一縷(6)
スイがそれなりに酔っていることは知っていた。スイにとってのいつもの口調は、女性言葉というよりは事務的な、硬い言葉遣いだ。
だが、酔いが回って饒舌になってくると、柔らかい言葉遣いだったり、子供っぽい言葉遣いだったりに変わる。
だから、語尾が少々不安定になってきたスイが、見た目以上に酔っていることは分かっていた。家で飲んでいて、そしてここでも飲んだのだから当たり前か。更にいえば、緊張とそれからの解放は、思っている以上に酔いに効く。
「ふふ。ふふふ」
その結果、彼女は俺の想定以上に上機嫌になっている。ゆらゆらと彼女の手の中で揺れる液体は、既に二杯目の半ばだ。
しかし、そんなスイの機嫌とは裏腹に、俺はトライスが残した最後のひと言がずっと気がかりだった。
「……総? どうかした?」
「あぁ、いや」
俺の笑顔に影が差したタイミングで、スイは首を傾げて俺に尋ねてくる。俺はそれに、短くなんでもないと返す。
気になることは気になるのだが、今、この少女のいい気持ちをぶち壊すタイミングで、話題に出すことはない。落ち着いたときに、改めて考えれば良い。
そうだと言うのに、俺の懸念は正しくスイへと伝わってしまったようだった。
「……この街が、戦火に包まれる?」
「…………」
トライスが最後に残したひと言。
俺とカクテルの話の、その裏側にあったのだろう彼女のもう一つの事情。
彼女が俺を誘いにきた理由の半分は、俺を危険から遠ざけるため。少なくとも、ここが危険だと彼女が思っているということ。
しかし、それはやっぱり今考えることとは思えない。俺自身、それなりに酒が入って思考はいつもよりまとまらない。そんな状態で良い結論が出せるわけがない。
「いや、そういう話はやめよう」
俺は苦笑いを浮かべてスイに告げた。彼女の返事を待つ事無く、誤魔化すように手元のグラスを引き寄せる。
それを傾けたところで、中身が殆ど空になっていることに気づいた。いつも耳聡く聞いている氷の音を、目の前のグラスから聞いた。
どうにもきまりが悪く、笑って誤魔化す。だが、スイは笑ってはくれなかった。
「いやほら、自分の分だし、無くなってても困らないし」
バーテンダーの仕事は常にお客さんの事情を考える。そこに自分の私情は挟むべきではない。だから、今スイが楽しんでくれているのなら、優先してあげたい。
そう思って、俺は必死に話をカクテルの方向に戻す。
スイはそんな俺に、じとっとした目を向けていた。
「総。それ悪い癖だよね。周りのことは気にしてても、自分のことは気にしてない」
「いや面目ない。ただ、周りに迷惑かけることはないし」
「嘘。かけてるし」
「え?」
スイの指摘に、俺は首を傾げる。
「心配だよ。私は総が心配。私だけじゃなくて、総は周りの皆に心配されてる」
「心配ってなんだ」
「総にはもっと、自分のことを大切にして欲しいんだもん」
彼女の口調が砕けているので最初は冗談の類だと思った。
だけど、スイの目には僅かに涙が浮かんでいた。感情のたがが外れやすくなっているのはあるだろうが、それでも感情は本物だ。
俺は、自分よりずっと年下の少女に、泣くほど心配されている。
「……あの人が去り際に私に言った。総を頼むって。言われなくても、総は私が守る」
「女の子に守る宣言されるのは複雑な気持ちだな」
「だって、そうじゃないと、総はいつの間にか、あっさり……」
俺はなんとか話題を逸らそうとしてみる。だが、スイはそんな俺の悪あがきをまっすぐに踏み越えてきて、そんなことを言った。
トライスにも指摘された話で、俺はどうも自分の命を軽く見ているふしがあるとか。
俺自身にそのような自覚はない。死ぬのは怖いし、実際にその場に居合わせたときの、泣きたいくらいの感情も覚えている。
だけど、それでも。スイもトライスも、俺のことがそんなに心配なのだという。
「心配してくれるのは嬉しいけど、そんな大袈裟な。トライスもスイも心配し過ぎだよ。俺はそう簡単に死ぬつもりなんて」
「でも、あの人が言ったんだよ? 他でもない、この私に。多分一番頼りたくない私に。……あの人、今まで総に嘘を吐いたことあった?」
「……それは、ないけど」
トライスが今まで、俺に嘘を吐いた記憶はない。もしかしたら嘘の一つや二つ吐かれているのかもしれないが、覚えはない。
そこから遡って、鳥須伊吹がどうだったかと言えば、彼女は彼女で嘘は吐かない主義に思えた。代わりに俺に隠し事なんかは良くしていたが、それで大抵は良い方に転ぶのだから、なにも言えなかった。
彼女は、俺の知らない何かを知っている。そしてそれを俺には隠している。その情報を漏らさないように、努めている風にも思える。
そんなトライスが、はっきりと言ったのだ。
きっと再びの独断専行をして、俺に会いにきて、こう言った。
死なないで、と。
「……まぁ、今まで死にそうな目にあったのの、何割がトライス発だって話で」
「そこは私も同意。だから、私はあの人が気に食わない」
スイはきっぱりと、トライスが気に入らないと言い切った。彼女の性格を考えれば言い繕うほうが変なのだが、言われるとちょっと身構える。
だがスイは、言い切ったあとに、目の剣呑さを緩める。
「でも、あの人のおかげで助かったことには、とても感謝してる」
照れ隠しに笑うこともなく、スイはまた言い切る。それから、手に持ったカクテルをゆっくりと飲み干した。胸中の複雑な感情も一緒に飲み干すように。
彼女のせいで危険な目にあう事もあったが、そんな彼女のおかげで助かることもまた多かった。
降り掛かる困難と同等以上の進歩を彼女は与えてくれた。
最初にこの世界に来て思った以上のスピードでカクテルが発展しているのは、間違いなくトライスのおかげだ。
……いや、あと一人、俺に姿を見せなくなった協力者も居るのだが。
俺の思いを置いて、スイは言葉を続けていた。
「だから、あの人の言ったことは、ひとまず信用する。この街に何か、大きなものが迫っているかもしれないって」
「……そう、思うのか?」
「思う。ここ最近の、世界の変化には何か理由がある。その方が納得できるから」
世界の変化。
俺はこの世界にきて浅いから何も言えない。だがスイは何かを感じ取っているらしい。
いや、俺でも一つ、はっきりと分かることはあった。
「……魔物の活発化、か」
ヴィオラを初めとした、様々な人から話は聞く。
街の外で、魔力を帯びた生き物たちが活発になっている。直ちに大きな変化はなくとも、少しずつそれは人々の生活に影響を与える。
それまで安全だった農場が危険になれば、生産に変化は起きる。
それまで安全だった行路が危険になれば、流通に変化が起きる。
魔物という外圧にさらされれば、人間の生活は変わらざるを得ない。
それは、ふとすれば命の危険にも繋がるし、『魔力欠乏症』とポーション、カクテルにだって繋がるかもしれない。
「今はまだ、人の生活は変わらない。だけど」
「……何かきっかけがあれば、それも変わるっていうのか」
「少なくとも、騎士団の人達の生活は変わる」
街の人々を守る為に、初めに盾となるのは騎士団の面々だ。この街を治める領主様に仕え、彼の命で彼の街を守る人々だ。
俺はそんな彼らが、ある一つの技術を積極的に学んでいることを知っている。
「カクテルの勉強に熱心なのは、そういうのもあるんだろうか」
「単純な興味も、なくはないと思うけど」
俺が今開いているカクテル教室の、受講生の半分は、飲み屋となんの関係もないはずの若手騎士達だ。
領主様の興味や、彼の息がかかっている教室だというのも理由だろうが、もっと単純な理由もあるか。
高価なポーションはいつでも使えるわけではない。安価なポーションしか手元にないときもある。
それが命に関わる状況ならきっと『カクテル』の技術は役に立つ。
「……とにかく、俺達にできることは、それとなく領主様に伝えることと、あとは、日々を精一杯生きることだ」
俺はやや強引にそう結論づけた。これ以上はここでする話ではないと思った。
結局、トライスが何を言おうと、俺はただのしがないバーテンダーなのだ。俺にできることなんて、ほとんどない。
だからここで、どれだけ頭を悩ませても、何も解決はしない。
スイも俺の意思には気づいたようで、うんと短く頷いた。
「今日はもう帰ろう。オヤジさんや、コルシカが心配してる」
スイが連絡を受けたのがいつかは知らないが、ここでもう三十分近く話し込んでしまっている。明日も仕事があるわけで、そろそろ切り上げた方が良いだろう。
俺は器具の片づけに入るため、スイの空になったグラスに手を伸ばす。
「……ん」
だがスイは、ちょっと我がままな顔のままで、そんな俺の手を拒んだ。
グラスを手放してなるものかと、必死に指先に力を込めている。
「スイ」
「あと一杯」
作ったような無表情を浮かべてスイが言った。
なぜ無表情なのかと言えば、本当は悪いと思っている気持ちを顔に出さないためだろう。
俺は彼女に呆れながら、繰り返した。
「スイ」
「もう一杯だけ」
「明日も仕事だろ」
「でも、あと一杯だけだから」
言いつつ、スイの無表情の殻にほんの少しひびが入る。
自分がどうしようもなく我がままを言っているのを理解している。それでも、この空間にもう少し長く居たい。そんな色が、滲んでいた。
誰も居ない、肌寒くて薄暗くて、そしてぼんやりと温かいこの空間。カウンター越しに向かい合う、オーナーとマスターの関係性。
俺が居て、スイが居て、他には何もない場所。トライスも、これから迫る問題も無くて、俺が指摘しなければ時間さえもない世界。
彼女は思ったのだろう。もしかしたら、もうこんな機会は二度と来ないかもしれない。彼女は今日、俺が居なくなると本気で思ったのだ。
それが怖くなって、今を実感したくて、そんな我がままを言うのは、いつものスイらしくはない。
だけど、俺は彼女の我がままを、少しだけ愛おしくも思った。
「……あと一杯だけだぞ」
「うん」
結局俺は、彼女の我がままにあと一杯分だけ付き合うことに決めた。
注文を聞き、彼女と俺でお揃いの【ジン・ライム】を作りながら、ふと暗闇の中を歩くトライスの姿を思い浮かべた。
カウンターから、窓越しに外を見る。
月明かりは、今日も薄暗く夜の世界を照らしている。
もうすぐ、俺がこの世界に来て二度目の冬が来る。それが過ぎれば、鳥須伊吹と一緒に迎えることができなかった、春が来る。
彼女がもし生きていればその時はきっと、文句を言う俺を連れ出して、そう。
「……春にさ、俺の国では花見をするんだ」
「花見?」
唐突に俺が言うと、スイは興味深そうに返す。
「桜って花が、国中を少しずつ北上しながら咲き誇る。その花を見ながら毎年、飲んで騒ぐって風習があるんだ」
「へぇ」
「この国には馴染みはないけどさ。今度の春は花見をしないか?」
スイは静かに続きを待っていた。
「このバーの常連さんを集めてさ。花は咲いてれば何でも良いから、朝から夕方まで騒いでさ。で、夜になったらこの店に戻ってきて、二次会をしよう。飲み放題にでもして、心行くまで楽しもう」
それは、俺が日本で務めていたバーにあったイベントだった。
春の花見と秋のバーベキュー。その二つのイベントだけ、バーテンダーとお客さんは太陽の下で、飲んで笑った。
俺は、本心では笑っていなかった気がする。カクテルを作りもしないで酒を飲んでいる時間が、心のどこかでもどかしかった。
だけど今は違う気もする。スイが居て、皆が居て、そしてもしトライスも居てくれたら、心の底から笑えるような、そんな気がするのだ。
「駄目かな?」
「ううん。騒がしいのは苦手だけど、きっと悪くないと思う」
スイはそう言って微笑んだ。俺もまた、その場を想像して微笑む。
そうこう言っている内に【ジン・ライム】は出来上がる。ロックグラスを満たす透明な液体に、氷山のように氷が浮かんでいる。
最後の一杯。そんなときの俺達の【ジン・ライム】は手抜きである。ライムのカットはしていないで、ジュースだけで作っている。でもそれに文句を言う人も居ない。
俺は空いたグラスと入れ替わりにそれを差し出す。
「お待たせしました」
「うん。待ちました」
スイは冗談めかしてそう言い、グラスを手に取る。
俺もまたグラスを手に、彼女へ尋ねた。
「もう一度、乾杯は必要かな?」
「それじゃ、花見の約束に」
「花見の約束に」
カウンター越しに、俺達はグラスを合わせた。
静かにロックグラスがカチンと音を立てる。静まり返った店内に吸い込まれて、その音は消えて行った。
だけど、どこかに行ってしまったトライスにも、その『良い事』と共にその音が届いていれば良いなと、少し思った。
※0724 誤字修正しました。




