魔力の音を聴く少年
最初にそれを聞いたのは、6歳の時だった。
さらさらと、
耳の奥を、乾いた砂が流れるような音が撫でていった。
あの日、僕は一人で家の裏手の丘に登って行った。
町外れに、誰も使わなくなった古い井戸がある。石積みは崩れかけ、縁の苔は濡れていて、親からは「近づくな」と言われていた。
でも、子どもなんて、禁止されると気になる生き物だ。
井戸の中を覗き込んだ時、足元の土が、ふっと軽くなった。
ーーーーーー崩れる、と思うより先に身体が落ちた。
息を吸う暇もなかった。井戸の暗闇が口を開けて、僕を飲み込もうとする。喉の奥が悲鳴でひっくり返る。手を伸ばしても掴めるものは何もなかった。
その瞬間だ。
さらさら、さらり。
あの音が、響いた。
次の瞬間、僕の身体はふわりと浮いた。
崩れたはずの足場が、もう一度組み直されたみたいに、何かが下から支えた感触があった。
気がつけば、僕は井戸のふちに転がっていた。
腕も、脚も無事で、傷ひとつない。ただ、胸の辺りがジンジンと熱くて、心臓とは別の何かが強く脈打っていた。
「レイル!」
駆け寄ってきた父さんが、僕を抱き上げた。
その顔は真っ青で、声は震えていた。
「大丈夫か!?どこも怪我はしてないか!」
「うん、、。落ちかけたけど、なんか、変な音がして、、、」
「音?」
「さらさらしてて、胸が、熱くなって――」
父さんはそこで言葉を切り、井戸を睨みつけた。
そのあと、何も言わずに、僕をぎゅっと強く抱きしめた。
それからだ。
あの音が、ずっと僕の中に居座るようになったのは。
* * *
「レイル、起きてる? 朝ごはん冷めるぞー」
一階から父さんの声がする。
目を開けると、天井板の隙間から差し込む淡い朝の光が揺れていた。
胸のあたりに、まだ“残響”がある。
さらり、と。とてもかすかな、魔力の流れの音。
ここ数日は、特にひどい。
(……今日、か)
布団から身体を起こしながら、ひとりごちる。
今日は、僕がこの家を出る日だ。
この国で一番大きな魔法学校――王立環術学院。その新入生として、僕は入学することになっている。
平民の家から学院に進むなんて、滅多にない。
10歳のときに受けた魔力適性検査で、僕は妙に高い数値を叩き出したらしい。
正直、実感はない。
魔法らしい魔法なんて、ろくに使えないのに。
「レイルー? ほんとに起きてるの?」
「起きてるよ、今行く」
返事をして、簡単に身支度を整え、部屋を出る。
階段を降りると、パンの焼けた匂いが鼻をくすぐった。
「おはよう、レイル」
台所から母さんが顔を出した。
柔らかいブラウンの髪を後ろでまとめ、エプロンの裾には小麦粉がついている。
「おはよう」
「ほら、座って。たくさん食べておきなさいよ。向こうじゃ、私のごはんは出てこないんだから」
「それは……残念だな」
そう言うと、母さんは嬉しそうに笑った。
父さんはパンをちぎりながら、じっと僕の顔を見ている。
「ちゃんと眠れたか?」
「まあ、そこそこ」
「“音”は?」
父さんの問いに、少しだけ肩が跳ねた。
この家で、“音”のことを知っているのは父さんと母さんだけだ。
それが魔力の流れだと気づいたのも、ずっとあとになってからだ。
「……ちょっとだけ。前より強くなってきてる気がする」
正直に答えると、父さんは難しい顔をした。
「学院に行けば、それが何なのか分かるかもしれん。良い先生もいるだろうしな」
「そうだといいけど」
パンにかじりつきながら、胸の奥のざわめきに耳をすます。
さらり、と。今も、確かに流れている。
ただの幻聴だと思おうとしたこともある。
けれど、魔術師に診せてもらったとき、「魔力感応が異常に高い」と言われたあの一言が、どうしても頭から離れない。
「……ねえ、レイル」
母さんが、少しだけ真剣な声を出した。
「学院の敷地の端に、古い環柱の遺跡があるらしいの。同じクラスの子のお母さんが、心配そうに話してたわ」
「環柱……」
昔、世界中に張り巡らされていたという、環文明の遺物。
世界の魔力の流れを制御する巨大な塔。今はほとんどが停止していて、危険だから近づくなと教えられるもの。
王立環術学院は、そのひとつを囲むように建てられている――そんな話を、村の老人から聞いたことがある。
「絶対に、近づかないでね」
母さんは、パン皿をテーブルに置いた手をぎゅっと握りしめていた。
「……それって、例の家訓?」
この家には、昔からの決まりごとがある。
――古い遺跡と井戸には、近づくな。
理由は教えてもらえなかった。
父さんも母さんも「昔からそう決まってるから」としか言わない。
「迷信だよ。たまたま井戸で足を滑らせただけだし」
笑って流そうとすると、父さんが首を横に振った。
「……そうかもしれん。だが、嫌な胸騒ぎがするんだ。お前が学院に行くと決まってから、ずっとな」
父さんの視線が、一瞬だけ僕の胸元――シャツの下をかすめた気がした。
そこには、小さな痣のような印がある。
丸い輪が重なり合うような、淡い紋。
六歳のあの井戸の日から、気がついたらそこにあった。
何度か医者にも見せたけれど、「ただの痣です」と言われた。
でも僕には、あれがただの痣だとは、どうしても思えない。
「気をつけるよ」
そう言うと、父さんはようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「……ああ。すまん、変なことを言ったな。せっかくの門出だ」
「レイルなら大丈夫よ。ね?」
母さんが明るく言い、パンにジャムを塗ってくれる。
テーブルの向かいでは、妹のミリアがまだ寝ぼけ眼でスープを飲んでいた。
「にいさま、本当に行っちゃうの?」
「うん。でも休みのときには帰ってくるよ」
「うそ。絶対、向こうで可愛い女の子見つけて帰ってこないんだ」
「そんなこと言わない」
思わず噴き出すと、父さんと母さんも笑った。
さっきまでの重さが、少しだけ軽くなる。
それでも、胸の奥で ”さらさら"と擦れる音は、消えてはくれなかった。
* * *
荷物は多くない。
最低限の服と、書きかけのノートと、父さんが作ってくれた簡単な魔道具がひとつ。
玄関を出ると、外の空気はひんやりとして澄んでいた。
坂を少し降りれば、王都へ向かう魔導馬車の停留所がある。
家の前の道で、家族が並んで立っていた。
「元気でね、レイル」
母さんが涙をこらえながら笑う。
ミリアは唇を尖らせている。
「手紙を書くんだぞ。毎日とは言わんが、忘れるなよ」
「父さんの方こそ、飲みすぎないでよ」
いつものやりとりをして、最後に深く頭を下げた。
「いってきます」
そう言って顔を上げたとき。
ふと、視界の隅に、それは見えた。
遠く、丘の向こう。
王都のさらに向こうに、空を切り裂くような黒い影。
――塔だ。
普通の塔じゃない。
どこまでも伸びて、雲を突き刺すような高さの、異様な柱。
環柱遺跡。
ここからでも、その存在感ははっきりと分かる。
気づかないふりをしようとしたのに、目が勝手にそちらを向いてしまう。
胸の奥で、 さらり、と音がした。
遠く離れているはずなのに、まるで耳元で鳴っているみたいに鮮明だった。
(……やっぱり、何かがおかしい)
怖いような、でも少しだけ、引き寄せられるような感覚。
環柱と呼ばれる、その古代の遺跡。
千年前の環文明の名残だと、誰もが口を揃えて言う。
魔導馬車が到着し、御者が声をあげる。
「王都行き、乗る人は並んで!」
深呼吸を一度。
振り返ると、父さんと母さんとミリアが、小さく手を振っていた。
僕は荷物を抱え直し、一歩、前に出る。
さらり。
胸の中の音が、ほんの少しだけ、弾んだ気がした。
何かが、動き出そうとしている。
それが世界なのか、僕自身なのかはまだ分からない。
――ただ、この日を境に、
あの塔と、あの音と、そして“誰か”に、僕の運命が絡みついていくことになる。
このときの僕は、まだ何も知らなかった。




