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あさがお



 白い紙。

 白い紙。

 白い紙。

 白い紙。

 白い紙。

 目の前に広げられた一枚の紙を、じっと見つめる。白

紙である。ここに何を描こうか。何かを描かねばならぬ。

 私は漫画家なので、この紙に何かを描かなくてはなら

ない。でも、描くべきアイデアが浮かばない。私は腕を

組んで、頭をひねる。

「それじゃ先生、恋愛漫画でも描いてくださいよ」

 私の思考を中断させるように背後から、面倒くさそう

な声がかかる。木田君である。私の担当編集者。もう、

何年も担当してくれているが、プライベートな付き合い

はまったくくない。もっとも、漫画家なんて職業は、常

に仕事に追われているので、人付き合いなどできないの

だ。木田君も当然そのことは分かっているので、我々は

仕事以外の付き合いはない。一緒にお酒を飲んだことも

ないし、年賀状もやり取りしていない。家族構成も知ら

ないし。よく考えたら、木田君は既婚なのか、独身なの

かも知らない。どうでもいいけど。

 木田君が横の方に回り込んできて、私の横顔を覗き込

む。

「編集部の中ではね、やっぱり恋愛物は強いって、みん

な言ってるんですよ。時代が変わっても、恋愛物は不動

の一位だって。どうですか先生。恋愛物は」

「あんまりいい恋愛をしてこなかったからなあ」

 私の返答に、木田君は落胆した表情になった。

「ですよね~」

 何気に失礼な男である。私の恋愛がろくな物でないこ

とは、よく分かると言わんばかりの納得の口ぶりである。

 木田君はその後しばらく中空を見つめていたが、やが

て気を取り直した。

「先生、でもね。そこは先生の偉大なる想像力でやって

みるというのはどうでしょう」

 別な方向の物を言うと思ったのに、まだ、恋愛に執着

しているようだ。私が黙っていると、最近の若者の恋愛

を見たことがあるかとか、昔と違うと思うかとか聞いて

くる。他人の恋愛に興味なんかないと、ぶっきらぼうに

言うと、そうですかとようやく静まった。

 二人のいる二階建てアパートの二階の一室には、もう

何度目かの静寂が訪れた。

「少し一人で考えてみるから、木田君もう帰ったらどう?」

 私は疲れた顔に、むりやり微笑みを浮かべた。

 木田君は締切が延ばせないことを言い残し、痩せた体

を重たそうに引きずるようにして部屋を出ていった。


 傘を持って公園を歩いていた。駅前の牛丼屋で夕食を

食べてきた帰りだった。日はとっぷり暮れて、雲に覆わ

れた空には星も月もなかった。

 私は足音を抑えながら、注意深く公園の中の道を行く。

砂利を敷いてある道はスニーカーで静かに歩いても、微

かな足音を隠しきれない。

 前方に目を凝らす。広場を囲むような形でベンチが配

置されている。ベンチの人影を探す。

 いた。

 街灯の下のベンチに若い女が座っていた。私は立木の

陰に身を隠した。女は下を向いていた。

 彼女は私の部屋の下に住む住人である。彼女はこの春

アパートに引っ越してきた大学生である。引越しの挨拶

は母親と一緒に来た。

「どうぞよろしくお願いします」

 元気よく笑顔でお辞儀をする母親に合わせて、こちら

こそと頭を下げる。そっと娘に目をやると母親のうしろ

で、彼女も頭をぺこりと下げていた。

 色白で首の細い少女だった。今どきには珍しい素朴な

少女だった。田舎から出てきたと母親が言っていたが、

いかにもそんな感じを醸し出していた。

 こんなあどけない少女が、東京という街に来ると、あ

っという間に垢抜けてしまうから驚く。きっと、次にこ

の少女を見るときには別人のようになってしまっている

だろうと思った。

 ところが、少女はいつまでも垢抜けなかった。信じら

れないことに、無口なまま、人の流れに巻き込まれない

ままだった。

 半年後、季節は秋になって、少女をたまたま駅の改札

で見かけた。少女は自動改札の扉に閉じ込められてしま

って、オロオロしていた。駅員が慌てて駆けつけると、

顔を真っ赤にして首と手を激しく振った。少女のセータ

ーは、初めて引っ越してきた日に着ていたものだった。

 毎日学校に通うようになってしばらくすると、少女に

は恋人ができた。少女の弟と言っても信じられるくらい

の少年だった。同級生なのかもしれない。

 二人は手をつなぎ夕方のアパートへ歩いてきた。彼は

アパートの中に入ることは一度もなかった。必ず扉の前

までくると、一人で引き返すのだ。彼は一度だけ振り向

いて、手を振る。彼女は彼の姿が見えなくなるまで見送

ってから、そっと玄関の扉を開ける。こんなカップルが

いるなんて、大昔の恋人たちのようだ。

 ひと昔前にろくでもない恋愛をしていた私の時代でさ

え、こんなカップルはいなかった。

 二人はおそろいのキーホルダーを付けていた。それぞ

れの鞄のチャックに緑色のコロコロとしたキーホルダー

を付けていた。

 二人はほとんど毎日この公園のベンチで座っていた。

駅前には喫茶店もあるし、カラオケ店もあるし、居酒屋

だってあるのに。私は夕食の帰り、二人の姿を横目に見

ながらアパートへ帰っていたのだ。

 ところが、二週間くらい前から、男の子がいなくなっ

た。公園で少女だけが座っているのだ。どうしたのか。

少女はうつむいていたが、ときどき顔を上げると公園の

中に目をやって彼を探しているようだった。

 少女は手に一枚の写真を持っていた。少女は公園の薄

暗い街灯の下でその写真を見つめ続けていた。そうやっ

て二週間を過ごしてきた。

 家族と別れ田舎から出てきた少女が、友達も少なくま

だ不慣れな東京で、失恋をする。そんなことはよくある

ことなのだろうが、私の身近で起こるとはなんか意外な

気がした。そして、どうしてなのか少女が心配でならな

かった。

 春先に引越しの挨拶で言葉を交わして以来、半年近く、

一度も話もしていないのにどうしてこんなに心配なのか

分からなかった。少女の恋がうまくいって欲しかった。

お似合いの恋人と思われた彼に現れて欲しかった。

 少女は祈るように手元を見ている。それは今夜は写真

ではなく、何か白い紙だった。便箋なのかもしれない。

誰からきた、どんな内容なのか。私は想像そして、胸が

締めつけられた。

 ぽつり、私の耳に一滴落ちてきた。雨が降り始めたの

だ。少女は帰るだろうか。私は心配事が増えて、いよい

よそこから動けなくなった。

 あの彼がこんなに少女を苦しめるなんて信じられない

気がしたが、恋愛はときに残酷な局面を持っている。恋

愛は失恋とぴったり重なっている。そのあたりまえのこ

とに、人はいつ気がつくのか。

 雨が本降りになってきた。少女は濡れた便箋を手のひ

らで拭いて鞄にしまった。そして、小さな赤い傘を広げ

た。

 私も木立の影で傘を広げた。雨が傘を打つ音がいそが

しかった。

 それから三十分、少女は泣いた。赤い傘で顔を隠し、

肩をふるわせて泣いた。雨音に泣き声を隠して泣いた。

そして、少女は鞄のキーホルダーを外して、ベンチに残

し、公園を後にした。

 雨の公園には人ひとりいなくなった。ただ、無人のベ

ンチで、キーホルダーが雨に打たれていた。

 私は、木立から抜けてキーホルダーに向かった。する

とベンチの奥の林の中から人影が現れ、キーホルダーの

ベンチに向かった。私は慌てて足を止めた。

 彼だった。傘を持たず、ずぶ濡れである。

 彼は私に気がつくこともなく、キーホルダーの前に立

った。そして、自分の鞄のキーホルダーを外して、ベン

チに並べた。しばらく、うつむくように、キーホルダー

を見つめるように立っていたが、やがでこちらの方に歩

いてきた。私は偶然歩いてきたことを装った。すれ違う

ために道の端に寄り、傘を高く上げる。

 彼は風のように私の横をすぎて駅の方へと消えて行っ

た。

 私は重たい気分でベンチのキーホルダーに近づいた。

何の変哲もないカエルのキーホルダーだ。幼稚園児が持

っていても不思議のないくらい、退屈なデザインだ。

 その二匹のカエルが雨に打たれていた。カエルは大き

な口を開けて笑っていた。私はそのままにしておくこと

ができなくて、二匹のカエルを拾い上げた。濡れたカエ

ルをやさしくハンカチで包んだ。


 私ほど布団を干す住人はいない。

 このアパートには独り暮らしをする住人が八人住んで

いるが、その中で、一番布団を干すのは私である。間違

いない。

 昼間太陽が出ていたら必ず布団を干す習慣になってい

る。私は職業柄、一日中家にいるので、そういうことが

できるのだ。簡単な習慣だ。朝起きたら押入に布団をし

まうのではなく、ベランダの手摺りに掛けるだけのこと

だ。もしも途中で雨が降ってきたら、すぐに布団を入れ

る。

 漫画家なんて輩は、汚い万年布団で生活していると思

われがちだが、とんでもない。会社勤めの人よりも、暖

かく乾いた気持ちのよい布団で、眠っているのだ。

 もちろん漫画家の中には、万年布団の人もいるだろう

し、夜型の生活を好むため布団を干せない人もいるだろ

う。でも、私は、昼間仕事をして、夜寝ることにしてい

るのだ。

 洗濯物は小物干しに吊したまま、取り込むことがない。

靴下をはくときも、パンツをはくときも小物干しの洗濯

ばさみを外して身につける。

 まあ、言ってみれば押入とタンスの変わりをベランダ

がしている、わけである。


 夏も間近のある朝のことである。私はいつものように

布団を干そうと、ベランダのドアを開けた。すると、ベ

ランダの柵の下の方に黒っぽい何かがついていた。

 なんだろう。

 私は掛け布団を腕に抱きかかえたまま、寝ぼけた視線

で覗き込んだ。強い朝陽に目が慣れてくるとだんだんそ

れの正体が見えてきた。黒っぽく見えた物はよく見ると

緑色で、何かひらひらとしたものである。風を受けて微

かに揺れている。

 分かった。葉っぱである。

 私は布団を部屋の床に戻すと、サンダルをつっかけて

のっそりとベランダに歩き出た。

 しゃがみ込み葉っぱを至近距離で眺め、それから柵の

上から下を覗き込んだ。葉っぱは一階のベランダから伸

びてきていた。蔦のように壁を這い上がるタイプの草の

ようで、一階の柵に取り付いて、更に上へ上へと伸び続

け、ついには私のところまでたどり着いたということら

しい。

 しかし、なぜ一階の人はこんな草をほったらかしにし

ておくのだろう。私は首を傾げた。

 私は柵から手を下に伸ばし草をちぎって、布団を掛け

た。柵から顔を出し下を見ると、草は固定していた先端

を失い、ゆらゆらと揺れていた。


 夕方になって日が傾いてきたので、私は布団を取り込

んだ。今日は一日中、日がかげることがなく布団はよく

乾いていた。膨らんで暖かくなった布団を部屋の隅にた

たんでおく。

 ふと、ベランダの柵に目をやると今朝のことを思い出

した。あの草どうなっただろう。あんまり伸びてくるよ

うだったら大家さんに言わないとならないな。私は柵か

ら下を覗いた。朝と同じように、草はゆらゆらと中を漂

っていた。私は身を乗り出して下の方をよく見ると、そ

の根元は一階のベランダの内側にあるようにも見える。

だとすると、あの草は、雑草ではなく、一階のあの女子

大生の栽培する物なのか。

 私は、何となく嫌な予感に包まれながら、玄関から外

へ出た。階段を降りて、生け垣の狭い隙間を通る。アパ

ートの脇へ回りこんだ。

 ここは、普段人の立ち入らないスペースなので、ウロ

ウロしていると不審者と間違えられかねない。つまり、

ベランダから不法侵入しようとしている泥棒のように見

えるのだ。私は住人たちに見咎められないように、建物

の正面に入って行くことはせず、脇から身を乗り出すよ

うにした。

 女子大生の部屋のベランダに目をやる。やっぱりだ。

あの草はベランダの中から生えているのだ。一階の柵に

ぐるぐると巻きついている。そして、柵には何か細い釣

り竿のようなものが立てかけられているようで、その細

い棒にも草は巻きついていた。そしてその棒の最上部ま

で伸びて行き場を失った草は、更に空中に伸び続けてい

る。そして、今朝の段階で二階のわが家まで到達した…

…。

 一階のベランダに洗濯物が干してあるのが目に入り、

私は慌てて引き返した。

 部屋に戻ってきた私は、先程の嫌な予感が当たってし

まったことを理解した。つまり、私は一階の人の栽培す

る植物を、一言の断りもなく、言語道断とばかりに、切

断してしまったのだ。

 やってしまった……。

 もしかして、切断したことに気づいた、女子大生が怒

鳴り込んでくるかも……。それならまだいい……。あの

田舎者の内気な少女のこと、自分の愛する植物が傷つけ

られて、しくしくと泣いてしまったらどうしよう。

 私の脳裏には、一年前の公園で泣いていた少女の姿が

蘇った。

 切断する前によく見ればよかった。どこから生えてい

るのか。そして、一階から生えていることに気づきさえ

すれば良かったのだ。そうすれば、切ったりしなかった

のだ。夕方少女の家に行って、植物が伸びていることを

伝えれば良かったのだ。そうすれば、少女は伸びた部分

を自分のベランダの内側へ引きこむだろうから。紐のよ

うに細い植物なのだから、簡単なことだったはずだ。

 今朝は手でちぎってしまったから、切り口は荒々しく

ダメージは大きいはずで、そこから枯れこんだりしたら、

どうしよう。

 私はもう一度、ベランダから下を見た。今日は風が強

いらしく、植物はゆらゆらと大きく揺れていた。一階の

少女はまだ気づいていないのだろうか。


 それから三日間、私は布団を干さなかった。そして、

時々ベランダからあの植物を覗き込んでいた。枯れこん

ではいないようだった。

 そして、四日目の朝、私はガッツポーズを決めた。ベ

ランダの柵の下にあの草がたどりついていた。成長した

のだ。私はほっとして、その植物の前にしゃがみ込んだ。

切り口は完全にふさがっていて、はじめから傷などなか

ったかのようだった。

「もう、ちぎったりしないからな」

 私はそう囁きかけた。


 それから毎日、私は植物を眺めた。仕事の合間、合間

に植物の葉っぱを眺めた。毎日少しずつ成長するのを見

るのは楽しかった。

 この植物がくる前は、私は仕事の合間にどこを見てた

のか、ちょっと思い出してみた。そう、ベランダだ。ベ

ランダで揺れる洗濯物に何となく目をやっていたのだ。

自分のパンツや靴下が風に揺らぐのをなんとなく見てい

たのだった。随分とつまらないものを。


 植物が成長して柵の中ほどまで伸びたとき、思いもよ

らぬ事件が起こった。

 その夜、机に向かって仕事をしていたとき、玄関の呼

び鈴が鳴った。集金か勧誘か。机に座ったまま首を横に

向けた。玄関の向こうに立つのは誰だろう。居留守をつ

かいたい気分で息を殺す。

「すいません。一階の沢村ですが」

 若い女の声を聞くのは久しぶりだった。

「はーい」

 私は返事をして、玄関に急いだ。

 玄関を開けると、少女は、どうもすみませんでした、

と勢いよく体を前に倒した。

「ええ? なんのこと……」

 私は、戸惑いながら尋ねた。すると少女は口をぱくぱ

くとさせてから、説明した。

「私がベランダで育てている、植木がお宅様へご迷惑を

掛けてしまって。春頃植えた、アサガオなんですが、最

初の頃はなかなか伸びなかったんですけど……、どうい

うわけかこの頃急に成長がよくなりまして、今学校から

戻ってみましたら、いつの間にかお宅様のベランダの柵

にまで巻きついてしまっていまして……もう、ほんとう

にすみませんでした」

 私はほっとした。一時は植物を自分がちぎったことで

彼女を傷つけてしまったのではないかと不安になってい

たのに、今の話を聞けばそのことにはまったく気づいて

いないらしいからだ。それに、あの植物がアサガオだと

知って気分が良くなった。もう後何日かしたら、さわや

かな花が楽しめるではないか。この殺風景なベランダに

アサガオか咲くなんてすばらしい。それで、とても安心

してすらすらと言葉が滑らかに出てきた。

「いえいえ、いいんですよ。私も葉っぱを見て楽しませ

てもらってますから」

「いえ、とんでもございません。とにかく、一刻も早く

何とかしようと今、下から引っ張りましたので」

「え?」

「その、ご迷惑でしょうから、アサガオを片付けさせて

もらいましたので」

 私は驚いてベランダを振り返った。ちょっと待ってて

くださいと言い残して……。

 ベランダにはもう、草はなく、ペンキの所々はげた柵

がむき出しになっているばかりだった。ベランダの床に

葉っぱが一枚落ちていた。

 私は手のひらに葉っぱを載せて玄関に戻った。

「あの、もしご迷惑でなければ、アサガオ私のベランダ

まで伸ばしてもらえませんか。なんか、毎日アサガオの

葉っぱを眺めていたら、愛着がわいてしまいまして」

 彼女は私の意外な申し入れに一瞬戸惑ったが、すぐに

目元に笑みがさした。

「ええ? いいんですか。気を使ってくださってるんじ

ゃないんですか?」

「いえいえ。本当に。私も昔からアサガオ好きなんです

よ」


 そうして、その夏は、私の家のベランダに一階の人の

アサガオが咲いた。青い花だった。アサガオはほとんど

毎日のように花を咲かせた。二つも三つも花をつけた日

もあった。

 それにしても、アサガオの成長力には感心する。一度

ならず二度までも引きちぎられたのに三度も我がベラン

ダにたどり着いたのだから。


 夢を抱いて出てきた東京で、一日も経たないうちに夢

が消えてしまうなんてことが、あるのだろうか。高いビ

ルの隙間から差し込む夕日は、心の中の希望の残骸を虚

しく映し出していた。

 狭い歩道のわりに人通りは多かった。私は不動産屋の

扉を開けた。

「すみません。この辺りで物件を探してるんですが」

「いらっしゃい。お一人暮らしになりますか?」

 ちゃんとした背広を着た年配の男は私に椅子を勧めた。

 今日の昼頃に東京に着いた私は、住むところと、アル

バイトを探し、動き回っていた。

 私は漫画家の卵だったが、まだまだ漫画では収入が無

く、アルバイトをしながら漫画を描いていく生活をして

いくつもりだったのだ。ところが、アルバイトはなかな

か決まらなかった。定食屋などでアルバイトを申し込む

と、住所が決まってないと雇えないと言われた。

 そこで、私は先に住むべきところを決めることにして、

不動産屋を訪ねた。しかし、ことは簡単にはいかなかっ

た。不動産屋は、収入のない人は駄目なんですよ、と首

を振った。

「アパートが決まったら、すぐにアルバイトを決めます

から」

 私が、そうねばっても、保証人の人もいないんですよ

ねえ、と取り合ってはくれなかった。

 東京は冷たい街だとか、情の薄い人たちばかりだとか

いうけれど、私は東京初日にしてそれを痛感して、そし

て、もう東京を諦めかけていた。夕方、何時の新幹線に

乗れば、田舎に戻ることができるのか。私は見たことも

ないような巨大な本屋に入って時刻表をめくった。

 もう、ほとんど時間がなかった。よし、最後の一軒だ。

そういう気持ちで夕方の不動産屋に臨んだのだ。

 私は勧められた椅子には座らずに、腰を九十度に曲げ

た。

「どこのアルバイトに面接に言っても、住所がないと雇

って貰えません。お願いします。住所だけでいいから何

とかお願いします」

 年配の男は白っぽくなった眼鏡のレンズの奥で目を大

きく見ひらいていた。そして、どもりながら答えてくれ

た。

「……そ、そうなのか。それは、た……大変だ……」

 そして、私の目を見た。眼科医が目を調べるように、

何かが私の目に描いてあるかのように見つめた。

「駄目かもしれないが……。大家さんに相談してみるか

……」

 大家さんは私を無理矢理椅子に座らせてから、諭すよ

うに説明した。

「どこの大家さんも収入のない人は受け入れないことに

なっているんだ。でもね、一人だけ、変わった大家さん

がいてね、もしかしたら、話ぐらい聞いてくれるかもし

れない。もちろん断られることも覚悟して行かなきゃな

らないけど……。どうだい、行ってみるかね」

「お願いします」

 私は即答した。諦めかけた東京で見つけた、最初の手

がかりだった。

 大家さんの家に向かう道すがら、不動産屋さんが私の

身の上を尋ねてきた。

 高校三年の夏、漫画の新人賞で佳作に選ばれたことが

きっかけで漫画家を目指した。親にも先生にも反対され

たが、自分の人生だからと押し切るように東京に出てき

た。高校のときにアルバイトで貯めたお金があるから、

敷金、礼金の類は支払える思う。

 不動産屋は親や先生と同じ疑問を口にした。東京でな

くても漫画家になれるんじゃないか。やっぱ東京でなく

ては駄目なんですよと私は答えた。親とも先生ともいく

ども話し合った。もうその件で話し合うことが嫌になっ

ていた。

「ふうん」

 不動産屋はなんとなく納得したようだった。もう目の

前に大家さんの家があった。農家の家のように大きかっ

た。

 門の扉を開け、飛び石を歩いてゆく不動産屋の後に続

く。途中で不動産屋が足を止め、右手のほうを指差す。

「あの二階建てのアパートが物件なんだけどね」

 大家さんちの大きな松の木の陰に古いアパートが建っ

ていた。

「まあ、あそこに住めることになればいいんだけどね…

…」

 不動産屋はそう呟くと、さっさと歩き出した。

 

 大家さんの家の応接間で四人は向かい合った。大家さ

ん夫婦は不動産屋と同年代と思われる年配者だった。奥

さんは恰幅がよく健康的な顔色をしていたが、ご主人は

何故か肩まである金髪でおまけに黄色い縁の眼鏡を掛け

ていた。音楽関係者なのかも知れないと私は思った。

「実はこちらさんは、求職中でして……」

 不動産屋がそう切り出すと、奥さんの顔色が変わった。

「ちょ……、どういう事ですの。規定外じゃないの」

「ですがですね、この青年は務め始めるためには住所を

必要とする訳でして……」

「そんなこと言われても、私たちだって、人助けのため

に大家をやっている訳ではありませんので」

 奥さんは断固とした口調だった。

 不動産屋は、困った顔をして一口お茶をすすった。

「身元はしっかりしていますし、敷金礼金についてもち

ゃんと持ってきているんですよ。この若さですし、明日

にはきっと働き口も見つけられます。どうにかなりませ

んか」

「そんなことおっしゃるなら、あなたがご自分の家に住

まわせてさしあげたらよろしいんじゃないですか」

 奥さんは一瞬私のほうを見たが、私と目が合いそうに

なるとさっと目を逸らした。やはり、厳しくいうことに

後ろめたさがあるのかもしれない。この人を恨んではい

けないな、私は下を向いてそんなことを思っていた。

 不動産屋は私が漫画家を目指していることを口にした。

奥さんは例外なく、東京であることの必要性を尋ねてき

た。すると、

「夢を追いかけるなら東京に出てくるのは当たり前だよ」

 いままで、黙っていた、ご主人が唐突に口を開いた。

「あなたは黙っててくださいよ!」

 凄い勢いで奥さんが規制した。

 ご主人は小さく肩をすくめると、そのまま何も言わな

かった。応接間に絶望の沈黙が訪れた。

 奥さんを説得することのできる者は誰一人いなかった。


 とっぷりと日の落ちた夜の公園のベンチに私は座って

いた。アルバイトも、アパートも決まらなかった。知り

合いもいない。やはり、高校を出たばかりの自分には東

京での暮らしは無理だったのかもしれない。木々に囲ま

れた公園は薄暗かった。その木の隙間から遠く街の灯り

が輝いていた。

 夕飯も食べていなかった。ホテルへ行くお金もあった

けれど、もうここから動けそうもなかった。東京の人が

少し恐く感じて、自分がちっぽけに感じていた。このま

ま、このベンチで寝よう。そして、明日の朝になったら

新幹線で田舎に帰ろう。一日で田舎に戻ったらかっこ悪

いけれど、まあいいや。今までだってかっこ悪いことは

嫌ってほどやって来たのだ。駄目な奴と思われることに

は慣れていた。

「やあ」

 いつの間にかベンチのすぐ横に男が立っていて、声を

掛けてきた。

「あれ?」

 見覚えがある。金髪、黄色い眼鏡。大家さんのご主人

だ。ご主人の口元がにたりとして黄色い歯が見えた。

「さっきは悪かったね。夕飯まだだろ、ごちそうするよ」

 そういうと、私の大きなボストンバッグを、手に取っ

た。

 私は促されるままご主人の後についていった。路地裏

の小さな居酒屋に入った。

 ご主人は瓶ビールを注文して私のコップについだ。私

は先週まで高校生だったけれどビールは嫌いじゃなかっ

た。父親に付き合って時々飲んでいたのだ。

 ご主人は次々と食べ物を注文して、やってきた皿を私

のほうへと押した。自分ではあまり食べないようだった。

私の父親もあまり食べずに飲む方だったので似ているな

あと思った。

 ご主人はあまり食べない代わりに、よく飲んでよく喋

った。昼間のことには触れなかったし、私のことを何も

聞いてこなかった。ただ、お皿に載ったつまみのことを

詳しく説明したり、最近テレビによく映るお笑いタレン

トのことについて感想を述べたり、店にかかっている演

歌に合わせて小さく口ずさんでいた。

「たった今聞きたい音楽は何だ」

 それが、初めての質問だった。私は音楽はあまり聴か

ないのでそういう質問は苦手だった。私は返答に困った。

「さあ、もっと食べなよ」

 私の返答を待たずにご主人は話題を変えた。

 店を出るともう人通りは少なかった。ご主人は私の目

の前に何かをかざした。鍵のようだった。

「アパートに案内する」

 事情がよく分からなかった。どこのアパートへ案内す

るのか。その理由は何なのか。私は尋ねたけれど、ご主

人は答えなかった。先程の店で掛かっていた演歌を口ず

さんでいるばかりだった。

 連れて行かれたのは、昼間見た、ご主人が大家をやっ

ているあのアパートだった。二階の一部屋の扉を開ける

と、私を導いた。扉を閉めて中へ入るように言われた。

「ここに住んでいいよ。押入に布団は行ってるから、自

分で出して敷くんだよ」

「え? いいんですか?」

 ご主人は、契約書を畳に広げ、サインするように行っ

た。私は狐につままれたような気持ちでサインした。

「いい漫画描けよ。夢を追えよ」

 大家さんは、そう言って右手を軽く上げると、私を残

して出ていった。

 その夜から、私はこのアパートの住人になった。かび

臭い布団の中で目を閉じると、なぜか少し涙が溢れてき

た。ご主人が言った、夢を追えよという言葉が頭の中で

何度も繰り返していた。




 白い紙に立ち向かっているうちに、何十年もたってし

まった。指は節くれて、鏡の中の自分の顔は皺だらけで、

髪は真っ白だ。

 白い紙を前にすると、ときどき頭の中に流れてくるメ

ロディがある。あの不動産屋が口ずさんでいた演歌だ。

そして、その曲が始まると私は白い紙の上に、二つのカ

エルのキーホルダーを置いてみるのだ。

 私はそうして、東京の優しさと悲しさを、漫画に描き

続けてきた。

 白い紙に。


                 (お わ り)

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