30.断絶の輪郭~1.心なき記憶の声~
深夜の廃教会に、雨が静かに降り続いていた。
キャンドルの揺れる炎の前で、アルトは一人、古びた机にルナの涙を置いていた。青い宝石の中で、微細な波紋のような光が脈打っている。
「……始めるぞ」
その声は、誰に向けたものでもなかった。ただ、自らの過去に向き合う覚悟の宣言だった。
ファントムがそっと横に座る。
「まだ、引き返せるわよ」
「引き返して何が残る? “思い出せない自分”で生き続けることこそが、断絶なんだ」
アルトは、指先に微細な導電パッドを装着する。そして、宝石と連動した装置に接続することで、脳波を同期させる準備が整った。
「記憶はただの情報じゃない。“痛み”が伴う。……思い出すことは、壊れることでもあるわ」
「壊れても構わねえ。その中に、“誰か”を救える答えがあるなら」
ルナの涙が淡く発光を始め、彼の脳波と共鳴する。
その瞬間、アルトの意識は――“過去”へと引きずり込まれていった。──意識が沈んでいく。
音も色もない虚無の中に、ただひとつの“声”が響いた。
「アルト。君は――すべてを捧げる覚悟があるか?」
返事をする前に、記憶が流れ込む。
目の前に広がるのは、廃墟と化した都市。灰に覆われた空、崩れ落ちた塔。
それは過去、アルトがただ一人、生き残った“事故”の記憶だった。
いや、事故ではない。仕組まれた“検証実験”――。
瓦礫の下から伸びていた手。
少女の声。
誰かが助けを求めていた。
なのに、自分は立ち尽くすことしかできなかった。
「記憶の一部を“引き渡せば”、生き延びるチャンスを与えよう」
そのとき、彼に手を差し伸べた“男”の顔は、霞がかって見えない。
ただ一つ、胸元の徽章に記された《ネメシス》の文字だけが、はっきりと浮かんでいた。
「……生きたいなら、忘れろ」
そうして彼は、自らの意思で“誰か”の記憶を捨てた。
──アルトにとっての「最初の罪」。
ルナの涙が明滅し、記憶が揺れる。
だがそのとき、別の声が割って入った。
「……見つけた。やっと……あなたに会えた」
見知らぬ少女の声。
だがその響きは、どこか懐かしかった。
場面が転換する。
雨の街角、傘もささず立ち尽くす少女の姿。
その横を、かつての“アルト”が通り過ぎる。
少女は叫ぶ――
「アルト! どうして……どうして、私のこと忘れたの?」
記憶の断片が鋭く突き刺さる。
その少女は――セシリアではない。
彼が忘れた、もうひとりの“鍵”だった。
「君が私を忘れたから、私は世界から消えたのよ」
──そして、視界は闇に包まれた。
地上・廃教会跡
「……っ!」
アルトが目を見開いたとき、汗が額を濡らしていた。
ファントムが隣で支え、彼の肩を抱きとめる。
「戻ってこれたのね」
「……ああ。けど、すべては戻ってない。俺が忘れたのは、セシリアだけじゃなかった」
アルトは拳を握る。
失われた記憶の中に、“もう一人”の存在が確かにあった。
「君が私を忘れたから、私は世界から消えた」
その言葉が胸に深く突き刺さっていた。
ファントムは静かに呟いた。
「《記憶統合計画》……きっと、誰かの記憶と誰かの記憶を“重ねる”実験よ。もしかして……その少女、“統合実験”に巻き込まれたのかもしれない」
「俺が……引き金だったのか」
アルトは、机の上のルナの涙を見つめる。
その青は、今もなお、何かを訴えかけるように脈動していた。
同時刻・カーディナル中枢
モニターの前、初老の男が肩を震わせて笑った。
「目覚めたか、アルト。ならば次は――“統合体”に会わせてやろう」
背後の黒いカプセルの中、ひとりの少女が眠っていた。
皮膚には神経導線、脳波制御チップ。そして、胸元に埋め込まれた“ルナの涙の欠片”。
【被検体名:リュシア=コード000】
「君が最後の鍵だ。アルト・ヴァレンタイン」




