【アースクエイク】(2)
大きなカウンターの上に置かれた一杯のグラス。
その存在感は、グラスのサイズと相反するするように強大だ。
黄色く揺れる液面から立ち上る香りは、確かにアブサンの特徴を持ち、同時にそれ以外の二つの特徴的な香りも併せ持つ。
「……これなら飲めるって?」
イソトマはそれでも尻込みしたまま、ちらりと視線を合わせてくる。
最初にアブサンを飲んだときの勢いはどこに行ったやら。
「大丈夫ですよ。それにはイソトマさんが好きな『ジーニ』と『オールド』が、合わせて三分の二も入ってますから」
「そういう問題じゃ……いや、俺も男だ。覚悟を決めるか」
いつまでも尻込みしているのは、格好がつかないと思ったのだろう。
なんだかんだ、こういう場所では格好を付けたがる人だ。
特に、最初から面倒を見てきたフィルやサリーの前ではなおさらである。
この二人の視線が集まっているこの場所で、逃げ口上は相応しくないと言いたげに口を結ぶ。
「いただきます」
表情に年齢以上の皺を刻みつつ、彼はそのグラスへと手を伸ばした。
──────
ふわっと鼻を通って行く香りに、イソトマは僅かに戸惑う。
確かにストレートの時ほどの衝撃はないが、それでも系統は紛れも無く、呑み込むのを躊躇させられたあの香りだ。
(……ええい。男なら覚悟を決めやがれ!)
そこでイソトマは、前に踏み込んだ。
迷っても何も解決しない。むしろ時間が経つほどに踏ん切りがつかなくなる。そういうことを経験的に知っていたからだ。
そして口に含んでみて、一つ目の驚きだ。
「随分と、口当たりが軽いんだな」
彼のひと言に、その一杯を作ったバーテンダーの目が嬉しそうに輝く。
見ている限り、このカクテルに使われた材料に、優しいものなど一つもない。
割り材など何一つ入ってはいない、ジーニ、オールド──そしてアブサン。
全てが等量ずつ組み込まれたこの一杯に、優しい味わいなど期待できるはずもない。
もちろん、イソトマ自身が強いカクテルに慣れ親しんでいるというのは、あるだろう。
しかし、それを抜きにしても、舌触りは想像より随分と柔らかだったのだ。
甘くケバケバしいと思ったアブサンの味わいは控えめで華やかに、ウィスキーらしい深い丸さと、ジンらしいスッキリとした切れ味が続く。
穏やかに舌をくすぐられるような、ゆったりとした味の揺れが、舌をすべって口の中を揺蕩う。
しかし、そんな初期の感覚は、口の中を油断させるだけの一手に過ぎなかった。
最初の印象のままそれを続けて飲んでみれば、次第にその術中に嵌る自分を自覚する。
一口二口と続けていると、ようやくこの液体が、とてつもない魔力を秘めていることを思い出させられる。
冷たく口当たりの良いその味は、舌を容易く麻痺させる。
そして慣れ切っていた舌の中で、その液体が突如激しく揺れ動いた。
味わいを堪能しようと目を瞑れば、クラクラとするような強烈な香味が内側から鼻へと抜けて行く。
口当たりに感じた、アブサン、ジーニ、オールドのそれらの比率はそのままに。
強烈な印象を持った三者が、激しい自己主張を繰り広げ、固定観念を揺り崩す。
始めは静かに、油断したところに本命の味の振動。
気付いた時にはもう手遅れ。ただでさえある程度酔っていたイソトマの頭の中で、この三者は強烈なハーモニーを奏でながら口の中で暴れ回った。
待ってくれ、落ち着く時間をくれ。
そう思っても時既に遅く、口の中の揺れは収まるところを知らずに広がり続ける。
クラクラとした酩酊感を感じ、このままでは倒れてしまいそうだと錯覚すらした。
そんな折に、すっとチェイサーが伸びてきた。
イソトマが目を向ければ、いつも通りのバーテンダーが「要りますよね?」と言いたげに微笑む。
苦笑いをしつつ、受け取って口の中を水で満たす。それまでの激しい振動は収まり、アブサンらしい後味が、僅かに残る。
だが、その後味は先程敬遠したそれと同じとは思えない。
オールドのコクと、ジーニの切れ味を備えた味わいは、苦手と思えたアブサンの味を、楽しもうと思える程度には馴染み深い物に変えてくれていたのだ。
華やかで、深くて、鋭い。
そんな相反する要素をまとめてぶち込んだカクテルの味が、イソトマの頭の中に根付いた。
彼の苦手意識を押し流し、興味という感情の中枢に、大きな揺れを残した。
イソトマは、ちょっとだけバーテンダーの術中に嵌ったことを悔しく思いつつ、静かに感想を言う。
──────
「ああ。これなら、俺も飲めるな。悪くない」
「ありがとうございます」
イソトマの口から出た言葉に、俺は礼を返していた。
思ったよりもホッとしている自分がいる。どうやら、想定していた以上に、彼の評価に安心したみたいだ。
思えば、最初に店を開いた時に、一番にカクテルを飲んで『美味い』と行ってくれたのはイソトマだ。
この店にやってくる、恐らく最後の『リキュール』も美味しいと言って貰えるか、俺は気にしていたのだろう。
そこをようやっと通過して、初めて『カクテル』が──いいや、俺自身が認められたような気がしたのだ。
そんな俺の表情から何を感じ取ったのか、イソトマは試すようにニヤリと笑う。
「ただ、俺じゃなかったらなんて言ってたか分からねえぞ? これ、素人が飲むもんじゃねえだろ」
「もちろんです。イソトマさんを見こんでお作りした特別製ですから」
「たく。顔色一つ変えねえんだから」
俺の微笑みに呆れた顔で、イソトマは降参と手を上げる。
それからもう一口含み、そして、静かにため息を吐いた。
「あのなぁ、フィル坊とサリーちゃん。あんまり見つめられると照れちまうよ」
言われて、さっきからずっとイソトマを──というよりも彼のグラスを、穴が開きそうなほど見ていたフィルとサリーがびくりとする。
「き、気になってしまいまして」
「も、申し訳ありませんわ」
アブサンを使って作ったシェイクのカクテル。
それも、二つ以上のスピリッツを使った一品。
どのような味になるのか、弟子が気になるというのは、個人的には喜ばしいことだ。
だが、お客さんに出した一杯を物欲しそうに見ているのは、バーテンダーとしてはちょっとばかし、行儀が悪い。
「はは。勉強熱心な弟子だな、マスター?」
「申し訳ありません。後でちゃんと教育しておきますので」
「良いよ良いよ。この子らにも一杯──はできねえのか」
勉強のため、と笑ってイソトマは注文してくれようとしたが、止まる。
そう言って貰えるとありがたいのだが、生憎とジーニの在庫がないのである。
ふと、俺がかつて新人だったころ、俺が潰れるまで酒を飲ませてくれたお客さんの姿が脳裏を過った。
「はい。それはこちらの落ち度です……」
「良いよ良いよ。意地悪なこと言ったな」
「いやぁ、面目ない」
俺は申し訳なく頭を下げつつ、昔を思い出す。
あの時の俺は、売り上げとか、カクテルだとかそういうことばっかり考えていた。時には、酒を飲むのが嫌だと思った時もあった。
だけど、俺にそう言ってくれていたお客さんが、どんな気持ちだったかを考えたことはなかった。
それがどれだけ失礼なことだったのか。今になって、感じていた。
「そういえば、さっきからその黒板も気になっていたんですが、何かあったんですか?」
「あー、ちょっと事情があってな」
フィルは、カウンター上の黒板を気にしつつ、俺に尋ねてくる。デカデカとフレッシュの告知をしているのだ、聞くタイミングを窺っていたことだろう。
俺はかいつまんで、本日あったことを説明した。
説明を聞いていたフィルは、ふむふむと適度に相鎚を打ちつつ最後に感想を述べる。
「へー、大変だったんですね」
「そうだぞ。しかしフィルも余裕ぶってはいらんないからな」
「え?」
他人事みたいな表情で答えたフィルに、俺は意地悪く言った。
「なんせ、このフレッシュキャンペーンは今週いっぱい続く。くくく、明日も明後日もフレッシュ地獄だぜ?」
ガバッと、それまでの寝ぼけた表情から、危機的な顔に変わるフィル。
俺の言葉に追従するように、ようやっと洗い物の呪縛から解かれたサリーが、楽しそうに笑う。
「そうよフィル。最近ちょっと私よりカクテルの評判が良いからって調子に乗ってるかもしれないけど、フレッシュカクテルに関しては私の方が上なのよ」
「サリーはもうちょっと、フィルに負けないように頑張ろうな」
「……はい」
ちょっと情けない勝ち誇り方をしていたサリーを適度に嗜める。
最近、常連の女性客──特にイベリスあたりからカクテルの味で露骨に比較されて、実は地味に凹んでいるサリーである。
そんな彼女への処置は後回しにして、俺はフィルに向き直る。
「とにかく、明日も今日程じゃないだろうが忙しくなるからな。覚悟しておくように」
「はい」
俺の言葉に、フィルは表情を引き締め、やる気のある頷きを返してくれた。
その場はしみじみと、俺達の師弟関係を微笑ましく眺める空気が漂う。
しかし一人だけ、その空気に混じっていない少女が居た。
良い話という風にまとまったところで、恐らく皆気になっていたとある事に、イソトマが突っ込んだ。
「で、そっちのクレーベル嬢ちゃん。寝てないか?」
俺の出した【トマトアレンジ】を飲んでいた辺りでは元気だったクレーベル。
しかし今の彼女は、糸の切れた人形のように、首をガクッとさせて沈黙していた。
空のグラスを手に持ったまま、それをカウンターに投げ出すようにしていて、身動き一つない。
直球で言えば、寝ていた。
「……まぁ、アブサンですからね」
アブサンは、度数が高いことでも有名なお酒である。
平均して五十五度から七十度ほど。たった30mlだとしても、ビールをグラス一杯飲むのと同じくらいのアルコールになる。
となれば、ポーション的にも中々強烈な力を持っているだろう。
通常、バーでお客さんが寝そうになっていたら、バーテンダーは速やかに帰宅を促す。だが、それが二人連れだったりした場合は、あえて放っておくこともある。
連れの人間に、その後の世話を頼めるからである。
フィルはちょっとだけ呆れた表情ながら、優しくクレーベルの肩をゆすった。
「クレーベル? 大丈夫?」
「……んぁ。フィル様……? あっ! ぜ、全然眠くありませんわ!」
クレーベルの、どう考えても無理のある言い訳に、一同は声を出さず笑う。
事実、バッと体を起こした今でも、時間毎に少しずつ目がとろんとしてくるのだ。
苦笑いのフィルは、クレーベルの強がりを受けて親切に提案する。
「そろそろ帰ろうか。ごめんね、付き合わせちゃって」
「い、いえ。フィル様に誘われたのなら、どこであろうとお供致しますわ」
「それは嬉しいけど。無理な時は無理って言ってね」
「……はい」
それは男女のやり取りというよりは、大人と子供のそれのようだった。
ついつい頼りない面ばかりが目に付くフィルではあるが、こうして見ると昔よりはずっと成長しているのかもしれない。
そういうことを思うと、嬉しくもあるが、どことなく寂しくもあった。これが、弟子の巣立ちを見守る師匠の気持ちなのだろうか。
「それじゃ総さん。少し早いですが」
フィルの申し訳なさそうな顔に、俺は優しげに笑いかける。
「良いよ気にするな。そもそも、俺の為にちょっと無理して『アブサン』を持ってきてくれたんだろ? こっちこそありがとうな」
「えへへ、どう致しまして」
と、さっきは大人っぽくなったかと思えば、俺に礼を言われて嬉しそうに照れる姿はどうにもやっぱり子供っぽい。
やっぱりまだまだだな、と念じれば、さっきとは真逆のこれまた奇妙な安心感がある。
それは果たして、師匠として感じて良い感情なのか否か。
師匠として、自分もまだまだ未熟者だと、思いっきり考えさせられたのであった。
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