分のグラスに手を伸ばしたところで、イソトマが囁くように言った。
「……相変わらず、恐ろしい注文を取らせるマスターだなおい」
「今日は昼に教室とかありましたし、フィルも話のネタには困りませんって」
イソトマと俺は、同時に悪い笑みを浮かべ、それから明るい笑い声に変えた。
先程の俺の行動をどう思ったのか、それからイソトマはすぐに話を戻す。
「でだ、やっぱり悩みとかあるのかい?」
「いや、まぁ、多少は」
「そうかそうか。じゃあ良ければ相談に乗るぞ」
年上の常連客に言われると、やはりついつい頼りたくなる。事実、俺の心はうっかりそちらに傾きかけていた。
しかし、その後に続いた言葉は、俺をすっと現実に引き戻す。
「ただ『カクテル』の相談なんかには乗れねえけどな」
イソトマの顔は、明らかに冗談を言ったものだった。
だけどその冗談は、俺の心を凍り付かせるに足るものだった。
「他のことならともかく『カクテル』に関しちゃ、マスター以上の人間なんてこの街に、いやこの世界にいないからな。マスターが悩んでるんじゃ、誰も何も言えねえわ」
「……あはは、そう言ってもらえると光栄です」
上手く笑顔を返せただろうか。心配するが、イソトマの様子から問題はなさそうだ。
彼は言ってから自分のグラスを干し、ニヤリと俺に言う。
「しかし、それ以外の悩みだったらいくらでも聞くぞ? なに、俺とマスターの仲だ、一杯サービスで良い」
「それが目的だったんですか。分かりました、そういう邪な人には二倍つけときます」
「おおい! マスター!」
彼の分りやすい冗談は、一時固まった俺の思考を再び接客のそれに戻してくれる。
だが、それと同時に彼は、はっきりと言ったようなものだった。
『カクテル』に関する悩みは、俺が解決すべきことだと。
もちろんイソトマは、俺の抱えている事情など知らない。それを知ったら、親身になって相談に乗ってもくれるだろう。
だが、それ以前の問題で、俺はこの店の店主で、彼は客だ。
ここは俺の悩み相談所じゃない。お客さんの話を聞く場所だ。
そんな場所で、一時でもお客さんに自分の悩みを打ち明けようなど、どうして思ってしまったのか。俺は自分の心を、もう一度強く律した。
「それじゃ、次はなにを飲みます? いやぁ、奢ってもらってすみません」
「二倍ってそういう意味か! 今日は奢らねえぞ!」
そんな冗談を言い合って笑う男二人。隣で微妙に話が聞こえていただろう女性達も、俺達の話に釣られてクスクスと笑い声を出す。
イソトマはそんな空気を強引に断ち切るように、再び話を戻す。
「それで、悩みってなんなんだよ」
「イソトマさんのナンパをどのくらい黙認すれば良いのか、とフィルから相談されてまして」
「おいフィル!」
「僕そんなこと言ってませんよ!」
イソトマの声に、フィルは大袈裟な身振り手振りで潔白を主張する。
しかし、そんな面白そうな会話に乗っかってこない女性常連は、ウチにはあまり居ない。
「あーそれ大事ですね! フィル君ありがとう。私達のこと考えてくれて」
「いや、言って無いですってば!」
女性ももちろん冗談で言っているし、それが分からないフィルでもない。
だがここで否定する正直さがまたフィルであり、そんな正直な人間を弄るのが好きなのが酔っ払いの常だ。
「またまた、可愛いんだからもう!」
「おいフィル!! もう許さんぞ!!」
「違いますってば! もう、良いからカクテル飲んで下さいよ! イソトマさん次は何にしますか!」
困ったように笑いながら、しどろもどろになるのではなく強引に次に繋げられるようになったのは、フィルの成長か。
だが、その反応ではますます酔っぱらいが喜ぶだけだろう。このままではダラダラと会話が続いて、結局注文には繋がらなさそうだ。
仕方ないので、そっと助け舟を出す。
「ほらイソトマさん。カクテル一杯でナンパ十五分OKですよ」
「短いなそれ! いやナンパなんかしてねえけど」
「それで、ご注文は? あ、自分は【ブルー・ムーン】とか飲みたい気分です」
「だから奢らねえっての!」
あはは、と笑い声が店内に満ちた。
そういう光景を見て、俺はほっと安堵する。やはり、この場所で俺の抱える悩みなど打ち明けるべきではない。
店の主役はお客さんだ。
彼らが笑い、彼らが悩み、俺達はそれに寄り添うのが仕事だ。
だからこの悩みは、俺が自分で抱えるべきなのだ。
それから俺はたまにフィルに助け舟を出すくらいで、ゆっくりとお客さんの笑顔を見ているのだった。
悩みは胸にしまったままで。
ここまで読んで下さってありがとうございます。
更新がまたしてもずれ込んで申し訳ありません。
次話は、できれば今日の日付が変わるまでに更新したいと思っております。




