愛人を認めてほしい? 構いませんわ――ただし契約は双方に適用されます
「僕には、愛する女性がいる」
婚礼を3か月後に控えたある日。
オルディス王子は、婚約者であるエルミーネ・ヴァルケン公爵令嬢に、ずいぶんと思い切ったことを告げた。
向かい合う応接卓には、まだ口をつけていない紅茶が2つある。
「それで?」
「……驚かないのか?」
「驚いておりますわ」
少なくとも、婚礼衣装の最終確認より先に聞く話ではない。
だが、驚くことと取り乱すことは別だった。
オルディスは少し安堵したように息を吐く。
「彼女とは学院にいた頃からの付き合いなんだ。君との婚姻が王家と公爵家のために必要なことは分かっている。だから結婚そのものを拒むつもりはない。ただ、結婚後も彼女との関係は続けたい」
「つまり、愛人を認めてほしい、と?」
「……そういうことになる」
オルディスは身を乗り出した。
「もちろん、王子妃としての君の立場は守る。子が必要なら、その責務も果たす。彼女を君より上に置くつもりもない。ただ、愛している女性を捨てることだけはできないんだ」
「そうですの」
エルミーネは紅茶を一口飲み、あっさりと言った。
「構いませんわ」
「……本当か?」
「ええ」
「ありがとう、エルミーネ!」
「ただし、契約書にいたしましょう」
オルディスの笑顔が止まった。
「契約書?」
「ええ。婚姻後の生活に関する取り決めですもの。口約束では、後々認識の食い違いが生じますわ」
「分かった。そうしよう」
「では、公爵家の契約官に草案を作らせます」
「君が彼女との関係を認めてくれるなら、それでいい」
エルミーネは、その言葉には答えなかった。
数日後。
完成した契約書を前に、オルディスは上機嫌だった。
内容は明快である。
婚姻当事者双方は、婚姻外の者と恋愛関係を持つ自由を有する。
双方は、相手方が婚姻外の者から求愛されること、交友を持つこと、あるいは恋愛相手を選択することについて、不当に妨害、排除、非難してはならない。
また、婚外恋愛の相手との関係解消を強制してはならない。
違反した場合、違反を受けた側は婚姻の即時解消を請求できる。
オルディスは最後まで目を通し、満足そうに頷いた。
「これでいい」
「『婚姻当事者双方』ですわよ?」
「もちろんだ」
「わたくしにも、同じ権利がございます」
「公平な契約なのだから当然だろう」
迷いなく返され、エルミーネは小さく頷いた。
18年間、公爵令嬢として品行方正に育てられてきた女である。婚約者以外の男性と2人きりで出歩いたことすらない。
どうやらオルディスは、同じ自由を認めたところで、エルミーネが自分と同じように使うはずがないと考えているらしい。
契約を作成した若い男が、証人欄へ署名した。
レナート・クロイツ。
クロイツ侯爵家の嫡男である。
同家は代々ヴァルケン公爵家と関係が深く、領政でも外交でも頼りにされてきた家だった。レナート自身もいずれ侯爵家を継ぐ。
今はその前に実務を学ぶため、王国認定の契約官として働いていた。
「双方、内容に異議ございませんね」
「ない」
「ございません」
2人の返答を確認し、レナートは契約書を閉じた。
「では、これをもって契約成立といたします」
そして、婚礼の日。
王都の大神殿には大勢の貴族が集まっていた。
王子と公爵令嬢の婚姻である。
華やかな衣装。花で飾られた回廊。王家と公爵家の重臣たち。
その中には当然のように、オルディスの愛する女性、セシェラ伯爵令嬢の姿もあった。
婚姻契約によって公認された、王子の愛人である。
オルディスは彼女が参列していることを隠そうともしない。エルミーネも何も言わなかった。
婚姻登録簿へ署名し、神殿の婚姻官が印を押す。
これで法的にも2人は夫婦となった。
その直後だった。
「エルミーネ。その男は誰だ?」
オルディスが眉をひそめた。
エルミーネの隣には、今日のために礼装をまとったレナートが立っている。
「レナート・クロイツですわ」
「名前を聞いているんじゃない。なぜそいつがお前の隣にいる?」
「愛人ですから」
沈黙。
大神殿の広間が、しんと静まり返った。
「……何?」
「わたくしの愛人ですわ」
「聞いていないぞ!」
「申告義務については、契約書にございませんでしたもの」
「そういう問題ではない!」
オルディスの顔が見る見る赤くなる。
「いつからだ!」
「何がでしょう」
「いつからこいつと関係を持っている!」
「関係?」
「とぼけるな。愛人なのだろう!」
「ええ。愛している人ですもの」
オルディスが止まった。
「……何だって?」
「わたくしを愛している人。愛人ですわ」
「そんな言葉遊びがあるか!」
「ですが、嘘は申し上げておりません」
オルディスは今度こそレナートを睨みつけた。
「貴様。本当にエルミーネを愛しているのか」
「はい。以前より、お慕いしております」
周囲がざわめいた。
オルディスはすぐには怒鳴らなかった。
一度息を整え、エルミーネを見る。
「……待て。契約で認めたのは婚外恋愛だ。お前たちは恋人ではないのだろう?」
「ええ」
「なら、まだ契約上の問題はない。そいつがお前を勝手に想っているだけなら、私が口を出す筋合いでもない」
「その通りですわ」
オルディスは小さく息を吐いた。
そこへレナートが、いつもの実務的な調子で言う。
「では今後も、ヴァルケン公爵家との契約業務で伺わせていただきます」
「それは駄目だ」
即答だった。
エルミーネが首を傾げる。
「なぜですの?」
「こいつがお前を愛していると分かった以上、2人を頻繁に会わせるわけにはいかない」
「ですが、公務ですわ」
「公務なら仕方がない。だが、私的に会うことは認めない」
「それも契約にございますわ」
一拍。
オルディスの表情が固まった。
「相手方が婚姻外の者と交友を持つことを、不当に妨害してはならない。殿下もお読みになりましたでしょう?」
「……覚えている」
「では?」
オルディスは黙った。
理屈では分かっているのだろう。
それでも、目の前には自分の妻を愛していると公言した男がいる。
「とにかく、私は認めない! クロイツ侯爵家だろうが何だろうが関係ない。今後、エルミーネに近づくな!」
その瞬間。
レナートが胸元から小さな手帳を取り出した。
「確認いたしました」
「……何をだ?」
声が変わっていた。
先ほどまでエルミーネへの想いを認めていた男ではない。
王国認定契約官の声だった。
「婚姻契約第6条第2項。婚姻当事者は、相手方が婚姻外の者から求愛されること、交友を持つこと、ならびに恋愛相手を選択する自由を妨害してはならない。殿下はただいま、エルミーネ様に恋情を抱く私を彼女から排除し、今後接触しないよう明確に要求されました」
「待て」
「契約違反の意思表示として記録いたします」
「だが、お前たちは恋人ではないのだろう!」
「ええ」
エルミーネが答えた。
「ですから、わたくしはまだ何もしておりませんわ」
オルディスが黙る。
「誰かを愛することも、恋人を持つことも、契約で認められた権利を行使することすらしておりません」
エルミーネは婚姻契約書を開き、該当箇所へ指を置いた。
「殿下は、わたくしが権利を行使する前から、その権利を認めないと宣言なさいました」
「騙したな」
「何を?」
「最初からこれが目的だったんだろう!」
エルミーネは眉を上げた。
「いいえ。わたくしは何度も確認いたしましたわ」
指先が契約書の一文を示す。
婚姻当事者双方。
「殿下も『当然だ』と仰いましたでしょう?」
オルディスは何も言えなかった。
エルミーネは契約書を閉じる。
「では、契約第9条に基づきます。婚姻契約違反による、婚姻の即時解消を請求いたします」
婚姻官がレナートを見る。
「違反の確認は?」
「王国認定契約官として確認しております」
「証人は?」
周囲には、王族も公爵も侯爵も、嫌というほどいた。
婚姻官は頷く。
「受理いたします」
「待ってくれ! 今日結婚したばかりだぞ!」
「ええ」
エルミーネは微笑んだ。
「早めに分かって、よろしゅうございましたわね」
その日の午前。
エルミーネ・ヴァルケンは王子妃になり、その日の正午前には王子妃ではなくなった。
婚姻解消から数日。
レナートとは何度か短い手紙を交わした。
契約書でも、公爵家の仕事でもない。
最近読んだ本のこと。王都に新しくできた菓子店のこと。そんな、これまでならわざわざ手紙にすることもなかった話ばかりだった。
そして、その日届いた封書には、王都でいま最も話題になっている歌唱劇への招待が入っていた。
エルミーネは最後まで読む。
「行きますわ」
「お嬢様。まだ日付をご確認になっておりません」
「……来週の5日目ですわね」
「その日は午後にお茶会がございます」
「動かします」
即答だった。
侍女は少しだけ口元を緩める。
「かしこまりました」
当日。
開演は夕刻だというのに、エルミーネは昼を過ぎる前から衣装を選んでいた。
「こちらと、こちらでは、どちらがよろしいかしら」
「先ほどは青と仰っておりましたが」
「ええ。でもこちらも悪くないでしょう?」
「お嬢様。楽しみでいらっしゃるのですね」
エルミーネの手が止まった。
ほんの少しだけ頬を染め、咳払いする。
「話題の歌唱劇ですもの」
「左様でございますか」
「ええ」
「クロイツ侯爵家のご嫡男とご一緒だからではなく?」
エルミーネは鏡の前で耳飾りを直した。
「……それも、多少はございますけれど」
婚姻契約が解消されたあの日。
レナートは、改めて彼女に告げた。
これまでは婚約者のいるあなたに何かを求めるつもりはなかった。けれど今なら、あなたを愛していると正式に申し上げてもよろしいでしょうか、と。
エルミーネは答えた。
ようやくこれで、前向きにお話を伺えますわね、と。
恋愛とは、契約書に署名したから始まるものではないらしい。
だからまずは、他愛のない手紙を交わし、一緒に歌唱劇を観に行くところから。
「お嬢様。馬車が参るまで、まだ1時間半ございます」
「分かっていますわ」
「では、もう玄関へ向かわれますの?」
エルミーネは一瞬黙った。
それから何事もなかったように扇を開く。
「……少しくらい早くても、よろしくてよ」
その足取りは、婚礼の日よりずっと軽かった。
いつもの制度、契約。
やっぱり出ますねぇ。
恋愛を書いているはずなのに、気づくと契約書を作っております。
今回はそこから、ちゃんと恋愛にも戻ってきました。




