記録される日常
朝の講義は、いつも通り始まった。
出欠を取り、板書が進み、質問が飛ぶ。内容も、進度も、昨日までと何ひとつ変わらない。
違うのは、教室の外だった。
扉は閉じられている。
それなのに、廊下の気配が消えない。
(……いる)
理由は分からない。ただ、そう感じた。
視線を黒板に戻そうとした、その瞬間。
扉の小窓の向こうで、布が揺れた。
灰色の外套。
昨日、会議室で向かい合った男だ。
ほんの一瞬、目が合った気がした。
すぐに、視線は外された。
胸の奥が、遅れて鳴る。
さら……
さら……
(……見てるだけ、か)
* * *
実技演習は、環術の基礎循環だった。
教師が巡回し、生徒たちの詠式を確認していく。
いつもと変わらない光景。
ただ一つ違うのは、教師の動きだった。
説明が、いつもより丁寧だ。
注意が、いつもより曖昧だ。
「……無理はするな。
今日は“安定”を優先しろ」
その言葉が、妙に重く聞こえた。
レイルは意識的に魔力を抑えた。
環を回すだけ。流さない。広げない。
それでも、胸の環紋が微かに熱を持つ。
(……反応するな)
抑え込むほど、違和感が際立つ。
背後で、足音が止まった。
振り返らなくても分かる。
廊下の向こうに、あの男がいる。
扉越しに、こちらを見ている。
何も言わない。
干渉もしない。
ただ、起きたことだけが残されていく。
(……記録、か)
* * *
昼休み、アッシュと並んで中庭を歩いた。
話題は他愛もない。課題の量、次の実技、食堂の混雑。
それなのに、言葉の間に、微妙な間が生まれる。
「……なあ」
アッシュが口を開き、すぐに閉じた。
「何?」
「いや……」
それ以上、続かなかった。
(……聞かない方がいい、って顔だ)
胸の奥が、静かに鳴る。
* * *
午後、図書室へ向かう途中で足が止まった。
掲示板に貼られた、見慣れた文書。
前からあったはずのものだ。
《環術運用に関する指針》
その下に、小さな一文が添えられている。
《観測期間中は、個人判断による干渉を控えること》
(……観測期間)
いつから。
誰が対象で。
いつ終わるのか。
どこにも書かれていない。
胸の奥で、さらさらという音が鳴った。
(……日常、なんだ)
何かが起きたわけじゃない。
怒鳴られたわけでも、制限されたわけでもない。
それでも、
確実に、囲われている。
* * *
部屋に戻っても、セラは現れなかった。
代わりに、環紋が淡く熱を帯びる。
まるで、今日一日を内部に保存するように。
(……記録される、ってこういうことか)
誰かに、ではない。
世界そのものに。
レイルはベッドに腰を下ろし、
初めて、はっきりと思った。
(このまま、何も選ばずにいたら……
選ばれる側のままだ)
胸の奥で、さら……と音が鳴った。
それは呼び声ではない。
ただ、逃げ場が減っていく音だった。




