前
ウサ耳であった。
白く柔らかく、そして甘やかなウサ耳であった。
具体的に何が甘いかといわれれば、雰囲気が甘い。
口に含めば砂糖よりも舌が喜びそうな、ウサ耳であった。
毛並みはこれ以上ないほどに美しく、かたちは理想を超えて理想的、大きさは体との黄金比を描いている。
どこからどう見ても完全無欠に素敵滅法――。
そんな、ウサ耳であった。
ウサ耳が、ぴょこんと揺れる。
鏡の向こうにその様子を見つめながら、サザは今日も満足げに頷いた。
艶やかな白色の髪が首の動きに応じて上下する。
カル・マ大陸東端部。黒々とした樹海に囲まれる獣人の都が一つ、マミモミマエ。その富裕街の一角にひっそりと建つ家の中で、一人の少女が鏡の前に佇んでいた。
サザルリナ・クラレイゼ。白い体毛と赤い双眸を有する白兎の獣人である。
女性としての階段を昇り始めたという頃合の少女で、小柄な体躯には溢れんばかりの活力が漲っており、その真紅色の瞳には宝石もかくやという生命の光が輝いている。
快活、という言葉をそのまま少女の形に押し込めたかのような、眩しい笑顔を常に浮かべる娘だ。
その頭からは、一対のウサ耳が垂れている。
サザは片手を持ち上げ、己のウサ耳をつまむ。
その可愛らしい笑顔に、たまらないと言わんばかりの更なる笑顔が上塗りされる。
彼女はウサ耳を愛していた。
生まれる前から大好きだった。
そう――生まれる前から、である。
誇張ではない。獣人・サザルリナには前世があった。一人の人間の男として生きた記憶が彼女の脳みその中には確固として存在する。
故に、生まれる前からウサ耳を愛していたというのは、この人間の男であった時分からウサ耳を愛していたということだ。
彼は事故に遭い、不可避の死を覚悟した。目をつぶり、歯を食いしばって――その次の瞬間には、彼は彼女になっていた。赤ん坊。それもウサ耳を備えた女の子である。後にサザと名付けられる白兎獣人の幼子はそのことに気づいた時、産声よりも声高く歓喜した。
なぜならば、ウサ耳を愛していたからだ。
己の愛するものと同化する。それはサザに只ならぬ喜びをもたらした。
普通のウサ耳好きなら、仄かな興奮が胸に湧き上がる程度だったろう。しかしサザは尋常ならざるウサ耳好きだった。しかも馬鹿ではなかったのですぐに、
(記憶を持って生まれ変われて人外含む様々な生命の中から人間的な種族になれてその内の獣人のしかもウサ耳持ちの女の子に産まれることができて親を見れば両方美人な確率とはいったい……)
という思考に至った。宝くじの一等をとるよりも困難なことは明白だった。
こうなると只でさえ膨大なウサ耳の喜びに幸運の喜びが加わって、サザの幼少時は常時胸がはちきれんばかりの高揚と共にあった。感情と密接な関係にあるとされる『マナ』が、彼女の場合、獣人の平均を大きく超えて成長したのは、ともすればそのせいなのかもしれない。
童女を卒業し少女として本格的な成長を始めた今では、既にサザは白兎族の中で最も強大なマナを持つ者となっていた。
加えて、彼女には前世で培った教養と豊富な知識があり、少女にもならないうちから大人や長老たちを感心させること頻りだった。一族の悪習因習がその小さな手で払拭された例は片手の指では足りず、サザは一族ひいては他一族からも清濁入り混じった熱い視線を集めていた。
なのでそんなサザが白兎族の次代族長として祭り上げられたのは、これは最早当然の流れであった。
彼女自身は高い地位を持つ生まれではなかったが、優秀・美麗・快活・族長のお気に入り。ここまで揃えば出身に拘泥できる者はいない。白兎族は代々、優れた力を持つ者が族長の座に就き、それを補佐の役目を負った幾つかの血族が力添えするという形をとっていたが、ここで現族長が次代族長を指名するという形式であったのも、すんなりとことが運んだ大きな要因だったのだろう。前述の通り、サザは族長の大のお気に入りであった。
そうしてサザは次期族長として教育を受け――
無事に終えたのが、つい先日のことである。
兎の耳を持つ少女は、名残惜しげに鏡から目を離した。
服装を確認して、背を軽く反らして伸び。
己のウサ耳を堪能し終えたサザは爽快な笑みを浮かべ、玄関の扉を開け放った。
上機嫌に鼻歌を奏でながら、サザはマミモミマエの街を歩き始める。ウサ耳付きの頭の中に輝かしく点灯しているのは、一つの用事。手紙にて、久しぶりに友人と会う約束を交わしていたのだ。
よって向かうは、かつての住処であった両親の家からほど近い場所にある、友人マハナの家。
白兎の脚力をもってすれば瞬く間に着く距離だが、なんだか歩きたい気分であったサザは少々の時間をかけて向かうことにした。
青い空を見上げながら、サザは友人の綺麗な顔に想いを馳せる。
マハナ。温厚で可愛らしい、サザの幼馴染。
それこそ言葉を話し始める頃から次期族長としての教育が始まるまで、ずっと一緒に過ごしてきた仲だった。多産な獣人の仲でもとりわけ子沢山な白兎族だから、実の兄弟姉妹を含めて幼馴染はいっぱいいたが、その中でもマハナとサザは特別親しかった。
(私が急がないのは、再開の喜びに高揚するこの気持ちを長く味わっていたいのかもしれない)
そのようなことを考えながら、サザは一歩一歩を噛み締めるようにして歩みを進める。
日中の街であるから人通りは多い。白兎族の人々とすれ違う度、サザは太陽のような笑顔で、にこやかに会釈をする。次期族長になるにあたって、細やかな気配りは重要であることを彼女は知っていた。サザの見た目は非凡に優れているから、その挨拶を不快に思う人間はほとんどいない。
危うげな足取りの幼子を連れたふくよかな白兎の女性に向けてサザは笑顔を見せて――心ここにあらずかつ横を向いて歩いていたために、足元の亀裂につま先が引っかかった。
「うわっ!?」
それは、かなりまずい転び方だった。重心が体の軸から離れてすっ飛んでいく。回転も加わっているので、満足に受身を取ることも出来ない。
痛みを覚悟して体を固めたサザだったが、予想した衝撃はなかった。
少しの時間をおいて。
自分の体が、自立するには難のある角度で停止していることに気づく。
腰元にはしっかりとした腕の感触。誰かに支えられていた。
声が投げかけられる。
「大丈夫?」
低い、男性の声である。かなり美しく響く声だ。どこか、子供に話しかけるような雰囲気がある。
その声が鼓膜を震わせた瞬間、天から地へと己の機嫌が急落するのをサザは自覚した。
緩慢に首を捻ると、相手の姿が目に入る。
漆黒の髪の、背が高い青年だ。切れ長の眼が艶やかに光る途轍もない色男で、頭には黒い兎の耳がある。主張しすぎない程度の上品な香草系の芳香が、鼻をくすぐった。
クアンケ・ダカフという黒兎族の獣人だった。
黒兎族は白兎族と対立する獣人の一族だ。白兎族ともに獣人社会では強い影響力を持つ勢力であり、何かと争ってきていたが、現在は小康状態にある。簡素にいえば、仲良くしたいのだが過去の因縁から中々手を結びづらい、というのが現状であった。
サザは男が嫌いだった。
機嫌を悪くしているのはそのせいだ。いや、このクアンケという男は確かに特別気に入らないが、男性自体が好きではないのだ。
兎の獣人は性欲が強い種族である。慢性的な発情期を持ち、性に関わる道徳観念が薄い。
普通の獣人は、比較的本能が強いが欲望に忠実というわけではなく、むしろそれを恥じて理性的であろうとする趣が強かった。規律や貞節を重んじるのが獣人たちの文化なのだ。
しかし兎の獣人は違う。他の獣人たちが発情期を抑える薬や『方術』を開発し活用しているのに比べ、兎たちは衝動に逆らわない。発情期が重なれば初対面でも即性交。夫婦として唯一の伴侶を定めているのも半数程度といった有様だった。そして始めての発情期を迎えた白兎の少女たちの相手をするのは、白兎の男たち。
近所のそれはそれは可愛らしいウサ耳お姉さんたちが馬の骨どもに純潔を奪われていく様を見続けたサザは男を毛嫌いするようになった。下手人たる彼らが己の失ったものを持っているという嫉妬もそこにはあったが、ウサ耳少女たちを穢す者ども許すまじ、というのが大きかった。サザにとってウサ耳を備えし少女とは理想の具現にして不可侵の存在。よしんば関係を認めるとしても手を出していいのは同じパーフェクツ・ビーイングたるケモ耳少女だけ――。
ことの重大さを痛感したサザは獣人社会における疎外のデメリットを各方面に切々と訴えかけ(本能に正直な兎族は他の獣人たちから嫌われていた)、白兎族の破廉恥な現状を変えることに見事成功したのだった。
あれから数年。今では各家庭に発情抑制薬が配布されており、赤い顔をして幽鬼のごとくふらつく者を見ることもなくなった。獣人社会では兎族の存在が受け入れられつつある。
ともあれ、サザは男が嫌いなのだった。
「ありがとう!」
礼を言って離れ、サザはクアンケに笑顔を向けた。内心が顔に出ないのは、次期族長の教育には表情を操る術もあるからである。
黒い男は、涼しげな目元を細めて苦笑した。きらめくような美男であるから、頭をかく仕草ひとつすら非常に様になっている。尋常の娘ならばこれだけで惚れてもおかしくない嫌味のない色気であった。
「つれないな。『運命の相手』じゃないか」
ピク、とサザの愛らしい顔が細動した。
これだった。これがなかったら、この男の好感度は現状ほど低くはなかっただろう。斜め後方にはハユハという彼の女従者が佇んでいるが、その麗しい黒ウサ耳だけがサザの心の平穏だった。
実はサザを次期族長とするべき要因が最近、新たに一つ生まれていた。
一年ほど前のことである。とある占い師が言った。
『サザルリナは、白兎と黒兎をつなぐ架け橋を作るだろう』
占い師はマナを用いて占っており、それは神秘の業たる方術の、更に上位に位置づけられる『高次方術』である。血筋と才能を併せ持つ極一部の者のみに許されたそれは、多大な疲労を生じさせる代わりに極めて信憑性の高い予言をもたらす。この占いを行った一族最高の占い師カク婆は予言の代償に息をひきとったというが、過去、この手の占いが外れたことはない。
そして、黒兎族側にも同様の予言があったとのことだった。
こうなれば、白黒双方の上層部でサザが族長となることが既定事項と見なされるのは逃れえぬ定めだった。
そして、この予言を根拠に、若き黒兎族族長・クアンケはサザのことを『運命の相手』と称しているのだ。
サザは不快であった。
そこに、サザとクアンケ、二人の婚姻関係をもって二つの一族を結ぼうという言外の意図が含まれていることは明白である。しかし結婚どころか、男と交わることすらサザには有り得ない事象だった。元男であるサザにそのような趣味はないし、なにせ、他でもないサザ自身が美しいウサ耳娘なのである。こんな素晴らしく最高な自分自身が穢されるなど、到底容認できる事態ではない。
できる事態ではないのだが、それを会うたびにちらつかせるクアンケが、サザは心底苦手であった。
それにだいたい、色々と『したいこと』があるのだ。この男にかまっている暇など、まったく、これっぽっちも、チリほどだって、ない。
……と、このように、次期白兎族族長はいつも考えていた。
しかし実際のところ、サザ以外では文句をつける者など存在せず、身近な人間にはわかったような笑みと共にことあるごとに囃し立てられ、二人は半ば婚約者扱いされていた。保護者の一人である母親が少女のようなはしゃぎようで脇腹を突っついてきた時のことは、苦い記憶としてサザの脳内に焼き付いている。
笑顔のまま何も言わないサザに、クアンケは爽やかな声で言った。
「まぁ、おいおいね……じゃあ、また会おう」
美しい笑みを浮かべて、クアンケは去っていった。
サザは小さく鼻を鳴らして、元の道程に戻る。そんな簡単な仕草さえ、非常に少女めいて愛らしい。なにせ男としての客観的な視点があるので、自分という少女に映える言動というものをわかっているのだった。
地面に足跡を刻む度に、下降気味だった気分が上昇していく。元来、サザは笑顔を絶やさない性質である。
目的地が見えてくる頃には、ウサ耳が楽しげに揺れていた。
それからは何事もなく順調に足取りを進め、行程も道半ば過ぎた頃のこと。
ふと、サザは異変を察知した。集中しなければ意識のさざなみに紛れてしまう程度の、些細な変調である。
それを最初、サザは体外の変化だと思った。一瞬気温が高くなったか、鋭い日光が目に入って立ちくらみがしたかと考えたのである。しかし、そうでないことに気がついた。己の頬に触れてみると、少し熱い。
首を傾けて、柔らかい胸に手を当ててみれば、少しだけだが、早い鼓動。
(……?)
頭が少し、ふらふらするか、しないか。判然としない感覚に一抹の疑念を感じながら、サザは足を動かした。
少々頼りない足取りで、マハナの家の玄関にたどり着く。金具の取っ手を打ちつけて、サザは来訪の音を鳴らした。
騒がしい音が、大きくなりながら立て続けに扉の向こうから迫ってくる。
最後に一際大きな音を立てて、扉が開かれた。巻き起こされた風でサザの白い髪が巻き上がる。
「さーちゃんっ!」
がばっと広がった白い影が、サザに正面から飛びついた。
「マハナっ」
サザも体の異変を束の間忘れて、万感の抱擁を返した。見るまでもなく、相手の表情が脳裏に浮かんだ。
睨みを利かせれば存分の迫力が出るであろう勝気そうなぱっちりとした赤い双眸。白く煌く八重歯が目立つ、すっきりとしながらも豪奢な貌。は、しかし、温厚さがにじみ出る垂れ目と自信なさげな口元によって一転、庇護欲を煽る顔つきになってしまっている。
マハナ・カルオハ。サザの大切な友人だった。
その生来の造形と本人の気性はまったく正反対の様相を呈している。しかし似合わないかといわれればそうではなく、非常に愛らしい娘なのだった。
香水は、甘やかかつ爽やかな果実系統のそれ。嗅覚が鋭い獣人にとって自身の匂いを修飾することは着衣に準ずる最低限の身だしなみである。ちなみにサザのは族長に極近しい者だけが身につけられる動物性の香料。
「さーちゃんっ」
「マハナっ」
「さーちゃんっ」
「マハナっ」
抱き合う二人の白兎は、歓喜を隠そうともせず玄関先で互いの首筋に顔を埋めて、互いの存在を確かめ合った。一塊の白い女の子たちは、喜色で全身を一杯にしながら、小さく跳ねたりして、
「さーちゃんっ」
「マハナっ」
と繰り返した。
延々と続くかと思われた呼び合いはしかし、上背のある方の疑念の声で中断された。
「あれ? さーちゃん、なんだか、熱い……?」
マハナの台詞に、サザは我に返った。
やはり他人の目から見てもおかしいのか、と思う。となれば、不調が錯覚でないことは確定だった。だが久しぶりの再会だ。体調不良でとんぼ返りは勘弁だった。
困ったような笑みを浮かべつつ、若干上の方に位置するマハナのあどけない顔を見上げて、サザは尋ねる。
「そう?」
「ほら、元気もないし……」
ううむ、と小さく唸って、サザはマハナから体を離した。
名残惜しそうな声があっとあがる。マハナを見れば、寂しそうな顔で所在なさげに両手を彷徨わせていた。
そんな彼女の様子にサザは苦笑し、体が汗ばんでいることを感じながら、促され家に入った。冷えたそよ風に撫でられて、体の火照りを改めて感じた。
ふらふらとマハナの部屋の扉を開けたサザは、広い寝台に一直線に突っ込んだ。ぼふっと少々の埃が立つのも気にせず、柔らかい毛布に体を埋め、枕に顔を擦り付ける。香料ではない懐かしい匂いに、体の熱が少し去った気がした。
遅れてマハナが寝台に上がってきた。
「さーちゃん……どうしたの?」
心配そうな声音。
「ん……さっきクアンケに会ったからね。気分が悪くなったんだ」
顔だけマハナに向けて、サザは意地の悪い笑顔で軽口を叩いた。
すると、マハナが可愛らしく顔をしかめる。
「あの人……私嫌いっ!」
サザは不調も忘れて目を丸くした。温厚なマハナがここまで否定的な台詞を口に出すのは、非常に珍しい。
頬をふくらませるという、これまた珍しい表情をマハナは見せる。
「聞いたよ! さーちゃんにつきまとって……!」
「え、いやあれで優秀だし、そんなに悪いやつでもないんだよ?」
言いながら、どうして私があいつを庇ってるんだ、とサザは戸惑った。しかし実際のところ、クアンケは男であるという欠点に目をつむれば非常に優れた人物だった。総合的にはサザよりも優秀だろう。あの若さで族長を務めあげているのが何よりの証左である。
(見た目もいいし、声も体格もいい。地位も金もあるし……ってどうして私があいつを褒めてるんだ)
サザは困惑していた。目の前でクアンケへの明らかな嫌悪を露わにされるのが、憶えている限りの初体験だというのも関係しているのかもしれない。
「……もう。あの人のことはいいのっ」
寝台を叩いて、マハナは主張した。
いそいそと動き、サザの横に寝転がる。
顔がくっつきそうな距離で、マハナはすねたように言う。
「今日は久しぶりなんだから、思いっきり遊んで、お喋りするの」
「ん、そうだね」
サザは枕に頬杖を突いて、天井を視線を向けた。回転の鈍い頭を動かして、何とはなしに思いついたことを口にする。会話の開始である。
「そういえば、またお隣さんがちょっかいかけてきてね、大変なんだよ、このごろ」
「あ……土猪族の?」
「そうそう」
サザは頷く。次期族長としての教育として、サザは族長に付き添い、その手伝いをしていた。
その中には苦々しい思い出も少なからずある。
前世でも経験していたことだが、都合二度目の独立を迎えるにあたって、改めて意識せずにはいられない。一人の大人として過ごしていくというのは大変だ。わけのわからない人間は沢山いるし、理不尽なことも一杯ある。
そして何より、どれだけ頑張っても褒めてくれる人なんかいない。それはとても寂しいし、虚しい。
「確か族長さんが乱暴者で人望がなくて、その上一族のお財布事情がよろしくなくなってきたから、信頼を取り戻すためにこっちに矛先向けてるんだよね……?」
サザはマハナの顔をじっと見つめた。
可愛らしい顔だ。
「……んっ?」
にこっと、マハナは首を傾げて微笑んだ。
マハナは、既に親元から独立して一人で生きている。それもどこぞの商人や先生の弟子としてではなく、自分の作った商法で金銭を得ているのだというのだから凄い。ちなみにこの家もマハナ本人が自分の稼いだ金で買ったものである。
サザは笑顔を返して、話を受け取った。
「そう、それなんだよー。身内の団結を高めるために外敵を作るのは確かに効果的だけど、敵意を向けられる方としてはたまったもんじゃないよ……」
「あれって、たぶんだけど……族長さんが慣れない商売に手を出したからだよね?」
「その通りだけど、なんでわかったの?」
「真新しい内容なのに、大きな商人さんでもおいそれとできない規模の店が突然できたって……その噂を聞かなくなった辺りからちょうど土猪族のところとのいざこざが増え始めたし、これは何かあるなって。この間、行商人の狼さんに考えたことを話したら褒めてもらえて……」
おおよそ真実の通りの回答に、サザは唸った。
のほほんとした雰囲気のマハナだが、これで中々耳聡く、頭の回転が速い。次期族長としての教育を受け、そうでなくとも前世の記憶を持ち合わせるサザの話についてくることができる人間は彼女をおいてそういない。立派に一人で生きているのだから、賢さにも相応のものがある。
近頃の政治情勢に意見を交わした後、二人は隣り合って寝転びながら、近所の人間関係の変化や身近で起きた些細な事件といった四方山話に花を咲かせた。時たま脇腹などをつつきあって、黄色い声をあげたりした。
「でね、腹を立てたイークォちゃんがワラガちゃんとの待ち合わせをすっぽかしてね」
熱のこもった勢いで、マハナがサザに囁きかける。ほどほどの時間と会話を経て、場の空気は高まっていた。再会当初とは比べるべくもないほどマハナも早口になっている。
「ん……」
相槌を打ちながら、熱が本格化してきたのをサザは感じていた。
訪問の時から、じっくりと弱火で炙られるように上がっていた体温が、いよいよ異常の域に入ったのだ。
「さーちゃん?」
「……体が、熱くて」
返事も力なく、サザは枕に頭部を横たえる。
「わっ……ほんとだ……」
己の額をサザのそれに合わせて、マハナが言った。至近距離で二人の視線が合わさる。
力ない笑顔を浮かべて、サザは言った。
「せっかくなのに、ごめん。頭が上手く回らないよ……」
いつもと正反対の覇気のない声が、サザの喉から出る。
なぜか、目の前のマハナの顔から目が離せなかった。常にも増してそのウサ耳が魅力的に見える。
「それって……」
思い当たる節があるように、マハナは呟いた。
「もしかして、さーちゃん……」
若干言いにくそうに、一言。
「……発情期なんじゃ」
その単語が鼓膜に届いた瞬間、サザの顔から表情という表情が消失した。
完全なる無表情。笑顔以外を浮かべることが非常に稀なサザのその顔に、マハナはびくんと肩を震わせた。
サザはこれ以上機敏な動きは存在するまいというほどの素早さで――身を起こし懐から発情抑制薬を取り出し白い指先で綺麗に包装を破り舌を蠢かせて唾液を搾り――、薬を口に放り込んだ。
この間、僅か一呼吸分。
ごくん、と喉が鳴った。
あまりに敏捷な動きを見せるサザに、マハナは二度目の呆気にとられている。
薬を飲み込んだ時の姿勢のまま無表情で微動だにしないサザ。
そんな彼女を見上げて眼を見開き硬直するマハナ。
寝台の上に広がる息が苦しくなるような静謐。
「――――っはぁ」
不意に、サザが脱力する。
女の子座りのまま、少女は安堵の吐息を長く零した。友人に感謝しながら。
発情抑制薬。その名の通り、獣人の発情期を抑える薬効を持つ。今は白兎族でも一定以上の年齢の者には族長主導で広く配布されており、当然、サザの手にも渡っていた。発情期の存在を誰よりも疎んでいたサザは、その発情抑制薬を常日頃から携帯していたのである。
薬は即効性だ。数呼吸も経たないうちに、熱は引いてきた。
横になったまま目を丸くしているマハナを見下ろして、サザはやっと彼女らしい、輝くような笑みを見せた。
その笑顔に、マハナは幾度か瞬きをして、嬉しそうに顔をほころばせる。
あどけないその笑みに何度目かの苦笑を零しつつ、サザは礼を口にしようとして――
全身の力が抜けた。
視界が揺れる。
マハナの上に倒れそうになったところを、サザは彼女の頭の横に手を突いて耐えた。
「さ、さーちゃん……?」
恥ずかしそうなマハナの声は、サザには聞こえていなかった。
熱い。体が熱い。世界が生ぬるく澱んでいく。白磁の肌からじわりと滲んだ汗の雫が、マハナの顔の横に落ちた。
「はぁ――……はぁ――……」
サザは、荒くなる息が抑えられなかった。顔は赤く火照り、瞳は潤んでいる。全身は汗ばんでいた。
発情期、だった。
「……なんで……薬……のんだのに……っ」
「さーちゃん……?」
サザはあずかり知らぬことだが、発情期はマナを起爆剤にして起こされる。抑制薬によって発情を促していた一部のマナは鎮火されたが、サザの有り余ったマナの中から新しい火付け役が出てきてしまったのである。
このように非常に強いマナを持つ者には抑制薬の効き目が薄く、より強力な薬が必要となるのだが、需要の少なさ故にいまだ開発されていなかった。これほど高い域にまで達する者は片手で数えるほどしか存在しないのだ。
つまり要するに、獣人は保有マナが多い者ほど性に貪婪となるのだった。
「くぁ……なに、これ……」
今、サザがマハナを押し倒したような姿勢になっている。
サザの赤い瞳には、マハナの愛らしい顔が映っている。おっとりした垂れ目、柔らかく広がる髪。血色の良い唇。薄く色づいた頬。ウサ耳。ウサ耳。そしてウサ耳。
その光景は、異様なまでに魅惑的だった。目が離せない。
己の心臓の音を聞きながら、サザの頭の中は欲望に支配されていく。赤い瞳はどんよりと澱んで渦巻いていく。
柔らかい。
だきしめたい。
いい匂い。
キスしたい。
可愛くてたまらない。
そして、そして。
溶岩のように煮え滾った熱が獣のかたちをとって、目の前の獲物を喰らわんとサザの内側から咆哮した。サザは血潮の弾けるままに、衝動に身をまかせ――
「……さーちゃんになら、いいよ?」
顔中真っ赤に染まったマハナは胸元で両手を重ねて、穏やかな微笑と潤んだ瞳でサザを見上げた。
――ダ、
心臓に氷を打ち込まれた気がした。
メだ!
サザは固く目をつむり、体を起こした。
眼下の娘は。サザのために、己を捧げようとしていた。
ああ、マハナ。
奥歯を噛み締めて、決死の想いで自制しながら、サザは胸を衝かれるような思いだった。
なんと……なんといじらしい献身なのだろう。
性欲にまかせて暴走しようとする相手を笑顔で受け入れようとする。親しい友人が相手とはいえ、普通の人間には到底できることではない。
サザは、泥のように濁った頭で考えた。
(そんな、こんなにも健気なマハナを、この手で……傷つける……?)
そんなことは許されない。
サザは全身の気力を振り絞り、寝台から立ち上がった。手が震える。滝のような汗が服を濡らす。足も頼りない。泥沼の上に立っているかのよう。それがどうした。サザの脳が火花を散らせる。
ここで、ここで立ち上がらねば――ウサ耳が、廃る。
「くぅぅぅぅぅうううう…………!」
一歩。
また一歩。
千鳥足で、サザはマハナから遠ざかっていく。
寝台から離れ、マハナの部屋から出ていく。
それは途轍もない精神力であった。既にサザの体は全力の臨戦態勢。もう後戻りができないところにまでいっている。しかし、サザは抗いがたい衝動に真っ向から歯向かっていた。
それは獣人たちの理想とする、本能の手綱を理性で手操らんという勇姿だった。
第二波が到来する。
サザの強大なマナが総動員され、主人の意思に逆らう。起爆剤が一斉に爆発を起こした。
頭がぐらりと揺れる。発火したように体が熱い。
頭の中が一色に染まりあがる。
それを根性で塗り潰す。
白兎族に麒麟児ありと称されたマナの強さは、もはや完全にサザへと牙を剥いていた。
獣としての本能と、人としての理性が、サザの中でせめぎ合う。
足に鞭打ち、歩く。
「はぁ――……はぁ――……」
そうして、一歩一歩踏みしめるように、サザはマハナの家から去っていった。
「さ、さーちゃん………。
………あれ?」
#
赤ん坊は柔らかい。
胸に抱いたそれは、目を離してしまえば、それだけで壊れてしまいそうな弱々しさに満ちている。
あまりにも儚いその熱を感じながら、これで私も親になったのか、と彼女は思った。
@
荒い吐息が、人気のない路地にこだました。
マハナの家から出たサザは、あれから、当て所なく白兎の町を彷徨っていた。炎天下を全力疾走したかのように大量の汗に濡れた衣服が、皺を作りつつ肌に張り付いている。布地が薄い箇所などは、素肌が透けてしまっていた。
相変わらず、頭が朦朧とし体は風邪をひいたように熱い。しかし、サザは歩き続けていた。
とにかく歩かなくてはならない。理由を失ったその思いが、彼女を支えていた。
震える体を叱咤しながら、歩く。歩く。とにかく歩く。
ぽたりと、顎から汗が落ちた。それを拭う余裕すらなく、サザは足を動かし続ける。
――低い、男の声が響いた。
「流石の笑顔も、発情期には消えるか……」
耳に心地よい声音が路地に響き終わってから一瞬遅れて、サザの肩が跳ねる。
「まさかさっきの今でとは、俺も思わなかったよ」
サザが汗を滴らせながら遅々とした所作で振り返ると、そこにはクアンケがいた。斜め後方には従者のハユハが控えている。
黒兎の青年は、爽やかな笑顔に困ったような色を一滴混じらせて、サザを見つめていた。
「はぁ、はぁ……んくっ」
サザは唾を飲み込む。
「ち、近づくな……」
真っ赤に紅潮した怒ったような必死の形相が、クアンケに向けられる。
クアンケは機嫌の良さそうな顔で、サザのもとに歩いてきた。
「よ、寄るな――ひゃっ!?」
突き出した手をあっさりと避けられて、サザはクアンケの胸の中に抱き上げられた。
「く……ぅ……!?」
瞬間、クアンケの匂いがサザの鼻腔に広がった。一段と体が熱を帯び、呼吸が荒くなる。
全身が火照る。下腹部が疼いてしょうがない。サザはクアンケの胸の中で、丸く縮こまった。
(危、険……)
理性が全力で警鐘を鳴らしていた。
断崖絶壁の瀬戸際で、サザは爪先だけで辛うじて踏みとどまっていた。
眼下には、煮え立つような欲望の海が渦巻いている。
サザの視界が上下に震えた。
クアンケが歩き出していた。
「はな、せ……!」
黙々とクアンケは足を進める。クアンケが歩くたびに体のあちこちに予想外の圧がかかって、サザは高い嬌声を小さく漏らした。
(駄目だ。これ以上くっついていたら……!)
気がつけば、室内だった。
清潔で豪奢な広い部屋。大きな寝台に、サザは優しく寝かされた。
己の上に覆いかぶさってくるクアンケを、サザは熱に浮かされた瞳で睨んだ。赤い目は愛らしく潤んでいて、呼気は湿り気を帯びている。
「こうなることはわかっていたよ」
「な、にが……?」
サザは掠れた声で訊いた。
「抑制薬が効かない発情期が来るってこと」
「は……?」
サザは目の色を変え、唖然と吐息を漏らした。
「正確には、群を抜いて強大なマナを持つ獣人には発情抑制薬は効かないっていう情報を君に伝えないようにしたっていうのかな」
「…………!?」
にこりと、クアンケは好青年めいた笑顔を浮かべた。しかし、その赤い瞳は妖しく光っている。
「白兎族の占いは、なんだったか……そう、俺と君が二つの兎の架け橋になるって文言だったね。確か」
「それが……?」
どうした、とサザは呻いた。頭が働かなかった。
クアンケはサザの服を器用に片手で開きながら、流暢に喋る。あまりに滑らかな手先の動きは、サザから抵抗する暇を奪った。青年の指先が汗に濡れた白い肌を滑ると、鼻にかかった声が空気を振るわせた。
「黒兎族に降りた宣託は違ったんだよ。うちの占い師は白兎のところのよりも遥かに優秀でね……そこのハユハなんだけど」
顎で指した先には、ハユハが楚々と佇んでいた。黒い服。黒い髪。魚の棲めない湖のように澄み過ぎた眼で、彼女は事態を傍観している。
縋るようなサザの視線に、ハユハは「私の目的は私の占いの顛末を見届けることですので」と温度を感じさせない声音で口にした。
服の前面が開かれて、紅潮した肌が露になる。クアンケは舐めるように見下ろしながら、みぞおちから滑らせるように指を撫で下ろし、白い下着に指先をかけた。
「占いはこうだ。『統一者である、サザルリナとクアンケの子が大陸を救うだろう』……」
クアンケは囁くように言った。
「俺と君が架け橋になる……間違ってはいないけど、占いが言っているのは俺たちの子のことなんだよね。俺たちの子が将来一体何をする。そういう予言。つまりその子が生まれることは確定事項」
仰向けにサザの頭の隣に、クアンケのもう片方の腕が置かれる。その指が、ウサ耳をくすぐる。
「ぁっ……」
「わかる? 俺と君が子作りすることはもう決まってるんだ」
布をひっかけた指先が、太腿を滑っていく。
「……! ……っ!?」
「抵抗は無意味だ。兎の占いは外れない……知っているだろう? ここで拒絶しても、俺たちは後々絶対に交わることになる。堕胎もそうだし、もし君が嫌なら、なおさら一回の妊娠で済むように膨れた胎を守らなくちゃならない。俺の子を産むまでね」
サザは総力を振り絞り、真っ赤な顔でクアンケの胸を押す。
その抵抗を、痛痒を感じるどころか心地よくさえあるような様子で、男は微笑みのままに受け入れた。
「ちょっと強引な手段だったけど……君はこういうのが苦手そうだったから」
サザは肺腑の底から声を絞り出した。
「やめろ……!」
「いやだ」
にっこりと笑ってクアンケは言った。
「ともかく――」
すっと赤い瞳が細められる。クアンケはサザの耳元に唇を寄せた。
命令の声音。
「孕め」
低く艶やかな声が、サザの鼓膜を震わせた。
そして、サザの体から、力が抜けた。