あの頃の残滓(6)
昔話と、今の愚痴。
大学時代のささやかな思い出に、社会人になっての辛いこと。研究室で流行っていることや、バーテンダーの給料の低さなどなど。
皆が同じ立場だったら出てこないような豊富な話題。尽きない会話。それを楽しむための、俺の作ったカクテル。
久しぶりに集まった俺達は、随分と楽しく飲み会をしていたと思う。気持ちは、学生時代に戻ったようでもあった。
しかし、学生時代と決定的に違ったことが一つ。
あの騒がしかった梅原が、いつの間にかあっさりと眠ってしまっていたことだ。
「……社会人だもんなぁ。学生みたいに無理はできないよな」
タオルケットの一枚も被せてやりつつ、俺は感慨深く零した。
学生のころだったら、それこそ夜通しでも起きていられた。それが社会人になって、日頃の疲れとやらが溜まっているのだろう。
平日になれば、また朝早く起きて会社に行かなければならないのだ。健康的に眠る友人の姿に、一抹の寂しさと、ほんの少しの尊敬を感じた。
「俺は、まだ大丈夫だぞ」
眠ってしまった梅原を尻目に、青木がつまみを適当に口に運びながら言った。
「こんな時間まで飲んでられるのは、まだ学生やってる俺とか」
「夜の仕事をやってる俺とか、か?」
「違いない」
眠ってしまった梅原を起こさないようにして、俺と青木はクスクスと笑い合った。
休日は少々リズムが違うとはいえ、俺の生活は完全に夜型だ。今の時間帯は、むしろ一番元気だと言っても良いだろう。
対する青木も元気そうだ。ウチの大学は夜遅くまで残って研究する者が多い。必然的に、リズムは夜に寄りがちだ。
「まだ大丈夫なら、もう少し飲むか?」
俺が尋ねると、青木は返事の代わりにグラスを軽く掲げた。
その中には、俺が作った【ジン・フィズ】が半分ほど残っている。あまり甘くない爽やかな味わいが、特に気に入ったらしい。
すっと透明な液体を含んでから、青木は言う。
「カクテルも悪くないよな。ビールとかチューハイとかと、違った親しみやすさがある」
「……そうだよな」
青木のペースに合わせて、俺も俺で【ジン・トニック】を呷る。
職業病か、どうにもグラスの残っている液体の量が気にかかる。少なくなってきていたら尋ねて、無くなる前くらいに新しい注文を取らないといけない気がしてしまう。
「次、何飲む?」
故に、絶妙のタイミングで無くなりかけた【ジン・フィズ】の次を尋ねる俺。
だが、青木は少しグラスを見て悩んだ後に、小さく首を振った。
「ずっと作ってたし、疲れたろ? もうそろそろカクテルじゃなくてウィスキーのロックとかにしようぜ」
「ん? 全然大丈夫だぞ?」
「良いんだ。二人なんだし、あんまり頻繁に立たせるのも悪いからさ」
少し悩んだが、俺は素直に青木の厚意に甘えることにした。
カクテルと比べれば、グラスに氷を入れて注ぐだけのロックは大分楽だ。少し多目に氷を入れておけば、無くなったら注ぐで次が作れる。
ペースを考えないで飲むと危険なのは、覚えておかないとだが。
一旦、雑多なグラスや食器を流しにやってから、俺はロックグラスとチェイサー用のグラスを用意する。
どちらにも氷を入れて、ロックグラスには手元にあったデュワーズを、チェイサーには水を用意して青木のもとに戻る。
青木は礼を言って二つのグラスを受け取ったあと、思いついた顔で言った。
「改めて乾杯でもするか」
その提案は悪くなかった。
仕切り直しの意味も含めて、お酒が変わったらその度に乾杯をする。その精神は酒飲みとしても理解できる。
「んじゃ青木、なんか良い事でもあるか?」
「さっき、再会は祝しちまったしな……」
悩んだ挙句、俺達は青木の研究が少し進んだというささやかな幸せに乾杯した。
軽く口にした青木は、ふむぅと喉から声を漏らす。
「ウィスキー良いな。昔は分からんかったけど、今は結構好きだ」
「だろう? 特にこのデュワーズは【ハイボール】にするのが合うんだよなぁ」
梅原のこともあってあまり騒がしくしないようにしながら、俺と青木は粛々と酒を飲んだ。
話題も、大したことじゃない。でもそれが気楽で良い。普段の営業では色々と考えるところを、空っぽにして会話できるのが良い。
近所のスーパーで無くなった商品とか、大学の正門が少し工事でキレイになったとか、この辺りに住んでいると気になる、適当な話題に花が咲いた。
そうこうしているウチに一杯目は消えた。二杯目に入り、さっきまで飲んでいたカクテルも効いている。
少しだけ気持ちよくなっていた。
相手の表情の変化を、あまり認識していなかった。
唐突に、青木が言った言葉に、最初は意識が追いつかなかった。
「夕霧、さっきの空き瓶、本当は捨てられないんじゃないか?」
あまりにも自然に切り出すものだから、俺は一瞬、なんの話だか分からなかった。
しかしすぐに『白州』のことだと気付いた俺は、即座に否定を返す。
「そんなんじゃないって、青木も知ってるだろ、この辺のゴミ出しルール」
「知ってるよ。でも」
そこで青木は、俺から目を逸らした。
俺のことを直視せずに、直視するのが辛そうな顔で、言った。
「何年も前のボトルを、捨てない理由にはならないだろ」
「…………」
「あれ。鳥須さんが買ってきたっていう、あの時飲んだ『白州』……だろ?」
返事はできなかった。否定もできなかった。
そんなことないって笑えば良い。ただの空き瓶だと言えば良い。俺がたまたま買った一本で、なんの関係もないって言ってしまえば良い。
それで、この話はおしまいにできる。そんなことは分かっている。
分かっているのに、言えなかった。
あの『白州』を、ただの空き瓶だと言う事が、俺にはどうしても出来なかった。
「お前、やっぱりまだ鳥須さんのこと」
「……はは。忘れたとは、言えないだろうな」
柄にもなく真剣な雰囲気になる青木に、俺は誤魔化すように乾いた笑いを返した。
鳥須が居なくなってから、俺はあまりにもあっさりと元に戻った。
周りに色々言われるのが嫌だったから、すぐにいつも通りの生活に戻った。
辛いのかも、辛くないのかも良く分からない。心の中の鳥須伊吹を麻痺させたまま、俺はただの大学生に戻った。
彼女の私物は全て、彼女の実家に送った。俺の家にあった『鳥須伊吹』はそこで綺麗さっぱり居なくなった。その筈だった。
そう思ったときに、気付いてしまった。
『白州』の空き瓶が、まだ家の中に残っていたことを。
「何度も捨てようと思ったんだよ。あれが無くなれば本当に、この家から伊吹は居なくなるからな」
最初は一瓶だけだったから、後にしようと思った。他の瓶が溜まってから一緒に捨てようと思った。
それがただの建前だと、他の空き瓶が溜まったころに気付いた。
何度ゴミ出しをしても『白州』の瓶だけ、捨てられなかった。
中身を洗おうとキャップを開け、その中の香りを嗅ぐと、どうしても洗えなくなる。
『白州』は高いから、俺には買えない。この香りを楽しむためにもう少し取っておこう。
そんな言い訳にもならない言い訳をしては、キャップを締める。そんな行為を、俺はずっと繰り返してきた。
「自分でも馬鹿みたいだと思うよ。だけどさ、頭で分かってても仕方ないんだ。心のどこかで思うんだよ」
「……なんて?」
「あの空き瓶を取っといたらさ、伊吹がひょっこりウチに来て『まだ捨てないの? 早く新しいの買おうよ』って笑いかけてくれるんじゃないかって」
「…………夕霧」
青木の心配そうな顔に、何故だかとても申し訳ない気持ちになる。
もちろん、単なる妄想だ。認めようとしない心と違って、頭ではとっくに理解している。
鳥須伊吹は、もうこの世には居ない、なんてことは。
「やっぱり、こんなんじゃダメだよな。今、洗うよ」
俺は、夏なのに氷みたいに冷たく痺れる手足を、強引に動かそうとした。
そんな俺を、青木が力づくで引き戻す。
「な、なんだよ?」
「そのままで良い」
「は?」
「空き瓶は、そのまま取っておくんだ」
強引な物言いに面食らった。青木がそういう風に、人に意見を押し付けるのを見るのは初めてだった気がした。
俺は不思議に思って、青木に尋ねた。
「……なんでそう、思うんだ?」
青木は、難しそうに眉を寄せ、少しぶっきらぼうに答える。
「分かんねえよ。理由なんてない。だけど、お前はまだ捨てちゃだめだ」
「……なんだそれ」
「なんでもいい。お前が、納得できるまで、捨てるな、な?」
とても工学系とは思えない、論理の立たない説得だった。
だけど、そんな論理のない話に、俺はすごくホッとしてしまっていた。
空き瓶を捨てなくて良い。そう肯定されたことが、何故か嬉しかった。
「……ありがとう。青木」
「礼なんて言うなよ」
結局、空き瓶の話はそこで終わりだった。
何かの決着が付いたわけでもなく、ただ、残したままの空き瓶。
俺はそれからもずっと、その空き瓶を捨てることが、できないままだった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
露骨な宣伝です。
本日より、書籍の第二巻が発売しております。
詳しいことは活動報告で書いておりますが、色々と加筆などしておりますし、綺麗なイラストもございます。
よろしければ読んでいただけると幸いです。
※1126 表現を少し修正しました。




