前夜
俺がこの世界に来てから、およそ二週間が経とうとしていた。
いや、正確に言おう。
明日で、丁度二週間。
つまり、明日が『オープン』の日だった。
この二週間で、俺はこの世界に馴染む努力を続けた。オヤジさんの店を手伝いもしたし、市場を観察して材料も探しつづけた。
明日の為に、努力を怠りはしていないつもりだ。できることはやったはずだ。
だが、
「……眠れないな」
俺は布団から身を起こし、静かに寝間着を着替える。
ついでに、俺が着ている服は、ほとんどオヤジさんに借りたものだ。サイズは少し大きいのだが、着られないわけではない。
体感だと、時刻はすでに三時を越している。いつも日付変更まで開けているオヤジさんの店も、すでにしんと静まり返っている時間だ。もっとも、今日は俺たちの準備のために店を休みにしてくれたので、静まっているのは当たり前だが。
準備は既に終わった。必要な器具は揃えたし、ボトルも並べ終えた。もともと『イージーズ』の端にあったカウンターを再利用しているので、大改造は必要なかった。
だから、準備を終えたあと、軽い夕食をこの家で取り、早く床に入った。
オヤジさんの激励の言葉も、ライの応援の言葉も、しっかりと受け取った。
それなのに、眠気は一向にやってこない。
「……少しくらいは、いいだろ」
俺は物音を立てないように、そっと家を抜け出した。
氷を入れたグラスに、ジン──『ジーニポーション』を45ml切る。
その後に、ライムジュースを15mlだけ落とし込む。
軽くステアし、俺はそれを口に含んだ。
鼻から入ってくるジンの香りが、口の中いっぱいまで広がる。
ライムがそこに寄り添うように、それでいて互いが主張し合うように、ライムの酸味がジンの辛さを引き立てる。
どちらが先という印象もなく、それらの後味は混ざり合い【ジン・ライム】独特の、切れ味の鋭さが残る。
レモンにはない、ライムの仄かな甘さが、最後に少しだけ後を引いた。
強くて、酸っぱくて、そして手軽なカクテルだ。
寝酒にしては強すぎるが、俺はこれくらいの度数が丁度良く酔えた。
もっとも、今飲んでいるのはポーションなので、感じる酩酊感も厳密には別物なのだろうが。
「眠れない?」
暗闇のカウンターに一人佇んでいた俺に、少女の声がかかる。
少女は、一つだけ明かりを点けた薄暗い店の中でも輝いて見えた。事実その特徴的な青髪は、夜空の月のように、緩やかに光を受けて浮かんでいた。
スイは、俺が返事をする間もなく、すっとカウンターに座り、言葉を続ける。
「『マスター』、私にも同じ物を一杯」
「良いのか? これ、結構強烈なやつだぞ」
「いいの。同じの、飲みたいから」
「かしこまりました、『オーナー』」
俺たちはわざと、格式ばった役職で呼び合ってみて、そして苦笑いした。
通常【ジン・ライム】を作る際には、カットしたライムを入れるものだ。だが、同じものという注文。そしてなにより、ナイフを取り出すのも面倒だ。ライムはジュースで済ませることにした。
「お待たせしました。【ジン・ライム】です」
「最後まで、ジーニって呼ぶ気はないと」
「仕方ないだろ。使うのは『ジーニ』でも、カクテル名は【ジン】が付くんだから」
スイの指摘に、適当な言い訳を重ねる。
本心が半分。慣れでどうしようもないのが半分といったところだ。
スイは、供されたカクテルに口をつけ、ぽんわりと頬を綻ばせた。
「……今までずっと、ポーションの原液なんて飲み辛いだけだと思ってたけど。やっぱり、総が手を加えるだけで、ここまで変わるものなのね」
素直な賞賛は、嬉しいが照れくさい。
俺は誤摩化すように、謙遜した。
「違うさ。もともと、その味はここにあったんだ。ただ『薬』という先入観、そして『飲みやすさ』を第一に考える思想が、『ポーション』を嗜好するという考えを遠ざけていただけなんだ」
全ての酒は、初めから嗜好品として生み出されたわけではない。
最初は偶然だ。
醸造酒は、酒のもとになる葡萄などの原料と、微生物の働きによって生み出される。その発見は、おそらく偶然であったのだろう。
だが、醸造酒から次のステップに進むには、『蒸留』という過程を経る必要がある。
地球では、錬金術の研究に乗っかって進歩したらしい、その技術。
だが、残念なことにこの世界では、それがまったくおざなりであった。
錬金術で出来る事は、全て魔法でもできる。
それの意味する所は、錬金術の進歩の幅が狭いということだ。
この世界には、蒸留酒は簡単なものしか存在しない。
しかもそれすら、魔法を用いて作られている。
酒とは本来、特殊な製法を用いて作られる『面倒な飲み物』だ。
それを魔法で簡単に作ろうというのだ。そこに熱意を込める人も居なければ、試行錯誤を重ね続ける人も居ない。
居るのは、魔法で蒸留を行う方法を見つけた人と、それを覚えた人だけだ。
そんな環境で、いったいどれだけの人間が酒造りに、特に蒸留酒へと情熱を注ぐというのか。
結果として、この世界に蒸留酒は発展していない。
オヤジさんに試しに飲ませてもらったものは、はっきり言って酷い味だった。雑で、洗練されていなくて──『アルコール』ではあっても『酒』とは言いたくない程だ。
だが、神はこの世界を見捨ててはいない。
それとはまったく違う方面から、『ポーション』という形で『飲酒』の娯楽を与えてくれようとしているのだから。
そうであればこそ、俺は思う。
蒸留酒は無い。代わりにポーションがある。
それならば残る問題は、人だ。
「ポーションを飲む文化は、ちゃんと広まってくれるだろうか」
俺の吐いた、弱音ともつかない発言に、スイは目を丸くした。
「どうしたの? いつもあれだけ、強引に『カクテル』を押す総なのに」
「飲んでもらえれば、認めてもらう自信はあるつもりだ。だけどさ、本当にそれで、世界を変えられるかなって。スイの夢を、俺の力で叶えてあげられるかなって」
俺のふとした弱気。今まで考えないようにしていたそれが、何故か漏れ出した。
「ポーションは、やっぱりポーションだって──認められなかったら? 明日、誰も飲んでくれなかったら? そしたら、俺は……」
普段から、そんなことを考えていたわけではない。
だが、オープンの前日になって、その不安がムクムクと俺の心の中でもたげた。
日本で働いていたころの、あの感覚が、蘇ってきた。
──カクテルなんて美味くなっても、客なんて、誰も来てくれな──
「総、乾杯」
スイの静かな声。目の前では少女が、グラスを掲げていた。
「え、ああ」
俺は反射的に手に持ったグラスを合わせた。
カチリと、控えめな音が誰もいない店に響く。
そのあとに、少女は手に持ったグラスを見て、それを一気に煽った。
「……ご馳走様」
「……やめとけよ、それは一気するような酒じゃないんだぞ」
俺が心配して声をかけるが、スイは平気な顔で俺をじっと見つめてきた。
「大丈夫、私ポーションだと酔わないから」
「……でもだな」
「総も飲んで」
スイは俺の忠言をぴしゃりと切って、据わった目で求めてきた。
少し悩むが、俺も覚悟を決めて、まだ半分以上ある【ジン・ライム】を飲み干した。
それなりに高い度数が、急激に体内に入ってきて喉を焼く。
慣れているのでむせたりはしないが、もったいない気持ちは拭えなかった。
「で、これはいったい何の儀式なんだ?」
要望に応えて真意を尋ねると、スイは表情に、ほんの僅かな優しさを滲ませた。
「今のは、明日の乾杯の前借り」
前借りって?
俺の疑問が顔に出ていたのか、スイは補足した。
「明日の大成功、その乾杯の代わり。総の不安は、みんな私が飲み干したから」
スイがグラスを振る。カランという音が、軽快に鳴り響いた。
その中には、ひんやりと冷えた氷だけがあった。不安も、恐怖も、緊張や驕りも、何も入ってはいなかった。
そこにあったはずの何かは、みんなスイに飲み干されてしまったらしい。
少女は、その後に少しだけ得意気な顔になる。
「それで、さっき総は、私の不安を飲み干してくれた。そうでしょ?」
「……ああ。そうだな。ありがとうスイ」
言ってから、俺もスイにあわせるようにグラスを振った。
この少女の不器用な気遣いに、少しだけ感極まってしまった。
それと同時に、さっきまでの自分を強く恥じた。
なんで気づかなかったのだろう。俺はバーテンダー失格だ。
俺がここに居るのは、不安で眠れないから。
ならば、同じように起きていたスイが、同じ気持ちなのは当たり前じゃないか。
そんな事にも、俺は気づいてあげられなかったのだ。
あまつさえ、彼女は俺の気持ちを見透かして、先に慰めてくれた。
俺は、何も入っていないグラスをもう一度煽った。これは、そうやって後悔してばかりの自分を、呑み込むための儀式だ。
「スイ、明日は、頑張ろうな」
俺は精一杯の虚勢でもって、彼女に言った。
「うん。明日は、よろしくね」
対するスイは、艶やかな唇を僅かに歪めて、嬉しそうに言った。
胸の中にわだかまっていた不安は、驚くほど綺麗に消えていた。
今頃は、きっとスイのお腹の中で消化されている頃合いなのだろう。
これで、今日はぐっすり眠れそうな、そんな気がした。
多分、お互いに。
そして、明日、最初の試練が始まるのだ。
ここまで読んで下さってありがとうございます。
本日は二回更新いたしますので、よろしければ22時過ぎにもう一度覗いて頂ければ幸いです。
※0725 誤字修正しました。
※0729 表現を少し修正しました。
※0805 誤字修正しました。




