#7 封印されし『聖書』という叙事詩より
#7
そのことから睡眠薬代わりだった読書が知識を手繰り寄せる可能性に変わった。
ていうか、本とは元々そういうものだったはずだ。
言論の自由に基づいた文化がこの国にはあって、教育を通じて本とは知ることを助ける最高のツールの一つであることから伝統的な識字学習に採用されていて、その道を私も通っているはずなのにどこで道を間違えてしまったのか・・・わからないでもなかったけれどわからないようにして自分が歪みきってしまっていたのだなということを思い知らされ、結構相応に恥ずかしい気持ちの自分がいた。
どれくらい恥ずかしい思いをしていたのかというとだな、蛇口をひねれば水が出るという当たり前のことを初めて知ったかのような新鮮な境地に胸が躍ったみたいなことを私的に言い換えると、“女性の顔はおっぱいまで”みたいなこれ以上なく酷く歪んだ認識が顔や見た目はその人の入り口に過ぎないことにある日突然初めて気がついたかのような・・・そんな感じだ。
長年にわたって本といえば目次に目を通して終わりから読むもので、中身はネットのネタバレでわかりやすくまとめて把握して、その理解を女性との共感に用いる、という環境で育ってきたため本とはつまり色欲を満たす手段であり、女性とのパートナーシップを実現させるための指南書や虎の巻の類のものであることから、もはやあらゆる著書が私にかかるとちょっと高度な18禁のピンク本にしか見えていないという次元の認識が改まったのだ。
たぶん何かの能力だったとは思うのだが、いわゆるカンストしていたと思われる程度には成熟していたので、その資源というかエネルギーのリソースを転職して何か別の職業の新たなスキルで快適なキャリアアップ生活にしようみたいなノリで私は手始めに小説版の聖書を手にしていたような、してないような自分でもよくわからない勇気を振り絞って最初のページを捲ったのだ。
ウォルター・ワンゲリンの小説版『聖書』の旧約と新約の2冊のことだ。
本は分厚ければ分厚いほど良いという誤りと見た目が悪い本はダメだ、という認識でもあえて読んだことにしておこうと購入した2冊の小説版の聖書は福音の引用がカッコ良くて秀逸であるモデルがあったからだ。
私にしてはマシな動機から手元にしていたのだなと見せかけて、実際は『バスタード』というダークファンタジー系漫画のジャンプ誌とは思えない逸脱したエロ過ぎる描写を楽しみにシリーズを追っている内に、やがて黙示録の伝説と叡智を超絶的な技術で描こうとしている主旨に引き込まれながらも絶えずエロいシーンを欠かさない期待感への下心から選んだ、というのが真実だ。
だから、いつか世界が終わるかのようなシチュエーションでもあった時には・・・とか考えていたのであろう。
イエス・キリストの言動及び有史以前の世界を詩にした弟子たちの福音をセリフにして紳士的に役に立てようと心に構えて、何となく機とでも思ったのか・・・真面目にその真言を唱えてみたら当時も今も呪いの塊であったであろう私も一般女子もその言葉のあまりの清らかさに業火のごとく色々と焼き払われた。
もちろんその書物、小説版の聖書は封印した。
はっきりいって聖書のキリストの言葉やヨハネの黙示録等の詩を一般女子との会話に転用するのには流石に無理があった。
残念ながら聖書の効果をカッコ良く扱えないことが判明したことから私の『バスタード』は単なるエロ漫画となってしまったが、それでも間接的には聖なる言語による叙事詩のなんたるかを知る最初の扉を開けてくれたことには違いなく、だいぶ時間が経過してしまってはいるがあながち藪から棒でもなかったのだとも思う。
だって、その封印が今は開かれているのだから。
眠っているのか、眠っていないだけなのかの朦朧とする意識で小説版の聖書を読んでいたときの印象のことは今でも覚えている。
感情である色彩の輝きを司る『叙事詩』のひらがなのような何かの部分が増えていく、その感じはまるでRPGの『FFⅩ』で用いられる異国言語が辞書によって一文字ずつ解放されていく仕様のようだった。
話の途中で訛りの効いた方弁のような異国言語が語られる中で翻訳書を手に入れるごとに断片的にだけわかる文字がセリフのテロップに織り交ぜられている感じに似ていて、それでいて言ってることや書かれていることの意味は全くわからなくても物語の進行にはほとんど支障がない点もまた『叙事詩』の在り方とそっくりなことから、私的になんとなく『叙事詩』のパーソナリティーであろう記述の文字がアルベド人のように感じられて少し親近感が湧いていた。
そのことも助けてなのか、ひらがなのような文字記述の解読の解放よりも先に、『叙事詩』からのメッセージのような何かの理解が色彩の輝きの中で進行しているような気配というか意向のような何かを、なんとなくだが私の知性でも感じ取れる程度に流入されたものが私の直観となり、夢となり、それに色(私の力ではない別の何かによる加工=色)のついたものが私の記憶として変換されていく。
どうやら私たちの生きている世界とは私たち人間が楽しいと思ったことだけで完成させ続けられていて、“現在”として認識しているそのような完成進行形の感覚世界もまた未来からの神話や伝説の観察対象の一部であるのだが、当事者である人類の多くが3000年前から変わらずそうは考えていないことを「アホだ」と言ってる罵倒が聞こえるような・・・
過去あったかもしれない文明の痕跡や天体や自然、人間に関する未知への仮説を証拠不十分と不完全で歪な知性で歴史の正否をジャッジし、アカデミーにとって都合に合わない解釈はすべてファンタジックな御伽噺の類として嘲笑することで別の利益に目を輝かせているその姿勢そのものが「終わっている」としている溜息の吐息が見えるような・・・
絵に描いたような排他的ご都合主義による権威的愉悦と支配欲に基づくことでの“楽しさ”の快楽に酔ったごく一部の為政者同志の合意によって人間社会は有史以来呪われた歴史の秩序の末端のことを最新だと信じていることを「嘆かわしい」としている落胆がわかるような・・・
“現在”と呼ばれるその末端で、人間の都市は自然を排除した金属とコンクリートという硬い物質で覆い、人間の意思を精神回路と呼ぶことで電気のように扱い、生命を勘違いした解釈で生物や作物をいびつに歪め、地上の神の真似事の執行に従事することで提供される生活をより安全便利で快適自在に変え続けていくことを進化と思い込み、それによる利益創造及びその甘い汁やおこぼれを拾い上げることを目的化した生き様の相互関係によって人間の世界はあたかも合理的に構造化されているかのように幻惑されていることの意味が「まったくわかっていない」とラッパを吹く準備不可避としか言いようがないと呆れている衝動が感じられるような・・・
なんか妙な集中の仕方ではあったが2冊も一気に単行本を制した読後感とやらに浸っていた。
ただ、とても文脈と意味を理解しながら追っているとは思っていなかったことから、物語調となった聖書の登場人物たちはアニメのオープニングのようにキメ顔でダイジェスト的に通り過ぎていくかのような感じだった。
次から次へとカットインしてくる人物の名前を思い出すことすら危うい故にその演出の意味も価値もわからないから全然感情移入できていないことはなんとなくわかっているのだが、でもなぜか自分が聖書を読み進めているという感じだけはあって、カットインの人物たちが割と大変な目に遭っているシーンが走馬灯のようになってくると・・・あとはまるで夢遊病者のようにウツラウツラと虚になって読書をしているのか寝ているのか何なのかも判別のつかない自分がそこにいた。
そこ、というのは文字通り、そこ、であって私は自身を見下ろしていたのだった。
そして、私が見下ろし項垂れている自分に何か尿のような黄色いものを被せている小さい奴がいた。
ドワーフ?
それについて「何やってんの〜!」という超展開にありがちな驚きというか、動揺みたいなのも含めて不思議さを感じる自分が不思議といないのが不思議だった。
私はその様子をただただ冷静に眺めていると夢遊病者のような色の抜けた私は黄色い何かをかけらているというより、ドワーフの動きに合わせてどんどん黄色の半透明に掘り進められているのが自分なのだということを理解しようとしていた。
半分以上の自分の身体が削られて黄色の部分の方が目立ち始めた頃に色の抜けた自分の皮膚というか型のような人間形態を脱皮するかのようにペリペリと剥ぎ落とした黄色の中から金色の人間が起き上がるようにして現れた。
まるで炎の中の灰から蘇る不死鳥のようだった。