【キール】(2)
本日二話更新の二話目です。
どうぞ、と差し出されたグラスを前に、セシルははっきりと尻込みしていた。
カクテルが初めての人間に一杯を出した時、ほとんど必ずと言って良いほどされることだ。
未知に戸惑い、未知を恐怖する。
人間として当たり前の反応なのかもしれない。
しかし、いまはその反応がどうだろうと関係ない。
これを飲んで貰えなければ、先に続かない。
「どうしました?」
俺が尋ねると、まだ覚悟が決まっていないらしいセシルは、キッと俺を睨む。
「はっ、どうもこうもない。君は今、自分が何をしたと思っている?」
セシルの言葉は、俺を馬鹿にするようなものが選ばれている。
しかし、その中に混じっている焦りのようなものも、確かに感じられた。
「自分はただ『カクテル』を作っただけですが」
「ポーションと酒を混ぜ合わせるなんて、そんなこと、馬鹿馬鹿しいとは思わないのか」
「まったく。ポーションと酒、何も悪くない。そもそも混ぜ合わせることが『カクテル』の醍醐味です。思考停止して、これはいけないなんて決めつけることのほうが、よっぽど馬鹿馬鹿しいと思いますが」
俺が堂々と言ってのければ、やはり怯むのはセシルだ。
当たり前だ。俺は自分のやったことに確信をもっている。
自分が作った『カクテル』は、美味いと信じている。少なくとも、自分だけはそう信じている。
「…………っ」
俺の、ある種傲慢ともいえる態度に、あてられたようにセシルはグラスを睨む。
しかし、動けない。
このまま存分に迷ってもらうのも悪くはないが、それではせっかくの【キール】が温まってしまう。
俺がなんて言って促そうかと悩んだところだった。
「ふん。さっきから見ていれば、この程度が『ホワイトオーク』の室長の懐か?」
その挑発するような言葉が、緊張した空間に響いた。
誰だ、と考える余地すらない。
そんな不遜な言葉をあっさりと口に出せる人間は、あいにく一人しか心当たりがない。
「……君は?」
「ギヌラ・サンシ。『アウランティアカ』から来た者だ」
しかしギヌラの態度は、いつものやけっぱちなそれとは違って見えた。まっすぐにセシルを見据えて、背筋をピンと伸ばしている。
ギヌラの名前を聞くと、セシルの表情は歪む。
「『アウランティアカ』……君も、先の品評会で醜態を晒した側か」
「…………」
「何か言ったらどうかね?」
「失礼。口だけは大きい物言いに呆れていただけだよ」
その小馬鹿にしたような言葉に、セシルが頭に来たのは分かった。
ギヌラはその様子を涼しげに見たあと、吐き捨てる。
「僕はその男が嫌いだし、『カクテル』とやらも認めていない。その点に関しては、あなたと同じ立場だと言える」
「……ならばなぜ、口を挟んだんだい?」
「同じ立場の人間の醜態が見ていられなかったからだよ。何を怖がっているのかとね」
怖がる、という単語に、セシルがピクリと反応した。
その手応えをギヌラも感じたのか、さらに温度の低い言葉を重ねる。
「あなたの物言いには、先程からイライラするんだ。あなたの信念は大いに結構。だけど、それが薄っぺらいことに気付かないかい? 直接『カクテル』とぶつかったこともない人間が、どうしてそこまでデカい態度をとれるのか、不思議でならないよ」
「…………」
「この程度が『ホワイトオーク』だとしたら、はっ、こんな場所で学ぶことなど一つもない。放っておいても、いずれ『アウランティアカ』に淘汰されるだけだろう」
「……言わせておけば」
ギヌラに食って掛かろうとしたセシルに、ギヌラは冷ややかな笑みを浮かべた。
「間違っていると思うよ。あなたが今向き合うべきは、そちらだ」
ギヌラが指した先には、静かに揺れる赤黒い液体。
静かにたゆたう、俺が出した一つの答えだ。
「……分かっている」
そして意を決したようにセシルはグラスを手に取った。
未だに迷いを瞳に宿したまま、それでもぐっとその指に力を込めて……。
──────
(馬鹿な)
口に含んだ瞬間、いや、香りの段階で既にセシルの脳は違和を訴えていた。
酸味が強いだけの、安っぽい白ワインだったはずだ。
香りからして深みの欠片もない、ツンとくるだけの代物だったはずだ。
それがどういうわけだか、重厚な甘い香りを漂わせていた。
鼻が認めるそれを意識で否定しつつ、口に含めば広がるのは想像を越えた味だった。
ツンと舌に刺さるようだった酸味は、その角を削られて穏やかに舌を叩く。
そのままゆらりと波に乗ってくるのは、出来の悪い白ワインのザラザラとしたイメージを、幾重にも研磨したような柔らかな甘さなのである。
青年が言っていたように、舌に乗るのはカシスの、深く芳醇なコク。カシス本来の酸味はなりをひそめ、その深みを引き出しているのはフルーティな甘さだ。
舌に広がる味の中には、仄かに白ワインの渋みも残る。むやみやたらと広がるはずだった酸味も荒さも、何もかもがカシスの風味に先導されて従っている。
相性が、良いのだ。
セシルは知らなかった。カシスとブドウ。二つの果実がこうまで相性が良いのだということを。
その二つが交わることが、これほどまでにお互いを引き立て合うということを。
なにより、甘さがくどくない。
青年が使った『カシスリキュール』とやらは、相当な甘みを秘めている。その想像は難くない。
にも関わらず、喉元を通り過ぎていく飲感は、驚くほどにスッキリとしている。
口に入れた瞬間から今まで忘れ去られていた酸味が、最後に甘みを押し流して、舌の上の世界を完結させてしまう。
赤く甘い誘惑の世界と、白くさっぱりとした鋭利な世界。
二つの世界が混じり合って、セシルの舌にいくつもの官能の種をまいていく。
それらを芽生えさせるために、セシルは自然ともう一口を含む。さっき起こった舌の上の奇跡を否定したいとさえ願う。
しかし、訪れる洪水は、その願望を叶えてはくれない。
セシルは自分の手の中の液体が少なくなっているのに焦りすら覚える。
そしてハッと気付くのだ。
目の前の青年が、心からのニンマリとした笑みを浮かべていることに。
──────
【キール】というカクテルに関する逸話は多い。
これが生まれたのは第二次世界大戦の終わりくらいで、出生地はフランスのブルゴーニュ地方──その中心的都市であるディジョン市。
第二次世界大戦終結後はワインの出荷が伸び悩んでいたらしく、ワインの生産地としても名高い市は、財政的に苦しい立場にあった。
そんなとき、当時の市長であるフェリックス・キール氏は、地元の特産である『カシスリキュール』と『ワイン』を使ったカクテルを考案し、地域の活性化を図ったという。
【キール】という名前は、市長の名前から取られたらしい。
その時に使われた白ワインは、アリゴテというブドウで作られた、なんとも酸っぱいワインだったという。
そして、それが日本に広まったときにも、もう一つ逸話があるという。
それはこのカクテルが、バーではなくレストランから広まったというものだ。
ワインが日本に広まったのは一九七〇年代で、その当時の日本のバーは『度数の高い洋酒』を特に扱っていた。
そして度数の低い『ワイン』は並べるべき洋酒とは見なされなかった。
そんな時代に、【キール】がレストランを中心に流行の兆しを見せた。
当時のバーは二つに割れた。
保守的にワインを認めなかったバーテンダーと、積極的にワインやワインを使ったカクテルを取り入れていったバーテンダーがいたのだ。
後者のバーテンダーには、比較的若い人間が多かったらしい。
現在、日本のバーでワインがどういう扱いを受けているかは、時代の移り変わりを考えると自然と分かることである。
このカクテルを彼に出したのは、一種の『あてつけ』のようなものかもしれない。
経済的にも背景的にも苦しい場所で生み出された【キール】を、そのままスイになぞらえて。
酒の専門店であるバーより、新しいものを取り入れたレストランの方が、時代に先んじることもあるのだという意図を込めて。
それが『ポーション』と『カクテル』を暗示させるように。
「いかがです?」
嫌らしい質問だと自分でも思った。
彼が、目の前の未知をどう思ってくれたのか、言葉以上にその表情が雄弁に語っていていた。
それでも、俺は子供らしく、彼に問いただす。
彼の口から、はっきりとその言葉を聞きたかった。
「……ここは私の負けを認めよう」
「違いますよね。言った筈です」
「……ああ。美味かった」
俺は顔で微笑み、心でガッツポーズした。
もちろん、美味いと言って貰えたこと、それ自体の嬉しさもある。しかし、その次に続く言葉のほうが重要だ。
セシルは軽く頭を下げ、スラスラと謝罪の言葉を述べる。
「約束だ。訂正しよう。スイ・ヴェルムットのことを知らずに彼女を否定したのは、私の過ちだった。すまない」
「……意外と、すんなりなんですね」
「私は別に彼女の否定をしたいわけではないからね」
頭の固い人間という印象だったので、そこですんなりと謝ったのは意外だった。
だが、その先に続いた言葉は、その印象を新たにするものだった。
「しかし、私の立場は変わらない。私はこれを『ポーション』と認めることはできない」
はっきりと言われた否定の言葉は、不思議と頭にはこなかった。
「なんとなく、そう言われるような気はしましたね」
「ふん。君が言う『カクテル』がどうだろうと、私は自分の信じる『ポーション』を曲げるつもりはないからね」
まぁそうだろう。彼は結局『カクテル』を美味いと言っただけなのだから。
そんな態度だろうからこそ、俺は彼に【キール】を飲ませたいと思ったりもしたのだが。
「自分はあくまで『カクテル』を広めるのを止めるつもりはありません」
「ならば、私は私の信念が続く限り否定しよう」
セシルははっきりと断言し、そしてホリィへと顔を向けた。
「ホリィ。君が……いや、アパラチアン先生が何を期待しているのかは、はっきりとは分からない。だが、中間発表の期日は迫っている。それを忘れないように」
「……わかってますよセシル先輩」
その二人のやり取りが、少しだけ印象に残った。先程からセシルのことをホリィは先輩と呼んでいる。
この二人には、俺の知らない因縁でもあるのだろうか。
俺の中の疑問は解消されるわけもなく、セシルは出口へと足を向ける。しかしそのまま出て行くことはせず、扉に手をかけたまま俺に振り返った。
「…………『カクテル』を『ポーション』と認める気はないが、面白いと思ったのは確かだ。そんな君に『参った』と言わせられる日を、私は楽しみにしておく」
「では、そうならないように努力します」
「ふん。それと『アウランティアカ』の──ギヌラ君」
セシルに声をかけられて、いつの間にかそそくさと人の輪に戻っていたギヌラがビクリと震えた。
彼は先程よりもやや肩を縮ませながらセシルの方を向く。
「……なにかな?」
「確かに私は、いつの間にか臆病になっていたよ。教えてくれてありがとう」
「…………そう、ですか」
「私が言えた義理ではないが、存分に学んでいくといい」
セシルは皮肉っぽい笑みを浮かべて、ようやく出て行った。
彼が出て行ったところで、ようやく、この場の緊張感が緩んだ。
「総! さっきの何!? 私にも作って!」
緩んだ途端、俺の良く知っている少女の声が響いた。
そちらに目を向けると、いや、目を向けるまでもなく、その場の視線は俺に集まっていた。
「…………みなさんも、飲みます?」
「「「もちろん」」」
それから俺は、せっせとその場にいる人数分の【キール】の作成にとりかかった。
……で、ちゃっかり混じっているギヌラ君はいったいなんなんだろうね。
さっき認めてないとか、カッコいいこと言ってたのにね。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
200話記念を何も用意していなかったので、二話掲載でこう、ご勘弁を。
※0409 誤字修正しました。




