『アブサン』
フィルはどうやら、本日はクレーベルと二人でとある人物と取引に向かっていたらしい。
といっても、流通なんかに関するがっつりとした話ではなく、個人的な顔合わせみたいなものだ。クレーベルの知り合いを、軽く紹介してもらった程度。
そして手に入れてきたのが『アブサン』と『ペルノー』という二種類の魔草ポーションだ。
基本的に、店には酒の持ち込みを認めていない。あらためて説明するまでもないとは思うが、バーはそういう場所ではない。
しかし、この時間でほぼ身内ということもあったし、店に対してのものということもあった。今回の贈り物は素直に受け取ることにした。
俺は、その二つのボトルを見ながら、常よりも神妙な顔で尋ねる。
「本当に、飲んでみるってことで良いんですか?」
もしかしたら、今日フィルが知り合ったという人から、正式な仕入れのルートを紹介して貰えるかもしれない。しかし、今の段階ではここにあるものが全てだ。
となれば、貴重品の扱いは慎重にもなる。
しかし、決してそれだけではない。
これが俺の知っているあの『アブサン』と同じならば、相応の準備が要る。
「脅かさねえでくれよマスター。人に酒勧めるのが趣味じゃないのか?」
「それはそうですが」
イソトマのからかうような声に、俺は苦笑いしか返せない。
とはいえ、せっかくあるものを開けないのも確かにもったいない。何より、持ってきてくれたフィルやクレーベルにも悪い。
俺は意を決し、そのボトルの開封に踏み切ることにした。
「飲み方は、まずは知ってもらうということで、ストレートにしますか?」
一応、フィルと一緒にこの一本を持ってきてくれたクレーベルに確認を取った。
現時点では、この酒は彼女の持ち物でもあると思ったが故だ。
「おまかせ致します。それは既に差し上げたものですので」
「では、そのように」
クレーベルから了承を取り、俺はショットグラスを人数分用意した。
この場ではひとまず『アブサン』だけで良いだろう。『アブサン』と『ペルノー』は別物ではあるが、初めての人に飲み比べさせるようなものでもない。
五つ並んだ小さめのグラスに、ゆったりとボトルの中の液体を注いでいく。とろりとした薄緑の透明な液体は、ゆらりとグラスに落ちて揺れる。
注いだ瞬間から、仄かに立ち上るのは、独特としか形容できない薬酒の香りだ。
「じゃ、飲もうぜ」
「あ、少し待ってください」
新しいポーションを早く飲みたいイソトマが、勇み足を踏もうとしたので、俺はすかさず制止した。
若干不満げにイソトマが俺を見てくるが、俺は穏やかに告げる。
「今、チェイサーも用意しますので」
新しい酒を味わうときに、それは重要だ。
そしてなにより、初めてアブサンを味わおうと言うのならば、それは重要を通り越して必須レベルである。
俺の言葉にサリーがハッとして、俺に先んじて動こうとした。
「それでしたら私が」
「いや良いサリー。水じゃないんだ」
「はい?」
そんな彼女を俺は止めた。不思議そうなサリーに手で待ったをかけつつ、ちらりとメンバーの顔を見る。
俺を除いて四人。サリー、フィル、イソトマとクレーベル。
俺はふむと頷いて、グラスを四つ。
三つにはトマトジュース。そして一つにクレーベル用のオレンジジュースを用意した。
基本的にはタダではないそれらを用意した俺に、サリーが聞いた。
「どうしてわざわざジュースなんですの?」
「んー。まぁ、先入観は良くないから、とりあえずそういうもん、とでも思って欲しい」
しかし、俺はその答えを濁した。
煮え切らない返答に、少し首を傾げつつ四人はとりあえず流すことに決めてくれたようだ。
そして、いよいよその時が来た。
俺とサリーはカウンターに立って、その薄緑色の液体の入ったグラスを手に取る。
イソトマ、フィル、クレーベルはカウンターに座って、同じように構える。
この人数なので、乾杯と言って軽くグラスを掲げるにとどめ。
そして、グラスを口元へと誘った。
ふわりと香る薬草の香りは仄かに甘い。だがしかし、そこに何か強烈な違和感がある。
ハーブ系のリキュールで香り高いものは数多くあるが、そのどれとも違う。手招きしている一方で、来る者を強烈に拒んでいるような不可解な甘さだ。
俺が様子を窺ってみれば、その場に居る面々が香りに戸惑いを見せているのは、なんとなく分かる。
逡巡を挟み、一同が一口含んだ。俺もそれに倣う。
強烈に舌先から入って鼻に抜けて行く独特の味わい。甘さ、香り、コク、そして苦み。
どれが一番感じるかと言われれば、どれでもない。そんな単一の味わいだけで、このリキュールを形容できるとは思えない。
独特な味わいは、こちらの理解を越えながら強烈に存在を主張する。しかもその味は、呑み込んで終わりなどという、簡単なものでもない。
呑み込んでなお、舌にすーっと染み込んだアブサンそのものの存在感が、全然消えてくれないのだ。
むしろ、残った後味の方が印象深いと言っても良いかもしれない。
香りから、後味まで。自身の存在をアブサンは主張しつづける。
たった一口だけで、アブサンが特別であると知るには充分である。
俺はこのアブサンが、俺の知る物と遜色ないのだと実感し、同時に周囲の反応を見る。
その一口。そこで取る反応は様々だ。
驚きつつもその感触を受け入れる者。感触を拒絶し、呑み込むことすら困難な者。とりあえず飲んでみて、顔をしかめる者などなど。
さて、この場に現れる反応といえば。
「っ!?」
「んーっ!」
と、思い切り顔をしかめて、即座にチェイサーに手を伸ばしたのが、クレーベルとイソトマ。
「ふぅん?」
「んー」
顔をやや歪ませ、味について考え込むようにしているのがサリー。
確かな驚きを見せつつ、味わうようにしていたのがフィルであった。
まぁ、半々だったか。
この中では、一番フィルと相性が良いみたいだ。
「な、なんだこれ!?」
「なんなのですかこれは!?」
グラスの半分も飲めないまま、チェイサーの方を先に飲み干したイソトマとクレーベルが、同じような質問をしてきた。
「それがアブサンですよ。多分、あんまり美味しいとは思わなかったんですね」
アブサンの感想に対して、俺は肯定も否定もする気はない。できれば美味しいと思って欲しいが、押し付ける気はさらさらない。
イソトマがダメなタイプだったのは少々以外だが、そういうこともある。
アブサンは本当に人を選ぶ。ダメな人間はダメなのだ。味の好みとか、酒の強さとか、とにかくひと言では言い表せない『何か』がそれを分ける。
俺はそういう風に思っている。
「どんな感じでしたか?」
「美味しいとか不味いっていうか、これは」
「本当に飲み物なんでしょうか?」
そのあんまりな言い草に、俺は苦笑いを浮かべることしかできなかった。
それから、顔をしかめつつチビチビとアブサンを舐めているもう二人にも尋ねてみる。
「サリーとフィルはどう思う?」
二人は二人で、少しだけ言葉を詰まらせる。恐らく、俺が日頃からこのアブサンを求めていたのを知っているからだろう。
あまり簡単に否定してしまうのは、悪いと思っているのだ。
「……良く分かりませんわ。飲めなくはないと思いますけれど」
「面白いとは思うんですけど、難しいかなぁと」
「ま、そのくらいが普通の感想だよな」
二人の遠慮気味の感想にも、俺は苦笑いを浮かべた。初めてアブサンを飲んで、いきなり美味いと言う人間ははっきり言って少数派だろう。
俺は彼らの気遣いに感謝しつつ、アブサンをもう一口。
そして、自分は水をチェイサーとして含んだ。
「……そういえば、どうしてトマトジュースを?」
俺一人だけが水をチェイサーにしているのを不思議がるフィル。
フィルなら大丈夫かと思い、俺は彼に水の入ったグラスを渡してみる。
「試しに、水をチェイサーにしてみれば分かると思う」
「はぁ」
俺に言われた通り、フィルは一口アブサンを含む。
そして、次に水を含んでから、ハッとした。
「アブサンの味わいが、全然流れてくれないんですね」
俺はうむ、と頷いた。フィルと俺の意見が一致したのが少し嬉しい。
俺の印象として、アブサンは、水を飲んでもその後味が消えてくれないのだ。
「でも、どうしてなんですか?」
「ま、ちょいと見ててな」
フィルの疑問にすぐには答えない。
俺はフィルから水の入ったグラスを受け取り、それを自分が飲んでいたアブサンへと垂らす。
すると、さっきまで薄い緑色をしていたアブサンが、あっという間に白濁色の液体へと変わった。
その様子を、フィルだけでなく、その場に居た皆々が口を開けて見ていた。
「な、なんでですか?」
その中でも、目の前で見せられて特に驚いたフィルが声を上げる。
「んー。ポーションだから俺の世界と厳密には違うと思うけど、これは、さっきまで溶けていられたものが、水のせいで溶けていられなくなったんだよ」
そう前置きをして、俺は簡単にその説明をすることにした。
地球でのアブサンは、様々な薬草を配合して作られているわけだが、その中に油分が含まれているのだそうだ。
油分は、アルコール度数の高い液体の中では溶けていられる。しかしそこに水を加えると、溶けていることができなくなる。
結果として、アブサンに溶けていた油分が現れ、白く濁るのだとか。
そして、あくまでも俺の勝手な想像だが、恐らくそれが、チェイサーとして水を飲んでも後味が残る原因なのではないだろうか。
油分は水で洗い流すことができない。故に、水ではその後味の元を流すことができない。だから、後味が消えてくれない。
いずれにせよ、アブサンが持つ後味が強烈なことには変わりない。なので、アブサンを初めて飲む人には、なるべく味の濃いチェイサーを用意するようにしているのだ。
「──というわけで、色々と面白い飲み物だろう? あと、洗うときは念入りにな。さもないと、グラスや道具にアブサンの風味がこびりつくことになる」
それは良くあるアブサンの注意の一つである。
アブサン系統のリキュールは、その油分と独特の香り故に、器具を使い回すことはできない。
例えば、一度アブサンを計ったメジャーカップは、その都度念入りに洗う必要がある。
それを怠ると、それ以降の飲み物全てに、アブサン独特の風味がお邪魔することとなってしまう。
この世界には合成洗剤はないので、日本の時よりも更に念入りに洗わないといけないだろう。自然由来の洗剤はあるが、合成洗剤と比べればやはり、効果の違いは大きい。
まぁ、洗い物をしていても、あまり手が荒れないのはありがたいところだが。
簡単なレクチャーを済ませてしまい、俺はさっとカウンターに目を配る。
「一応聞きますが、イソトマさんとクレーベルさんは、それ飲み切れそうですか?」
俺はさっきから全くグラスが進んでいない二人に尋ねてみる。
二人はうんともすんとも言わず、じっと手の中のグラスを見つめた。
「…………」
「…………」
「ああ、大丈夫です。ちゃんとストレート以外の飲み方もありますから。もっと飲みやすい」
飲めないとは決して言わない意地っ張りの二人に言って、グラスごと余ったアブサンを拝借することにした。
二人は何も言わないが、俺に素直にグラスを渡してきた。
それをどう料理してやろうかと思っているところで、隣のサリーが控えめに聞いてくる。
「そういえば、総さんも最初は『アブサン』が苦手だったって言ってましたわよね?」
「ん? そうだな」
「じゃあ、最初に飲んだときは、どう思ったんです?」
サリーのふとした質問に、俺はこの酒を初めて飲んだ頃に意識を飛ばす。
あれはそう。まだ働き始めて間もなくだ。
店に並んでいるお酒の味を覚えるために、ちびちびと飲んで勉強していたときだった。
俺がお酒の勉強をしていると知ったお客さんの一人が、奢ってやるから好きなのを試してみろと言ってくれた。
何も知らなかった俺は、先輩から『特殊なお酒』とだけ聞いていたアブサンを選んだ。
お客さんは、一瞬驚いた顔をしたが、何も言わなかった。
多分、面白がっていたのだろう。
お客さんと乾杯して、彼がくいっと半分くらいアブサンを飲んだので、俺も真似をした。
直後、俺の口の中に目一杯広がったアブサンは、俺に衝撃を与えた。
あの時の感想は、今でもはっきりと思い出せる。
「……飲む入浴剤」
口の中で華やかなハーモニーを奏でるハーブの香りは、一日の疲れを癒すあの空間を思い出させた。
ただし、入浴剤は、飲む物では、ない。
「……入浴剤?」
俺の返答に、その場の面々は不思議そうな顔をした。
この世界には、入浴剤は基本的に存在していないので、仕方ない。
とはいえ、俺の感想はもう、それしか存在しない。
今回ばかりは、俺も上手い言い換えが思いつかない。
それくらい、アブサンの初体験は俺にとっても特別なものだったのである。
どちらかと言えば、あんまり思い出したくないくらいには。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
更新が遅くなってしまい申し訳ありません。
作中のアブサンの表現は、あくまで作者の想像によるところがあります。
特に油分に関しては、科学的に考察したわけではないので、なんとなくそういうもの、程度に受け取って頂けると幸いです。




