あの頃の残滓(8)
「夕霧さん?」
俺が彼女に声をかけられたのは、自分に許した額の中でバーボンを選んでいるときだった。振り向くと、そこに見知った若い女性の顔があった。
俺はほとんど無意識に、表情を接客のソレへと切り換える。
「──さん? どうもこんにちは!」
「こんにちはー」
──さんは、ちょいちょいと店に来てくれる常連の女性だ。頻度は月に一、二回。使ってくれる金額はそれほど多くはないが、彼女が居ると店が華やかになる。
結果的に、他の男性だったりおじ様だったりが使う金額も増えるので、結果的に売り上げに大きく貢献してくれる嬉しいお客さんである。
そんな彼女と、こうやって店の外で出会うのは初めてのことだった。
だが、彼女がこの酒屋に来たこと自体には、心当たりがあった。そもそも、この店を教えたのは他ならぬ俺だ。
「本当に来て下さったんですね」
「教えて貰いましたから」
彼女はそう言ってはにかんだ。普段の彼女は俺より一つか二つだけ上だというのに、ずっと大人びて見える。だけど、こうやって明るいところで笑うと年相応に思えた。
彼女に店を教えた経緯はこうだった。
ふと店で二人きりになったとき、休みの日は何をしているのか尋ねられた。
それなので、俺は主にカクテルの練習をしていると伝え、なんやかんやあっての、この店の話になったのだ。
彼女もまたお酒が好きだというので、今度行ってみると言っていた。その『今度』がたまたま被ったのだろう。
「……あー、それで、夕霧さんは何を買うんですか?」
「えっと。この辺のリキュール類とか、まぁ、カクテルの材料ですねー」
「うわっ、本当にカクテルの材料ばっかりだ」
「カクテルバカっすから!」
籠を覗き込んでのひと言に、俺は照れくさそうな笑みを返した。
休日に店の外でお客さんに会うのは変な気分がする。たまに店の常連さんに食事に連れて行ってもらうこともあるが、もっと年上の男性の場合がほとんどだ。
自分と比較的年の近い女性と、こういう風に話すのはどれくらいぶりだろうか。
「あ、それじゃ、自分はこんな感じで」
あまり話し込む気にはならずに、俺は言ってさっさとレジへと向かおうとする。結局、バーボンは選ばずじまいだ。
だが、そんな俺を──さんは、呼び止める。
「ねえ夕霧さん。せっかくだから、案内してくれません?」
「案内ですか? 自分よりも店の人とかのが詳しいですよ?」
「良いから」
彼女は少しだけ必死に見えた。
まぁ、確かに知らない店員に案内を頼むよりは、見知ったバーテンダーに頼む方が気は楽か。結局、押し切られる形で俺は──さんを案内することになった。店長がそんな俺を見てちょっと笑っているのが気がかりだった。
俺は接客の仮面をずっと付けたまま、ボトルが入って重くなった籠が掌に食い込むのを感じていた。
結局、三十分くらいかけて彼女はリキュールを二本買った。
『プルシア』というフランスで作られたプラムのリキュールと、『モーツァルト』というチョコレートリキュール、その『ゴールド』だ。
プルシアは、上品な梅酒のような味わいで、そのまま飲んでもソーダで割ってもとても美味しい。
モーツァルトのゴールドに関しては、牛乳で簡単に割るのがオススメだろうか。
俺の選択が正しかったかどうかは分からないが、──さんは満足そうに見えた。
「ありがとう。助かっちゃいました」
「どういたしましてです。ただ、あんまり家で飲むのが良いからって、店に来なくなったらダメですよ?」
「大丈夫ですって! 行きます行きます!」
彼女は電車で来たというので、駅まで歩いて送る道すがら。
俺の口から出た微かに棘を含んだ冗談に、彼女は朗らかに笑った。それからも、接客とさして変わらぬ言葉のキャッチボールをして、俺達は駅まで歩く。
特に何があるわけでもなく、駅まで到着した。
とりあえず、これで義務は果たしただろうし、俺は今度こそ別れを告げる。これからまた店に戻って自転車で帰るのだ。
「それじゃ、この辺りで」
「あ」
言って背を向けようとすると、──さんはどこか寂しそうな声を出した。
俺は不思議に思って、問いかける。
「あの、どうかしましたか?」
「あ、あの。うん。もう一つだけ聞きたいことが」
「はい、なんでしょうか」
努めて笑顔で、俺は彼女の言葉を待った。
駅の入り口で立ち止まった俺達に、たくさんの通行人が、見ているような見ていないような視線を投げかける。
しばしの逡巡の後に、──さんはこう尋ねる。
「夕霧さんは──その、好きな……一番好きなカクテルはなんですか!?」
「一番好きなカクテルですか。一杯ありすぎて迷っちゃいますね」
好きなカクテルならたくさんあるが、一番好きなカクテルと言われると、どうにも答えられない。
だから俺は、笑って誤摩化しながら、彼女の買ったボトルに目をやり、
「今の気分だったら、プルシアソーダで!」
相変わらず、当たり障りのない答えを返した。だけど、そこに込めた気持ちはしっかりと本物だ。今の俺は、プルシアのソーダ割が世界で一番飲みたい気分だ。
俺の返答に、──さんは微妙な表情を浮かべていた。
「……夕霧さんは、本当にカクテルが好きなんですね」
「はい。俺はカクテルの為に生きているようなものですから」
「カクテルが恋人、みたいな感じですか?」
「恋人というか、もはや運命共同体みたいな?」
冗談を言い合って、少し笑う。
──さんはどこかホッとしたようで、少し残念そうな顔をしていた。
そして、ぽろりともう一つの質問を口にした。
「なんで、そんなにカクテルが好きなんですか?」
「え?」
──さんの言葉に、ひび割れたようなノイズが混じる。
「それじゃ、これで」
再び俺が声をかけた時には、引き止めるような声はなかった。
視界の端では、ちょっとだけ放心したような──さんの姿があった。
ウチのグループではバーテンダーとお客さんの恋愛は、基本的に禁止されている。店長にまでなれば、店の責任を負うということなので全面禁止ではないが、推奨はされない。
理由を述べればいくつか挙がるが、総合すれば『余計な面倒を避ける』ため、だろうか。
だから、もし──さんが、そういう言葉を口にしたら、俺はきっと告げただろう。
『俺には……好きな人が居ます』と。
そうやって、なるべく穏便に事を済ませたことだろう。
そんな人が、本当にいようがいまいが、関係ない。
そんな事を頭の中でシミュレートして、俺はえも言われぬ吐き気を催した。
自分が、もしかしたら告白されるかもしれない、なんて考えたのが許せなかった。
自分にはまるで、人から好かれるだけの価値があるのかと、自問自答した。
そんなものは無い。俺には、人から好かれるような魅力などない。
自分がそんな風に考えたことが許せなかった。
伊吹の告白に正面から向き合わなかった男が、どの面を下げて恋愛などを考える。
俺には、そんな資格はない。俺には、そんな余裕はない。
そんなことにうつつを抜かす暇があるのなら、一秒でも長くカクテルの練習をしなければならない。
自分の中の強迫観念にも似たその感情。
ドクドクと、考えるだけで心臓の鼓動が早くなっていく。
ズキズキと、頭の中が焼けるように熱くなっていく。
押しとどめようの無いほど、負の感情と恋愛感情が混ざったような、ドロドロとした想いが加速していって。
そして。
──────
「つあっ!?」
俺は頭を押さえてうずくまる。自分が今どこにいるのかが一瞬分からなくなる。目を何度もパチクリさせて、自分が暗い夜道を歩いていることに気づく。
どこまでが記憶で、どこからが現在の自分の思考だったのかが分からない。
混乱したままぼんやりと夜空を見上げる。生憎と、月は千切れ雲に隠れてしまっているが、ものの数分で再び顔を見せるだろう。
微かな星の光を眺めていると、頭を金槌で殴られたような鈍痛が、次第に収まっていくのが分かった。
さっきまで、カクテルについて考えていた。
オヤジさんに言われた、カクテルに拘る理由を言葉にしようと思った。
だけど、思い出した記憶には、そんなものは見当たらなかった。
「……なんか、気持ち悪いな」
吐き気を感じて夜風を吸い込む。少しでも、気分を落ち着けようとした。
俺の記憶だの心だのが十全に戻っていないのは、自覚がある。記憶の中の俺と、現在の俺には大きな齟齬がある。
今の俺は、バーテンダーという仕事をとても楽しんでいる。
だけど昔の俺は、バーテンダーという仕事を、どこか苦しんでいたように思える。
思い込みかもしれないが、人と接するときの心情にどこか鬱屈したものがある気がしてならない。
伊吹の『カクテル』を求めているのは、今も昔も変わらない。つまり俺の行動原理は変わらない筈だ。
なのに、環境だけでこうも変わるものか?
俺は、もっと何か、大きな何かを、欠落させたままなのでは……。
「こんばんは」
考え事に沈む俺の頭に、夜の挨拶が滑り込む。
声の主に目をやると、先程までの吐き気や悩みなどが、すうっと立ち消えた。
その白髪の少女に、俺ははっきりと目を奪われていた。
「……トライス」
「うん。久しぶりだね、総」
半年ぶりに姿を現したトライスは、そんな時間の流れをまるで感じさせぬ軽さで、詠うように言った。
「今夜も、月が綺麗だね……いや、天丼もそろそろ飽きるころかな。どう思う?」
俺との会話を楽しむように、トライスは僅かにはにかんでみせる。
釣られて見上げた夜空には、雲を抜けた綺麗な月が浮かんでいた。
ここまで読んで下さってありがとうございます。
次回更新は明日(というか今日ですが)に可能ならば、無理でしたら明後日になります。
※0201 表現を少し修正しました。




