23.虚空の花園 ― 第3話 時計塔の温室
ついにアルトと〈ラ・ブランシュ〉は、時計塔の頂きにある温室の扉を開いた。
そこは現実から切り離されたような静寂の空間。
ガラス張りの天井からは星々の瞬きが零れ落ち、時間が止まったかのように、花びらが宙に漂っている。
《始原の虚空》。
その原種は、温室の中央に浮かぶように咲いていた。
まるで空間そのものを吸い込むような、深い藍色の花。香りは音もなく広がり、意識の深層へと忍び込む。
──その瞬間、温室が“記憶”に染まった。
アルトの目の前に現れたのは、かつての師・ファントムの姿。
闇夜の中で交わされた最後の言葉、背を向けた決別の瞬間。
それは幻影でありながら、あまりに鮮やかで、痛みすら伴っていた。
「お前はまだ、“選ばれる”側にいる。」
幻のファントムは冷ややかに言い放つ。
「盗む覚悟も、救う覚悟も──まだ、その手には宿っていない。」
アルトは一歩、足を踏み出した。幻影が揺れる。
「……それでも、俺は行くよ。過去の幻影に未来を譲るつもりはない。」
一方、〈ラ・ブランシュ〉の前には、妹ミレイが微笑んで立っていた。
「わたし、あなたに見てほしかったの。私の研究が、人を傷つけない未来を作るって。」
涙混じりの声が、耳の奥に響く。
だが、それは“記憶”が仕掛ける最後の罠だった。
「わたし、もう──」
「嘘よ!」
〈ラ・ブランシュ〉が叫ぶ。
「あなたはまだ、どこかにいる。私はその未来を、今から盗みに行く!」
その叫びに、幻影が砕ける。
アルトが手を伸ばすと、記憶を具現化していた虚空の花の中心部が脈動した。
「記憶に囚われたままでは、未来を盗むことなどできない。」
アルトは静かに呟くと、制御装置の心臓部にナイフを突き刺した。
虚空の花の香気がしんしんと消えてゆき、温室に“現実”が戻ってくる。
照明が点滅し、財団の隠された監視網が次々に露出する。
リリックから送られた遠隔指令が起動し、記録装置の封鎖が解除された。
──《始原の虚空》をめぐる真実。
──神代ミレイが生きているという断片的な記録。
二人は記録を回収し、塔を脱出する準備を整える。
そして、塔の回廊で最後に立ち止まったとき、〈ラ・ブランシュ〉が問うた。
「……あなたは過去と、決別できたの?」
アルトは夜の風にマントをなびかせ、ほんの少しだけ笑みを浮かべて答えた。
「怪盗に必要なのは、過去を切り捨てることじゃない。
過去を“盗んで”、未来に隠すことさ。」
その言葉と共に、時計塔の鐘が午前零時を告げる。
〈ラ・ブランシュ〉が振り向いたとき、アルトの姿はすでになかった。
夜空に溶けるように──怪盗は、また闇へと消えていった。




