【オールド・パル】(2)
俺はカクテルを飲むとき、最初は目で、次に鼻で、そして最後に口で楽しむ。
厳密には口と言っても、舌先、舌中、舌根、喉、そして抜ける時の香りなど様々であるが、大まかに言ってしまえばそんなところだ。
そしてこの【オールド・パル】は、見た目は赤く鮮やかで、香りも香草系のカンパリとベルモットのおかげで華やかである。
見た目の甘そうなイメージからすればやや意外な香りかもしれないが、それでも予想を裏切るほどではない。
しかし、ひとたび舌が触れたときの、この甘美な苦みはなんであろうか。
始めに感じられるのは、香りと一緒の香草の風味だ。
ライ・ウィスキーの穏やかで程よくスパイシーな舌触りを伴って、それはするりと口の中に広がって行く。
そしてその段階に至った時、このカクテルはカンパリの持つもう一つの顔、強烈な苦みをかき立てる。
アルコールが苦手な人からよく、アルコール特有の苦みの話をされる。
誠に申し訳ないことに俺はあまりそれを理解できていないのだが、初めてこのカクテルを飲んだときにふと、その話を思い出した。
苦いのだ。鮮やかな見た目に反して、このカクテルは広がり切ったところで苦みを出す。
カンパリを使ったカクテルの多くは、ソーダやグレープフルーツなどでその苦みを和らげているところがある。しかし、このカクテルに入っているのはベルモットとウィスキーのみ。
たった三種類の材料で、それぞれが均等に入ったカクテルだ。
それぞれの特色を生かすことはあれど、和らげることなどあろうか。
だが、それをこのカクテルの特色だと受け入れるのが、楽しむコツだと思う。
例えば苦くないビールなどビールじゃないと言う人が居るように、苦くない【オールド・パル】など【オールド・パル】ではないのである。
それに、苦いだけではない。苦い中にどこか爽やかな印象があるのは、ベルモットの素材となっている白ワイン──ブドウの仄かな酸味ゆえだろう。
そして入口の甘さと広がった苦さの過ぎたころ。呑み込んだあとに口の中に残る暖かな印象は、ウィスキーの──ライ麦のものだ。
ライ・ウィスキーのどこか牧歌的な雰囲気は、香草系のリキュールと調和し、全体の味に深い奥行きを与え。
ドライ・ベルモットのスッキリとした風味と香りは、草原に吹く風のようにキリッと印象を整える。
そして最後に残ったカンパリは、作り上げられた舞台でその赤く鮮やかな印象を鮮烈に刻み付けるのだ。
入口は甘いが、決してたるくはない。
出口は苦いが、決してつらくはない。
そんな味を楽しみつつ、想像してみる。トライスが言っていた話だ。
甘いだけでもなく、苦いだけでもない、そんな友人の姿を。
とある友人と二人で一緒に、少し背伸びしてこのカクテルを頼む。最初は、出てくる鮮やかな色彩に二人で目を輝かせるのだ。
だが、口に含んで途端に顔をしかめる。しかめるが、目の前の友人が自分と同じ様な顔をしているのに気づく。
そこでなんだか意地を張って、笑ってみせるのだ。
『意外と俺は、好きだけど?』
そんな強がりと共に、最初の一杯は記憶される。
二人はどんどん大人になり、思い出したように時々このカクテルを頼む。
二回目も苦い、三回目も苦い、だけど四回目くらいで少しだけ変わる。苦みの中に、確かな深さを感じる。
それが嬉しくて、つい友人に伝えたくなる。そこで友人もまた同じ顔をしているのに気づく。
同時に、最初に強がって好きと言っておきながら、今更、ちょっと好きになってきた、なんて言えないことに気づくのだ。
次第に、友人とこのカクテルを頼むのが楽しみになる。ちょっと飲みたい気分になったとき、友人の姿が見えないことを寂しく思う。
やがて、友人はどこかへ行ってしまう。一人取り残された自分は、強がった。これでいつでも、このカクテルが飲めるのだと。
そして、初めて一人で【オールド・パル】を飲んで、気づくのだ。
自分が本当は、このカクテルが飲みたかったのではないのだと。このカクテルを友人と飲みたかったのだと。
同時に気づくのだ。今やこのカクテルだけが、亡き友人を色濃く思い出させてくれるたった一杯なのだと。
と、想像してみて、俺は自分自身の想像力に笑ってしまう。
トライスに言われたイメージを元にしたが、たった一口のカクテルでここまで話を考える自分がいたことに。
【オールド・パル】は、決して万人受けするカクテルではないだろう。
さりとて【マティーニ】や【ギムレット】のような、辛口カクテルが好きな人にオススメするのとも、少し違う。
ウィスキーベースで、しかし一筋縄ではいかない癖のある一杯。そういうものを求めている人に、ずしりとした衝撃を与えるための一杯。そんな気がする。
俺はそんな感想を新たにして、前を見た。
俺と同じように乾杯し、そして一杯を口に含んだトライスは、どうだろうか。
先程の想像上の、四杯目くらいの友人の顔をしている気がした。
お互いが美味いとも不味いとも言わなかった。目を輝かせたトライスは、俺の表情を見て思わず言葉を止めた様子だった。
となると俺も、彼女と同じような顔をしていたのかもしれない。
味の感想を言うのはひとまず置いて、違う方向から攻めてみることにする。
「満足か?」
「うん」
彼女がこのカクテルを頼んだ意味は、彼女の中に存在した。そしてそれは、どうやら満たされたらしい。
俺はそうか、と微笑してから、さっと器具の片づけに手を動かす。その間、トライスがどんな表情をしているのかは意図的に見ないようにした。
彼女は静かにグラスを傾けている。俺はその無音をBGMにしながら蛇口から流れる水で使った器具を洗う。手を伝う水が、体の末端から俺の火照りを冷ましていく。
「ねえ総。質問しても良い?」
彼女の声がして目を向けた。
「人間の同一性は、何に寄ると思う?」
「……どういう類の質問だ」
「酔っ払いの戯言だよ。総の意見を素直に言ってくれればいい」
俺にはとても答えにくい問いだった。
死んだと思った女がいて、その女と顔も性格もそっくりそのままの、髪の色だけ違う女がそう尋ねてきている。
俺は、彼女に尋ねたくて、そして尋ねられていない事柄があるのだから。
「簡単な例で言えばね、人間の心と身体が入れ替わった、みたいな話があるじゃない。そういうとき、個人とは心と身体の、どちらに寄る?」
「……物質的には身体だし、精神的には心だろ」
答えになっているのか微妙なラインだ。とはいえ、俺の素直な答えだ。
トライスはむぅ、と少しだけ眉間に皺を作り、続けて問う。
「じゃあ、個人を個人たらしめているのは、君は身体と心のどっちだと思う?」
「人間が、考える動物だって説を取れば、より人間の人間らしい部分は心のほうなんじゃないかな。見た目よりも中身の方が、人付き合いには重要だと思うし」
「…………うん、実は私も、そうだったら良いなと思うよ」
彼女の歯切れの悪い物言いを聞きながら、頭を回していた。
トライスの質問の意図が掴めない。何か決定的な事実があって、彼女はそこに俺を誘導しようとしているのか。
彼女はもう一度【オールド・パル】を口に含む。
記憶を象徴するような、先程の逸話に縋るように。
「最後に、もうひとつ」
「ああ」
俺も洗い物を終え、自身の分の赤い液体を口に含んだ。
甘いだけでも苦いだけでもない、苛烈な思い出を呑み込むようにして、トライスの言葉を待つ。
彼女の口が開く。
「一度死んだ人間がいて、その考え方を引き継いだ全く違う人間が居たとしたら、その人間は一度死んだ人間と、同一人物だと言えるかな」
俺は咄嗟に、言えるとも言えないとも、答えられなかった。
彼女がはたしてなんと言って欲しいのか、咄嗟には求められなかった。
ふと気づく。トライスの指先が、冷えて固まったように、白く染まっている。それほど強い力で、グラスの持ち手を握っているのだ。
それだけ彼女はこの質問に、想いを込めているのだと気づいた。
俺は相手の求める答えを考え始めようとする頭を意図的に止めた。ここで流すような回答は、彼女に失礼だと思った。
「仮にだけど」
「……うん」
あくまで仮だと、どちらに転んでも良いようにと、情けない前置きをして言った。
「仮に、鳥須伊吹が生まれ変わって、どこかで生きていたとしたら、俺は嬉しい。嬉しいけど、その彼女が鳥須伊吹かと言われたら、分からない。俺の中の伊吹は一度死んだから。もしそんな話があったとしたら、泣きたいくらい嬉しいけど、分からない。その子を伊吹と呼ぶべきなのか、それを俺が決めちゃいけないと思う」
多分だけど、もし鳥須伊吹が俺の言った状況なのだとしたら、彼女も同じ気持ちになったのではないだろうか。
鳥須は俺よりもずっと、思慮深かった。そんな彼女は、人間を人間たらしめている何かについて、どう考えるのか。
鳥須と呼ばれるのを嫌い、伊吹と呼んで欲しがった──そんな彼女が、全く違う名前を、意識のあるまま与えられたとしたら。
伊吹という名前を捨てられず、さりとて与えられた名前を拒めもしないだろう。
個人とは自分の中だけで完成するわけじゃない。自分があって、他者との繋がりがあって、比較があって、そこではじめて人間の集まりの中の個人になる。
そんな状態で『鳥須伊吹』が、今までと全く違う状況に放り込まれたら。違う名前と違う環境の中で、思考だけが『鳥須伊吹』をまだ持っているとしたら。
自分は『鳥須伊吹』だ、などとはきっと言えない。それは、与えられた違う名前を、その違う名前の人生を否定することにも繋がるだろうから。
「……そっか。総は本当に、色々と考えるようになったんだね」
トライスはほんの少し寂しそうに言った。
肯定して欲しかったようにも、否定して欲しかったようにも見える。しかし、俺の答えは分からないだった。どちらでもない。
彼女は独白するように、俺に意図的に視線を合わせず独り言のように続ける。
「私にはまだ、やらないといけないことがある。それが済むまで私はトライスでなくちゃいけない。だけどそれを終えたとき、私は『鳥須伊吹』になる予定だった」
「……予定、な」
「だから総は、本当は『鳥須伊吹』のことなんて忘れて、静かに暮らしていたほうが、幸せだったと思う。記憶なんて取り戻さなければ、良かったのかもしれない」
彼女は前に、独断で俺に会いにきたと言っていた。もしかしたら、俺に会うために『カクテルの協力』という理由を、作っていたのかもしれない。
本来は接触しない方が良いと思いながら、どうしても自分の気持ちを抑えつけられなかった故の行動だったのかもしれない。
彼女には、俺には分からない事情がある。その事情が終わるまで、つまりその事情に関わる関係が清算できるまで、彼女はトライスでなければならないらしい。
少なくとも、ただの人間である『鳥須伊吹』にはなれないということか。
「だけど今日はどうしても、たとえ私がトライスだとしても君を連れ去りたかった。君が今の私でも、鳥須伊吹と思ってくれるなら、連れて行けると思ったから」
「それなのに、俺は分からないって言ったな」
「うん。どうしたら良いのかな。分からないって言ってるひとを、力づくでっていうのはあんまり良くないよね」
トライスは拗ねたような表情をした。今度はしっかり俺を責めているみたいに見える。
「だからもう一度だけ言うよ。総」
「ああ」
「私と一緒に来て。私のために、そして総自身のために」
静かな誘いだった。そして多分、彼女の言葉に嘘はないのだと分かった。
口の中が乾く。声を出す前に、俺は舌を潤そうと【オールド・パル】に手を伸ばす。
相変わらず、甘くて苦い。どっちかなんて、口にすることができない。
「……勝手なことを言ってくれるな。カクテルを追い続けろって言ったくせに、俺の中に答えが出る前に、誘いにくるんだから」
「君はもう『カクテル』のために十分頑張ったよ。この街で、君が出来ることはもうない。総の中にも居るでしょう? もう頑張らなくてもいいと思う自分が」
すっとトライスの手が俺へと伸びた。彼女の手が持っていた、ひんやりとした温度を思い出して、胸が詰まる。
俺だって分かっている。自分が行き詰まっていることくらい。
最初に見えた目標という目標は、達成した。この街にはカクテルが広まったし、今やっている『教室』もあるし、俺が何かをしなくてもカクテルは広まって行くだろう。
スイの人を助けたいという願いも、少なからず叶い始めた。俺個人がどうこうできるレベルの話はもはやあるまい。
あとに残るのは、カクテルという道──バーテンダーという道を、この世界に先達のないまま自分一人で進んで行くことだけだ。
今日オヤジさんに言われたことも、もっともだ。今回の企画は、本心ではお客さんのためではなく、俺がやりたいから考えたようなもの。
俺は胸の中に焦燥を燻らせているのだ。
今以上にこの場所でカクテルを極める方法が分からなくて、ただ闇雲に他人へカクテルを押し付けようとしていた。
ノイネが俺に言った言葉が思い出された。
俺には、この街を出て違う場所でカクテルを広める道だってある。この街でできたことを、他の街で繰り返すのだ。
知り合いの居ない街では厳しくても、例えば『ホワイトオーク』のお膝元ならどうだ。
勝手は違うだろうが、協力者がいる。やってやれないことはないだろう。
そういうことを繰り返して、繰り返して、何度も繰り返していけば。
最初はこの街、次にはこの国、そして最後は当然この世界にカクテルを広めることだってできるはずだ。
この街でできることを既に見失い、この街を出ることでできることは目に見えている。
理屈では分かっているのだ。
俺が本当にカクテルを広めたいのなら、それが正しいということくらい。
俺の心の中のモヤモヤした部分でも、それが一番だという結論はなんとなく出ている。
今回の誘いはいささか急だが、考えていなかったわけじゃない。
トライスの、期待と不安の入り交じった目を見つめた。
「……俺は」
何かを言おうと思った。【オールド・パル】に背中を押された気がした。
そして俺は、心の中に浮かんだ言葉を、何も考えずに吐き出した。
「俺は、カクテルが、好きなんだ」
言われたトライスだけではない。言った俺自身も驚いた。
自然に口から出た言葉は、質問にまったく答えていなかったのだから。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
キリの良い所がなかなか見つからずに、文字数が多くなってしまいました(そしてそれでも、あまりキリが良くありません……)
次話の投稿はなるべく早く、遅くとも水曜日には更新致します。
※0417 誤字修正しました。




