何も起きなかった朝
朝は、驚くほど普通だった。
鐘の音で目が覚め、寮の廊下にはいつも通りの足音が響いている。窓の外も、雲ひとつない空だった。
(……何も、起きてない)
それが、かえって落ち着かなかった。
昨夜の塔。
拒まれた感覚。
セラの言葉。
それらが、すべて夢だったかのように、世界は何事もなかった顔をしている。
胸の奥に意識を向ける。
さら……
さら……
音は、弱い。
第1章の終わりで聞いたものより、少し遠い。
(……離れた?)
そう思った瞬間、理由の分からない不安が胸に広がった。
* * *
教室に入ると、空気が微妙に違っていた。
誰かが露骨に避けているわけじゃない。
噂話が聞こえるわけでもない。
ただ、視線が合うと、少しだけ逸らされる。
(気のせい……だよな)
席に着くと、アッシュが一拍遅れて声をかけてきた。
「……昨日、大丈夫だったか」
「何が?」
「いや……測定のあと、顔色悪かったから」
それだけの会話なのに、どこか距離を感じた。
「問題ないよ」
そう答えた瞬間、胸の奥がちくりと鳴る。
(……嘘だ)
自分が一番分かっている。
* * *
午前の講義は、環術史だった。
千年前の断裂。
崩壊した都市。
失われた環式。
何度も聞いた内容のはずなのに、今日は言葉が妙に引っかかる。
「……中心を失った環文明は、以降、
自律的な循環を持たなくなった」
講師の声が、教室に響く。
(中心……)
胸の環紋が、ほんの一瞬だけ熱を持った。
レイルは、無意識に視線を落とす。制服の内側にあるそれを、誰にも見られないように。
(……反応するな)
けれど、完全には収まらない。
* * *
昼休み、中庭に出ると、アゼル先生が壁際で誰かと話しているのが見えた。
知らない顔だった。
教師でも、生徒でもない。
(……誰だ)
視線に気づいたのか、アゼル先生が一瞬だけこちらを見る。すぐに逸らされたが、その一瞬が妙に引っかかった。
(……見られてる)
根拠はない。
ただ、そう感じた。
* * *
放課後、塔の方角を見ないようにして寮へ戻った。
近づくな、と言われた言葉が、まだ耳に残っている。
(……行かない)
そう決めたはずなのに、足は無意識に遠回りしていた。塔が視界に入らないルートを、選んでいる。
部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。
セラの姿は、ない。
(……まだ、来るなってことか)
胸の奥で、さらさらという音が、弱く鳴った。
それは呼び声ではなく、
まるで距離を測るような音だった。
(……何が、始まったんだ)
答えはない。
ただ一つ分かるのは、
何も起きなかった一日が、
一番おかしいということだけだった。




