その言葉は虚空に消える
それから、特に色っぽい話も無しに、暫くはサリーの愚痴を色々と聞いてやっていた。営業中は結構自由に見えても、色々と溜まっているものはある。
グラスを片手に、次第に饒舌になっていく彼女に、俺は適度に相槌を返した。
結局、時間にして二時間程だろうか。そうこうしているうちにワインのボトルは殆ど空になり、サリーの頭がフラフラと揺れ始めていた。
口数がゆっくりと少なくなって、声に覇気がなくなっていく。瞬きも増えて、どこか目の焦点がずれていく。
今日一日の疲れと、先程までの極度の緊張が効いたのだろう。
酔っているというよりは、眠そうだ。
「サリー?」
次第に目がとろんとしてきた彼女に声をかける。
サリーはその一声に、大袈裟に目を見開いた。
「…………は、はい! …………ぃ……」
脊髄反射のように元気よく言ったが、それからまた十秒もすれば、瞼の重さに耐えられなくなってくる。
今は午前三時になろうかという時間だ。真っ当に考えれば、夜更かしも良いところ。朝食の時間を考えても、もうそろそろ寝るべきだろう。
とはいえ、一応は夜の種族の筈なのに、ずいぶんと人間社会の時間に順応したものだ。
変な所に感心しつつ、俺はお開きにしようと一人立ち上がった。ぼんやりと目線で追ってきたサリーに手を差し出す。
「もう帰って寝るぞ。ほら、立てるか?」
「……あ、た、立てます」
サリーの返事はワンテンポ遅れながらも、素直だ。眠気で反発する気力がないのかもしれない。俺の手に引かれながら、ゆっくりと立ち上がる。
酔い自体はあまりないのか、足元はしっかりしているようだ。
「大丈夫みたいだな。一応部屋までは送ってってやるから」
「……はい」
うむ。俺の声にもしっかりと受け答えができている。そして何より、帰るのが面倒だとか言わないでちゃんと帰る気でいる。
そんなところは、俺の部屋で良く潰れていた女とは違う。あいつは、俺の言う事なんて聞かずにそのままテーブルに突っ伏して寝に入る女だった。クソ迷惑だった。
『襲われたいのか?』と尋ねたときに『襲いたいの?』と尋ね返してきた笑顔を、今でも忘れてはいない。
そんな鳥須伊吹を無理に送り返すのを諦めたのは、いつ頃だっただろうか。
そんな過去に思いを馳せていると、いつの間にか口の端が緩んでいた。自覚したところで慌てて戻したが、それはサリーにも見つかってしまったようだ。
「……何を、考えてますか?」
少し張りつめた声だった。
サリーは俺の手を握る力をほんの少し強めた。緊張と好奇心──そんな気配が感じられた。
俺の部屋を背景にした、見慣れていないのに見慣れた光景だった。
散らかったテーブルに、夜の闇と魔法の光源。目の前には親しい少女の姿があって、そんな少女と二人きり。二人きりで、酒を飲んでいた。
俺自身、少し酔っている自覚はある。全く違う筈のサリーを、シチュエーションだけで重ねてしまっている。
頭の中に、ザザという雑音が生まれる。目の前の少女の像がぶれる。ふとした瞬間に心臓が高鳴りそうだ。
でも俺は、なんでもなさそうに言った。
「別に?」
「……別に」
俺の言葉を、サリーは復唱した。
下手な誤摩化しだったかもしれない。ただ、頭がポヤポヤしている今のサリーなら大丈夫かなと少しだけ思った。
暫く沈黙し、もしかして眠っているのかと思ったころに、サリーはぼそりと言った。
「……別に、良いのに」
何が、良いのだろうか。
聞き返すべきだろうか。
沈黙を守るべきだろうか。
……………………。
俯いた彼女の言葉に、疑問を持つが聞き返さない。
俺はただ、曖昧にサリーに笑いかけた。
こちらの様子をチラチラと窺っていたサリーは、俺の表情を見て何か言いかける。
しかし、口を開いただけで、声にはならなかった。
「……すみません、長々と」
「いいや。弟子に色々と聞けて良かった」
代わりに、耳障りの無い社交辞令でやり取りして、それで終わった。
サリーとフィルの寝床である地下室まで送ってやり、明日は寝坊しないように気を付けろと厳命して、別れた。
去って行く俺の後ろ姿を、サリーはずっと見ていたような気がした。
自室に戻ってくれば、テーブルの上や流しに残っているグラスや食器の群れに、げんなりとする。
宅飲みで何が嫌かと言えば、後片付け以外にあるまい。飲んでいるときの気楽さは店で飲むのと比べ物にならないが、終わった後の面倒さもまた、だ。
程よく飲んで、程よく気持ちよくなっているときに洗い物など……。
「……いや、やろう」
何もかも投げ出して、布団に飛び込みたくなる気持ちを抑える。
今やるのは面倒だが、起きたときに残っているのは更に面倒なのだ。朝っぱらから嫌な思いをしたくない。
俺は一度、テーブルの上の洗い物を全て流しに運んでから、洗い物を始めた。
「……………………」
一人黙々と作業をする。
そうしているときは、大抵その日の飲みのことを考える。
楽しかったとか、勉強になったとか、そういう単純なことで一人にやけて。
自分は正しいことを言ったかとか、なにか間違ったことをしなかったかとか、一人で悩んで。
洗い物が終わるまでに、それらを整理して心にしまう。
「…………よし」
今日は食べ物が多くなかったので、すぐに片付いた。
これで心置きなく眠れる、そう思いつつ綺麗になったテーブルを見やる。
後は寝るだけなのに、気付いたら自分が座っていたところに腰を置いて、ぼんやりと頬杖をついた。
さっきまでここにサリーの笑顔があったと思うと、ほんのりと寂しくなる。今まで、一人で寂しいなどと思ったことはないのに。
誰も居ない虚空を眺めて、虚しく響く言葉を口にする。
「伊吹。俺は今日、間違ってない、よな?」
返事はなくて、ただ、しんとした夜の空気に言葉は消えた。
サリーが言った『良い』とは、どういう意味だったのか。なんとなく考えた。
あれは『自分を代わりに思ってくれても良い』とか、そういう意味だったんじゃないか。
そんな発想にしか至らなくて、自己嫌悪する。
俺は結局、サリーと一緒にいながら、彼女をしっかりと見られてなかったのではないだろうか。
あいつの師匠だと口では言って、あいつのためとか偉そうなことを言っておいて。
心のどこかでサリーを伊吹に置き換えて、俺自身が楽しんでいたのではないだろうか。
だからこそ、サリーはそれを感じ取った。それでもなお、そんな俺に『良い』と言ってくれたのでは、ないだろうか。
だったらあそこで、それを良しとしないことだけが、俺に出来る最後の選択だった。
あいつの師匠としての最後の意地だった。
それはきっと、間違ってなかったと思った。
「トライス。お前は今、どこで何をしているんだ?」
救いを求めるように。あるいは縋るように。再び言葉を放った。
答えが欲しかった。
「……俺はまだ、鳥須伊吹のことが好きなのか?」
再三、言葉は消えて行った。
トライスが何をしているのか。俺と彼女の間に存在する壁はなんなのか。
それすら分からなくて、俺はただ毎日を、カクテルに使っている。
それだけが彼女との繋がりだった。そうすることでしか、彼女へと通じる道は無いと思った。
でも、もしそれが全て繋がったら?
鳥須伊吹のことが、俺は好きだった。
多分今でも、あいつのことが忘れられていない。
でも、今の俺にあるのが伊吹への恋愛感情なのか、もはや違う何かなのか。
その答えが、見えてくるだろうか。
「……寝よう」
今は考えなくて良い。
考えたところで答えが出ないことなんて分かり切っている。それで答えが出てくれるのならば、とっくの昔に分かっていた筈だ。
目的なのか手段なのかも曖昧になったまま、それでもカクテルは俺の側に居てくれた。
今はただ、その事実だけを胸に、今日を生きる。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
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詳細に関しては活動報告の方にも記載しております。
安いウィスキーが買える値段ですが、色々と加筆などもしているので買って読んで頂けると嬉しいです。




