変わってしまった距離
朝は、昨日と同じように始まった。
鐘の音で目を覚まし、寮の廊下を歩き、教室へ向かう。
体調に異変はない。歩幅も、呼吸も、いつも通りだ。
(……大丈夫だ)
そう思った瞬間、胸の奥が鳴った。
さら……
さら……
昨日より、近い。
(……近い?)
理由は分からない。
ただ、空気に触れた指先の距離が、微妙に狂っている。
* * *
教室に入ると、ざわめきが一瞬だけ途切れた。
誰かが咳払いをし、すぐにいつもの雑音に戻る。
だが、席に着いた時、はっきり分かった。
——距離がある。
隣の席との間隔が、ほんの少し広い。
机を引く音が、妙に遅れて聞こえる。
(……気のせい、じゃない)
胸の音が、それを否定する。
* * *
午前の講義は、環術理論だった。
黒板に書かれる式を追いながら、レイルは違和感に気づく。
文字が、遠い。
意味は理解できる。
構造も、流れも分かる。
だが、手を伸ばしたときの距離が違う。
知っているはずの答えに、半拍、触れ損なう。
「……レイル」
名を呼ばれて、顔を上げた。
「今の説明、どう理解した」
一瞬、言葉に詰まる。
(……分かってるのに)
知識が、頭の奥で滑る。
「……循環の、安定条件です」
わずかに遅れて答えると、教師は頷いた。
「そうだ。
だが、今日は“完全な安定”を求めるな」
その言葉が、胸に残った。
(……完全じゃ、ない)
講義の一節だと分かっている。
それでも、今の自分に向けられた言葉のように聞こえた。
* * *
昼休み、アッシュが近づいてきた。
「……昨日の夜さ」
言いかけて、言葉を選ぶ。
「今のレイル、少し怖い」
冗談ではなかった。
探るような視線でもない。
事実を確かめる声だった。
「……何が」
「分からない。
でも、前と同じ場所に立ってない」
胸の奥が、静かに鳴る。
さら……
さら……
否定できなかった。
* * *
午後、図書室で資料を探していると、
不意に、背後の棚がきしんだ。
振り返る。
誰もいない。
それでも、空気が重い。
胸の音が、はっきり鳴った。
さら……
さら……
(……触れてないのに)
境界が、近い。
昨日のような歪みは起きていない。
だが、世界との距離そのものが変わっている。
* * *
夕方、廊下でアゼル先生とすれ違った。
一瞬、足が止まる。
先生は、こちらを見て——短く言った。
「今日は、無理をするな」
それだけだった。
問いも、叱責もない。
だが、確信が残る。
(……気づいてる)
何をしたかではない。
何が変わったかに。
* * *
部屋に戻り、椅子に腰を下ろす。
窓の外は、薄曇りだった。
胸の奥を確かめる。
さら……
さら……
昨日より、確かに近い。
それでいて、まだ制御は効いている。
(……これが、結果か)
罰はない。
命令もない。
代わりに、
世界との距離だけが、はっきり変わった。
レイルは、静かに息を吐く。
(……戻れない)
その言葉に、恐怖はなかった。
あるのは、
次に同じことをすれば、
もっとはっきりした変化が返ってくる
という理解だけだった。
レイルは、まだ何も選ばない。
だが、もう
同じ場所には立っていない。




