第二部 第77話 世界に走る亀裂
ルナの涙が消滅した後、塔の内部にはただ青白い残光だけが漂っていた。
アルトとファントムは互いに背を預けながら、崩れゆく瓦礫の中を駆け抜ける。
だが、出口に辿り着くより早く――世界そのものが軋みを上げた。
「……聞こえるか、アルト」
ファントムの低い声に、アルトは思わず立ち止まる。
耳を澄ませば、大地の奥底から響く不気味な“うなり”が、心臓を直接揺さぶってくる。
――規定外。契約破棄。均衡の崩壊。
ルナの涙の奥にあった記録が、言葉の断片となって空気を震わせる。
やがて空が割れた。夜明け前の薄明に、ひび割れのような漆黒の筋が走る。
そこから滲み出すのは、光を呑み込む影――。
「……あれは、虚空の花の残滓か?」
ファントムが眉をひそめる。
アルトは首を振った。
「違う。あれは“誰か”が用意した後始末だ。契約を盗まれたせいで、均衡を修復しようとしてやがる」
影は人の形をとり始める。
幾千もの輪郭が、空からゆっくりと降りてくる。
その一体一体が、アルトの記憶のどこかに潜んでいた“亡霊”と同じ顔をしていた。
「……おいおい、俺の悪夢をそのままコピーするなっての」
アルトは肩をすくめるが、指先は鋭くナイフを構えていた。
その時、ファントムが低く呟いた。
「アルト……この影は、私の幻影でもある。かつて切り捨てた未来の化身だ」
二人の前に現れたのは、互いの過去と未来から生み出された、黒い軍勢。
逃げ場はない。
「師匠……」
アルトは小さく笑った。
「結局、選択肢を盗んだ結果がこれか。なら――答えは一つだろ?」
ファントムの瞳に、かつての激情が宿る。
「……ああ。未来を盗むために、まずは“影”を盗み尽くす」
二人は同時に踏み込んだ。
光と影がぶつかり合い、塔を包む青い残光が火花のように散る。
そして世界の均衡は、確実に崩れ始めていた――。