【短編】縁を結ばない神様は。
人が、年を取るということ。
当たり前のように会えた友人は、もう簡単には会えなくなったり。
あの頃のあの人も、何年も経てば、別人になってしまっていて。
過去の時の中で彷徨っている。取り残されてしまったような、そんな気持ち。
私が、私だけが、ずっと昔の空間のなかを、生き続けているのかもしれない。
人混みの駅の中でも、今、何気なくすれ違った人は、誰かにとっては会いたい人だったり。
なんだか、そう思うと、何気ない出来事も、実は奇跡なんじゃないか、と思うことがあるんだ。
みんなも、そう思うことあるかな。
そうだったら、いいな――。
※ ※ ※
探している人がいる。
気がついた時には、あっという間に成人してしまっていた。私は、もう25歳をすぎており、アラサー女子と呼ばれる年齢になった。
正直、実感がわかない。小さい頃、あんなに楽しみにしていた誕生日も、今はちっとも嬉しくもない。だって、また老けてしまうんだから。
そんな自分が、なんだかちょっと情けない。
今日は雨。五月雨だ。
雨音は嫌いじゃない。鬱陶しいと感じる人もいるかもしれないが、私は環境音の一部だと思って、傘を指しながら歩くのも一つの楽しみだ。
久しぶりの休日。先週まで残業続きだったから、ようやく自由時間が確保できて嬉しい。
今日は、私の地元 • 川越を歩いて余韻に浸ろうと思う。
別名 小江戸の街。ここには、県を代表する有名観光地がたくさんある。
菓子屋横丁、時の鐘、氷川神社―――。
どれも私の大事な思い出。
そう、大事な、宝物なんだ――。
カバンから、8年前のお守りを取り出す。
そう、私が探している人。それは―――。
※ ※ ※
17歳だった。初恋は。
当時の私は、今よりももっと短いショートのカットだった。男子と同じくらいの長さ。背も170センチは超えていたから、男に近かったかもしれない。
だからなのか、男子との距離は尋常じゃないほど近かった。もちろん、恋愛的な意味ではなく。
「なあ、小津〜。昨日の数学のノート見して。」
私の苗字が呼ばれると、ついムッとした顔をしてしまう。
「絶対嫌! あんた、きのう学校いたよね?」
「寝てたし。部活朝練だったから。」
朝のHR終わり。これがいつものお決まり。彼が、いつも私に何か頼み事をしてきたっけ。
隣の席の篠崎 慶太郎。強豪の陸上部に入っていて、1年生からレギュラー入りしちゃうくらいの、ちょっとすごい人。
短髪ヘアの部活バカ。いつも部活のことしか考えてなくて、勉強はドベに近い。なのに、クラスメイトからの信頼はアツくて、彼が言う事はみんなが賛同しちゃうくらいの、人気者だった。
彼の好きになった理由は、特にない。ただ、隣の席でちょっかいをかけられるうちにだんだん好きになっていた、とか、そんなところ。
だって、いつも私だけに頼ってくるのがなんだか可愛くって、嬉しかったんだもん。
「ほんと不真面目! 自業自得でしょ。」
「そこをなんとか〜今度ラーメン奢るからさ。」
彼がそう言うと、私は秒で返事をして。
「乗った。一蘭ね。無限替え玉するから。よろしく。」
「うげ…ゴリラかよ…」
「…は? なんか言った?」
「いえ、なにも。」
私のキッと睨んだ瞳を見て、彼はいつも怖がっていたっけ。
本当は、見せたくてしょうがないくせに。彼の力になりたいくせに。
私の、思春期特有の強がりだった。
だから、いつも、『大食い女子』として、女らしさを隠していたんだ。
彼は、休み時間になると、いつもカースト上位の男子とくだらない話でゲラゲラ笑っている。その後の授業中は、寝ていたり、私にこっそり内緒の手紙を渡してきたり。
どこまでもバカでアホで、どうしようもない奴だった。
『なぁ、古典の今井。ズボンのチャック空いてね?』
印象に残っている古典の授業。昼休み後だからか、後ろの席はほぼ全滅。
まあ、古典は寝るよね。
だって、今井だもん。おじいちゃん先生の念仏なんて、そりゃ退屈だもんね。
そんな退屈な授業も、篠崎が手紙を回してくるから楽しかった。
バレないように、今井のズボンのチャックを確認する。
ぷっ! たしかに空いてる。
私は笑いを抑えながら、また篠崎に手紙を回したんだ。
『今井だと、言うか迷うよねw ギリギリのラインっていうかww』
先生の目を盗んで、目を合わせないように、そっと渡すあの時間。
この時間を言葉にするのは、あまりにも勿体なさすぎるな。
それで、たまに目を合わせるの。
私たち、二人で。
二人だけしかわからない話題で。
ふっと笑みを浮かべて。
そんな何気ない時間が大好きだった。
私はゲラだから、たまにこのうるさい笑い声が誰かに聞こえそうになるときがあった。
その度に、いつも彼がニヤニヤ笑いながら『シーっ。』と、人差し指をそっと立てていた。
二人だけの秘密の時間。
多分、篠崎がただの優等生だったら、絶対に好きにならなかったと思う。
いつもは先生に怒られてばかりの問題児。なのに、体育祭とかの行事になると誰よりも張り切りだして。なぜか、みんなにも一番慕われちゃう、ちょっとちゃっかりしたやつ。
ヘラヘラと嘘偽りない笑顔が、愛おしくて、ずっと隣で見ていたいと思った。
そんな当たり前の日々が、ずっと、続くと思っていた。
「小津先輩!」
放課後。部活終わりの時間。バレーボールで使ったネットを片付けようとすると、後輩女子3人組が、私に駆け寄ってきた。
わざわざ、3人でくるなんてなんの用事だろうか。私は特別に好かれてるわけではないから、不思議でしょうがなかった。
手を止め、彼女らに体を向ける。
「ん? どうした?」
「小津先輩って……篠崎先輩と同じクラスなんですよね?」
心臓がドクンと強く響いた。
彼は、同級生だけではなく、下級生にもモテることは知っていた。体育祭実行委員もやっているし、所属している陸上部でも、毎回好成績を残しているため、全校集会でよく表彰されている。
私がいいなと思った人は、みんなもいいと思うのだ。当然だ。
でも、こうやって面と向かって彼の名前を言われると、あまりいい気分はしない。
「そうだけど…それが?」
その先にくる言葉はもう知っていた。わざと知らないふりをして。まるで、私は彼のことなんて興味のないように。
どうやら見たところ、篠崎狙いの子は、真ん中にいる那須さんのようだ。サイドの2人は、彼女の肩をニヤニヤ突っつきながら背中を押しているから。
彼女は、少しためらう様子をしながらやがて私の目を見つめた。
「篠崎先輩には…いつもお世話になっていて…。先輩とは実行委員会で仕事を一緒にやったりしてたんです。で、私がミスとした時に、先輩がうまくカバーしてくれて…。」
「その時のお礼がしたくて、、その……」
返す言葉が見当たらない。
なんで、彼女は私に相談してきたのか。篠崎と同じクラスの人なら、ほかの部員もいるはずなのに。
「私、勇気がでないので、先輩からお礼を伝えといてくれませんか!!」
そう言い捨てたあと、彼女らはパタパタと去ってしまった。
先輩にネットの片付けをさせて、帰ってしまうなんて、部活内ルール的に良くないことだと思ったが、今はそんなこと思う暇も無かった。
視線をネットに戻し、先ほどよりゆっくりなスピードで片付けを再開する。
篠崎って、やっぱり、いろんな女の子に言い寄られるんだ。
私は、彼とよく二人で駅前の一蘭を大食いしたりするけど、それってやっぱり、友達だと思っているからなんだろうな。
那須さんが、私を選んだのは、『宣戦布告』じゃなくて、きっと『信頼できる女友達認定』されてるからなんだろう。
そう思うのも無理もない。遠くからだと男に見間違えられる身長と、この髪型。胸も大きいわけじゃない。目もどちらかといってつっているし、愛嬌もあるわけじゃない。
このままだと、篠崎は誰かと付き合うかもしれない―――。
でも、距離近すぎる私に、これ以上何ができる?
その日は、私の目の前だけモヤがかかったように、頭の中がぐちゃぐちゃになっていった。
※※※
「小津ーー! て、小津? 聞いてんの??」
「わ! な、なに…」
耳元で、篠崎に名前を叫ばれて、思わずビクッとしてしまう。
その驚いた表情を見て、彼はニッと笑った。
「あっはは!『何?』って。お前が言い出したんだろう?ラーメン大食いするぞ!って。もう忘れたのか?馬鹿だなぁほんと。」
相変わらずこの対応。別にいいんだけどさ。
でも、内心ホッとして、また麺をすする。今日はお互い部活オフだから、ラーメン大食い競争をしようと言う話だったのだ。
いつもより喉が苦しくて、麺を飲み込むのも一苦労だった。
「…ばかなのはあんたの方でしょ。猿と同じにされちゃ困る。」
「はぁ!? 俺が猿だと?! じゃ、小津はチンパンジーだなっ!」
「そんなわけないでしょ!!」
ヘラヘラ笑う彼に、つい、カッとなって、そばにあるお冷がカラン、と揺れた。
『私だって、女なんだよ。』
『だから、私だけを見てよ。女として。』
そうやって、言いたいことが頭の中でぐるぐる回るだけで、口にすることはできなかった。
関係が崩れるのが怖い。
お互いラーメンの麺を啜っているので、話すことなく沈黙が走る。こうやって、『ズズズッ』と麺を啜ることなんて、女の子とじゃあ、篠崎だって抵抗あるんだろうな。
私は、男当然として見てるんだろうな。
「ねえ、篠崎。」
「んーー?」
「この前、うちの後輩が篠崎のこと話してたよ。実行委員でお世話になったからお礼がしたいって。」
「えーそうなの?俺なんかしたっけな…。」
「無自覚なんだなぁ。 よっ!モテ男!」
空気を壊すまいと、ついつい盛り上げるような事を言ってしまう。
「なんだよ急に。モテるとか照れくせえし、わかんねえよ、色々。」
「ぶっちゃけどうなの?ほら、彼女とか! 作ればいいのにぃ。」
『私とかさ。』
なんて。言えるわけない。
「んー、彼女か。」
彼はしばらく間を空けて、また麺啜る。話す言葉を考えてるのだろうか。
私は願った。
作らない。そう言ってほしかったから。
「もし、誰かと付き合ったら、小津とこうやってラーメン食えなくなるってことだろ?」
「ま…まあ、彼女が嫉妬する子だったらね?」
「じゃあ嫌だな! 俺は小津とこうやってラーメン食ってたいし、ノートも見せてほしいしな!」
「俺ら、非リア同盟! 」
そうやって、私の頭をワシャワシャって掴んで。
また笑う。
ずるい。
ずるいよ。そうやって。
私のこと、少しは女の子として見てるって思ってもいいの?
希望あるって思ってもいい?
篠崎の中で、私はどれくらい大切なの?
苦しいのに、嬉しいの。
変だね。こんなの。
言葉ではいくらでも嘘がつけるのは、わかってる。
でもね、それでもちょっと考えて、私を選んだことが、何よりも嬉しかったんだ。
篠崎の手は私よりもずっと大きくて。体温ですこし暖かくて。撫でられて気持ちいい。
下を向いていたけど、彼にバレないようにニヤニヤなんかしちゃって。
ほんと。好き。
悔しいけど。
だから、もう少しだけ――
そばにいてもいい?
※※※
年が明け、元旦に。
私は、女バレのメンバーと初詣へ氷川神社に向かった。
川越の氷川神社は『縁結びの神様』として大変有名である。1500年前に建てられた歴史ある神社で、夫婦神二組を祀っていることから、家庭円満・夫婦円満・良縁のご利益があるとされている。また、限定の『縁結び玉』や、可愛らしいピンクの鯛みくじがある。
友達らは、最近別れた人や彼氏ができたことない人ばかりなので、新年早々、神頼みしておこうというのだ。
「寒いね〜」
「あけおめすぎる。」
「いや、この前インスタライブしたばっかりじゃん。」
「ほんまにそれな。」
女子同士の他愛のない会話。部活で会っているため、別に久しぶりでも何でもない。異性もいないもんだから、みんな思いっきりあったかい格好で着太りしている。楽で好き。
正月はやっぱりすごい人だった。流石川越の観光地。帰省した人も、お参りに来ているのだろう。老若男女様々な人で賑わっていた。
人混みを器用に避け、賽銭の場所に並ぶ。もちろん、ここが一番の大行列。前がよく見えない。
私は、白くなった息を吐きながら冷たい手を温める。
冬休みは、篠崎に会えてない。
もちろん、陸上部は強豪だから大いに練習はしてるはず。だけど、外部と中部だと、どうしても接触機会が少なくなってしまうのだ。
LINEも持っているけど、変に意識しちゃって連絡できないし、話す内容もなかったから、あえてアクションを起こさなかった。
だからなのか、今日はいつもよりソワソワしてる。地元民が行く神社なんて、氷川神社くらいしかない。大きいところは。だから彼も、友達と参拝しに来ているだろうという期待だ。
でも、もし会ったら、なんて声をかければいいだろうか。声が裏返ったり、変なことを口走ってしまうだろうか。
そんなことを考えながら、ゆっくりと前に進む。後ろを向くと、本当にすごい参拝者で、結構進んだなと感じさせる。
「あっ、篠崎たちじゃね? あれ。」
「えー?どこどこ?」
「あっちらへんにいた。」
友達の言葉に、私は、ドクンと跳ねる。
急に心拍が早くなって。
嘘。ほんとに――?
やばい。うれしい。まさか、新年そう会えるなんて。今年はいい年になりそう。もしかしたら、結ばれちゃうかもしれない。
なんて、すごく期待をした。
ソワソワしているうちに、私たちの参拝の番になって、汗をかいた手で、パンパンと手を叩いた。
もちろん願い事は、『篠崎と結ばれますように』。
なんだか、叶う気がすると思って、ちょっと口角が上がっちゃって。
ジンクスとか信じないタイプだったけど、今は存在しないはずないと思うほどだった。
「恋みくじひこー!」
参拝し終わり、私たちはおみくじ売り場へ。氷川神社のおみくじは定番のものから、限定のものまで、幅広く売られている。もちろん私たちは、鯛みくじへ一直線。
その時――
「慶太郎せんぱい。 私、これ引きたいです。」
聞き覚えのある声が、背後から聞こえた。
先ほどとは違う、ドクンという音が、また胸に鳴り響く。
痛い。身動きができないほどの苦しさ
だった。
嫌な予感がしたから。こんな予感、したくないのに。
「いいよー。引こ引こー。」
間違えない。
篠崎と那須さんだった。複数人じゃない。2人で来ていた。
篠崎のことを、『慶太郎せんぱい』と呼ぶほどの距離。私ですら、下の名前は恥ずかしくてあんまり呼べなかったのに。
この数ヶ月で何があったの…?
知らない。私、あの2人の事情を何も知らない。2人とも別人のようで。別人に思いたいのに、間違えなく本人だから悔しくなって。
篠崎も、女の子と二人で行くような人だったっけ…? しかも、後輩の女の子と。
わからない。
私、篠崎のことを何も知らないんだ。
距離が近い異性として、いい関係を保ててると思っていた。でも違うんだ。それだけじゃ、全然足りなかった。
彼の奥に隠れた思いなんて、何一つわかっていなかったんだ。
私、今日まで一体、何をしてたんだろう。
「ねえ、大丈夫? なんか顔色悪くない?」
自分の黒い世界に入っていると、友達に肩をポンと叩かれて、思わずハッとなった。
一瞬で目頭がカッと熱くなって、喉奥が苦しくなっていく。
すぐさま投入口に300円を入れて、一瞬で一つの鯛を取り出した。
「ちょっとお腹痛いかも。ごめん先色々回ってて!」
私はそう言い捨て、出口へと走った。
バレないように。
知られないように。
別に、悪いことしてるわけじゃないのに、なんだか変だね。
私ばっかりこんな気持ちになってるなんて、二人は知らないんだろうな。
なんでこんな苦しい気持ちになるんだろう。期待してた私が本当にバカじゃん。
くだらない話をした授業の時間も。
特別扱いしてくれた一蘭の時も。
全部、全部、ただの私の勘違いだったんだね――。
鳥居の門の近くでずっと泣いた。神様の前なのに。でも、抑えきれなかった。拭いても、拭いても、ずっと涙が止まらなくて。
声を抑えようと必死になっちゃって、余計に嗚咽がひどくなっていく。ものすごく苦しい。
「……小津?」
足音が近づいてきて。
そしたら、また声が聞こえた。
細い声。耳に声だけがトクン、と反応するの。人混みの雑音だけがノイズになっていく。
また心臓が跳ねるから、疲れてしまう。
振り向かなかった。もう、顔なんか見たくなかったから。
彼女作らないって言ってたのは嘘だったの?
私とラーメン食べれないなら、彼女いらないんじゃなかったの?
非リア同盟は、切れてしまったの?
聞けない。聞けるわけなかった。
もう、嫌だったの。どうしたらいいのか分からないから。
分からないから、逃げる。
遠くへ、遠くへ。
彼が追いつかないであろう場所へ。
そして、街通りに入って。
今度は、ゴーンと、時の鐘がなった。午後12時を知らせる音だ。
今日は、音に振り回されてばっかりだ。
冬休み明けは、私がインフルエンザにかかってしまって、しばらく休んだ。
連絡も来なかったし、私もする気も起きなかった。
その後はもう、篠崎と話すこともなくなってしまった。席も変わってしまったし、自然に、という流れだろう。
そして、それから季節は変わり、私たちは3年生に。クラスは離れ、彼と関わることはなくなってしまった。
※ ※ ※
大人になって、初めて、氷川神社に足を伸ばす。建物はあの頃と何一つ変わっていない。匂いもなんだか同じような淡い匂い。雨が降っているのに、なんだか不思議な気分になっていく。
今の季節は夏だから、色鮮やかな風鈴が上に飾られている。晴れの日だったら、きっと地面にもカラフルな色が映って綺麗なのだろう。
今日は雨だから、見えない。
濡れた風鈴たちが、カラン、カランと音を鳴らしている。その音がなんだか切ない。
私はその道を、噛みしめるようにゆっくり歩いた。
そして、あの頃と同じように参拝をして。
願い事なんかないはずなのに。
大人になっても、バカなままだから、また同じような願い事をしそうになる。
心は年を取らない。
平日だからなのか、雨なのか、辺りは閑としていた。老夫婦が一組いるくらいだ。
そして、私は握りしめていた鯛みくじに視線を向ける。
あの日に引いたおみくじは、実はまだ中身を見ていない。あんな事があったもんだから、なんだか酷いことが書いてあってそうで、ずっと開けなかったのだ。
もう何年も経っているから、色褪せていて、シワもできている。強く握りしめていたせいなのかもしれない。そこもなんだか感慨深い。
でも、やっぱり見てもどうもならないと思って、中身をあえて見ずに、神社に結ぶことにした。
紙を結んでいると、近くに絵馬のようなものがあった。
ここは縁結びで有名な神社だから、カップルや夫婦が形として書いていくのだろう。人に見られることが恥ずかしくないのだろうか、とも思うが、そんなことどうでもよくなるくらい、彼は幸せなんだと思う。
性格が悪いかもしれないが、人の絵馬をみるのが好きだ。
幸せそうな願い事や、受験祈願、安産祈願、外国語の願い事も書いてあって、いろいろな物語があるなと、考えさせられる。
カラン、カラン、と見漁っているとき、目を引くような字を見つけた。
荒く、乱暴な文字。小学生が書いたのだろうか。バランスはもちろん、所々漢字も間違えている。
なんだか初々しいなと思った。
でも、私の予想は大きく外れた。
『この神社で、恋人になり、夫婦になりました。』
生唾を、ごくん、と飲み込む。
読み進めて、右下を見ると――――
『 篠崎慶太郎・比奈』
『比菜』は、那須さんの下の名前。あまり見ない漢字だったから覚えている。
時がパチっと止まった。
私だけ。
ずっとあの頃のままで。ずっと止まっているんだ。
でも違う。彼らの時計は、ずっと進み続けている。
私たちが交わった線は、いつの間にか平行線になってしまったんだね。
一生交わることのない、二度と会えない人。
涙なんて、もう出なかった。
私も、何か書こう。
生まれて初めて、絵馬のお金を払い、神社に飾ることにした。
『この神社で、初恋の人が結婚することを知りました。
おめでとう。
私も、幸せになります。』
名前は、あえて書かずに。
誰にも見られない、一番高い場所へ。
神社を出ると、既に雨はやんでいて。
なんだか、心までもスッキリした気分だった。
後ろを振り返ると、高校生の篠崎と私が、楽しそうに笑っているのが見えた。
ねえ、篠崎。
私の下の名前、知ってる?
茉鈴っていうんだよ。
貴方は、一度も名前も呼ばなかったね。
こんな女の子らしい名前、私には、やっぱり似合わないかな。
ねえ、篠崎。
私ね、あの日から、ずっと髪を伸ばし続けてるの。もう、背中まであるよ。びっくりでしょう。
なんでか、わかる?
でも、もうおしまいにするよ。
ねえ、今度は、どんな私になろうかな。




