『アブサン』と『パスティス』
「そういや、そっちの『ペルノー』って奴は、どうなんだ?」
俺がカクテルに意識を飛ばしているとき、ふとイソトマが尋ねてきた。
その瞳には、そっちなら飲めるのか? という仄かな期待の色が浮かんでいた。
今日、フィルが持ってきてくれたボトルは二本。一方が『アブサン』で、もう一つは『ペルノー』だ。
『アブサン』の方が『アブサン科の魔草』であるのなら『ペルノー』の方は、恐らく『パスティス科の亜種』といったところだろうか。
「残念ですが、アブサンが苦手でしたら、ペルノーも恐らくお口には合いませんよ」
「そうなのか?」
「はい。味の系統はほとんど一緒ですから」
味の系統が一緒と言えば、イソトマは露骨に顔をしかめた。
その正直な態度が微笑ましくて、俺はどうしてそうなのかを簡単に説明する。
『アブサン』と『パスティス』の関係。
それらを説明するには、まずアブサンの歴史から入らなければならない。
アブサンとは、主にヨーロッパ各国で作られていた薬草系リキュールの一種だ。
アブサンの名前の由来は『ヨモギ』を意味するギリシア語の『apsínthion』からというのが有力だ。ただ、それだけでなく英語で『不在』を意味する『absence』と関連があるというのも面白い。
なぜならば、その『不在』というのがこのリキュールにはとても良く似合う。
生まれた時から運命が決められていたようだ、とも言われるほどであるのだ。
アブサンに配合されている有名な薬草は、名前の由来になったとされる『ニガヨモギ』である。他にもアニスやリコリスなど多種の薬草が配合されているらしいが、それはひとまず置いておく。
この『ニガヨモギ』こそが、この酒の特異性の象徴と呼べるものなのだ。
他の薬酒と同じように最初は薬としてアブサンは作られた。それが味を認められる形で飲用酒へと変化したのだろう。
値段に関しても、高い度数の割には手頃なことが多かったようで、一説には、ワインよりも安価に楽しめるものとして、庶民を中心に広まったと言われている。
十九世紀の中頃には、一般的な酒となっていたのだという。
そして広まったアブサンは、様々な著名人に愛されたことでも知られている。
特に有名なのは画家のゴッホ。
生前は一枚しか絵が売れなかったと言われている彼が、生涯愛したのがアブサンだ。
日本人としてなじみ深い人物としては、太宰治が著作の中で引用した酒としても名前が上がる。
しかし、このアブサンは、二十世紀の始めあたりに姿を消すことになる。
アブサンの主要な材料の一つであるニガヨモギに、その理由があるとされている。
ニガヨモギにはツヨンという成分が含まれており、そのツヨンはマリファナに似た幻覚作用を引き起こすとの研究結果が出たのだ。
加えてアブサンの度数はおよそ五十五度から七十度と大変に高い。簡単に言えば、注意しなければいけない、度数の高いお酒であるのだ。
そのどちらが原因かは、現在でも正しい答えは出ていないらしい。
ただし結果として、ヨーロッパで『アブサン中毒』になる人間が続出した。
例えば先述したゴッホは、アブサン中毒による幻覚で自身の耳を切り落としたとまで言われている。もちろん真相は定かではないが。
その事態を重く見た各国は、ニガヨモギを用いたアブサンを製造することを禁止し始めた。
アブサンは登場から百年足らずで、歴史の表舞台から姿を消したのである。
『不在』という意味が、自身の運命を物語っているようだと言われる由縁である。
しかし、世界に残されたアブサンの愛好家は、禁止されてもなおアブサンを求めた。
そこで生み出されたのが『(アブサンに)似せた物』という意味を持つ『パスティス』である。
パスティスは、アブサンの製法を改良して作られた薬酒の一種だ。
特徴として、アブサンで問題視された『ニガヨモギ』を原料に用いず、それでいて、アブサンに似せた味を持っている。
ニガヨモギ由来の不思議な苦みが無い代わりに、それ以外はほとんどアブサンと変わらない。
アブサンの代替品として作られたパスティスもまた、世界の酒好きの間に広く親しまれるようになっていった。
現代では、アブサンに含まれるツヨンの値に制限を設けることで、アブサンの製造は再開されている。
もちろん、制限された上での製造なので、規制前とは別物になっているだろうが、それでも世界中にファンが居ることに変わりはない。
それと同時に、パスティスもまた製造が終わることなく、世界で愛されている。
そんなパスティスの種類もまた豊富であり、その中の一種が『ペルノー』なわけだ。
ただ、ペルノーは厳密には『パスティス』ではない、とされている。
厳格な基準に当てはめると『パスティス』を名乗る為の材料が、一つ欠けているからだ。
とはいえ『パスティス』も『ペルノー』も主原料に『アニス』という薬草を用いているのに変わりないので、感覚的には『パスティス』に分類されても良い。
長々と説明してしまったが、要するに『アブサン』と『パスティス』は兄弟のようなお酒である。
それ故に『アブサン』は駄目だけど『パスティス』は大丈夫、というのはあまり聞かないという話である。
「というわけで、この二つのうちどちらかがあれば、バーとしては大体、大丈夫なんですよ」
俺の元居た地球という異世界話に、その場の面々は興味深そうに耳を傾けていた。
のだが、特にアブサンに拒絶反応を示した二人は、アブサンが規制されたという辺りから曇った顔をしていた。
「……てえことは、こいつは毒物ってこと?」
「いやいやいや、毒物をポーションとして扱ってるわけないでしょう。ないよね?」
俺はちょっとだけ不安になってフィルやサリーに目配せをしてみるが、弟子達は揃って首を横に振った。
まぁ、知る訳ないって話である。
「……とりあえず。自分の知っている味だったので大丈夫だと思いますよ」
「……てことはだ、やっぱり調整された上で、こんな飲みにくいってわけだよな」
「いやまぁ、そうですけど」
流石に飲みやすい飲みにくいの部分では、擁護する気はない。
どちらかと言えば、飲みにくいことは間違いないのだから。
「とはいえ、ストレートで楽しむ人は相当好きな人ですよ。これには有名な飲み方があるんです」
言いつつ、俺はちょんちょんと作業台に出しておいたグラス二つを指差した。一つはロックグラス。もう一つはカクテルグラスだ。
口で長々と説明をしつつ、俺は次のカクテルの選択を終えていた。
手元にあるのは二杯のアブサン。ともに容量が少し減っているが、どちらも20mlといったところか。
片方はイソトマの飲みかけで、もう片方はクレーベルの飲みかけだ。
「イソトマさん。レディーファーストってことで良いですか?」
「ん? 構わねえよ? でもなんでだい?」
「いえ。ちょっとだけ、器具を洗う時間とかがありまして」
イソトマの厚意に甘えつつ、俺は格好悪い言い訳を述べた。
俺は基本的に、カクテルの注文が二杯同時に入れば、その二杯を同時に仕上げるのをモットーにしている。
のだが『アブサン』に関してだけは、器具が途中で使えなくなる関係上、器具の残りには目一杯気を使いたい。特に今は、そのための準備がなっていない。
まだ急な来客が入って、カウンターが賑わう可能性も残っているのだし、予備も含めた二本のバースプーンを、共に使用不能にするのは避けたい。
というわけで、まずはクレーベルへの一杯に注力することに決めた。
彼女に出すのは、わりとシンプルな飲み方──を大胆にアレンジしたものだ。
といっても、用意する材料はとてもシンプル。
ベースはもちろん、彼女の飲んでいたアブサン。
それに加える割り材は、水だけである。
もちろん、それだけじゃなく、少しだけ飲みやすくなる工夫はさせてもらうが。
まず、最初にライムを用意する。
いつもそうするように、六分の一にカットし、中央の白い筋と先端を取り除く。それから、軽く切り込みを入れ、ロックグラスの中に果汁を絞り、落とし込んだ。
そのまま口の大きなロックグラスに、やや大きめの氷を二、三個突っ込む。
一般的には、水割りに適したタンブラーなどを用いることが多いと思うが、今回はこの後のアレンジも考えて、あえてロックグラスを選択した。
軽くその状態でステアしてグラスを冷やし、やや量の少ない『アブサン』を落とし込んだ。
緑の液体は、そのグラスの中でほんの少し溶けた氷の水に反応する。
緩やかに白濁を帯び始めたその中へ、用意していた水を流し込む。
ぶわっと白く色づく液体を、今度はしっかりとステアする。
くるりくるりと、氷と共に液体が回って行く。音を立てないように、静かにグラスの中の世界を溶け合わせていく。
冷やされた液体が、グラスに薄く霜を張りはじめるタイミングを見計らい、ゆったりとステアを止めた。
全員の視線がグラスに集中しているのを感じ、少しだけ説明を入れる。
「【パスティス・ウォーター】といって、アブサン──ではなくパスティスを飲むときに良くされる飲み方なんです。それにライムを入れて、少し口当たりを変えていますが」
【パスティス・ウォーター】は、その名の通りパスティスの水割りだ。パスティとミネラルウォーターを一対五。おおよそパスティス30mlに水150mlのような分量になる。
それだけのシンプルな飲み方だが、それ故にお酒そのものを楽しめる。パスティスが好きな人間には、良く好まれている飲み方である。
ではアブサンでもそうなのかと言われると、アブサンの伝統的な飲み方に、アブサン・スプーンという道具を使うものがある。
詳しい説明は割愛させてもらうが、ものすごく簡単に言えばアブサンの水割りに、角砂糖を溶かしたものと言う感じだ。
この系統のお酒の水割りは、伝統的に親しまれてきたものと言っても良いのだろう。
「…………」
しかし、ちらりと見やれば、クレーベルは曖昧な表情である。
聞かなくても分かる。
『先程の飲みにくい酒が、水を加えた程度でどう変わるというのか』
その疑いの感情が、彼女の表情からありありと浮かんでしまっている。
といっても、そこまでは想定通りだ。
俺は最後に、この一杯に彼女専用の魔法をかける。
最後の仕上げとして、俺はベリー系の味わいを持つ真っ赤なシロップ──グレナデンシロップを1tspだけ、ロックグラスに落とし込んだ。
比重によってゆるやかに底に沈んでいく赤色。白の中にある、印象的な赤だ。
そこまでやってから、俺は彼女にその一杯を差し出した。そっとマドラーを添えて。
「お待たせしました。最初はそのまま一口。お口に合わないようでしたら、マドラーでかき混ぜてもう一口どうぞ」
差し出されたクレーベルは、一度不安そうに俺ではなく隣のフィルの顔を見る。
フィルが安心させるように頷いたところで、覚悟を決めたようにゴクリと唾を呑み込んだのであった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
アブサンとパスティスに関して、ざっくりとした説明をしました。
もし、何か間違いなどございましたら、ご指摘いただけると幸いです。
※1021 表現を少し訂正しました。




