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楽しいこと以外全部ウソの叙事詩   作者: ばんだな
終章
64/64

地球が月(ルシフェル)になる日まで【劇場版:楽しいこと以外全部ウソの叙事詩】

4ヶ月ぶりに更新しました。

2023年の12月末から2025年4月末に至る約1年4ヶ月の物語を完結できました。

現在の地球文化期に言及することはできませんでしたが、アトランティス時空を通じた神々と私たちの見上げる宇宙との関係を自分の中で明らかにできる範疇での表現ができたことには満足しています。

7万文字の大長文の劇場版だと思って最後迄お読みいただければ幸いです。

#64


皇帝マヌの皇帝とは、アトランティス時空そのものを統一的に支配していたという意味での皇帝で、アトランティスの各種族が治めていた原ツラン、セム、アッカド、モンゴル人たちの都市国家等の政治的なトップである統治者とも支配者とも全く違う立場のことだ。

いわば、君臨者とでも呼ぶべき存在である。

何度も繰り返すがマヌとはアトランティス時空の記憶と私たち現代人の意識の転生体である秘儀参入者とをつなぐエーテル存在のことにあたる。

エーテル存在とは物質の背後でその形態と代謝による生命状態を定めている因子で、地球上の全ての存在はこのエーテル組織の青写真に基づいて形態化している組織体にあたる。

そのことから、それらの司令塔としての皇帝マヌとは、いわゆる地球の神である。

通称エクスシアイで、天位階六位の形態の神霊で、その一人称は「我輩」だ。

アトランティス時空における地球の神の匙加減がアトランティスの人種とそれにあたる地殻変動と気象サイクルによる天変地異が各時代で繰り返されていたのだが、その心は霊化させた月にふさわしい人種の選別だった。


霊化された月とは月の生まれ変わりである地球のことだ。


現在、地球の衛星として周回する月は生まれ変わった月の物質形態としての名残であり、古い月のその実態は地球の核として生命体の根源的な役割を担っている。

また、衛星としての月と古い月の生まれ変わりである地球との間に生じているのが重力であり、その重力という地球の引き寄せる力とは衛星としての月が魂の故郷であることが繁殖の道となっていると同時に、地球として転生した古い月の霊化された魂が生命力となって宇宙空間を展開している。

展開とは膨張及び斥力の作用反作用のある領域の空間化と呼んでも構わない。

エントロピーという熱エネルギーを拡散させている時間的根源でもある。

その力は人間のオーラとして絶えず放たれている生命作用にも認められる。

オーラとは現代の科学が元素や素粒子と呼んでいる化学反応に法則という力を提供している精霊との関係性を定めている運命の絆を現す反映である。

精霊との関係は主に地球の元素界と結びついていることの現れで、その気質が地球の生命体と関連したオーラの影響を受けることで色彩となって、その“人と成り”に見ることができるようになっている。


火:胆汁質=赤(牡牛座・獅子座・射手座)

風:多血質=黄(双子座・天秤座・水瓶座)

土:憂鬱質=青(牡牛座・乙女座・山羊座)

水:粘液質=緑(蟹座・蠍座・魚座)


この四つの自然元素と気質と色は生まれつきの子供ほど強く顕著に偏りを現す。

そもそも、それら地球の精霊である元素霊が結びついたものが生命体として働いているものに応じて、意識である魂はそれを対象として知覚したものに、それぞれの水準で反応しているのだ。

それらの素養がやがて魂の自我で自らの気質に触れ、そのオーラが齎す力を感じることを精神の知覚とし、自我の認識に応じた色がその自然や社会といった環境からの働きかけでもある文化や教育との調和の具合として混ざり合ったものが、その人間の性格や人格となって魂と関係していくこととなる。

人間以外の動物にはこの自我によって魂を思考する記憶を彼らの肉体の仕様にて持たないことから、生命が提供する力である本能の作用を彼らの魂の反感と共感に基づいた記憶で対象と関わる。

だから、彼ら動物たちの性質は基本的に自然と強い親和性と共にあって、その親和性は生命の顕現である精霊を使役している大天使の支配下にあるアストラル界に、彼ら動物霊の自我は私たち人間と同様に存在している。

つまり、オーラとは気性や性格の魂の色なのではなく、魂がオーラの色となっていく、というのが見方としては正しいということだ。

この手の関係性をどのように見て考えるのかを試されているのが、現代の地球に生きている私たちの自我に提供されている魂の状態あるいは段階と境遇のことにあたり、その課題が一個体ごとの視界に与えられることで全体を俯瞰するための自己と対象とを区分する思考が降っている。

魂の状態と段階及び境遇とは地球の運命のことと言える。

当たり前だが、地球の運命はもうすでに決まっているし、終えているとも言える。

人の肉体が必ずその活動を死とともに終えるのと同じだ。

宇宙でさえも閉ざしては現れるを繰り返している。


悟りとはこの決まっている予定調和を俯瞰した上で魂と共にあることだ。


生命が規定している意志というものが肉体を生かしている。

その意志を何となくでもオーラとして認識することがカルマの知覚とも言う。

カルマとは肉体を認識とした空間への印象の全てである。

だから、オーラを見ることができる知覚そのものは大切なことではない、

なぜなら、オーラは生命のあり方の可能性を示しているだけの、誰もが有している力の顕現に過ぎず、たとえオーラが見えているからといって、必ずしも優れているわけではないからだ。

オーラとは、より高みに到達できる可能性が目に見えているだけの話。

しかし、その高みを知るものの可能性はその死後にも影響していることは事実だ。

オーラの知覚、それこそが魂が肉体の生涯で獲得することのできる魂化した生命エネルギーの現れの表出であり、それが肉体を失った人間の魂の果実となって、私たちの死後の次なる誕生のカルマとなって導いてくれることとなる。

オーラの成果に応じて霊的な生命力として宿命を提供してくれることとなる。

私たち魂はそのオーラに応じた位階を渡ることとなる、という意味だ。

肉体存在そのものではない私たち魂としての価値は、ある意味オーラがその道の行く末である可能性を示していることから、大切でないはずはない。


しかし、オーラが見えているだけで優れているとは限らないのである。


私たちの魂による生命観がオーラとなって現れている。

私たち魂を介している存在は肉体の死を以ってしては終わらない。

その前提に立ってのみオーラの知覚には意味を持つ。

その意味は地球という天体を見る際にも同じだ。

天体としての運命は決まっているが、その天体の働きと活動を担っていた、地球の神である存在の魂はその宇宙紀の役割を果たしたのちにも、次の木星紀からさらには金星紀、ヴルカン紀といった宇宙を逸脱させてきた存在との関係性より、そのオーラは役割を変えながら根源叡智の下に永遠に続いていく。


たとえ、その魂を司っているはずの霊が堕天したとしてもだ・・・


その状態の一つの階層領域として物質としての宇宙と地球は知覚されている。

ゆえに、私たち人間の肉体とその舞台となる天体の運命は決まっているのだ。

ただ、その運命を如何にして見て、自分自身の存在を何であるのかを“想う自由”を抱く魂の運命は、人間の肉体とも天体とも別の顛末が生命の成果であるオーラに応じた星の数だけ存在している。

なぜなら、宇宙という星空そのものが私たち霊的生命体の魂だからだ。

見方によっては夜空とは私たちの未来の肉体の空間体であり、地球の人間のエーテル組織が生命の機会を提供してきたオーラを魂の成果として、宇宙に回帰させた似姿なのである。

物理学が宇宙はビッグバンから多様化した元素を基にした星をまず創り出し、その星の崩壊と再生がやがて生命の素となるアミノ酸による構造体が生態系を生み出し、知的生命体である人間に至ることとなったという仮説とは逆に、人間の魂とは死後にエーテル組織の分離から解体されたのちにやがて星の素性となって再利用される。


つまり、魂とは星の成分であり、その観念が生命によって星にされるのである。


魂の成果とはオーラの認識に応じた星の魂体(アストラル体)を通じて肉体を知覚している。

外は内だからだ。

外側とは内側の反映のことなのだ。

もしも、あなたの宇宙が地動説であればその先入観があなたの宇宙観となる。

もしも、あなたの宇宙が天動説であればその先入観があなたの宇宙観となる。

また、あるいは地球の地動説を認識している私たち人間の魂の自我が太陽系及び天の川銀河を超えて宇宙を回している全体を司る存在であるとしたら、その全体の中心があなた自身の宇宙観となってあなただけの現実となる。

そうやって私たちのカルマはあなたの思考と認識の声としての感覚を影として、必要悪であると同時に、最善の出来事と受け入れた上で行動する魂が世界を支配した現実となる。

たとえそれが誤謬であろうともだ。

ただオーラを成果とした顛末がその剥き出しとなった魂の観念が星となる。


その世界の展開に現実的な生命を与えているのが私たちの細胞なのである。


そして、その集合体である肉体が空間化しているのだ。

空間の中に肉体があるのではない。

地上の空間は肉体内部で隠されているものを自分の世界として見ている。

目という地球観測のためのレンズとも言うべき精度がその解像度を意味し、その度合いに応じた宇宙をそれぞれの肉体の数だけ違った世界観となっている。

言ってしまえば、宇宙という空間とは目にこびりついたゴミのようなものだ。

肉体を構成する生命の世界から吐き出された思考が宇宙となっているのだ。

しかし、私たちは自らの目にこびりついた砂つぶのことを見ることができないように、自分たちの種であるかつて人間だったものが吐き出してきたものの総体が脳となって、その脳が目となって剥き出しに競り出たものを空間と呼んでいることを疑うことができない。


なぜなら、ゴミがゴミであるという自覚からゴミを守るために脳があるからだ。


私たちは自分の目にこびりついたゴミを認識することができない。

不愉快で不都合な出来事をゴミとすることは日常茶飯事だが、その目に映る空間全てがゴミとして排出された産物であるとは、夢にも思わない仕様が私たち人間の魂の窓である目と脳には施されているからだ。

だから、脳は自分をゴミではないという自尊心を尊ぶし、自分をダメでクズで役立たずだという思考が始まって、その思考で現実世界を認識するようになると我にかえることで自分の内側の隠されたものの力によって正気を失う。

魂の自我にとって地上に存在しているという自尊心ほど大切なものはないからだ。

逆に私たち魂が肉体内の生命作用の一端でも触れるというのは、火鉢の中に自らの手を差し出すようなもので、生命の働きに魂が関与するというのは藪蛇以外の何者でもないということだ。

このことは私たち魂の器である肉体及びその他対象として存在している全てが超常的で、目に見えるもの以外の関与による特異点的な作用が空間そのものに及ぶレベルで宇宙を創造し、魂にその像を知的生涯或いは障害と偏見をもって認識させていることを意味する。

例えば、極度の精神的な苦痛や不安と共にある人の眠りや臨死体験や急死に一生を得た擬似死を体験した人などが証言する印象の感覚はみな自分自身の肉体の内部での経験を口にしている。


表現できない安らぎ

自分の死の宣告を聞いている

平和と静寂の気分

騒音

暗いトンネル

肉体からの離脱

他者との出会い

光の存在

生涯の回顧

生と死の境界

肉体への生還


魂は意識を失うことによって肉体を去るというより、肉体へと繋いでいる通路を通ることによって生命が行なっている肉体の究極的でもある死をもたらす、極度の苦痛と恐怖から回避するための運動をしているのである。

私たちは自分の肉体の皮膚の表面と内部の熱と痛いしか知覚することができない。

逆にいうと、体内の消化と代謝作用の詳細を知らないことによって健全な思考を自分の魂の自由に基づいて行うことができている。

私たち魂の健全でスマートな思考を可能としているのは、自分の肉体だと思っている多くのことをほとんど知らないにも関わらず、さほど葛藤なく肉体活動ができている事実をほとんど疑う必要がないことによって成り立っている。

その疑いようのない立場の像を現実として本物以外の何者でもない自分の世界をビルドアップしているのが、物質化したエーテル組織に神経回路を通じて骨格化させているアストラル組織で、宇宙という星界の中の地球と人間の肉体を自分のことだと認識している。

でも実際は自分の周囲とは自分が疑いもしていない肉体の内部の隠された力であるかつての自分及び人類の総体としての時間と空間の反映なのだ。

その魂が選んで認識しているアストラル体を“地球のエーテル体の個人形態としてある人間”の生命の記憶に出たり入ったりを繰り返しているのが私たちという魂の主体だ。


朝、魂は足元から入る。

そして夜、頭から抜け出ていくまでの夢を魂が見ているのだ。


繰り返すが主体は肉体ではないのである。

肉体とは地球の一部であり、地球の生命体からの借り物である。

一方で、私たちの魂とは宇宙そのものを由来とした、宇宙という空間そのものを俯瞰している存在だからこそ、“()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()“が自我を有した魂の個に、それぞれの個性として現れているはずだ。

その個性による自由な活動が“想う自由”となって人間の肉体で可能となった。

私たちは魂や意識のことを感情が血流や神経に作用することもあって、自分の内側にあるものだと信じているが、実際は外部環境の影響を受けることでのストレスであることを考えれば、肉体という境界が実際はあってないようなものであることは食事や呼吸からも明らかなことだろう。

確かに肉体は一見閉じた枠組みである器を有してはいるが、本質的には外部からの摂取やら呼吸器の循環やらを介していることから、地球との境に内と外はない。

同じ理屈で、前も後ろもない。

全てが同心円の世界観を展開している力が細胞となって組織化したものが、天体となって、その天体特有の力がそれぞれ宇宙の逸脱的な縮図となって生態系化したものが自然宇宙として現れている。


そして、その形成は宇宙となった魂が視覚である眼球に張り付いてたもの。


世界の自然現象の全てが同心円であるように見えるのは眼球構造のためだ。

その眼球構造を介した力そのものが心臓生命の光を素にした脳である月だ。

目とは人体の外部へとせり出た脳だからだ。

私たちは自分の肉体の目で外部を見ていることを認識としているが、実際は人体の内側から照射されている生命の光である投光器からプラネタリウムを見上げるようにして“自分で現実の世界”を展開している。

これは文字通りの意味だ。

私たちが光と呼ぶ光源は眼球の向こう側である脳よりもさらに奥に由来している。

心臓だ。

心臓という人体の中枢はエーテル光によって人体の全てを照射しているだけでなく、その光をまるで人体空間をリープするかのようにエーテル的な作用で脳と直接繋がっている。

その光が投光器となって脳による星空のフィルターが展開するプラネタリウムとなって私たちの構成要素である細胞が瞬く程度の光しか放つことのできない星座となって見下ろしているのだ。

近くのものは大きく、遠くのものは小さい。


領域 自然界 人間構成要素 状態 自然要素 臓器 薬剤

精神(思考の知覚) 人間界 自我     熱  火    心臓(太陽) 鉱物素材

(意識、感情) 動物界 アストラル体 気体 風    腎臓(金星) 植物素材

生命(宇宙) 植物界 エーテル体  液体 水    肝臓(木星) 動物素材

物質(地球) 鉱物界 肉体     個体 地    (水星)  人間素材

      ※人間化状態         ※胆臓=火星 土星=脾臓 脳=月


要は目の前に見えるものの中に見えないものの全てが存在しているのだ。

地球上には宇宙法則の全てが働き、宇宙もまた地球の影響を受けている。

人間の肉体は地球全体の影響を受けながら、宇宙的存在の作用を生命としている。

月の作用が脳に働いているのと同じように、太陽系の惑星は人体内の各臓器の作用に内蔵されていることが宇宙の法則として内と外の両面に現れ、人体の組成を担っている各細胞の一つ一つは遥か遠くの果てから儚い光を届けている無数の恒星とその星座の輝きにあたる。

その光景とは外のように見えると同時に肉体の仕様が提供している光なのだ。


そのことは眼球の網膜内にある光受容体細胞が教えてくれる。


光受容体細胞は瞳の向こうの外ではなく人体内に向いている。

光受容体細胞には棹体細胞、錐体細胞、メラノプシン発現網膜神経節細胞とがあり、棹体は暗い場所での光の感知、錐体は色の波長、最後のメラノプシンと呼ばれるタンパク質受容体は視覚以外の光に応対することで瞳孔の収縮や光の回避行動等による明暗の周期への同調がそれぞれの主な役割とされている。

注目して欲しいのは視覚以外の光に対応するメラノプシン発現網膜神経節細胞が活動することによって瞳孔や明暗の反応が起こっていることと、その網膜内器官がその役割を果たすにあたっての光を受け取るための窓口であり入口が眼球の外ではなく、脳と結びついている視神経からの光をまず受容する仕組みと構造を持っている点だ。

繰り返すと、光受容体細胞は人体の内側に開いている、ということだ。

ちなみに眼球の網膜と脳の視神経が結びついている点のことを盲点という。

要はその盲点にて光が外からやってきているよう見るための変換が光受容体細胞からの眼球内の神経で行われたその人体内から反射された光のことを私たちは太陽の光であるとしているのである。

もちろん、そのような変換を行なっているのは脳であり、脳からの視神経だ。


私たちはその光である太陽光のことをアストラル光と呼んでいる。


アストラル光が提供している私たちの認識は存在しない電子を目に見える電磁波で補うようナビゲートしている、いわばアナウンスとして私たち人間の魂を誘導するための周波数が光となって太陽と月による宇宙の結界を創造しているのだ。

その創造が音の周波数による光となって、その光が循環と回転と運動を伴いながら物質化してきたアストラル世界からの提供を宇宙科学はある程度物語ってはいる。

だが、太陽の光の背後に存在するその力の内実が魂であり、さらにその向こう側には光の本質としての生命の世界があると仮定することさえ言及できないことによって現代科学は袋小路となっているし、これからもそのバイアスは働き続けることとなる。


アストラル界に由来する魂とは運動を促す全ての根源的な力のことなのである。

生命とはその運動にリズムと秩序という再生の場を提供する心の力ことである。


上記のことは実質はおろか概念としても現時空の人間は認めることができない。

私たちの科学が磁場や磁界と呼んでいる天体を覆う力がそうさせているのだ。

同心円という眼球の認識を形成している月の結界の作用である。

天体が丸いことと並んで、自然界の天然素材が全て曲線を描くのも、磁場や磁界や重力が波としてあるのも、全て月と太陽と地球が生み出す同心円による力と運動の根源であるアストラル組織の作用なのである。


力の作用及び運動とは全て魂の世界であるアストラル界に由来している。


その力を認識するよう要請する魂の顕現である意識は、原子からの電子という存在しないものを存在していることにして存在させる人間の意識の“見たいものを見たいように見る”という、自分の世界への思い込みを実現させる自由意志の権能を引き出す働きかけで宇宙を歪ませる熱の揺らぎによって人間の人体に“時間”と認識させるよう作用している力の根源である。

それが私たちの宇宙を照らしている太陽の作用である。

その太陽の作用とは物質だけを反射することで、私たちに季節の移り変わりを通じて天体の移動周期が時間であると認識させ、全ての生命力の源が太陽の光である、という当たり前の理解を私たちの魂に共有させてくれる存在が宇宙にて水素とヘリウムによる核融合によって半永久的に燃え続けている、という誤謬を拡散している光のことだ。


だって、水素がどこから生まれているのかを誰も説明できないのだから・・・


それでも事実として私たち魂の現実を太陽は照らしている。

その物質の元となっている根源たる力と光を「偽りの太陽」と呼んでいる。

例えば、私たちが光として認識している光もまた偽りの対象に相当する。

なぜなら、光そのものもまた空間での反射だからだ。

反射とは像であり、光そのものではないからである。

影を指してそれが本物であるとする人間がいないのと同じことだ。

ちなみに、デンマーク工科大学の量子実験にて「光という状態には三七の次元及び座標が関与している」という見解を明らかにしているように、現代科学の最先端でも光をはじめとした様々な現象が三次元を超える状態の必要性を示している。

光も重力も生命も魂も全ての法則は単一の現象として括ることはできない。

全てのことが一つに、一つのことに全てが複雑に収束しているからだ。


収束させているのは古い月の抜け殻でもある衛星としての月だ。


月は私たちの認識の中枢でもある偽りの太陽をも宇宙に存在させている。

太陽が熱の塊として認識されるのはその本質が霊的な自我であるためだ。

私たち魂の自我が肉体の内に熱だけを感受しているのと同じ作用が地球空間を覆う偽りの太陽として私たちの認識として現れている。

月の力を利用して本来一つの集合魂であるはずのものを太陽に見立てて、その光で宇宙という無限の空間を一つのものとして地球に存在させているのだ。

膨張する宇宙の反映はその偽りの太陽が生み出している遠心力が無限遠点と観測されている現象であり、その影響で宇宙は引き伸ばされた真空のスペースとなり、限りなく絶対零度に近い虚無的な空間を展開して見せている。

眼球を創造している生命を逸脱しようとする脳による“同心円の力”である。

私たちにそう観測させる偽りの光の背後から提供されている偽りではない光の本質の一部である粒子の光だけを私たちは光として認識して、宇宙からの数多の錯覚を自分の現実とすることで肉体の生命活動に天体を循環させている世界を投影主と信仰しながら、星界と呼ばれるアストラル空間の認識宇宙を生きている。


一方で、この循環運動の世界の秩序とリズムを定めているのはリンパ生命(=エーテル体)だ。


リンパ及びエーテル体は白血球と並んで人体の健康状態を補完している。

その正常な補完状態であるホメオスタシス(恒常性)を維持する働きとして反映されているのが新陳代謝であり、その代謝の刷新のためのリズムを定めているのが生命の光を発しているエーテル体の持つエーテル光である。

恒常性とは代謝が一瞬前と同じ状態を維持している記憶を実現している意志だ。

この意志がいわゆる人体内の光と呼ばれる生命光であり、腸内細菌の環境である腸や臓器を正常に機能させるための細菌群がお花畑のように品種ごとに並んで咲く秩序を形成していることから腸内フローラ、腸内細菌叢とも呼ばれる、生物の個性と秩序を形成している人体(動物=逸脱人間)の太陽のことだ。

私たちが意志と呼んでいる人体内の生命の光は魂が力を失う死の直前、例えば極度の空腹や極寒下だったり、窮地に瀕している時等に感じられる通常ではあり得ない人体の生存作用のことだ。

また、人間が自然死を遂げようとしている昏睡状態の、いわゆる看取りの際に下手に点滴による栄養提供や水分補給を行ってしまうと痰が増えたり、足が浮腫んだり、尿を作ることのできない状態による心臓や腎臓への負担をかえって高めてしまうことによる苦痛が終末を迎えている人間を苦しめてしまう。

そのことから、臨終という特殊な状態では通常の身体機能とは別の生命作用が提供された、あるいは残された水分だけで人体の活動を司ることもまたエーテル体の為せる生存作用なのである。

その生存への力と人間の寿命までの人体状態(死までのプロセス)を認識しているのが心臓なのである。


私たちが心臓と呼んでいる臓器が太陽なのである。


心臓という臓器は単独で人体全ての血液を回しているポンプなどではない。

私たちの血液を回しているのは、先の説明にもあるように磁石そのものにSとNの力及びその方向性を有しているのではく、天体の秩序を形成している磁界を形成している同心円の力の大本であるアストラル界が流している。

生物は自らの心臓の力で血液を流しているのではなく、その魂の力を介して運動することによって、血液の流れを心臓の存在によって知覚しているのである。

その知覚が眼球を通じた同心円となり、その同心円の運動が全ての存在を回転させ、天体をも循環させている作用が私たちの魂の世界ではトーラスと呼ばれる磁場として、心臓と太陽が提供しているトーラス状の力の反映と同時に偽りの太陽の周期を中心とした天体の運動を時計とした時間という目には見えない刻印(記憶)の中とその間で私たちは生きているのだ。


その私たちの生命を定めている最も大きな周期のことを歳差周期と呼んでいる。


歳差周期とは、地球の歳差運動により天文学上の現象として黄道に沿って少しずつ西向きに移動した時の周期のずれを前提とした太陽系の足跡のことだ。

この歳差の周期は約二五八〇〇年(正確には二五七七二年)である。

地球の地軸に応じて見渡すことのできる太陽の背後に展開されている天の川銀河の対局に位置する星座が二一六〇年ごとに時空の中の人間的な階層を地球の大陸がプレートテクトニクスによってその造形を変化させるようにして人種的な造形を決定づけてきた。

その人間的な造形が現代を生きる私たちの魂は自分たちの世界である時空を二五八〇〇年という周期の枠組みの中に認識しているだけで、実際はほぼ1日で魂の認識している二五八〇〇年という天の川宇宙全体が定めている周期を私たち現代人の人体は体現している。

つまり、太陽の周期に基づいた時間感覚というのは天体が定めている以前に、私たち地球で活動してきた人間の人体の構造プロセスの変化に伴ったものであり、地球以前の私たちの在り方が宇宙として存在しているように、全ての宇宙が現在の私たち人間の人体の生命作用として受肉した究極の物質体が現代人の肉体なのである。


だから、人間の人体が有している周期と宇宙の周期には相関が生じている。


天の川銀河の太陽系の歳差周期(二五八〇〇年)は私たちが一日に行う呼吸の回数と同じだ。

呼吸の回数は一分間に昼と夜の一日平均約一八回で、そのリズムは地球の海が行っている一分間の波のリズムと大体同じでもある。

また私たち人間の平均的な一生も三六五日と七二年で二五九二〇日となるその縮図が心臓の一分間七二回の拍動に反映されている。

繰り返すが心臓は血液を回しているポンプではない。

心臓はアストラル体によって循環している血液によって人体内の臓器状態の全てを知覚している身体の中枢を担っていることからその七二回拍動は主要四臓器の四倍の運動として現れている。

その一分間の拍動による血液の四分の一が腎臓から流れ込み、肝臓では一分間に心臓の拍動の四分の一血液が流れ出て、さらに四分の一の血液が肺の一分間の一二回から二〇回の回数に結びついて一日に二五八〇〇回という生命が心臓の拍動となって照らす宇宙から提供している循環とリズムとして地球を通じて、人間の人体を人間の魂の認識に相応しい形態を形成してくれているのだ。


その人間形成と宇宙形成の波の発信源のことを私たちは特異点と呼んでいる。


特異点とは、宇宙に点在している観測も計測もできない領域のことを指す。

いわゆる、観測上無限大となってしまう空間的な座標が私たちの世界にはある。

その代表的なものがブラックホールであり、私たち魂である自分と宇宙を識別して分析、洞察し、自由に理解することのできる知性の本質は太陽系を含む天の川宇宙の中枢である射手座アルファ星にある。

射手座アルファ星は宇宙科学が超大質量ブラックホールとしているものだ。

ブラックホールを直接観測することができないのは自分の目で自分を見ることができない、あるいは三六〇度カメラやグーグルビューイングのように、撮影カメラの位置(ロケーション)がブラックボックスとして投影されないのと同じだ。

天文電波源であるブラックホールは私たちの魂の回路そのものであることから、人間の魂を受信している脳であり、視神経にて認識することが叶わない。

要は自分の目を自分の目で見ることができないのと同じだ。

私たち魂はその観測することのできない天の川宇宙の中枢のエネルギー体から宇宙の輪廻を量子もつれ及び量子跳躍的に量子の二重性を伴わせた世界を地球の魂に降臨させた自我を視点に宇宙を観測している、霊体の派遣社員のような立場で宇宙を分離的にバラバラなものとして存在させている。

だから、真空及び絶対零度に限りなく近い宇宙空間には過去も未来も、自分も他者も、右も左も本当は存在しないのだが、それもこれも魂が認識させる神経回路の仕様が全て物質及び人間の肉体として識別的に有ることにし、その魂の世界であるアストラル界は太陽の光と空気を拒絶したことを端に、神的な世界から独立しようという意志の反映が強すぎる自我の現れの象徴として偽りの太陽となって出現している。


偽りの太陽を出現させているのは神々への反感の意志が天体となった月なのだ。


偽りの太陽は古い月よりいわば太陽紀の名残として生まれることとなる。

古い月とは地球の前世である月紀と呼ばれる前宇宙紀のことだ。

かつて月紀の前液体宇宙の中で、私たち前人間存在は半神半人の人間の体内で蠢く動物的感情の化身として、その宇宙を泳ぐようにして存在し、その存在は今で言うペットのように前天使存在による霊化の対象にあった。

また前動物存在たちは月紀の各存在の形態を提供している生命衝動として、前天使存在に植物的要素を環境とした肉体に似た流水体が彼らの活動体の主体となる。

また、この宇宙紀において鉱物である物質の概念は存在しない。

あるのは太陽の反感から生じた光と空気から逸脱した前液体要素存在から成る魂の企画する幾何学的な概念による世界観を私たち前人間及び前天使存在は進化の課題としていた。


それら月紀にあった前的な要素の物質形態が地球なのである。


もちろん、その物質形態の存在概念は太陽から吐き出された逸脱要素である。

魂の生命的反映とは吐く息となって現れている。

また魂の生命的反映とは引く息であることから、私たちの肉体活動の終わりに際には「息を引き取る」という表現が用いられている。

魂の霊化は深い呼吸によって成されるのだ。

私たち霊的生命体は予め吐き出されてきた魂的生命要素を、物質として自ら吸い込み、刈り取るための機会を肉体によって行えるよう、霊化された生命の世界である霊界の下層が重たくなったエーテル要素として堆積し、月紀からの負債として霊的世界と表裏一体にまで及ぶスケールで、既存の魂的生命体の概念を逸脱した世界の侵蝕と拡張を成功させる。


表裏一体とは、いわゆる天国と地獄であり、楽園と黄泉の関係のことだ。


宇宙からしたら黄泉とは地球のことであり、地球からしたら宇宙及び死後が黄泉であるとした関係が表裏一体となったものが、私たちの物質とそうではないものの認識となっている。

宇宙の中で目に映る視界の全てに目に映らない生命が背景にある。

私たちはその表裏一体の世界観のことを宇宙空間と呼んでいる。

私たちのよく知る物質空間はアストラル界とエーテル界が背後で融合して目に見える世界として現れている認識可能な表裏一体の世界観の顕現である。

アストラルとは星界であることから地球を覆っている宇宙空間のことでもある。

そのアストラル界の住人とは、月紀より進化した存在を管理人とした霊的人間と、退化した存在を自然環境とした魂的人間とが混在した月紀由来のエーテル存在が本来の存在本質にあたる。

エーテルとは天使、悪魔、人間及び生態系を支える全ての精霊の形態形成に原則の提供している力の源であり、その力の根源世界のことを四大元素界であり、生命界であり、霊界でありのいわゆる神々の階層である天界を満たしている時間的なエントロピーのことである。

空間を物質化している肉体の骨格と神経回路とは逆方向の作用のことだ。

そのエントロピー的な作用に相反するような魂の影響を受けたエーテル世界の腐敗と荒廃の因果がアストラル体となって動物と人間の活動原理の役割を果たし、かつてエーテルだった存在として改善することのできない魂の要素を、この地球紀のテーマである“個別化した肉体”の生から死までの過程を通じて、集合的な魂への衝動と動機を浄化させる試みが霊的生命を下地とした宇宙を展開されている。


地球軌道の覆いとして存在しているアストラル界とは生命の負債なのである。


その負債が生存本能とそのための戦略を携えて、地球と月の軌道内に集合的に集められている力の源が地球の核の外殻となって現れたものの層が地球紀の創世記とそれ以前の痕跡の顛末であり、現在の私たちはその表層にてミトコンドリアから生成される水素を吐き出し、予め吐き出されてきた大気の力を魂は吸い込むことでその知性を文明として反映させることができている。

吸い込んでいるのは地球の物語、吐き出しているのが人間の物語なのである。

その相互関係の現れとして地球は存在している。

生命が法則ではなく、魂となって融合し、その反発と結合の状態によって、熱に変化が生まれ、風が吹くようになり、水が流れ、物が動くようになってできたのが地球だ。

生命の光からはみ出た魂の光によって現れ出た同心円状の螺旋が永遠に繰り返される形態が採用された私たちのよく知る宇宙とは魂の世界の階層段階のことなのだ。

地球の地層が地球紀の人間の魂の沈んであるものだとしたら、太陽系の宇宙は地球紀以前の人間存在の意志による階層であり、銀河及びその無量大数を超える無限の宇宙は人間存在の概念を超越した星座の法則が司る私たち霊的自我の故郷でもある霊界の階層が映し出されたものである。

私たち人間霊はこの魂の段階という階段を上がっているのか下がっているのかの当事者として、地球の魂と関わっている以上に、地球は宇宙紀の末端としてアストラル界による魂の侵蝕と霊化との狭間で人間の肉体と密接に関係するようになる。


その関係性が地球で初めて顕在化したのがアトランティスの原ツラン人だった。


先に紹介したアトランティス第四亜人種のトゥラニア種族は霊的な生命力が、内も外も支配していた定められた記憶作用からの逸脱を経て出現した地球紀の申し子とも言うべき、悪魔的な意志をもたらすパイプのような役割を有して顕現した新たな人間体だった。

新たな空間体とも言うべき、それまでのアトランティス人とは違った生命活動を行うための空間を認識することのできる、予め提供されている空間作用に抵抗することのできる意志の通路である神経回路を通ることのできる生命を有さない宇宙的存在が地球を闊歩するようになる。

彼らは最初の黄色人種でありながらにして、そのエーテル体は獅子及びその他現代でも観測し得る様々な哺乳動物の精神性を首から上に垣間見せる半獣半人とも言うべき姿に相応しい力と知性を、自分のためだけに奮うことを理性としたそれまでの種族どころか、神々の既定する歴史に出現する予定のなかった人間像としてアトランティスに現れた叛逆の意志を有した逸脱存在の反映だった。

いわゆる、人間の獣性のことであり、狼男やアヌビス、ヴァンパイヤ伝説の表象の大元となった、それが地球紀のアトランティス時空にて逸脱的に初めて神性の象徴でもある個の根源たる作用である自我が降臨した奔りの逸話である。


また、この逸脱存在の反映とは天上の戦いにおける対価のことである。


早い話が霊的生命を管理する側の権限が地上的生命を求める魂の声に屈したのだ。

屈したのはウリエルとして知られる地球紀における大天使である。

四大天使として地球の魂を管理する偉大な存在としてウリエルは君臨してきた。

その中でもウリエルは「神の光」ともされる、天帝とも根源叡智とも呼ばれる神霊の父への信仰の厚い天使の一人であり、その権能は心の浄化と知恵を司る大天使の中でも中心的存在として叡智に愛されていた神々の一人だった。


大天使ウリエルの天位階は八位である。


天位階が全体で九位階であることからその序列は下から二番目とかなり低いように思われるかもしれないが、月と地球と人間にとっての神々という視点から見ると、ある意味私たち地球紀の人間の魂が活動している宇宙秩序の中ではトップの存在であることを知らなければならない。

というのも、大天使の上位にあたる七位階以上の神霊はもはや人間の魂をとうの昔に卒業してしまい、その霊的作用である法則と力の場と秩序だけを宇宙に残して、人間の肉体を通した地上的で空間的な関与をほとんど行っていない神にも等しい高次元の存在だからである。

遠くの物が見えない及び階層が違うと中身がわからないのは精神領域でも同じだ。

ゆえに彼ら高次元の神々の存在を見ることも感じることも知ることもできないレベルであることから、この地球紀にて人間及び人間的環境に直接働きかけていて、私たち人間自我の魂がコミュニケーションを取ることができるのは天位階八位の大天使までなのである。

だから、ウリエルは大天使の位階から人間の魂にまで降下して来ている。

なぜなら、堕天使悪魔の神々もまた同じ理において地球に降臨していたからだ。


○地球紀のウリエルの霊的位階構造体

力天使(天位階五位)の自我:霊界の神(運動の神霊=魂を創造)▶︎太陽紀にて堕落(堕天使化)=ヴルカン紀のウリエルの自我体(霊体)

能天使(天位階六位)の自我:地球の神(形態の神霊=生命創造)▶︎月紀にて堕落(堕天使化)=金星紀のウリエルの自我体(霊体)

権天使(天位階七位)の自我:人間の神(人格の神霊=物質創造)▶︎地球紀にて堕落(堕天使化)=木星紀のウリエルの自我体(霊体)

大天使(天位階八位)の自我:地球紀のウリエルの自我体(霊体)=人間の魂を管理▶︎レムリアにて堕落

天使天位階九位の自我:地球紀のウリエルの魂体▶︎アトランティスにて堕落(堕天使化)

自我(人間悟性):地球紀のウリエルの生命体▶︎後アトランティス=第五根幹人類紀に堕落(堕天使化)

人間のアストラル体(感情体):地球紀のウリエルの物質体

          ※アストラル界にて形態化

人間の生命体:地球の植物と共有しているエーテル組織

       ※物質宇宙の形成モデル遺伝子や素粒子の神

人間の物質体:地球の鉱物と共有している物質組織

       ※物質宇宙の形態状態精霊と神の物質形態


この理解は地上的な魂にはとても困難を伴うのだが、ウリエルのような高次元の神霊は“上から落ちて来ている”の意味は、私たちの世界にとっての未来からやってきているという意味なのだ。

予め完成されたウリエルのアストラル形態の究極は天位階第一位の熾天使である。

その究極的な存在とその過程で獲得された教訓と生命エネルギーは遠に宇宙的な法則として反映されることで、もはや熾天使ですらないウリエル及び天使の痕跡が神霊的な権能を伴って宇宙の各階層に漂っている存在と構造の数々が地球で活動する私たち人間存在の進化段階の道標となっている。

その中にはもちろん反面教師も存在している。

むしろ、地球とそれを認識している魂の仕様はその結晶塊でもある。

そうやって、天上から下降し続けてきたウリエルの肉体であるアストラル世界の一細胞をアストラル体として、その宇宙空間の浄化の過程を自我でもって夜空に瞬く恒星の彼方から観測しているのが、私たちが自分と呼んでいる魂の視座である。

だから、私たちの霊的本性である自我は下降してきたウリエルのアストラル世界を細胞レベルから見直すプロセスの中にいることの選択をしている魂に逸脱からの逸脱というある種の可能性を見出しているアストラル宇宙の俯瞰存在とも言える。


自我という思考形態は神々のみが持つ個的権能の総称である。


人間の自我とは魂に神的作用の働きかけが行われていることの反映が私たちの当たり前としている他者の身体と空間の記憶とそこに渦巻く感情を総合的に知覚し、思考、分析することのできるマルチタスクな意識現象にあたる。

それが物質の宇宙を現実と認識している魂にまで降りている。

まだ、とある神霊候補だった頃の自我を担っている私たちが地球紀の人間存在だった時代の一断片の過程を、私たちは意識として垣間見ているのである。

その天上の神々である各位階の神霊たちもその関わりにおいて同様なのである。

ただ、何を見て、何をして、何を感じているのかの違いがあるだけで、人間の進化と共にある宇宙の巡りを通じて人間との相互関係を、それぞれの位階の軸を有して私たちの活躍している世界である地球紀のアストラル界に関わっている。


よって、予め完成されたウリエルの真に神的な自我はこの宇宙には無いのである。


しかし、私たち人間の根源である純粋自我が古い土星紀の宇宙に物質体の萌芽として開示されて以来、ウリエルたち高次元の神霊が新たな神の生誕とその成長である進化のための助力を惜しむことなくというか、反面教師として行ってきた過程で、あらゆる位階の天使が神霊的権能を退化の道に用いることを選ぶ堕天使となって、ウリエルを始めとした偉大な神々がその身を宇宙の犠牲として、現在の宇宙の進行の果てに完成されるその新たな神の権能を高めるための礎となってきた。

つまり、私たち人間の宇宙の地球紀で認識し、関わることのできる高次元存在とは、私たちが月紀からアトランティス時空を経て現代に至っている進化の方向とは逆方向に進行しているのである。

これはアトランティス時空に生きた人間の方向性にも通じている。

なぜなら、彼らもまた神々からの権能を放棄する、失う、離れていった、という意味では我々の時系列的には元々の在り方からの退化を経験しているからである。


アトランティス人たちは生まれつき自然を支配する力を本能的に操れた…


それができなくなる、というのは立派な退化の潮流なのである。

レムリアの時空では月の神々が地球から離れることによって雌雄同体から雌雄を分離したことによって、男女別姓の二人から一人が生まれるような仕様の変更が行われたのも退化の一環と言える。

レムリア以前のヒュペルボレアスでは楽園にいた人間のエーテル体が地球から太陽の神々が離れていくことで地上の存在となるべく地べたに引き摺り下ろされた。

月紀から地球紀へと進化を遂げた新しい宇宙として現れた最初の地球状態であるポラール紀とは地球のエーテル体のデザイナー兼創造主にして神である形態の神霊が霊界から月紀で改善することのできなかった悪魔的な魂の化身との戦いの戦場へと下降的に派遣されることで地球の形態化が下級天使とそれに従う精霊とで始められたことを端としている。

では、その退化の潮流が現代の人間にはどのように働いていて、どういったことが私たちの退化の証明に当てはまるのかは明確である。


テクノロジーだ。


テクノロジーが私たちの社会で何をしているのかを見れば一目瞭然だろう。

人間の魂が生み出したテクノロジーは私たち人間の能力の代わりを演じている。

感情的な間違いを一切排除した機械の計算効率は人間自身が生み出したものにも拘らず、人間自身の行いをも超える見事な働きをしている。

その進捗につけて私たちは自分自身で行える、或いは感じることができるはずの人間本性と生命の本質に関わる能力を低下させ、弱らせ、その対価に応じた無力感を反映させることで、私たち自身が私たちが何者であり生きることが何であるかを知覚する才の喪失を促す一因となっている。

そのことの累積による不調和音が文明という名の現代人の創意工夫による矜持であるかのようになっている現象全般及びその精神性が思いっきり人間の退化のことにあたる。


経済もまたテクノロジーである。


むしろ、人間の所有欲が生んだ物々交換からの貨幣制度が交易を盛んにし、その交易の効率化のためにテクノロジーは生まれ、人間の生存戦略の歴史を現代に至るまで変化させ続け、人間と人間のあり方の象徴として貨幣は交換されているのだ。

人間の魂は交換するのが好きだ。

これは本質的な意味ではない。

魂の現実はこの交換作用の希求によって世界の必要性が具現化されている。

実際、世界の全ては性交渉から始まる交換によって誕生している。

言語も、肉体も、自然も、宇宙も、人間の意志さえも、その構造体系は実際的に入っては出ていく交換による回転と循環によって、健全な秩序を成立させている。

成立させているのはいわば宇宙を由来とする魂とその魂に記憶を提供している地球生命との結婚ともいうべき、絆の契約によって結びついていることの反映が、少なくとも私たちの考える認識の領域では何一つ欠くことのできない役割を有した必要性の世界として認識されている。

逆にいうと、魂は“必要性のない世界”から必要性のある世界を求めて、人間の進化してきた道を退行することで、生と死の間にあるもの全てが尊いという世界観の時代と領域を選んで顕現してきている、とも言える。


また、その魂の希求に応じた世界の顕現による現象のことを退化と呼んでいる。


私たちの文明文化とはその退化を人間の当たり前とした安寧によるものなのだ。

地上の人間にとっての安寧とは、この退化を方向づける存在と退化の上にある意識とが希求する相互の必要性によって結びついた世界の永遠を祈る気持ちの安らぎであり、その補完と安心安全を守るための手段としての経済、政治、テクノロジーといった体系は須く魂の必要性を本能とした思考体系より生み出されている地上の楽園化に向けられた思想観念の集合魂が持つシナジーによるものなのである。

例えば「類は友を呼ぶ」という名句がある。

この格言による運命の導きは地球コミュニティにおいても明確に存在しているが、その一期一会とご縁のカテゴライズはそもそもアストラル世界の階層を由来とし、その階層ごとに存在している時代の物語(記憶=生命霊)を魂が保存しているという意味でその日、その瞬間に生きている人類の魂は広義には一つなのである。


だから、確実に地上の生命に優劣は存在しないのである。


あるのは、一つ一つの生命に意味という物語を付与している魂の格なのである。

大切なものとそれほど大切ではないものの価値と無価値を線引きしたがる、その欲望と好奇心を地上の人間に受肉した魂の仕様として一人残らず有している、という括りから集合的なのである。

本質的な部分では、“自分以外の誰かを必要としなければならない”という不完全ゆえの依存的な精神性からの自分以外への好奇心が、魂の必要性のための根源的な本能となって動物と私たち人間の行動指針に現れている。

そして、その退化の顕現は私たちの時代と交差している神々の経験と印象によるものとなって、私たちの認識における有志以前の過去にあたるアトランティスやレムリア、またはそれ以前の地球と人間の天地創造の礎となっているのである。

私たち人間の純粋自我が古い土星紀から地球紀を経て宇宙の究極であるヴルカン紀を目指しているのと同時に、神霊たちは宇宙の神的形態であるヴルカン紀の領域から私たち人間の純粋自我の初めての顕現を古い土星紀として吐き出すようにして退化の方向へと舵を切ることによって、表裏一体の宇宙が人間の道と神霊の道とが絶えず前進と遡行が交差的に行われている。


○前進する人間に遡行している神霊による交差宇宙

例:人間の宇宙=人間の光=純粋自我が時間化

土星紀(物質体のみ)▶︎太陽紀(物質+エーテル体)▶︎月紀(物質+生命+魂体)▶︎地球紀(物質+生命+魂+自我)▶︎木星紀(生命+魂+自我+霊我)▶︎金星紀(魂+我+霊我+生命霊)▶︎ヴルカン紀(魂の消滅=霊人)

例:神霊の宇宙=堕天化の影が宇宙空間化

ヴルカン紀(霊人の影=土星紀)▶︎金星紀(生命霊の影=太陽紀)▶︎木星紀(霊我の影=月紀)▶︎地球紀(自我の影=地球紀)▶︎月紀(魂の影=木星紀)▶︎太陽紀(生命の影=金星紀)▶︎土星紀(自我の影=ヴルカン紀)

※神霊の宇宙=予めある完成された神霊がその身を持ってヴルカン宇宙から自らを退化させることで、私たち人間の起源である純粋自我にとっての最初の宇宙である土星紀を再生させている、その宇宙的時系列を私たち人間は時間であり、生命であり、経験と呼んでいる。

      ➡︎またある完成された神霊とはもちろん私たち人間のことである。

       そして、時間であり、生命であり、経験の本質とは過去である。

       

○前進する人間に遡行している神霊が交差する地球紀

人間の地球紀(意識宇宙(物質界=物質化生命界))神霊の地球紀(無意識宇宙=生命界(エーテル界=元素界)魂界(アストラル界)) 

※月紀終末からの顕現   ※木星紀及び地球紀終末からの退行

▶︎ポラール紀     干渉◀︎第七根幹人類

▶︎ヒュペルボレアス紀   ◀︎第六根幹人類

▶︎レムリア紀       ◀︎アーリア紀(ルシファーの受肉)

▶︎アトランティス紀    ◀︎ アトランティス紀(アーリマンの受肉)

▶︎アーリア紀(第五根幹人類紀)(現人類の魂)◀︎レムリア紀(キリストの受肉)

▶︎第六根幹人類紀     ◀︎ヒュペルボレアス紀

▶︎第七根幹人類紀     ◀︎ポラール紀

➡︎木星紀へ        ➡︎月紀へ

            ※堕天した神々は人間の宇宙をやり直している

             その逆行(やり直し)現象が階層宇宙として用意されている   


交差する、といってもすれ違う交差の仕方ではない。

私たち人間と自然との関係は概ね水平的なものであることは目線の通りだ。

しかし、神々と人間のその交差の在り方は垂直に相当する。

その交差の具合は、私たちのバイタルに眠りと覚醒があるように、神霊のバイオリズムにも顕現と休息の二元性を持った陰と陽を繰り返しながら、人間と神霊はそれぞれの生命活動を垂直に交差させながら地球と月軌道内の重力と回転によるリズムが季節及び変化に富んだ熱運動として反映されている。

なので、重力が時空間を超越して働いているという量子力学の仮説はあながち的外れどころか、元素を司る生命エーテルが拡散させている斥力的な働きと星界を顕現させているアストラルの世界が形成している引力的な働きとしての垂直の力の均衡を重力であると呼んでいるのは、ある意味生命(血液)と魂(神経)との均衡を言い当てているのである。

私たち魂は地球紀を支配している重力という下降する秩序の均衡を調停している神々の合意の下、下への力を借りることによって宇宙へと昇華し上昇しようと試みている霊的な意志であるという観点からも、私たち地上の肉体をしている人間とは宇宙の債務者なのだ。

宇宙から与えられている生命として価値ある転化を果たすことが義務なのである。


またその交差を私たち魂が実際に目の当たりにするのは肉体の崩壊時となる。


要は一般的に言われている死後においてである。

私たちは肉体の崩壊後に私たち魂の認識の背後で働いていた裏側より自らの生涯がなんであったのかを改めて体験することとなる。

その体験にて、実際に見ることの部位であり主体となるのは目でも脳でもない、心臓と太陽に力を与えていた霊界で息を吸うように活動している霊的人間の光の主体である純粋自我の認識と共に、かつての自分の魂と肉体を生かしてきた神聖なる生命の絆を完全なる他者として客観的に見下ろすのだ。

それまで空間的に水平だった景色を垂直的な立場から魂だった頃に認識していた時間的な推移を俯瞰するようになる。


その過程の一つに私たちは走馬灯という現象を垣間見ることを知っている。


走馬灯とは魂が生命体であるエーテル体の記憶から剥離しようとする際に見ることとなる現象で、肉体の崩壊時にはその現象が本格化したものを、肉体がスローモーションで推移する最中にかつての自分が行ってきた空間記憶の像の多くを無時間的に体験する。

その体験は私たち魂が人間の肉体で目を開けて活動することのできる時間である、約二〇時間から三六時間相当にて、自らの肉体の全生涯を垂直の方向から振り返ることとなる。

それをナビゲートするのがいわゆる守護霊である薄明の天使(天位階九位)だ。

人間の魂を肉体上の生命体となって活動を支えてきたのはこの守護の神霊である。

この守護天使は地球の神霊を神としたエーテル組織内の元素霊の全てを使役することで、私たち人間がそれまで動物と共に共有してきた魂の乗り物である肉体が空間的に知覚することとなる現象の関係性の全てを、私たち魂が覚醒する以前である眠り及び生前の段階から用意してきてくれた、いわば生態系の生命力を司っている神でもある。

そんな偉大な神霊が私たちの肉体の崩壊と共に現れる。

その顕現が言い伝えや伝説では三途の川、或いはエデンの園を思わせるお花畑などを背景とした四大元素界に先祖や家族及び未来の自分の出現として、肉体を失った私たちの魂が何であったのかの真理へと導いてくれることとなる。


その導き主の多くがアトランティスの第五亜人種である原セム人である。


彼らセム種族が最初に導いたのがノアの一族だ。

ノアの一族に半神半人のアルビノの時代があったのはそのためだ。

かつて天使であったルナル・ピトリスという守護の神霊がアトランティス時空に降臨し、当時のアトランティス時空を席巻していた原ツラン人たちを洗い流す大陸規模の洪水によって荒廃した土地に、それまでのアトランティス種族を支配していた絶対記憶を持たない、またトゥラニアの種族のような独善的な欲望も持たない、ただ神々を信仰するための思考だけを有した種族が現れる。

ルナル・ピトリスは原セム種族の背後に存する秘儀参入者の一人であった。

ルナル・ピトリスは現代の私たちの時空において天使だった存在である。

ルナル・ピトリスはアトランティス時空に続くノアの一族に導かれたアーリア人たちが生きる時空である、第五根幹人類紀の人間の肉体を経験した魂が芽生えさせた生命力を糧に、半神半人として思考する人類の導き手として現れた高次元存在としての転生者である。


そして、そういった時空を超えた魂の道を管理しているのが大天使なのだ。


人間の魂とその魂が霊化を果たした存在及び霊そのものである個の自我の交差している境域の管理をしているのが地球の魂の神である大天使の役割であり、地球と月の軌道上の領域にて地上の霊魂と天界の霊魂との出入りのフィルターの長として君臨していのがウリエルなのである。

ウリエルら、大天使の二つ名は火の神霊である。

彼らは地上と天界の境域とを行き来する精神の障壁である門番として知られる。

私たち人間の魂から見た時のその境域は“最期の審判”として知られる門のことだ。

いわゆる審判の門である。

また、天界から人間界に下るにあたって通過する際には、その境域は天界の門として扱われていて、天使たちは特に制約なくその門を通過することができるが、その門を存在させている境域そのものが天の狭間と呼ばれる結界となっていて、その領域もまた天使たちはフリーパスで通り抜けることで至る所から地上に関与することが可能であることから、わざわざ天界及び審判の門を通る高次元の神霊はあまり多くはない。

そのあまり多くはなく、ほとんどいない部類の神霊はその権能をかけたミッションを抱いて、月と地球の因果に積極的に関わる大天使にまで降ってわざわざ人間の道をなぞり、各宇宙紀とその時空を降下的に巡っているのがウリエルなのであり、その宇宙にいる人間と霊的人間のプロデュース下にある宇宙の本質的な関係が横たわっている。


ウリエルの目的(使命)とは低次元にいた頃の自身を御すためである。


低次元にいた頃のウリエルとはアーリマンのことだ。

ウリエルとはアウリエルでもあり、そのアウリエルが人間(マン/MAN)の魂を救済する際に過ぎた同一化の誘惑に屈した犠牲的な姿と存在こそが、アーリマン或いはアウリマンと呼ばれるゾロアスター教の悪神の名の由来である。

ウリエル及びその他の神霊たちも自分と自分以外という対象認識を有している以上、人間の魂と同じように位階を違えど自分自身の蒔いた種の数々と向き合っている、ということだ。

例えば、太陽神アフラ=マズダに反発したアーリマンは、かつて熾天使であったルシファーと共にあったウリエルがルシファーを追うようにして堕天使と化すことで、感情的なルシファーとは対照的な勤勉にしてロジカルな幾何学と数字を反映させる悪神となる、といったように・・・

ちなみに、アフラ=マズダが太陽神に至る以前に脱ぎ捨てた魂のカルマは悪神アスラとして、神なき世界の強すぎる自我を助長するための忘却の光となって、私たちの生前及び死後に関する因果を断ち切る働きかけを霊界以下の人間のアストラル世界に施している。

それらが月紀の前の宇宙である太陽紀の時代のことである。

ルシファーが土星紀の段階で人間の物質体に自由を提供しようとしたように、ウリエルだったアーリマンは太陽紀において物質体の動きに自由を提供すべく生命を魂へと作り替えるに至る進化を光から空気とし、太陽紀に続く宇宙である月紀では生命を地盤とした躍動する魂のその断片によって水を生み出すことであらゆる宇宙生命の内に残すようになる。


そして、地球紀では霊的な自我が肉(水)の内の(意識)となって現れる。


霊的自我が魂の自我となって地上に降り立つ。

その交差が噛み合ったのがアトランティス時空だった。

地上の順行と天上の退行とが過不足なくすれ違う鏡そのものの時空がアトランティスと呼ばれる大陸となって、絶対的な記憶に基づいた生命の意志の赴くままに天地創造を委ねられてきた人種の時代が、地上を反射させる鏡の向こう側へとシフトしていく。

シフトとは、私たちの魂が肉体の意識となって地上の表面を目と皮膚を通じて人体で知覚した様子を脳でそのプロセス思考している状態のことである。

要は意識現象となっている魂が宇宙の記憶を生命として“シフト”しているのだ。

それと同じように、地球という天体そのものを肉体とした神を仮にガイアとでもしたとしよう、地球の生態系はガイアの理念が多様化したものの顕現にあたり、その顕現は同時にガイアがそれまでの地球創造の過程の中で反射させ、シフトさせてきた自らの細胞の変化状態の末端生命体のことだ。

それが一つの理念となって形態化しているのが地球という天体の地盤なのである。

地球の神は地球の核を通じて物質の顕在化を四大元素を使役する天使たちに自らの手足として行わせている物理法則の全てを反射的に知覚している、というより知覚させられている。


地球の神に地球を知覚させているのが堕天した元素霊たちだからだ。


元素霊とは地水火風の精霊たちによる自然現象の全てのことだ。

しかし、彼らは本来宇宙的存在の背後にあるべき存在であり、彼らの起こす現象は霊界の地水火風による海や川や大気としての生命霊が実質的な姿と役割にあたるのだが、堕天した彼らは古い地球で人間だった全ての痕跡を元素反応に変えた名残りとして物質化した地球の形態に帰依することを余儀なくされている。

この元素霊を地球の物質現象である電子化させているのは人間の魂である。

月と地球軌道の範囲に展開されているトーラス状の同心円の磁場を発生させている電磁気力は、人間の魂が認識可能な波長として物質化した反映で振動、回転、循環の運動となって現れる形で、人間に知覚されているものは地球のアストラル体の働きにあたる。


私たち地球の肉体を巡る血液を循環させているのもこの力によるものだ。


地球の大気を動かしている力及び全ての生命体を活動させている運動作用は全て地球のアストラル体がその背後に存在していることの反映が神経回路の中で骨となり、肉となり、手足となった生命霊の世界にいた天使とその分霊たちが元素生命体へと堕ちた成れの果てなのである。

そして、地球とは物質宇宙のデザイナーである形態の神霊の成れの果てにあたる。

またこうして堕天した元素霊を巻き込んだのは地球に転生した人間の魂で、私たちが地球の人間として感じている世界観が全て物質とそれを司る物理法則によって支配されているように見えるのは、霊界を逸脱した堕天使たちの知性と記憶が作り上げた人間の魂を扉であり窓口とした目によるものである。


その目に映る地球及び宇宙の秩序を調和させているのは地球の核だ。


その調和の仕方には偽りの太陽による演出までも含まれている。

右と左のある世界のことだ。

地球から月までに高さのある宇宙のことだ。

自然を見渡すことのできる人間の視界を美しいと感じることのできる魂のことだ。

未来から生命を提供する太陽由来の神霊の力は地球の核である霊化された月を特異点として垂直方向に働き、私たち顕在意識の視座である魂はその生命の力を過去の出来事の連なりとして認識する記憶を水平方向に見渡すことで、あらゆる現象がその眼球に張り付くようにして宇宙の輪郭を地平線上に把握していく反射を鏡とは思わず現実と信仰するようになる。


その信仰の鏡となったのが原ツラン人の秘儀参入者だった黒き皇帝だった。


黒き皇帝とは堕天したウリエルであるアーリマンが受肉した魔術師である。

受肉とは人間の構成要素として活動する機会を得ることだ。

繰り返すが地球紀の人間の構成要素とは肉体、生命体、魂体、自我の四つの要素を融合させて、地球という環境に適応するための権能を、鉱物(物質体)植物(生命体)動物(アストラル体)人間(自我体)と共有させている霊的存在のことである。

そして、その四つの構造体の背後にはそれぞれに神魔が受肉している。

アーリマンはその中の生命体に受肉したのだ。

そして、人間の生命体に受肉したアーリマンは私たちの論理的思考を司る悟性魂に干渉することで、人類のテクノロジーへの精通を可能にし、その悪しき未来のあるべき運命へと私たち人間霊を堕落させることで神霊たちをも震撼させた黙示録の世界より彼らアーリマンは飛来してきている。


ちなみにルシファーはレムリア紀の人間の魂体に受肉した。


レムリア中期の月分離のきっかけを与えるほどの受肉的な干渉を、人間のアストラル体に対して行うことに成功し、地球紀の人間の脳及び神経回路に関する組織体である上半身はかの悪神に創造と支配の機会を略奪している。

そして、アトランティスに次ぐ現時空ではアーリマンによる月の魂を天体化させた幾何学を司る知性が文明の風として全盛を風靡しているが、それは偽りの太陽を投影している分離した月の作用が地球を創造し続ける限り、アーリマンの脅威は地球紀の宇宙を超えた未来においても存続していくこととなる悪魔の受肉連鎖の一端に私たち現代人は触れているのである。

そして、その神霊の下降体である堕天使の誘惑のままに魂の認識を鵜呑みにした人間自我の闇堕ちした私たち現代人の自我霊を遡行させた魂の生命体がアトランティス人の原ツラン人の込み上げてくる、何処とも知れない底無しの自己利益的な欲望が栄華を極めることとなる。


その時空が地球紀宇宙の鏡面そのものだったためだ。


裏と表、水平と垂直に交差する約束の時空がそのウリエルの時代なのだ。

別の言い方をするとウリエルが堕天使した鏡面の時空でもある。

先に説明した通り、黒い魔術師として絶対記憶の領域を切り裂くようにして現れたアトランティス時空の第四亜人種である原ツラン人とはアーリマンの受肉体の依代として、帝国の記憶支配の及ばない相反する鏡の境域を通じて次々と欲望のままに生命力を奮うことのできる人種へと作り替えられる。

トゥラニア種族は堕天化し、地球に降下したウリエルの魂の反映なのである。

彼らはその低下した悪しき神霊の力をもって現代の一〇〇億人にも迫ろうかという人口にも届く繁殖を遂げるほどの覇権をアトランティス時空の第四文化期の時代において獲得する。

その彼らの全員が大なり小なりの魔術を扱えたことを想像してほしい。

また、彼らの魂は動物的な本能であるエーテル衝動を自らの姿とするほどに、その理性だけではなく、容姿までもが甚だ動物に近く、自らの愉悦と快楽のために与えられた力を駆使して、自分を不快にさせるものは気分で消し去り、自分が大切にしているものを守る割に、誰かの大切なものは平気で奪うためには喜んで争いを引き起こす。


そんな彼らと同じ時代に存在していたのが半神半人のルナル・ピトリス。


元天使のルナル・ピトリスは大天使ウリエルの権限をもって地上に派遣される。

悪しき自我を有した魂を引き摺り下ろすことのできるアーリマンとして降臨したトゥラニア種族の秘儀参入者への抑止力として、ノアの一族は地上に新しく生成された偽りの太陽の光を跳ね返すべくアルビノという肉体を有して送り出される。

そうやって派遣されたノアの一族は原セム人の秘儀参入者と同等の力である神との会話をも可能とする思考力でその時代の奔流となっていた黒魔術をやり過ごすためにピラミッドを建造法を提供される。

提供したのはアトランティス時空で交差していた大天使としてのウリエル。

一般の天使がそれぞれの人間一人一人の生命力に張り付いている守護霊的な存在であるとしたら、人類の魂の大本である生命霊を心とした大天使は地上に降ろされた民族魂の秤を司り、各神霊を脅かすカルマを有した悪魔的な魂を見張る目的で、私たちがインスピレーションと呼んでいる存在として絶えず人間の集合魂に張り付いている空間的な運命を俯瞰している神霊、それが大天使だ。


聖書の伝説にあるノアに大洪水の啓示をしたのも大天使ウリエルである。


そして、アトランティスのポセイディアのマヌとはウリエルのことだ。

同時に大洪水及びその因果でもある黒き魂からの誘惑的な汚染を回避させる手立てとして、大天使ウリエルはそのためのインスピレーションをノアに与える。

ウリエルはその案件を自らのカルマとして贖罪とする。

一方で、ウリエル堕落体としてアトランティスに自我を降ろさせたアーリマンは金星紀と木星紀で果たせなかった地上の楽園を自らの生得領域にできる最期の可能性を人間の生命体が変容した悟性魂をアトランティスの第四根源亜人種のツラン人に刻印していく。


アトランティス時空を前進している人間たちはその神々の潮流に抗えない。


神々の潮流とはウリエルの堕天による逆流する空間の人間への時間的影響である。

そのためノアに人間の肉体が魂の船、方舟であることウリエルに告げられる。

方舟とは魂を運ぶ器のことだ。

ノアはその旨の意味を神の声として聞くことのできる存在を選別していく。

その選別の手段として使われたのが世界各地に存在するピラミッドなのである。

ピラミッドは次元転移装置であったことについてはもうすでに説明をした。

それに詳細を加えるとするならば、転移させていたのは人間の魂であり、それが物質的な現象として出現したのは大天使としてのウリエルの堕天という天変地異がその対応策の反映として、神聖なる意志の声に基づいて建造された。

それが私たちがピラミッドと呼んでいる、アトランティス時空の人間の魂を運ぶことのできたノアの方舟のことなのである。

人間の肉体は転生した魂を運ぶピラミッド同様の方舟なのだ。


ノアの方舟とはセム種族のノアの一族の魂を運んだピラミッドのことだ。


そして、アトランティス時空の最中においてノアの選んだ種である一族が運ばれた先が、地球の地底伝説として有名なシャンバラ及びアガルタ、それにアルザルやシャングリラといった理想郷にあたる。

しかし、それらの領域は限られた人にしか開かれていない。

原ツラン人以下のアトランティス人は人間の時間的進行からは淘汰された。

淘汰したのは私たちの時代からアトランティス時空へと向かったアーリマンたちを押し流した霊的潮流による時空改変の波であり洪水である。

それを起こしたのはアーリマンを追って降臨していたウリエルによるもの。

人間の時間と神々が創造する空間の過程は互いに逆行し、交差している。

その逆行と交差の間で神の声を聞くことのできたセム種族の思考に“自分の軸”を据えられた限られた人間の魂のみに理想郷への亜空間は開かれた。

地球の地下が階層になっている旨はレムリア時空をはじめとした地球紀の前時空が空間化している様子が私たちにはマントルや液状の外核や内核といった硬化した観測的認識が私たちの魂の信仰している地球を対象化させている。

また、地球の重力をはじめとした地球に働いている強い力等の背景には、私たちの科学が虚数や反物質と呼んでいる生命エネルギーである地球の全ての生態系に張り付いてる、エデンという四大元素界を目とした地球の神霊の手足がそれぞれの階層に伸びている。

その境域からの声と救済の手を取ったのがセム種族のノアの一族だった。

半神半人のルナル・ピトリスを宿したノアは大天使の位階に君臨するウリエルの声を聴くことで、黒き皇帝の吐息を洗い流すカタストロフを回避することのできるデバイスが、彼らの魂をかつてレムリアでもあった時空を霊化させた地球の核世界へと導く。


その境界がアーリマン受肉を境に創造された魂の門「最期の審判」である。


最期の審判は堕天したウリエルであるアーリマンの影響に晒された魂の波動から霊の世界を守るための境域のことで、その境域の最初の庇護者はアトランティス時空でノアの一族を輩出したセム種族だった。

しかし、セム種族と言えども、全てのセム人が品行方正で神との意志の疎通を図れたわけではなく、その魂は原ツラン人ほどではないにしても、強い魂の衝動であるルシファーに、アーリマンによる悟性的な生命活動とアスラによる霊界の忘却とは無縁ではなく、その欲望のあり方は一般的な現代人とさほど変わらない思考生活を営んでいた。

ゆえに、審判の対象となり得た。

逆に、ルナル・ピトリスに見染められたセム人たちの魂は霊化される。

霊化とは、要するに成仏であり、霊が魂から抜け出る解脱のことで、その後に再び脱ぎ捨てた魂の世界で霊化されていない部分の地上的な考え方である悟性を浄化させるための準備をするのが霊界での神霊の位階を巡る輪廻であり、その経験を基に未浄化のアストラル世界に置き去りにしてきた自分の一部であった魂の未練であるその欲望と衝動を満たすための転生を繰り返して、再び地上に現れているのが人間で、その総体が地球及び宇宙の体系を成している、といった理解のことである。


大天使と共に執り行われる最期の審判とはその理解を問うことにある。


自分とは何者であったのか、その自分を自分とさせていた因果とは何だったのか、その因果を自分とする必要があったのは何故なのか、そして、その自分とその他因果を現実とする営みを可能とさせていた作用及びその力が何であったのか…

肉体から生命体が離れることによって私たちは肉体の死を体験する。

これが真の走馬灯である。

肉体を失った私たちは今度は生命体と共にある認識を生きる。

その認識の時間は体感にして、一日の内に目を開けて起きていられる魂の意志に応じていた一七時間から三六時間程度の間で、肉体を生かすために生命体が提供していた記憶と共に死までの全生涯を振り返る。

そうして、やがて生命体はその生涯のエッセンスを魂から抜き取ると同時に、エッセンスにならない部分を魂の課題として宇宙に残すことで、その質があらゆる天体の生命力として改めて貸し出されるよう再び神々の分離体としての役割を果たすことに向かっていく。

そのことで地球の素材から借り受けていた私たち人間の魂の肉体が生命力を失うとともに地球の土と同じ肉塊である単なる鉱物と化すように、肉体を生かしていた生命体がまだ人間の肉体だった物質的な経験を基にした記憶は次なるカルマとして、地上を希求する魂の通り道となって吐き出される。

その生命体の吐瀉物が私たち魂の共通の世界観であるユニバース(単一宇宙)となる。


そして、生命体と共にあった私たち魂はエーテル体をも切り離していく。


そのことは私たち魂が生命体から独立したことを意味する。

生命体から独立した魂は自分だと思っていた魂の諸印象が、もうすでに自分ではなくなっている別の宇宙からもうすでに終わりを迎えた自分自身魂の在り方を見つめ直す、その領域のことをアストラル界という。

見つめ直しているのは魂に主体とシチュエーションを提供していた自我である。

私たち魂の主体とは自我そのものであり、魂ではなく、自我はこの魂が肉体を通して知覚していたオーラを記憶と呼ぶ自分を肉体そのものであるとした存在の思考観察体が、自らの魂であった存在として自分以外の対象世界の誰かに対して何をしてきたのかを他者の視点で体験することとなる。

早い話が他人の気持ちを通して直前の自分の生涯を振り返るのである。

他人の心からこれ以上ない客観的な自分を思い知らされる。

やられたらやり返す、因果応報を法としたバビロニアのハムラビ法典とされた古代メソポタミアの記述は人間の肉体の死後に訪れる魂の裁判でもある最期の審判をモデルとしたインスピレートを地上に持ち込んだものだ。

誰かの右目を抉ったものには、当人の右目も抉り取る。

その魂の世界の理に乗っ取って自分が死を迎えたところから誕生に向かって生前へと進んでいくのである。

そして、生前の自分が何であったのかを通じて自らの生涯が何であったのかを、かつての未浄化な自分自身を魂として送り出した自我霊の本体である視点に帰った際に問われるのである。


「お前にとって人生とは、生きるとは、愛とは何だったのか?」を問われるのだ。


最期の審判とは、その問いまでの過程のことである。

最期の審判は地上で活動していた自分に向けられた他者の感情である全ての痛みや抵抗の摩擦を他者の苦しみを通じて味わうこととなる。

また最期の審判は人間として地上で意識をしていなかった眠りの時間に相当する期間である、約二〇〜三〇年をもって行われることとなる。

なぜなら、最期の審判とは私たちが地上生活中の眠っている間に取り組まれていた魂の世界における天使と悪魔と精霊たちによる次の日を創造するための会議をしていたことのネタバレのことでもあり、そこでの詳細は毎夜欠かさず私たちの自我が魂を携えて一緒に参加していたことへの回帰だからである。

私たちの魂はその時初めて自分の毎日がこの夜に作られていたことを知るのだ。

だから、ある意味私たち魂の地上の自我とは目を覚ましながらにして眠っていたとも言えるし、肉体が眠ることによって初めて霊的な自我は目覚めた状態として魂と関わることができていたとも言えるのである。


つまり、私たち魂は肉体の死後、真夜中の宇宙に太陽を見ることとなるのだ。


例えば、地球の全ての生命体は太陽で思考されたデザインに属している。

よって、太陽から注がれる生命力に依存し、生命体が有している物質体は太陽からの生命エネルギーを送り与えられた造形を由来としていると同時に適応している。

私たち人間や動物の内部に生えている生命体も天上の太陽に属している。

生物のデザインは生命体の適応に応じた肉体を種とするようになる。

しかし、人間のアストラル体と個我は太陽から独立していることから、自然との親和性を持たない適応がその知性である思考の仕方を肉体で活動する際の、生命であり自己としている。

当たり前のことだ。

私たち人間の魂は空に浮かんでいる天体とされる太陽と自分及び人間存在を同一視することをしないように、私たちとはあまりに違いすぎる太陽のことを対象物として見上げている。

その認識は正しい。

ただし、その魂の認識の正しさを説くには、呪物として地上の生を受けている物質体と生命体とも独立しているという立場に立てなければならない。


なぜなら、私たち魂の主体である自我(個我=霊的自我)は昼間は眠っているからだ。


私たち魂が昼間の太陽の下で認識している呪物としての物質体と太陽と共にある生命体は、物質的な太陽が照射している様々な影の適性とその適性への表象が地球のそれぞれの生物に受肉している姿であることから、それぞれが形と背景と背後を違えた太陽に等しい存在なのである。

その意味で私たちが認識している物質と宇宙は太陽の影であり分神なのである。

一般科学でも新しい恒星は超新星爆発やキロノバ等の古い恒星の終焉や銀河同士の衝突によるエネルギーを元に新たな恒星群を生じさせ、その一つの恒星から新たな惑星の内に多様な生命体が生まれているとしている。

近年では太陽系で最も太陽と隣接している水星の内側に新たな天体の種と思われる特異点の収束のような兆しが観測も報告されていたりもしている。

そのことから、太陽系の惑星とはそれぞれに形と性質を違えた太陽なのである。

それは同時に、それぞれの惑星に属している生命体及び元素体もまた太陽に類する、或いは太陽から分離した存在としての活動を各天体で行うことの代謝とプロセスを“始まりと終わり”としている。


それら“始まりと終わり”の代謝を対象として照らしているのが自我なのである。


別の言い方をすると、自我とは物事を識別している境界にある判断の光なのだ。

自我のない魂が何であるのかは人間の赤子や自然動物を見れば良い。

彼らは自分という個と他者という対象を反感と共感でのみ思考する。

だから彼らはその思考において一様の行動原理への傾向を発揮しているだけで、その傾向のことを私たちは性格と呼んでいるが実際は反感と共感のスイッチに従っているだけの集合的な本能とされる衝動の反映のバリエーションに過ぎない。

例えば、家猫と野良猫でも良い。

両者の傾向とその品格の違いは共感と反感の割合の違いであり、彼らの魂が軸に据えている反感と共感の表出がその違いを生んでいることによって個の性格を人間の認識が定義しているに過ぎない、という意味だ。

同じ家猫にも違いがあるとするかもしれないが、その違いもまた家という環境とそこで共に空間を共有している人間への反感と共感の示し方の違いがあるだけで、猫の魂は猫の魂として本質的には同じ猫という種の集合的魂からの分霊を人間の認識の中である地球で猫という傾向を有した、かつて人間の吐き出した感情の一部を猫という種の出演者として派遣されている。


自然動物とは須くそういうものだ。


彼らの肉体的傾向はそういった人間がかつて有してはいたが、もうすでに必要としなくなった魂の痕跡であるその感情的傾向の繰り返しに適応し、その魂の感情を再び霊化すべく退化した人間が動物の肉体を通じて私たち自我を有した人間を学ぶ代償として、地球の生態系の糧となり犠牲となっている。

同時に彼らにとっての死は存在していない。

もちろん、死に繋がるような事態への反感は存在しているが、死であり、終わりとは何かを思考することをしないからだ。

なぜなら、彼らには自分の記憶というものが存在しないからだ。

動物たちにあるのは快不快の経験の記憶だけで、“自分の記憶”という個の記憶ではなく、本能である生命体の規定している反感と共感の記憶だけがあって、その個体差の様子が私たちの認識である人間の自我が想起する記憶には「動物にも自分の記憶がある」という風に見えるのである。

彼ら動物たちはかつて人間が古い月の時代で活動し、その意志を地球軌道に残した魂そのものだった頃の“生前”に有していた、動物的権能による衝動の記憶が肉体を持った姿なのである。


セム種族のノアに転生したルナル・ピトリスはその頃の天使だ。


月で天使の権能を授かっていたルナル・ピトリスは人間の自我を霊化に導こうとするための生命体の秩序の報告を受けては自然秩序を管理することのできる霊的自我、霊我、通称マナスとも呼ばれる人間の魂に干渉することのできる自我によって月の動物人間たちをサポート(思考)する役目を権能としていた。

その役目は魂として降臨しているその権能を自分のためだけに行使しない、その心となり、月の人間の意識であった夢見の表象である形象が自分自身が作り出していることの認識へと導くことにあった。

魂として認識している夢の空間の全てが自分自身の創り出した表象の産物であることを反感と共感の記憶の中で気づかせ、改善することのできた魂の抽出のプロセスを宇宙に報告し続けることが月の天使たちの仕事だった。


その改善された月の魂を生命としたものが地球の核である。


そして、改善することのできなかった魂の名残が地球の磁場となって、その磁場を転生の機会として集まってきた魂が放つ同心円の力が「強い力」となって私たち魂が認識することのできる物質を投影する干渉の場が太陽系となって、地球を目とした宇宙がデザインされることとなる。

ちなみに宇宙の脳は地球の衛星として周回している月である。

宇宙はこの月の都合によって地球の目に夜空の天体となって観測されている。

観測されている天体そのものは宇宙を回している存在の模像である。

宇宙を回し、その座標を有し、スケールを無限に広げ、真空の秩序の中に光と熱を提供し、地球を目として生物という人間のカタログを存在させている理であるその法則こそが私たち霊的意識が神と語る存在の残穢にあたる。

磁場や重力に、量子現象や虚数に反物質の観測もその調和の一端である。

大気の風や地球の熱、海、土地のどれもが単一的な存在は一切なく、私たちの細胞膜の中にミトコンドリア細胞が独立して生命活動をしているような二重性が調和となってデザインされているのが物質宇宙であり、宇宙の目としての地球であり、観測装置としての人間カタログである生物なのである。


それらのデザインを行なっているのが形態の神霊の権能を持つ能天使である。


つまり、能天使は宇宙の調和の最前線に立っている、ということだ。

だから、大天使以上に堕天しやすい。

宇宙の痕跡の中でも最も堕天して、その影響を振りまいているのは能天使である。

能天使の天位階は六位の中級天使にあたることから人間の位階よりも四段階も上位に君臨する地球の神だ。

この四段階の位階差は自我を持つ人間から見た原子や素粒子のようなエネルギー存在、すなわち私たちが視認することのできない元素存在と同じくらい遠く離れた格の違う存在で、その間である三つの段階の中の鉱物、植物、動物の段階の上に人間は君臨している。

位階差というのはそれほどまでに明確な格差と境界が存在していることから、能天使の位階で活動している神々には私たち人間の魂はおろか、その魂の主体であり神でもある自我のことを見ることもできない塵芥以下の関係の中で宇宙に佇んでいる。

その神格の多様性が宇宙を存在させる法則となってスペースとユニバースの概念を同居的に調和させることとなっているのが宇宙の形態をデザインしている地球紀の神的指導者である能天使の立場なのだ。


スペース:物質だけが存在している空間のことを宇宙スペースという神格の排泄物

ユニバース:物質を触媒とした宇宙への解釈と認識による人間的表象の集合魂


そして、地球紀の能天使の多くは堕天している。

月紀の指導的神格であった力天使(天位階五位)デュナミス(運動の神霊)がルシファーの誘惑に堕ちたように、能天使のエクスシアイは地球紀が顕現するまでの神的シナリオの確定を垣間見る過程の中で月のアストラル世界を地球の人間に持ちかけようとしたルシファーに新しい神的人間の権能となるはずだった自我の霊的意識をアストラル体にまで落とし込められる。

地球紀の指導的神格を約束されていた能天使は人間の自我をデザインすることのできる宇宙を形態化させるという神命を存在価値として活動していた。

その手足となって地球の法則として働いたのが能天使以下の天使たちだった。

彼らは霊化された月をエデンへと形態化させ、死の存在しない、老いも退化もない、ただそれぞれに与えられた権能を以って、生命の世界を漂う地水火風の精霊たちの奏でる音色と色彩と戯れる天国のような世界観のためにエデンの完成へと飛び込むようにその身を投じた。


しかし、能天使はルシファーの誘惑にその意志を挫かれることで堕天使した。


人間の神的自我のデザインを地球宇宙と共に行うという神命を能天使はルシファーによって奪われる。

これまでも霊界はルシファーの裏切りにより各宇宙紀の神々はその偉大なる権能を堕落させられることで、宇宙と人間に提供すべき権能を渡すための遠回りを余儀なくさせられ、宇宙と人間は神々が堕天使たちを霊化するための戦場としての役割を担うようになる。

その役割によって物質のみで構成される宇宙が存在しているのだ。

かつて宇宙は霊的世界そのものだった。

宇宙とは根源叡智を見ることのできる三人の最高位の神霊によって顕現される。

根源叡智を見上げる三人とはセフィラム(天位階一位=愛の霊)ケルビム(天位階二位=調和霊)トローネ(天位階三位=意志霊)である。

彼らは上級天使にあたり、天上に君臨する神である根源叡智に最も近い霊として支える使いであることから天使及び神霊と呼ばれ、根源叡智の神性に基づいた神命の下に宇宙の創造を行なっている。


○下級天使:地球の人間の進化に直接関与している天使たち

九位階の天使は人間の魂にヴィジョンを提供している。

八位階の大天使は人類の生命に民族的カルマの記憶を提供している。

七位階の権天使は地球の人間に各時代に応じた肉体と人格を提供している。


○中級天使:地球及び太陽系の惑星法則に直接関与している天使たち

六位階の能天使は七〜九位階の天使を手足にした地球を創造している。

五位階の力天使は霊界の太陽として人間の魂を力とした創造している。

四位階の主天使は一〜三位階の天使からの意志を叡智とした宇宙を創造している。


○上級天使:太陽系の外側より存在の法則に直接関与している天使たち

三位階の座天使は人間の自我を自らの意志とした宇宙となるべく犠牲となった。

二位階の智天使は人間の魂の意志に自由を付与するための宇宙の犠牲となった。

一位階の熾天使は根源叡智の意志である自由の神霊が生きた宇宙を愛した。


私たち人間は十番目の神霊として天使からそのためのヴィジョンを提供されることで霊的な自我がその魂の思考に顕れるよう造り替えられている地球紀の時代を生きている。

地球と宇宙はそのために存在し、その存在への人間的認識を通じて根源叡智の果たそうとしている、或いはすでに果たされた新たな神霊のプロセスを以って自由意志に基づいた宇宙の創造を振り返っているのである。

その振り返りが何のためであるのかは根源叡智の神命から自由になることのできない全ての神霊たちの解放という負荷をかけることで生まれた、かつてどこにも創造されなかった宇宙の可能性を見出そうとしているのだ。

その可能性に先駆けたのがルシファーなのである。

先に失楽園で紹介したように、ルシファーは根源叡智の存在を溺愛するあまり、その寵愛を一身に受けることとなったまだ神霊でもないその卵に過ぎない人間を新たな神にすることを意志とした啓示への反感が私たち人間の宇宙の始まりとなった。


神なる根源叡智とは三位一体の神々の総称である。


全ての存在の法則を司る神霊を自らの分霊とした絶対的な神である。

その神は三位一体を実態にして本質とした唯一にして全体存在そのもの。

存在の全てがこの三位一体の一部を様々な神霊にそのヴィジョンを通じて反射させて顕現しているのが私たちの見上げている宇宙空間という根源叡智にとっての対象世界のことだ。

中級神霊以上の存在がカタツムリの殻を切り離しても死ぬことなくナメクジの部分を本体として別の殻を新たな自分の世界観(宇宙)に移行することができるように、上級神霊になるとカタツムリ(生命)そのものを自分の魂の道具としての力と法則の複製を宇宙として創造することができる。

三位一体の根源叡智はそれら存在の顕現の力と発想に関わる大元である。

また、神霊存在とは根源叡智の分霊にしてかつての根源そのものでもある。

よって、私たち魂が目にする全ての存在は全て裏と表と両方という三次元的な側面を現象として所持することを反映としている、それは三位一体による神性の顕現なのだ。

そして、もちろん人間の人体もまた三位一体を顕している。


上半身(脳/神経=循環):ルシファー=月

下半身(心臓/内臓=代謝):神霊=太陽及び惑星

全身(四股/血液=皮膚):人間自我=地球


宇宙を知りたければ人間を見るがいい、人間を知りたければ宇宙を見ればいい、という言葉があるように三位一体を知りたければ人間を知れば良いのだ。

なぜなら、私たちの宇宙を生み出した意志の神霊(トローネ)の犠牲的な創発は根源の叡智の“自由な存在への意志”を愛の神霊(セフィラム)調和の神霊(ケルビム)が受け取ったものを人間の純粋自我に向けられたものであったからだ。

その意志への反感を示したのがルシファーである。

一言で言うと彼らが根源の御柱なのだ。

神霊がいて、ルシファーがいて、人間がいる。

三位一体の根源叡智とはそういうことだ。

三位一体が存在させている宇宙そのものが根源叡智の新たな肉体なのである。

その肉体に与えられようとしている権能が「自由」に宇宙をしている。


その宇宙を「自由に」規定しているのが人間だということだ。


人間とは三位一体の宇宙を観測し続けている根源叡智そのもの。

根源叡智とは宇宙を顕現させている神霊の神であり司令塔のこと。

その司令はその神霊たちが過去に宇宙をしていた頃の権能に紐づけられたもの。

つまり、現在の宇宙の法則の数々のことだ。

私たちの世界の認識に神霊がいるようでいないのはそのためだ。

仮にいると認識されたとしてもその権能である法則は根源叡智の司令に基づいた思考に準じた合法則的なシステムの一部が真空状の一つの宇宙となった生命現象の顕現に寄与しているに過ぎない。

私たち人間はその宇宙を見上げることでその思考を「自由に」解釈している。


その「自由」とは自由そのものを宇宙全体に啓示するための権能である。


例えば、私たち人間が直感的に今とその未来のためのイマジネーションを絶えず想起している当たり前の思考は宇宙の法則によって提供されている生命の一つを感受することによって促されている

私たちは真空状の宇宙空間が組織化した地球に集約されたインテリジェンスを空気として吸い込んだエネルギーで自我を想起することのできる人間となって、宇宙の法則から独立した存在という立場から「自由に」宇宙を構想した思考を吐き出すこと役割を命懸けで行っている、永遠から逸脱することによって自由を謳うことを邁進している堕天使そのもの。

永遠の象徴である翼を失った堕天使は自らがかつて神霊だった頃の名残を地球の魂に降る営業に成功させることで地球紀の宇宙を合法則的に出現させている。


それが物質化した宇宙である。


物質のみが観測される宇宙の認識を行っているのは堕天使たちの改善されることのない魂によるものだ。

その魂は古い月の時代に改善されることのなかった、霊的に自由であることを望まなかった動物人間たちの肉体が後の地球紀に生きる生物の脳となって、月紀に搭載された人間の魂は本来惑星や植物のように定められた霊的形態のデザインそのものであるはずの記憶触媒だった代物が動物的な衝動を獲得した生命体から脳という魂の依代となるようその仕様を作り替えられる。

だから、地球紀の動物は本能に抗うことができない。

なぜなら、彼ら動物たちの脳は堕天使の依代として選ばれていないからだ。

動物たちの脳は確かにかつて動物人間だった存在の魂が受肉したことを端としているが、その動物人間たちは彼らの本体として霊的領域のアストラル世界で自我を有した動物種の根源として、地球の動物たちの生き死にを自らの手足のように知覚している神々の眷属としてのアストラル動物の本体の持つ傾向を活動の本能とした存在が動物体なのである。


本能は大天使が管轄する集合魂と呼ばれる地球のアストラル体に紐づいている。


よって動物体の脳は地に四つ足をつけた地球と水平な肉体の要請に逆らわない。

肉体の思考である本能の生存戦略に従い、自然の一部としてあることに疑いを持つことなく、死さえも省みることもなく、ただ本能が衝動とする快と不快のリアクションを私たち地球の人間の感情像として存在させられているアストラル体ではない姿での進化を選ばなかった月紀の人間たちの地球での停滞的に退化した姿、それが私たち人間と似ている部分を多く残す動物存在である。

そして、私たち地球の人間はその集合的魂から自由になっている存在だ。

動物存在とはかつて人間が月で魂を獲得した頃のアストラル体が物質化したもの。

地球の人間である私たちは彼ら動物存在を完全に卒業した状態として置き去りにして、すでに人間存在の集合的世界でさえも置き去りにする準備を私たち人間自我の思考は、改善することのできなかった人間の脳に憑依している堕天使の魂が霊化される過程を経て経験しようとしている。

それが善なる神霊が堕天的魂を葬るために用意した物質体なのである。


その果てにある宇宙が木星紀だ。


木星紀とは地球紀の次の宇宙状態のことである。

地球が月から転生したように、地球は木星へと転生した宇宙を課題とする。

現在の太陽系における木星は太陽の次に大きいガス惑星として知られている。

高圧力、放射線の乱気流、アンモニアの大気、渦巻く宇宙塵など、とても生物が生存を営むことができる環境ではないことは宇宙観測によって明らかにされているわけだが、その天体を形態化させているのが現在の地球で生きている私たち人類なのである。

木星とは「人間の運命を規定している星」にあたる。

またその規定に相関する人間への関与とその作用は肝臓の働きに相当している。

肝臓の仕事は主に三つで、タンパク質の合成に、有害物質の分解と食べ物を消化するための胆汁の生成を行う。

私たちはその肝臓を臓器とした人体を通じて木星とリンクしている。

リンクしているのは憤怒の感情である。

忍耐の臓器と呼ばれる肝臓はこの怒りの感情を木星にリンクさせることで耐えている、故に木星は巨大なのだ。

怒りとは許せなかった感情の息吹で人間を立ち上がらせた力。

私たち人間の自我は霊的世界を突き破るようにして吹き込んできた空気を通じて人体に浸透させることで、私たちの感情体であるアストラル体は直立歩行を可能にする脳の自立と地上の自由を霊界への怒りと共にやってきたのである。

木星は今尚地球で改善されることのなかった怒りの感情を溜め込んでいる。


その改善されることのなかった感情が未来の地球となる。


木星紀の人間は物質体を持たないアストラル体をベースとした存在となる。

私たちの肉体である物質体は古い土星の惑星紀時代に人格の神霊に使われて以来、人間の人体は各神霊が人間の段階を通過する機会となり続けることで、地球紀においてほぼ完成された物質体として現在の私たちが人間の内部で自由の神霊であるための個我を獲得している段階なのである。

私たちが歩んでいる宇宙とはその道の過程だということだ。

その道は個々でも全体でも転生するという事実が理解の助けとなる。

個々レベルでの生まれ変わりは各宗教の謳う輪廻転生の伝説のままである。

本当に大切なのは全体であるの一つである惑星が転生するだけでなく、惑星を存在させている宇宙そのものもまたそっくりそのまま人間内部の神霊の進化を促すべく、宇宙そのものを作り直すことの思考を個別の自我を獲得した人間の観測体系に提供している。


その事実をもって人間本性を洞察することがとても大切なのだ。


人間本性の萌芽の一つだった純粋自我を人間の自我として認識にすることのできた段階で地球に至るまでに転生してきた物質体としての役割はほぼ完了している。

肉体的な体験そのものが本質ではなくなることをもって私たちは死ぬからだ。

死とは肉体の終わりであり、惑星の最期でもあり、宇宙の終焉でもあることから、その本質は物質存在そのものの役割の完結を意味している象徴として、自分以外の誰かの出来事のために彼らは私の前から消え去っている。

ではなぜ物質体である肉体を有した人間が今尚地球で活動しているのかの理由は、もうすでに私たちが降臨したことによる魂を宿した自我作用によって、絶えず魂の霊化である作り替えは進行し、物質体の新たな役割の兆しを通じて私たち人間の魂は新たな領域の認識へと踏み入れようとしている過程になるからなのである。


新たな過程とは地上における魂の認識のことにあたる。


かつてアトランティス時空の人間たちが生命力を認識できたように、現在の時空の果てからその先に及ぶ人類には自らの生命力が魂であることを認識する力が地球の人間には芽生えるようになる。

その世界観では生命を宿した魂の色が見えることからウソが通用しなくなる。

それによって個人及び社会の道徳も現在のものとは大きく異なっていく。

誰かが悲しみ、嘆いている姿を見て見ぬふりができなくなるということだ。

過去の既存社会より私たち人間の感情体であるアストラル体が獲得してきた言語による思考体系がまるで漫画の吹き出しやゲームのステータス画面のように可視化されて、我々の隠してきた心の在り方が白日の下に晒される時代が地上にもやってくるのだ。

少なくとも人間という種の間における直観が目に見え、耳に聞こえるようになる。


またその心は音となり声となって私たちの魂に鳴り響く。


その反響もまた空気によってもたらされる。

この空気の振動をさせる力のことを私たちは魂と呼び、その振動のための思考の根源が幾何学として働くことによって、その波に浸透された空間は全て物質とそうではないものへと分離することで地球と宇宙のルールとが隔てられるようになる。

その地球的空間のことをアストラル界の下層領域、太陽系はアストラル界の上層領域、そして太陽系の外延に広がる無限宇宙のことが根源世界へとつながる霊的世界の射影となって星座となっている。

星座とは根源世界の射影である。

その射影によって根源世界からの同心円の力が太陽系を構造形成している。

その放射状の力の作用は射影幾何学として宇宙空間を平面的に展開させている諸力として、私たち地球の人間の認識には幾何学と呼ばれる三次元ユークリッド空間という座標に投影されている。

まず射影幾何学とはプロジェクターの光源を起点とした物質の投影を座標と呼ぶことから、この世界の根源は光であり、その光の影となって現れている対象物を私たちは物質と認識しているという非ユークリッド的な立場のことである。

また幾何学とは物質そのものが持つ構造を座標として数値化する学問である。


射影幾何学=エーテル空間(反空間=原空間=虚空間)

▶︎宇宙=無限遠点の一点=全体から部分となって直線や平面や立体へと変形

幾何学=物質空間(影としての空間)

▶︎地球=無限遠点に向かって線、平面、立体が無限に拡散される概念


例えば太陽とは射影幾何学では天空全体であると同時に天底である人間の心臓でもある、夜空を覆う恒星が宇宙全体に熱と光を提供しているエーテル的な空間を実現している、生命作用の諸力そのもののことの総称を太陽と呼んでいる。

一方で、幾何学の考える太陽は光源であり熱源としての生命の源で、宇宙に数ある恒星の一つに過ぎず、夜空に浮かぶ星座と同様の存在であるというのが宇宙物理学の観測する幾何学的な見解なはずだ。

前者は物質宇宙を射影と見立てた太陽の光を人間自我の認識の中枢とする。

人間自我の中枢とは心臓のことである。

心臓とは血液を回すためのポンプではなく、循環する血液が運んできた各臓器の状態を須く知覚し、心臓の知覚した血液の思考を私たち魂は感情的に自らの生命状態として認識している。

人間の肉体からの認識から識別的な知的活動が可能なのは自我である太陽を影とした射影幾何学が理性となって血液を循環させている地球のアストラル体の作用を思考として知覚しているからなのである。

ただし、その魂の認識は光に照射された物質が影であることの解釈をしないことはもちろん、自らの内で囁かれている言語の種となっている思考の渦もまたアストラル体の影であるとは夢にも思っていない。

後者はその夢にも思っていない思考を自らのアイデアであると信じて宇宙を見上げた末、そのあるがままを観測した結果を数的に質的に記述した世界観を無限を内包した幾何学のことを三次元及びユークリッド幾何学として人間認識における一般教養として広く共有され、アカデミーの自然科学的な見解の中では宇宙を生み出し構造化しているエーテル空間はポール・ディラックの反物質の海やハイゼンベルクの不確定性原理等の観測できない仮説的な領域として反空間や虚数空間といったわずかにだが確認されている未知の世界観に過ぎず、非ユークリッド幾何学は不確かな概念的な存在として認識されている。

つまり、私たちは地球は太陽の周りを公転することのリズムを時間と季節としていることを学問であり、常識としたアカデミーというか、一つの学校の惑星状態を認識としているのが地球という場、ということだ。

そのアカデミックの世界では全ての現象が振動し回転することの作用をエネルギーの出力とし、その出力は太陽の質量をメインとした重力と太陽系惑星の重力による均衡及びダークエネルギーやダークマターであるとされているが、実際は相反する幾何学を有した世界観の対極性の均衡が重力や光や回転のエネルギーが人間の知性によって観測されている硬質さと弾力性の両面を持ち合わせた物質世界という虚構でありながらにして真実を原空間とした単一世界を描いた夢の経過なのである。


私たち魂が地球から観測している現象の全ては対極性が一つになった世界である。


だからその世界は夢でもあり、現実でもあり、その両方でもある。

例えば私たちが目を開けて見ている世界と目を閉じて見る世界の関係である。

地球に昼と夜とがあるように、人間にも夢と現実が存在し、宇宙全体もまた真夜中と真っ昼間とを繰り返しているこのリズムそのものの体系が死と再生の両面を一つにしている。

だからどちらかが現実でどちらかが虚構であるかの議論に意味はない。

太陽の存在一つをとっても、その光の認識には即物的な観測とエーテル空間的な対極的な見方が求められている話をしたが、その対極性とは文字通り全く反転した反対の意味と方向性を持った別々の空間が綱引きし合った均衡としている結果の端末に人間的な観測が行われている。

その理解のために空間的に重要な視点をいくつか提供する必要がある。

例えば「かごめ歌」というのがある。


かごめかごめ

籠の中の鳥は

いついつ出やる

夜明けの晩に

鶴と亀が滑った

後ろの正面だあれ


地方によって歌詞にバリエーションがあろうが、おおまかにはこんな感じだろう。

そして、注目してほしいのはこの「後ろの正面」である。

「後ろの正面」というのは概念的には意識しにくい。

正面は正面であって、それが後ろだということにはならないからだ。

しかし、歌っているのは「後ろの正面だあれ」なのである。

私たちは「前」というと自分の顔のずーっと正面であって、 その先をずっと行けば宇宙の果てに行き着くようにイメージしがちである。

しかし、私たちのいる空間を球の表面であるとしよう。

そうすると、「直線」というイメージにとらわれさえしなければ、自分の「前」をずっと行くと、自分の「後ろ」になる。

ということになると「後ろの正面」はまさに、自分になる。

宇宙の果てまで行くと自分の背中(未来)に出会えるというわけである。


このかごめ歌はお伽の世界の現象を歌っているのである。


お伽の世界とは目に見える現象とは別の世界を物語とした、いわゆる作り話であり、フィクションと呼ばれる人間の知性が考え出した絵空事のことだ。

言ってしまえば人間の見る夢である。

現実の目を閉じ、空想の目を開け、紡いだ妄想の光で照らした世界を現実に持ち込んでみた結果、共感を得ることのできた物語が神話や伝承といった御伽噺の伝説としてにわかに私たちの世界に厳然と存在しているのである。

嘘か、誠か、わからないにも関わらずその煙をどこかで信じているのである。

その物語を夢で確かなものであることを心のどこかで覚えているからだ。

私たちの社会は何かを証明するためには必ず証拠を提示しなければならない。

それはその社会で証明しなければならないことが全てどうでも良いことだからだ。

私たちにとって大事なことは証明することも必要のない明らかなことだけだ。

それは自分の肉体の存在であったり、自分の思い出であったり、自分で決めたルールに従う心の根拠であったり、周りに何を言われても揺らぐことのない自分自身が大切であると思い抱いた出来事だけが真実であって、必要に応じて行うことの全ては全て生存戦略として有効なだけで、その行いは必要悪として自分の本意でない以上、それは自分自身の本質とはかけ離れたことへの対処に過ぎない。


その手の無駄な要求を満たすために現象化しているのが物質宇宙なのである。


物質空間での私たち人間の観測の視点は宇宙の果てを見据えている。

そのことを無限遠点という。

物質幾何学は無限遠点をはじめとして、計測も観測もできない領域のことを特異点と位置付けて、自分たちの世界である周縁には局所的に無限が点在していることの解明を果たしている。

その観測事実は正しい。

無限大の特異点が宇宙に観測されながら、なぜ同じ宇宙に存在している太陽系の地球がその無限大の力に飲み込まれることなく、天の川銀河の核に存在しているブラックホールに準じた秩序に倣うことができているのかにまで私たち地球紀の知性は及んではいる。

また、及んではいるが直線的にしか思考することのできないその知性には限界があることにも、真の科学者たち然り、その道を極めた人間の達人たちの「直観」は「直感」からの光を信仰することで得た哲学を以て偉人たり得ているのである。


例えば、目を閉じて見ることのできる現象を照らしている光である。


私たちは目を閉じてなお見ることのできる光を知覚することができる。

色の付いたリアルな夢とか、明晰夢の世界を渡り歩いただとか、臨死体験を経て三途の川や仏や死んだ家族と会ってきたもそうだし、死を予感した際に頻繁に現れる走馬灯の時間遡行による過去の回想など等の「視た」である。

それらの「視た」を可能にしているのはいうまでもなく物質の光ではない。

私たち人間が自らの内的な力を通して自分のうちに生み出した光によって照らし出された、叡智に貫かれた光が私たちの人体では絶えず創造的に働き続けていることの顕現である。

その光は私たちの魂の目であるアストラル光のことであり、神経感覚を通じて肉体の意志を知覚している脳であり魂の十二の感覚の中における生命感覚が精妙な霊的器官へと向かった際の知覚は、いつの日か人間が地球紀を超えた存在たり得る目となる。


その魂が生命を「視る」に至った眼のことをマナス(霊我=霊的自我)と呼んでいる。


マナスは霊的世界を見ることで霊的存在たちと関わるための衣装である。

その衣装を纏うことによって、霊的世界における生命感覚を中庸の状態に保つことでいわゆる健康体を維持し、その状態に応じた高次存在との関わりが可能となる。

私たち人間にとっての生命感覚とは誕生とともに存在している体調器官でもあり、空腹や排泄に眠気に疲労といった身体の健康維持するための知らせを知覚する感覚のことを生命感覚と呼んでいる。

生命感覚は過度に食べ過ぎれば吐き気を催し、運動し過ぎれば眠くなり、身体の限界を超えた動きをすると痛みとして知らせてくれる、いわば生命からの警告を知覚するための器官からの感覚のことである。

同時に、それらの警告の経験を通じて培われた生命感覚はやがて自分にとっての中庸を知るに至り、育ったこの大事な感覚は自分の体の健康的なあり方や節度、自分の能力の可能性と自信、自尊心などが何であるのかを教えてくれる。


その経験が発達することによって私たちは「内観視」を行えるようになる。


自分の感情を思考することができるようになる、ということだ。

俗にいう客観的に自分を見る、というやつだ。

残念ながら完全なる客観というのはあり得ないのだが、その魂の目は潜在意識の中で働く自律神経内の存在たちの活動を知覚し、言語化しようとする意志であるとも言えることを考慮すると、ある種自らの肉体の声に耳を傾けるという意味では自分を客体化しているとも言える。

なぜなら、「内観視」を行っている主体は肉体でも生命体でもないからだ。

内観している主体は言語を獲得した感情体であるアストラル体のこと。

アストラル体は生命体を土台とした肉体を衣装として知覚している活動体で、地球の神をはじめとした宇宙を秩序させている法則そのものを観測するための自我が受肉できるよう創造された人間の魂の通り道である神経回路おいて適応している。


その適応存在とはファントムと呼ばれる憑依体のことである。


ファントムとは私たち魂の意識体の集合体である地球のアストラル体が人間個体の内部存在として収縮された宇宙体で、私たちはそのファントムを主体として与えられた肉の声を聞きながら、手足の運動感覚を意志として動かすことを覚え、肉体が提供してくる生命感覚を通じて自らの体調を通じた気分を表現し、やがて地球からの自由を目指す意志が直立のための平衡感覚によって重力からの限りない解放を活動とし、その肉体の皮膚による触覚は自分と他人との境界を明確にしていることを自覚した所から自分とは違う存在を通じて自分自身とは何者であるのかを、ファントムは肉体的な感覚を通じて学習していく。

その学習は十二の感覚が魂の扉となって果たされる。


○下位感覚=肉体的感覚(感覚の土台)      ○上位感覚=霊的(認識的)感覚(関係性の土台)

触覚(天秤座)(骨盤)=分離/境界感覚(0〜3歳)   12.自我感覚(牡羊座)(頭部)=他者理解感覚(16歳以降)

生命感覚(蠍座)(生殖器)=生命維持感覚(2〜4歳) 11.思考感覚(牡牛座)(咽頭)=自己消去感覚(16歳以降)

運動感覚(射手座)(大腿)=動く意志感覚(3〜6歳)  10.言語感覚(双子座)(両手肩)=理解/概念感覚(16歳以降以降)

平衡感覚(山羊座)(膝)=空間共有感覚(5〜7歳)   9.聴覚(蠍座)(胸部)=音(振動/波)を知る(16歳以前)感覚


○中位感覚=魂的(感情的)感覚(認識の土台)

嗅覚(水瓶座)(下腿)=本能的判断の感覚(7〜8歳) ⒏熱感覚(獅子座)(心臓)=流れ(差)を感じる(14〜16歳)感覚

味覚(魚座)(足)=味わう感覚(8〜9歳)     ⒎視覚(乙女座)(消化器)=全感覚の包括(9〜14歳)(分類)


この十二の感覚は下位感覚と上位感覚とで対極性を形成している。

触覚と自我感覚とでは、自分の触覚と他者の自我との境界とが対極となっている。

生命感覚と思考感覚とでは、自らの体調と他者の思考とで真偽が対極化。

運動感覚と言語感覚とでは、自らの運動感覚を通じて他者の霊的言語活動を理解。

平衡感覚と聴覚とでは、重力場という作り出された世界で素材を形作っていた霊である音を方向づけて解放する平衡感覚によってバランスの取れた創造物を解放する力とが作用反作用している。

また、中位感覚では嗅覚が熱感覚と対立し、味覚が視覚と対立するといった対極を認識の土台の内部で構造化している。

嗅覚と熱感覚とでは、物質的な匂いと非物質な熱との空間的止揚関係を対象化。

味覚と視覚とでは、内へと取り込む味覚と外へと向けられた視覚体験との対象化。

肉体における下位感覚を土台にした上位の霊的感覚を変容させているのが自然環境であり、その自然を対象とした中位感覚の認識に応じた感覚が社会関係となり、やがて死後の惑星通過の際に拡張される魂の状態にそのまま反映されていく。

だから、どの感覚もそれぞれの対極関係の間で過不足のない中庸的なバランスを見つけることで、霊的自我であるマナスによる認識が魂の世界の視野として反映を霊的な視力とすること可能となる。

そのマナス的な視野が開かれると私たち人間に搭載されている十二の感覚が地球の夜空を巡る十二の星座と結びついていることの関連に気づくことができる。


十二星座とは黄道に基づかれた黄道一二宮の軌跡のことである。


黄道一二宮は地球から見た太陽の背後に存在する星座のことで、太陽系が周回している天の川銀河全体を十二に分けた獣帯と呼ばれる、太陽の通り道のことを黄道一二宮と呼んでいる。

その周期は二五〇〇〇年で、先に説明した歳差周期を元にした軌道を通過することの拡張と収縮の繰り返しを経ながら、獣帯を司る最上位の神霊がその十二の星座の意志となることによって人間の肉体は形態化されている。

ファントムはその生命循環を元に形態化された人体のポテンシャルを各時空の各時代ごとに人間の肉体に与えられた権能を感覚化している存在で、これら十二の感覚を受信しているのが現在の人体内に内蔵されている七つの臓器(脳、心臓、肺、腎臓、肝臓、脾臓、胆臓)なのである。

この七つの臓器は太陽系の七つの惑星と結びついている。

結びつけているのは太陽系の思考である。

その思考が太陽系の理念となることによって各惑星軌道が秩序される。


そして、その秩序と序列を決めているのが太陽系のアストラル体だ。


この太陽系のアストラル体が太陽風や彗星、その他宇宙の放射線を司ることによって、地球のアストラル体である磁場や磁気に影響を与える干渉を行っている。

それが場合によって災害や厄災とすることによって宇宙を調整しているのだ。

早い話が地球の神とは地球そのものであって、地球の生命体の一種族である私たちが悪さをすれば、その元を改善、排除、調整しようとするのは当然のことだ。

その調整の具合を人間のアストラル体は内蔵に収縮した宇宙体である感情体となって、地球の磁場を受信したものが人体の血液を循環させ、人体のの臓器が絶えず受け止め、消化したその力の作用をファントムは生と死までの間の出来事として知覚的に観測を感受しているのである。

この知覚は内臓記憶として人間の死後、各惑星規模に拡張されることを経て、その記憶の重さに応じた感覚が宇宙のカルマとして残留することで、次の人間の脳を創造する際の要素となり、材料とされる収縮の運命を辿っていくこととなる。


太陽系の惑星とは人間が宇宙を認識した際のカルマで存在しているということだ。


地球も同様である。

地球という惑星は人間の死者の霊魂によって存在している。

だから、よくある、もしも地球から人間がいなくなったらの想定は不可能なのだ。

地球及び太陽系は人間の霊魂によって存在していることから、その宇宙に人間が存在しなくなくなった場合には、静かにその宇宙は姿を闇へと消えていくことが宇宙の転生という宿命のシステムの中には想定されている。

また、その霊魂は地球紀以前の人間の縮図をモデルとして含んでいることから、人間自体を地上から消滅させたとしても、その改善されることのなかった霊魂が宇宙に痕跡を残している限り、地球はその姿を変えて、何度でも新たな宇宙存在の巣窟として顕現することが約束されている。

その“何度でも“を司っているのがエーテル空間なのである。


エーテルとはそれら存在の全て(対極性)を一つにまとめている要素のことだ。


「かごめ歌」の後ろの正面の正体が自分自身であると示したように、エーテルは地上から見据えた水平線の彼方に永遠とも言える無限の遠点を見るのではなく、また元に戻ってくる繰り返しの循環を見る。

エーテル空間は地上の物質空間から洞察したときにはそのすべてが反転することによって、地上で観測される現象とは真逆の作用を生じさせることで、対極的な力の作用を一つの法則としてまとめる働きをエーテルが行なっている。

このエーテル作用を肉体で維持することができなくなることが死である。


つまり、死とは肉体がエーテルを失ったことによる崩壊のことなのである。

これは生命体と呼ばれる全ての自然環境の秩序に関与している関係性にあたる。

先にも述べたが物質とエーテルの対極作用はありとあらゆる宇宙現象に反映されているからだ。

単一的に見える現象の中に実際に単一的なものは何一つとして存在しない。

最も説得力のある権威ある科学的な根拠は量子力学である。

量子の二重性は光や電子を本質とした物質の原子が波であり粒であることの相反する性質を両方兼ね備えていることが量子論として発見されて以来、その粒であり波であるとした二つの可能性を常に所有する物質への見解を、現在のアカデミーにおいてなお一〇〇年前に論じられたハイゼンベルクの不確定性原理の枠を出ることの無い理解の中にいるのが現代の知性の限界なのである。


その限界は現空間(物質世界)原空間(エーテル空間=虚空間)なしで考慮する思考パターンに由来している。


「かごめ歌」の循環を私たちの世界の空間認識に適応させるためには反転へのイメージ変換のトレーニングが必要となる。

まず大と小のイメージ変換から試みてみよう。

例えば小さな点があるとして、それが豆粒へ、ピンポン球へ、野球のボールへ、サッカーボール…地球、太陽というようにどんどん大きくなっていくことをイメージする。

そして、それが宇宙の大きさまで無限に大きくなっていく。

宇宙のサイズは全ての存在の形態に適用することができる。

その無限に大きくなるイメージを先の「後ろの正面」に重ねてみる。

点から無限の宇宙までずっと拡大していくという方向性を時間経過として、“前に進むと後ろから帰ってくる“という進行と共に膨張している自分の背中に膨張している自分が追いつくという図式を「かごめ歌」に重ねることができるのがわかる。

その瞬間に無限に拡大していったものが一つになることで今度は点になる。

最も小さいものが最も大きいものに、最も大きいものが最も小さいものになる。

取り急ぎそんなイメージを持つことができたとしよう。


次は外と内のイメージの変換を試みる。


これは単に大きさではなく、ボールを裏返すイメージが必要になる。

先の「後ろの正面」を追いかけて外に向かっていた進行方向が、 今度は内側から帰ってくるというイメージでとらえてみる。

そのイメージはクラインの壺と呼ばれる表も裏もない立体図系に近い。

クラインの壺は帯を捻って表と裏の区別のないメビウスの輪を立体にしたものだ。

ただ“クラインの壺”及び私たちの観測している世界は立体であるため、裏と表の区別なく同じものとして変換可能な空間をイメージするためにはトーラスという円筒状ドーナツの図形をまず表象する必要がある。

実際に地球の磁場は南極や北極を軸にトーラス状の同心円のエネルギー場が展開されているおかげで、地球は太陽風や宇宙からの放射線を少なからず中和することで、肉体を有した生命体の居住区域を形成することができているとされている。


つまり、トーラスという幾何学の力が地球生命圏に関与しているということだ。


また、トーラスは円筒状の一つのドーナツとして完結することで、円筒の球と筒の側面に働いている力の流れと作用が一致しないことから表と裏とがある二面性を反映させ、それを一つの世界とする認識の温床として機能している。

いわゆる、月の結界である。

男と女がいて、右と左があって、上と下がある。

そして、地球と宇宙はまるで違うものという二つに一つものが複雑に絡み合った世界に私たちは存在しているという内と外とがある認識を強いる力の作用が地球と月軌道内には存在している。

要するにトーラスのエネルギー場は地上的な力の作用であるということだ。

一方でクラインの壺の円筒は力の流れが球と筒の側面の力が一致する。

なぜなら、その円筒はある種の円筒の側面を貫き、その円筒内部から外部へと裏返ることで球面と筒面の力の流れを損なうことなく、円筒そのものが待つ同心円の力を完結させているからだ。

この円筒を貫き、外部へと裏返るの概念は三次元的な表現と言える。

例えば、メビウスの輪を二次元で表現しようとした、その(色彩や立体表現なし)線画的な表現ではメビウスの輪の捻りの部分はどうしても単なる線の交差となってしまい、その裏表の真偽は二次元内で確認することはできず、メビウスの輪は三次元に起こすことでその捻りによって矛盾なく裏と表の区別ない様を観測することが可能となる。

三次元におけるクラインの壺の円筒の貫通と裏返りも同様である。

三次元でのみ交差していないメビウスの輪を観測できるように、突き抜けや裏返りの概念のないクラインの壺を観測をするためには四次元の視点による認識が必要になるということだ。

また、あくまで尿瓶のような形態をしたクラインの壺はメタファーだ。

実際、クラインの壺は裏と表、内と外、球と側面の区別をしない。


この区別をしないことを扱った学問のことを位相幾何学という。


位相幾何学(トポロジー)とは連続した位置関係のみを扱った学問である。

例えば、三角形も四角形も位相幾何学の立場からすると同じ物体として扱う。

なぜなら、三角形も四角形も同じ線の連続線上の形態であるからだ。

そのため、コップや携帯、車もまた一まとまりの物体はどれも同じものとして扱われることとなる。

つまり、位相幾何学では物体をゴムや粘土のように形を変えることのできる柔らかいものとして捉えることで、サイズやデザインの概念を超えた空間の把握をとり扱うことに長けた学問として存在している。

その学問はいわば三次元以上の空間概念を理解しようとする試みに他ならない。


幾何学(四次元感覚):トーラス型の宇宙を観測することのできる三次元の数学的叡智

位相幾何学(五次元感覚):クラインの壺を観測することのできる四次元の数学的叡智

射影幾何学(六次元感覚):エーテル空間を観測することのできる五次元の数学的叡智

※二次元の人間に二次元は見えない、三次元にいるから二次元がわかる。

 三次元の人間に三次元は見えない、四次元以上にいるから3次元がわかる。


トーラスという地球のエネルギー場が三次元を形成している幾何学だとしたら、位相幾何学はこの三次元の座標に物体の形態の鋳型を創造させている次元であるゼロポイントフィールドと呼ばれる形態形成場を表記している創造空間=エーテル空間にあたる。

その創造空間にて時間が刻印されることで物質の記憶であるカタチが発生。

そして、物質が生まれた世界でユニバース空間が生まれている。

それらの表象に憑依するように干渉している力学が射影幾何学なのである。

その射影を受信しているのが地球紀の人間に搭載されている魂の扉と評されている十二感覚で、それに相関する天の川銀河の十二星座を巡る二五〇〇〇年の周期がまるでホログラムを出力する発光源となって、私たち人間の霊魂の故郷から太陽系の各惑星での転生を経た存在としての運命を観測している。


三次元宇宙におけるその目はブラックホールと呼ばれている。


大宇宙に向かう視線を内宇宙に反転させているその境界として特異点がある。

例えば私たちの肉体が死を迎えたは地に伏せることで地球の糧となるが、その魂は天へと昇天することとなるという二極化が進行する。

その物質空間を離れる過程で、物質との均衡が崩れることによって私たちの意識は生命空間の原則が最長で体感的に三日三晩続く“自分で見てきた“生涯のダイジェストが走馬灯となって告げられることとなる。

その後、魂が肉体からの昇天を経て、地上の月の結界を抜けた先へと到達すると、今後は上ではなく下にあたる領域への転移を経験することが人間の魂は定められている。

なぜなら、地球と月軌道内そのものがブラックホール内部の特異点だからだ。

宇宙全体がブラックホールの内部であることから、私たちが観測している無限大の重力を特異点とはホワイトホールである、とした入れ子宇宙仮説は概ね正しいこととなる。

また、いくつも観測されている特異点の破壊的な影響力が宇宙全体に及ばないための検閲官が存在しているかも知れない仮説も、太陽系の各位階の神霊が各惑星軌道を通じて秩序管理していることを省みることができれば、やはりその精神は宇宙を形態化させている思考を辿っていることを指摘せざるを得ない。

それでも太陽系及び宇宙がリアルタイムでブラックホール等の無限大特異点の影響を受けないのは、自分たちの観測空間そのものが特異点の中にもうすでにある、同位体空間にあるとは夢に思わないだろう。

その夢は特異点からの反響なのだ。

故に、死という夢から醒める際にはそれらのカラクリとの同期が始まる。


それが最期の審判である。


ウリエルたち大天使たちが管理している魂の門である。

死後、物質的な特異点を抜けた後に内宇宙へ向かう視線は再び外宇宙へと反転する際に通過することとなる最期の審判は人間の魂を射影している原点へと回帰する境界のことをいう。

月の結界を抜けて、生命体を脱ぎ捨てた私たちはもうすでに肉体はおろか、生命ですらない状態での意識を自分として射影幾何学が展開する亜空間を進行している。

その進行の中で永遠の霊魂そのものの存在であるアストラル体を自分とした私たちと、それを自分ではなく他者として俯瞰しながらにして魂の主体を誇示する霊体とが共に歩いている。

歩いているのが私たちが生きた地上の見慣れた風景ばかりの世界だ。

ただし、自らの死の直前の時間軸からどんどんと若返る、まるでデビッド・フィンチャーの映画『ベンジャミン・バトン』のように自分が何かもよくわからなかった幼かったあの頃よりさらに時間を遡行させて生前にまで還っていくという、再反転した世界観のレヴューを私たち魂を主体として導いてきた霊及び精神と実感として、私たちが地上で目を閉じていた時間に相当する三〇年を過ごすこととなる。


再反転した世界とは私たちが眠りの際に滞在していた空間でのことである。


月の結界の外であり地球の内部であるアストラル世界のルールの中で、私たちの意識を明るくしている魂とその中心を担っている霊は人間と関わることのできる地球の神霊たちと共に、個々の人間のミクロコスモスを通じたマクロコスモスを構築し続けてきた。

その構築の様子を、もしも再反転の過程を経ていない、生身がまだ生命状態を維持した眠りの状態でアストラル世界に踏み入れることになると、肉体感覚をベースにしたままの霊魂意識を認識とすることとなるため、私たちはその様子を逆再生映像ではないが、それに近い時空間にて全てが逆さになった反転した動きと言語を発している普段は目にすることのできないはずの、その心が空間となった魂の領域を垣間見ることとなる。

こうして真夜中に心の世界を私たちが時間遡行しているのは、人間の地上活動での感情体験が天使たちの経験となることで私たちの守護霊でもある天使の霊が生命認識を辿って、天使たちがその誘惑に応じて私たちの過去へと堕ちている過程によって、その思い出が私たちの未来となり続けているためである。

これが神霊たちと地上の人間は時系列を真逆に流れている反映でもある。

例えば、電磁気力が堕落したエーテルであることによって物質宇宙を存在させ、その振動による活動秩序によって天体を回転させ、その回転の階層によって生命環境の霊的条件を定める等の法則を施しているその流れは神霊世界という未来から過去へと凋落による産物にあたる。


だから、私たちは成長を実感することができるのだ。


私たち人間の魂は老年において完成されていく。

若い頃は至る所で未熟で、幼い人間には他者を理解する自我を持たず、生まれたての赤子に人間らしい理性は例外を除いて皆無に等しい。

文明もまた然り。

粗末だった古い時代よりも、物質や情報の扱いがより洗練されていくのは人間の過去の経験による進化というより、予め存在していたものが次から次へと明らかになっていくインスピレーションを私たち人間の魂はあたかもそれを自らの業績であると自負している未来を切り取り続けていることを時間だと信じているが、実際は未来からの空間の飛来を目撃しているのだ。

文明とは魂の叡智であると同時に霊的世界からの排泄物との結晶である。

その結晶の顕現をその時代の人類全体で共有しているのが私たち集合魂に与えられている為す術のない性格とも呼ばれるヴィジョンであり、時代的な傾向を一括りにした文明の作り出している死と病が税金と法律の行き届いたテクノロジーという悪魔の所業による産物にそれぞれの人間の性格が加担しているのだ。

マザー・テレサは言った。


「気をつけなさい性格がやがて運命となるから」


私たちは運命という(性格)に縛られた空間現象の連続のことを人生と呼んでいる。

だが実際には、その連続は神霊が神である生命体の持つ記憶の逆再生と私たちの再生への意志とが相殺し合うことによる相互作用が物質化した肉体という人体の方舟を創造して、その舵取りを私たちの性格である魂が担っているその航路を観測しているのが私たちの主体なのである。

このことをもっとわかりやすく言うと、方舟の死への航路に為す術はない。

私たち魂はみんなそのことをわかっているようでいてほとんどわかっていない。

私たちは“為すすべのない出来事を前に何かをしようとし続けている”その時間経過を自分の人生であると責任を持つことを、自分だけでなく自分以外の誰かを助けることに向けることにまで及ぶ必死さで生き抜いている、その連続を人生であり、運命だとは信じていない魂を観測している霊的オーディエンスの一人にして、それら一人一人の出演と演出までもを手掛けている監督兼主演というフルコーディネーターが地球紀の人類の方舟をリードしていることをみんな知らずに一日の終わりを迎え続ける。


それが私たちに夜毎訪れている眠りなのである。


そして、宇宙もまた人間と同じ周期(昼と夜、始と終など)をマクロコスモスとして繰り返している。

宇宙は永遠に鋳型の位相を変えて永遠に無限のバリエーションを以って存在し続けている人間の認識の視座を表象した宇宙体を世界観とした魂の生命圏である。

この魂の生命圏をしているマクロコスモスを千切った一細胞がマクロコスモスを模した地球の生命体が過去の宇宙で人間をしていた頃の名残をカタログとして私たち人間の認識の足元に散りばめられているその観測の一視点のことをミクロコスモスという。

ミクロからマクロの(栄養)を観測し、マクロはミクロの(栄養)を原動力としている。

コインに裏がなければ表もないように、人間も宇宙も互いに表裏一体となっていることの間で私たちは自分の自由が何であるかの意志を四つの階を一つにした知覚と認識の調整を天使的に行うか、堕天使的に振る舞うのかのヴィジョンを眠りのたびに報告し、その了承が昨日と少しだけ違う様相を呈して受肉の体験を魂は新しい朝として体験することの果てに最期の審判が下される。


肉体の死後に体験することとなる最期の審判での認識の遡行はしない。


なぜなら、霊魂の認識を遡行させていた対極であった肉体と生命体の阻害から死後の私たちは自由になっていることから、その認識は順行のもとで知覚され、ただただ地上で行われていた魂の体験だけが老後から始まる『ベンジャミン・バトン』の上映が意識も芽生えていない幼児期を超えた生前にまで亘って展開されていくのを、全ての宇宙体の印象の立場から追体験することとなる、神霊や堕天使と同じ立場で自らの地上体験を他人事として俯瞰するからだ。

神霊や悪神が自らを低下させながら宇宙の進化と関わる際に、時空間を逆方向に進みながら私たち地上の存在と交差していたように、死後の私たちの主体である自我は高次の存在と同じような立場に立つことによって垂直の視点から時空間を俯瞰するようになることと深く関係しているのが、この魂の理念が集合することによって派生しているアストラル空間での遡行的な感覚である。

この神霊たちによる究極的に進化を果たした世界の端から押し返すようにして現れているのが堕落、降下、退化、低下、硬化した物質宇宙として吐き出されたエネルギー体が私たちが電磁波と呼ぶ、堕落したエーテルに相当する電子や強い力の現象で、そうではない霊化、上昇、進化、展開、健全を達成している領域とを仕分けているのが「最期の審判」であり、その統率を行なっているのが大天使たちを束ねるウリエルにあたる。

私たち自我はこのウリエルと話すこと(同一化)で地球人類の運命を知ることができる。


ここでの会話とコミュニケーションの詳細が「最期の審判」であるとも言える。


地球紀に人間としての活動を通じて言語を獲得した私たち魂は多くのことを概念化することで、自然の構造がいかにして数学的であるかを明らかにし、そこに生きる生命体もまたそれぞれに本能という何らかのアルゴリズムという規則的な法則に貫かれていて、人間に至っては自分自身を顧みて考察することのできる思考力が備わっていることで宇宙全体をも洞察する力であることによって、そのあまりに都合よく完成された宇宙の細部の細胞までのその構造が人智を超えた叡智と呼ばれる思考と計画的に創造されている人間的概念との間で葛藤している自分をも認識するようになる。

地上の私たちの全ての悩みが理想と現実の間にあるように、人間存在を生かしている宇宙そのものもまたその理想を思考によって構造化している一方で、その思考の一部であるはずだった人間自我を奪われることによって創られた概念を人間は信仰することを余儀なくさせられる。


それが以前に紹介した『失楽園』の逸話だ。


物質とは全て堕天したウリエルであるアーリマンのアルゴリズムで賄われている。

アルゴリズムを形成しているのはアーリマンの企画に適応した幾何学である。

この幾何学も地球紀よりも未来から飛来してきた概念であり、その進行と働きは宇宙の外側から射影している思考である神霊が根源叡智の意志を創造した幾何学プロセスの完成紀である未来から放射されている作用と同じ方向性をしているのがそもそもの私たちが認識している宇宙の因果の根源となっている。

改めて確認をすると私たちの認識が現在を起点として過去から未来へと向かっているのとは対照に、神霊と神霊と同等の位階を有した堕天使たちは私たちが遥か未来に到達するであろう純粋な霊だけが知覚される神界の未来から私たちの現在である地球紀で交差をして、さらには月紀から太陽紀を経て熱以外には何も存在することのない宇宙であった土星紀へと堕ちているのが私たちに働きかけている神々の通り道にあたる。


○堕天使の根源であるルシファーを追いかけて下降する父と子の神霊たち

        ⬇︎堕天使したルシファーによる神霊の誘惑の始まり=神魔戦争

ウルカヌス紀(人間=権天使(霊人))ミカエル堕天化(愛の神霊から下降)➡︎ミカエルの竜化=ルシファーとして下降

 金星紀(人間=大天使(霊命))ウリエル堕天化(調和の神霊から下降)➡︎ウリエルの魔王化=アーリマンとして下降

 木星紀(人間=天使(霊我))ガブリエル堕天化(意志の神霊から下降)➡︎ガブリエルの鬼化=アスラとして下降

 地球紀(人間=自我(肉人))ラファエル堕天化(叡智の神霊から下降)➡︎ラファエルの悪魔化=アスモダイとして下降 

 月紀(人間=魂(水動物))サマエル堕天化(運動の神霊から下降)➡︎サマエルの鬼人化=レヴィアタンとして下降

 太陽紀(人間=生命(光植物))パラキエル堕天化(形態の神霊から下降)➡︎パラキエル魔人化=ベルフェゴールとして下降

 土星紀(人間=物質(熱))サリエル堕天化(人格の神霊から下降)➡︎サリエルの人間化=ベルゼブブとして下降

⬆︎人間の聖霊(天使、大天使、権天使)への上昇の始まり ⬇︎全堕天使の霊化で新たな神の卵が人間化(宇宙化)


例えば、神魔の戦争の始まりはウルカヌス紀(ヴルカン紀と同じ)なのである。

ウルカヌス紀とは私たち人間の魂がすでにその直前の金星紀にて完全に霊化されることで消滅し、その宇宙紀には物質はおろか生命体もアストラル体もすでに解体された霊人だけの世界が私たち人間の認識となって現れることとなる究極の世界のことで、私たち地球紀の人間は現宇宙から三つ先の空間的な転生が果たされることにおいて、その領域に達する未来が可能性として記述されている。

その記述を地球人的にわかりやすい理解に質すと「自己意識的昏睡世界」である。

自己意識的昏睡とは読んで字の如く、昏睡状態の世界で自分という意識を維持しながら認識することのできるもはや眠りが眠りではない、むしろ人間や生物を昏睡を促す側の領域で活動する人体の神秘をサポートしている存在に地球の人間の意識だった私たちが担うこととなるのだ。

それは私たちの意識の対象が人体の外側だけでなく、人体の生命活動を可能とさせている内部及び深部を対象とした世界を対象とした認識の世界観を生きることとなる変容を地球からの三つの宇宙で経験していくことの示唆でもある。


つまり、我々の精神は外ではなく、内に進んでいく階段を進んでいるのだ。


土星紀:昏睡意識=深い無意識:とても昏いが()の叡智は全宇宙と連結(鉱物)

太陽紀:熟睡意識=没形象意識:代謝するという臓器の意志(植物)

 月紀:夢意識=形象意識:反感と共感の感情を自分を結びつけられる(動物)

地球紀:覚醒意識=自己対象意識:自分を中心に対象を思考できる(人間)

木星紀:自己意識的夢意識=夢の中で自分を保って思考できる(霊我)

金星紀:自己意識的熟睡意識=臓器の消化活動を意識し思考できる(生命霊)

ウルカヌス紀;自己意識的昏睡意識=物質の深部の根源にて全宇宙を思考(霊人)


現在の私たちは自分の肉体の表面である皮膚感覚とその内部の熱の変化を痛みでしか感じることができないことから、その人体構造の詳細な概念もその概念を紡いでいる思考が何であるのかもわからないのは、その領域に自己という意識が行き渡っていないことを意味している。

それが霊的自我であるマナス(霊我)を提供される木星紀では、地球紀の人体でいう神経回路の世界で完成されたエーテル体として肉体を変容させることのできた天使存在として、地球紀で唯物的な思考から霊的精神を見出すことのできなかったエーテル的ファントムの魂との“万人による万人の戦い”を目の当たりにすることとなる。

木星紀のこの世界観は黙示録にある「新しい天」と「新しい地」のことで、聖書のキリストに導かれる信徒が口々にしていた「信じる者は救われる」と信仰されていた「新エルサレム」のことです。

アストラル体の霊化の進行とともに人間進化の最終構成を終えた私たち人類は一人残らず、例外なくその肉体は痕跡もなく消滅し、それと同時に地球の霊化も果たされたこととなり、その後の審判を経た私たち人類は未来にて新たなステージの新たな認識で宇宙を眺めることとなる。

この地球霊化前に経験する最後の死のことを黙示録では「第一の死」と表現し、その後移行するアストラル天体宇宙界のことを木星紀と呼んでいる。

※第二の死は金星紀移行時


アストラル天体とは物質天体を取り巻いていたトーラス状の月の結界の類だ。


地球紀の私たち人間はそのアストラル天体を地上から見上げている存在をしているが、木星紀では木星軌道を範囲とした宇宙空間を活動領域とした天使として人間の魂と関わる役割が私たち地球人だった存在のデフォルトとなって宇宙の再受肉を目撃することとなる。

その視座は木軌道上の真空で行われる。

真空とは僅かな熱を除いた物質が一切存在しない絶対零度の空間である。

天使となった人間はその真空を存在させている存在と繋がりながら、真空ではない空間を存在させている対極の存在である悪しき人間の魂とこれから地球に向けて堕落的に物質化しようとしている完成されたエーテル体を巡って互いに葛藤すること、それが木星紀における天使となった人間の使命となっていく。

私たちはこの時すでに物質を目撃することができない。

認識できるのはエーテル体に類する同質の位相階層のみである。

それは地球人が物質ではない熱と真空を認識できないのと同じ原則にあたる。

私たちの観察的権能である意識とは自らの意志で自らの役割にフォーカスする注意視点が目となり、肉となり、対象となっていく地上での観測選択効果と呼ばれる現象に似た衝動に応じて、自分たちに必要な境遇とシチュエーションのための位相を獲得しています。

宇宙の真空で完成されたエーテル体の秩序を守ることで魂の時間的存在を守っている天使がいる一方で、天使たち神霊がそれぞれに管理しているエーテルの時間的な概念を空間化させる意志が宇宙という位相だけを持つ完成されたエーテル体に対して、崩壊という概念を有した時間的制限を課せられた存在である物質へと魂を堕す誘惑的な作用が現在の地球紀であり、その他の惑星と恒星が神霊の影となっていて、霊的世界を覆う真空そのものが私たち人間から見たときに時間さえも凍らせる無の空間に観測されるのには理由がある。


電子化している堕落したエーテルが光となって時間を反転させているからだ。


何度も繰り返すが私たちが観測し、実感している順行時間と神霊と堕天使、それに元素霊が体感している時間軸はそれぞれに違う。

例えば、神霊は永遠の存在としてエーテルの太陽の向こう側の存在である。

エーテル太陽とは生命力を媒介している宇宙空間の真空のことだ。

その時間軸は私たち魂から見たときには永遠であることから、その時間軸は停止及び無限という観測結果となることから物質的には存在しない運動エネルギーの想定を余儀なくさせられる。

一方で、堕天使たちの時間軸は物質天体としての太陽の向こう側の存在である。

天体としての太陽とは私たち魂の自我が見上げている集合魂の影である。

その魂の自我の影を光の下で築いてきた思い出を思考し、概念化し、自分自身を自覚しているのが私たち人間の一人一人であるとしたら、その意識に働いている作用の全てが過去であることがわかるはずだ。

やってくる未来が全て過去になる、という意味での過去を積み上げている。

私たちにとっての未来が次々と過去になる、その再生を提供している太陽の光が堕天使にとっての過去を人間の魂にとっての未来であるかのように認識させている、それが堕天したエーテルとなって電子化している電磁波による月の結界を投影した宇宙空間がアストラル天体世界である。


このアストラル宇宙を持ち込んでいるのは本来木星紀の堕天使たちということだ。


黙示録によると地球紀の第五根幹人類紀の第五文化期にあたるアーリア時代(1413〜3573年)(ゲルマン文化期)の後に万人の万人に対する戦いが起こるとある。

アーリア時代はこの戦いにより道徳的混乱で崩壊し、文化は荒廃していく。

「万人の万人に対する戦い」とは、英国の哲学者ホッブズの言葉で自然状態では人間は利己的で、自分の利益のため互いに闘争するということを、かの『市民論』の中で述べられたものでその意識と思考が私たちの未来で隠し通せなくなることによる文明の破綻を黙示録は述べているのである。

もう一度繰り返すと私たちは近くて遠い将来において、自分の胸に秘めていたはずのことが他者に伝わり視覚化される関係性の中で共生する世界観を現実に活動することが約束されている。

なぜ約束されているかも繰り返しになるが、私たちにとっての未来はこの現実を展開している堕天使たちにとっての過去だからだ。

また、この他者の心を通じて自分を認識する世界観は現代の私たち魂の死後に体験することとなる、あの「最期の審判」と同じルールなのを思い出してほしい。


つまり、万人による万人に対する戦いとは地上における魂の審判のことだ。


本来、他者であり、地上の現象の全ては生命の位相幾何学を地球紀の集合魂が幾何学として取り出した宇宙を投影したものであることからある種の幻想であり、その幻想は自らの魂に関連のあった自らの分枝が過去に克服してきた、かつて自分であった存在たちのコミュニティーの物語を再生したものに過ぎない哀れな自分自身のカタログなのだ。

私たちはそのことをかのキリストの時代からくぐり続けている「最期の審判」を通じて、死後の解脱を経て自分の領域を魂ではない霊的概念となることで、地上の死までの生命経験を経た肉体を元にしたエッセンスを用い、次の転生のための「思考の自由」という権能をもってあらゆる存在になる可能性を私たちには可能なはずなのである。


だがしかし、私たちの権能的な可能性の多くは封印されている。


私たちの権能の封印の施された人類期は万人の戦いの次の未来にある。

その次の未来は「七つの封印の時代」(3573〜5733年)である。

これも黙示録の予言に基づいたもうすでに予め存在している年代記からの啓示なのだが、その啓示は現在では秘儀参入者という霊視者のみが見ることができる、太陽の光に依存しないエーテルを投げかけている射影幾何学に基づいた視野を知る人物たちを代弁者とした神霊からの告知のことだ。

その告知の多くが封印されていることの意味を知ることのできる地上の時代のことを七つの封印の時代と呼んでいる。

この時代で人間は知性を霊化し、叡智・霊性を獲得することで霊視能力が開かれ、アーリア時代に封印されていた魂とその心の多くを思い出すことで、自らが「最期の審判」を通過後の転生を持って魂に書き込まれたものが解かれ外的に現れる。

その世界観は高次世界が地上に上昇する未来であると同時に、それは堕天使たちが高次世界を封印することのできた時代でもある。

当然、その時代の人間の形姿は今日とは全く異なったものだった。

アトランティスやレムリアの人類がカタチなき生物だった頃と同じだ。

今日では、悪党が外見上は善人を装い、その全く逆のことも可能だが、万人の万人による戦いの時代を経てのその世界の人類は心そのものが肉体となることで、その内面の魂の聡明さ、愚かさ、美しさ、醜さをなどを隠すことが不可能になった容姿が露わになった社会で階層化される。

額・顔つきに善人か悪人かが書き込まれた外見に応じた自然淘汰の世界である。

自らの意識や心を物質に左右されることなく超現実的な霊的現象であることへの洞察が自分以外にも生じている事の畏敬をして他者との関係に努めた人と、死んだら終わりであると自己利益ばかりに精神を費やした霊的概念を無視し反抗した人とがハッキリと分かれるようになる。


もちろんその戦いはもうすでに私たちの時代から始まっている。


また同時に私たちの未来はこの時代までに封印されることも決まっている。

この手の時間軸の階層ごとの相互作用の解釈に役立つのは、私たちが選択可能な自由な思考をこの地上で行うことのできていることの意味の本質を知ることができれば、その権能の拡張もまた可能であるということだ。

その自由の射程範囲には時間の順行と逆行をも超えた権能であることを知ることができれば、私たちがどの時代を見て、どの時代に生まれ、どの時代の課題を自分のこととして、その思考する自由を地上に堕ろしていることに同意しているのかが、それぞれの時代にわざわざ人間と堕天使と神霊との三竦みが過去にも未来にも存在し続けていることの意味を図ることができる。

その意味を説明する理由と因果は単純である。

悪が善から別れることによって力を得たように、善は悪を克服することによって悪を分かつ以前よりも強い善であることの強度を得るからである。

悪とは善をより強化するために存在しているのだ。

善は予め存在していた悪を克服することによってより偉大な善として現れることを想定していることから、悪は私たちの観測している世界の計画の中に存在しなければならない、という対極性が原初の計画からすでにシナリオ化されている。

ゆえに、悪が創造の計画の中に根拠を有してはならないなどとして排他し、消し去り、ネグレクトするなどの解釈と自負の正義感は善ではないことがわかる。


なぜなら、善は悪を通じて初めて偉大な善であることができるからだ。


七つの封印の時代後には「七つのラッパの時代(5733〜7893年)」が訪れる。

封印以前の世界観が展開されていることから、この時代の人間の形姿はより善と悪とがはっきりと現れ、善悪の概念を結びつけているその根源とも言える思考そのものである、天使と悪魔が人間に受肉したかのような存在をも確認することのできる阿鼻叫喚の世界がこの七つのラッパの時代となる。

その時代は霊的世界から知覚できる天界の音楽が響くという意味でラッパで表現され、神の怒りに触れた人間の生きる地球そのものを七人の天使たちがラッパで消し去っていく、この地球終末期を物語る伝説の時代のことを七つのラッパの時代と呼んでいる。

また神の怒りとは、獣としての支配を人間として行おうとする物質を端とした終わりなき偶像への欲望の火である魂を焼き尽くすための鉄槌として地球人類に向けて下される。

その鉄槌の意図は霊的世界に高まろうとする人間が地球の活動を通じて捨てなければならないものを現わしていると同時に、捨てるべきものが何かの導きを分かりえなかった存在に与えられた鉄槌のことを「七つの怒りの鉢」としている。


地球紀の終末はこの「七つの怒りの鉢(7893年〜観測不可)」を経て終息する。


地球で七つ目のラッパが鳴る段階で人類の最終構成は終えることとなるため、この神の使いである高次神霊が地球に現れることで地球の物質形態としての天体そのものが溶解し、消滅して行く様を私たち人類がその肉眼でお目にかかることはない。

地球人類の最終構成とは次の木星紀での人間カルマの最後の決済である。

最後の人類が七つの怒りの鉢を投げ捨てきるまでの間に善・高貴・知的・美しいものを表現できた者は、物質が完全に溶解した木星進化期宇宙であるアストラル天体世界へと移行していく。

逆に表現するに至らなかった者は物質を溶解することができず物質形態を留めることとなり、その結果、地球紀を終えた新しい宇宙はアストラル天体と物質天体とに分かれることとなる。

その分離した宇宙の顛末は地球紀にあるし、逆にそれが分離していなかった宇宙であった地球紀とはこの木星紀における堕天使たちに対する神霊たちの成果であったとも言えるのだ。


彼らはこの宇宙の休息期にて茶会を催すようにして宇宙を交差させる。


彼らとは上級三位階の神々である。

一人は根源叡智の使令を(愛の神霊)とした天位階一位の熾天使セラフィム。

一人は根源叡智の使令に叛くことを調和(調和の神霊)とした天位階二位の智天使ケルビム。

一人は根源叡智の使令を意志(意志の神霊)とした天位階三位の座天使トローネ。

彼らは根源叡智の三位一体の三竦みそのものである。

彼らはみな根源叡智という自分たちの神を見上げることのできる使令である。

彼らが見上げた先から承った根源的な使令とは自由の神霊の創造であった。

彼らはその使令を訝しげながらも「自由の神霊そのもの」である根源叡智を自由の神霊が自由の神霊と成るに至った根源の肉体である階層宇宙へと蹴落とした。

根源叡智を蹴落としたのは根源の創造主たる母だった。


根源の母は「蹴落とせ」と言われたから蹴落としたわけではない。


全ての神霊はかつて根源たる叡智の存在としてそれぞれの権能で以って宇宙を創造してきた全知全能の神そのもの力を奮い、その位階を下回る存在たちを足場にすることで彼らを手足のように使い、感じることで自分自身の権能を完成させるべく君臨してきた経験を有する宇宙体そのものである。

その宇宙体たちはこの休息期のたびに根源へと回帰し新たな神格を企画してきた。

根源へと回帰できるのは全九位階の内の上位三位階である。

残りの六位階によって企画された新しい宇宙の生成にその身を捧げたその末端には必ず新たな神格である一〇番目の位階候補の宇宙を全位階の神霊の監修の下で進化と退化の交差が各宇宙紀ごとに開闢されている。

私たち地球で人間をしている存在の最初の宇宙紀が土星紀のことにあたる。

つまり、私たち人間存在とは全神霊の権能的尊厳を担っている新たな神そのもの。

新たな神であると言っても、動物が生まれてから成長して成熟して行くように、成長過程にある人間存在自身に自らが神であることはおろか、その卵であることにさえ自覚がないことの成長過程を囲い、覆っている宇宙体たちはその運命の詳細を思考的に提供してくれている。

私たち人間はその観測を全宇宙としながら自らが何者なのかを思い出している。


そして、その思い出を私たち人間はその思考を自由な魂でもって跳ね返す。


私たちはその肉眼で観測している宇宙への自由の反響を役割としている。

なぜなら、予め完成された七つの宇宙体から漏れ出た時間的空間で私たち人間が成長できているのは、彼らの宇宙創造の過程にありえなかった神としての自由に基づいた意志的権能の解放を目的としているからだ。

そのことを神霊たちの宇宙への逸脱及び堕天と堕落という。

宇宙を見下ろす完成された神界から魂の存在する宇宙へと降る。

だから神々にとっての宇宙への干渉は下降及びお世話を意味しているのだ。


一方で私たち人間は土星紀の宇宙に天界から堕ちて上昇する存在として顕現した。


その、私たちが最初に存在を許された土星紀という宇宙は物質の種にして萌芽であった熱のみが漂う、土星軌道を覆っていた熱そのものが私たち地球の人類の宇宙を知覚することのできる触媒として、ただ在った。

その熱はいわゆるサラマンダーと呼ばれる火の元素霊だった。

私たちが存在した最初の触媒はまだ物質にも至っていない()だった。

そんな未熟な熱エネルギー体はどんな存在にもなりうる無限の可能性を秘めながら、土星宇宙の空間に時間的存在として流出することを許され、私たちは「熱=時間そのもの」という神霊たちが降ってきた宇宙をサケが海から川へと還って行くように遡って行くことになる。

それが可能となったのはそれが可能となったからだ。

その可能性はそれだけ土星紀という宇宙は熱の元素霊に過ぎなかった人間自我の萌芽の純粋性を流出させても“大丈夫”という根源的な判断を伴った意志(天位階三位=トローネ)の力が調和(天位階二位=ケルビム)の許可を得て(天位階一位セラフィム)を以って根源叡智を宇宙へと蹴落としたのだ。


こうして宇宙は交差していると同時にループしている。


土星紀にて純粋なる自我だった私たちの断片が熱となって宇宙に顕現することができたのは、その顕現に支障なく“大丈夫”な段階にまで宇宙が霊化されたことを意味しているのだ。

土星紀と土星紀から始まった階層宇宙の最上階であるウルカヌス紀とは熱が時間として観測される同じ宇宙状態である。

少なくとも地球紀という七つの宇宙紀の四段階目の宇宙でようやく自我を獲得して眺めることができるようになった私たち人類にとっての全体宇宙はその中心に在ることで折り畳まれる、折り返す、湾曲することの作用が、交差すると同時にループしているという反映によって一つの宇宙として他の階層宇宙の重複と同じように完結的に存在し続けている。


○ループする交差宇宙(根源叡智の三竦みが下降している宇宙)

ウルカヌス紀   土星紀 ※ウルカヌス紀と土星紀は同じ宇宙状態(自我のあり方が違う)

神霊(堕天使)↓↑人間(自由霊)   神霊(堕天使)↑↓人間(自由霊)

金星紀      太陽紀 ※金星紀と太陽紀は同じ宇宙状態(魂のあり方が違う)

神霊(堕天使)↓↑人間(自由霊)   神霊(堕天使)↑↓人間(自由霊)

木星紀      月紀 ※木星紀と月紀は同じ宇宙状態(生命のあり方が違う)

神霊(堕天使)↓↑人間(自由霊)   神霊(堕天使)↑↓人間(自由霊)

地球紀(水星紀)(後半)  地球紀(火星紀)(前半)※地球紀は前後半で同じ宇宙状態(物質のあり方が違う)

神霊/堕天使(アカシックレコード)→  ←人間(自由霊)(自由意志)


○ループする交差地球紀(三位一体から分離した惑星神霊が下降している宇宙)

第七根幹人類紀  ポラール紀 ※終末期と創世記第一章は同じ霊状態

神霊(堕天使)↓↑人間(自由霊)   神霊(堕天使)↑↓人間(自由霊)

第六根幹人類紀  ヒュペルボレアス紀 ※衰退期と創世記第二章は同じ魂状態

神霊(堕天使)↓↑人間(自由霊)   神霊(堕天使)↑↓人間(自由霊)

第五根幹人類紀(現人類文化期)  レムリア紀 ※黄昏期と創世記第三章は同じ生命状態 

神霊(堕天使)↓↑人間(自由霊)   神霊(堕天使)↑↓人間(自由霊)

アトランティス紀(後半=黒魔術的自我) アトランティス紀(前半=生命的自我) ※人類黎明期は同じ物質状態

神霊/堕天使(アストラルレコード)→   ←人間(自由霊)(自由意志)


○ループする交差地球文化期(惑星神霊(天位階五位の形態霊)から分離した天使が下降している宇宙)

ロシア文化期      インド文化期 ※黙示録(七つの封印の時代)と同じ背景

神霊(堕天使)↓↑人間(自由霊)      神霊(堕天使)↑↓人間(自由霊)

アメリカ文化期     ペルシア文化期 ※黙示録(万人による戦いの時代)と同じ背景

神霊(堕天使)↓↑人間(自由霊)      神霊(堕天使)↑↓人間(自由霊)

ゲルマン/アーリア文化期(私たちの時代) エジプト文化期 ※黙示録(七つの教会の手紙時代)と同じ背景

神霊(堕天使)↓↑人間(自由霊)      神霊(堕天使)↑↓人間(自由霊) 

ローマ文化期(後半)  ギリシア文化期(前半) ※ヨハネに黙示録(七つの喇叭と鉢の預言)が啓示

神霊/堕天使(アーリマンレコード)→     ←人間(自由霊)(自由意志)


これらの交差とループの全てが「自由の神霊」(根源叡智=全宇宙)の宇宙である。


始まりは「自由の神霊」の出現だった。

そして、終わりも「自由の神霊」だった。

なぜなら、始まりの「自由の神霊」とは、完成された「自由の神霊」から完成されたものではなくなっていく「自由の神霊」へと導く存在と完成へと戻そうとする存在との闘争の歴史だからである。

完成された存在とは完全なる純粋な霊的存在のことであり、完成されていない存在の状態とは完全なる霊ではない魂や生命に物質的な概念が混じった霊的存在のことである。

言うまでもなく、前者が神霊であり、後者が堕天使である。

彼らの闘争の歩みは「自由の神霊」を巡るものであり、その始まりは最も完成された純粋な自由とは対照的な決して改善されることがないであろう完全に完成された霊的存在から逸脱された魂と対峙することに端に、その流れを遡行させることで悪いものを無かったことにしようとする力の作用が空間である。


霊的ではないものを排泄しようした因果が宇宙空間となっているのである。


その最初の空間を金星紀と呼んでいる。

金星紀の宇宙空間はウルカヌス宇宙の帰神化した純粋自我を携えた霊人としての人間に綻びが生じることによって逸脱した時空間にあたる。

純粋な霊だけで構成されていたウルカヌス宇宙から転落した存在によって、完全に純粋さを失った宇宙が金星紀として新たに顕現したのだ。

金星紀の星系は地球紀と大きく異なる。

木星紀において地球と月が一体となった星系だったように、金星紀では月と地球の融合星であった木星が太陽と融合したものとして新たな太陽系の創造を担うための秩序が展開されていた。


金星紀の人間と神々の交差はこの秩序の分岐点において邂逅することとなる。


その邂逅の舞台は進化に逆行する存在たちの全てが凝縮された特殊な天体である「改善できない月」の純粋悪による階層世界となる。

この金星紀の宇宙にはすでに物質もなければ植物の生命も存在しない。

その存在しなはずの全てが存在しようと踠きながら存在しようとした自由を自分自身とした意志の結晶が「改善できない月」の階層世界に吐き出され、その空間に最後の時間を提供しようと上昇し続けてきたのが木星紀から進化を選択し続けてきた私たち人間の魂だった。

その人間の霊魂もまた金星紀では三つに分裂している。


○金星紀の生態系

人間:大天使人間:金星紀に進化を選んだ人間

▶︎木星紀に霊的自我から霊的生命を自分自身とすることのできた天使

人間:天使人間:木星紀のやり直しをしている人間

▶︎木星紀の人間に生命を霊化させるための思考を提供できなかった天使

人間:自我人間:地球紀のやり直しをしている人間

▶︎地球紀から金星紀に至るまで理性を霊化できなかった被造物としての悟性魂(自我人間)

動物:感情人間:月紀のやり直しをしている人間

▶︎金星紀まで変わることなく人間の魂が経験してきた感情の空間=「改善できない月」(第四のアストラル世界)

※第四のアストラル世界=地球紀の人間が死後体験する魂の世界が空間化


地球の木星紀への転生時には物質という概念は全て消滅し、その天体星系の最も低次の領界は植物界を司る生命であり、そこから再度変化した金星紀では生命の反映であった植物界も消滅して変容した動物界が最も低次の領域世界となって金星紀の運命の時間が三つに分裂した人間たちによって進行と退行とが交差していく。

その交差する宇宙での新たな意識状態では、魂が形象(色や音や熱の現象)だけではなく、対象や存在そのもの、人間以外の全てを創造できるようになる。

その創造が可能なのは金星紀が大天使が主体となって回っているためだ。

金星紀における新たな意識とは夢のない睡眠状態での自覚的自己が通常となる。

この睡眠意識の自己認識は太陽紀に人間をしていた大天使と同様の権能である。

地球紀に人間をしていた私たち人間の霊魂は今や人間を超えて、天使の領域をも超えて、大天使が行使することのできる権能を認識に変えて宇宙を創造することのできるに至るまでに進化し、上昇している。

大天使の意識とは人間の睡眠において魂の空間の全てを支配することで、夜毎次の日の朝を健全に過ごすことのできる昨日とさほど変わらない生活環境の全てを、その民族の魂を一手に集めて調整することのできる位階の神霊が人間に対して作用させている権能である。

わかりやすくいうと、集団的に見ている夢を創造している神である。

次いでにいうと、集合意識の夢を人間個人に提供しているのが天使である。

人間はその夢と夢を創造している無意識とを直感に変えて現実を認識している悟性を自我として、神霊の思考を断片的に拝借しながら自らの認識している空間に自由意志という時間を交差させている存在である。


堕天使(神霊)が未来から運んできた空間に時間となって進んでいるのが人間なのだ。


人間とは時間なのである。

そして、その時間概念を通じて被造物としての存在から創造者の一柱となり得る転換点のことを私たち及び神々は「人間段階」と呼んでいる。

各天使の位階存在はそれぞれに地球紀以前の宇宙体での人間体験の転換点を経て創造者の段階に至った存在であり、その創造的権能に応じた時間的概念を持って自らの後輩である人間の活動を支える秩序と法則となって宇宙と関わっている。

また堕天使はその空間的秩序の中で人間の時間的概念に「自由意志」として干渉している。

自由意志のための空間が人間の時間と交差的に逆行している、という意味だ。

完全に霊化された人間の霊だけの世界となったウルカヌス宇宙を出発点とした空間的な逸脱は突如として創造されていた自由の神霊の霊的活動の自由への権能への反感によって、私たち人間が時間的に順行している空間のその完結からの道が開かれる。


なぜなら、自由の神霊は三位一体の根源叡智によって一瞬で創造されたためだ。


ゆえに根源の意志にして発案者である父はこの自由の神霊が顕現したことによって、根源の使令たちであるそれぞれの位階の神霊たちがそれぞれに自由意志を有して自らの宇宙を根源の世界観創造し始める。

根源の創造主にして生命の記憶そのものでもある母は父の計画である自由の神霊をまるで以前からずっとそこにいる家族かのように瞬時にしてその存在を根源の既存記憶としての存在とその権能が行き渡った世界観が根源界を関係性と秩序を書き換える。

その書き換えの実行を行なってきたのが根源の創建者にして叡智である子である。

こうして、父、母、子のこれら三位一体の根源の叡智がいくつもの宇宙的工程を経て自由の神霊という新たな宇宙空間が根源世界の一部となることによって、無数の神々が根源の想定する自由の範疇においてのその権限を自らの世界観とした宇宙を独立的に運営する神として君臨するようになる。

そして、自由の神霊もまたそれぞれの位階存在たちの権能を借りて、根源界における領域的な権限を得ることによって、その空間を体とした存在を以って根源の父と母を前に一人の子として感謝の意を述べるに至ったのがウルカヌス宇宙という達成である。


言うまでもなく「自由の神霊」へと昇り詰めたのは私たち地球紀の人間霊である。


その人間霊が熱の元素霊として始まった土星紀はもうすでに完成された宇宙の熱以外が存在しない空間として、ただ世界を温める続ける役割を担って存在していたサラマンダーとして私たちのその周囲には、その空間をウルカヌス世界から土星紀にまで運ぶことで霊化させてきた各神霊たちの自由な権能ん基づいた秩序がそこにはあることを見上げながら私たちは宇宙を見渡す時間存在となったのだ。

その見渡す限りの宇宙とは自由の神霊の肉体である。

少なくとも地球紀の宇宙全体そのものが自由の神霊の物質体である。

その物質体の密度は真空であり、宇宙の真空中に存在しているとされる天体とその生命は真空中に生きる自由の神霊の排泄物としての烙印を押された各神霊たちのカルマである堕落を自覚した際の嘔吐による吐瀉物にあたる。


それらを催させたのがウルカヌス宇宙において根源であることを解いた(逸脱宇宙の解放)母だ。


宇宙の創造主たる根源の母は父の計画通り自由をテーマにした物語を宇宙にした。

その素材となったのが地球でいう自然である根源の法則的役割をしていた精霊であった。

精霊とは霊的被造物として根源から漏れ出し、神界からその最下層であるアストラル界の生態系の秩序を形成するため働く、霊的自我を有した存在たちの権能に従う手足のことである。

地球では元素と呼ばれ、その元素を使役しているのは天使だ。

その天使は人間の人体内部の生命力に扮して、人間の頭部である魂が欲望した外部から摂取した毒性を霊化のための活動に必要なエネルギーに消化的に変換し、霊化することのできなかった素材を排泄することで新たな宇宙の循環物として魂の環境へと転換している。

だから人間の目に見える範囲に天使やそれに類する位階存在を確認することができない。

なぜなら、宇宙の真空上に存在している物質とは全て人間の内部と内面で活動している精神作用の排泄物が各宇宙過程の果てに堆積したものだからである。

各宇宙過程とは言うまでもなく私たち人間の未来から吐き出されたもの。

そして、その未来は神霊と根源の間でループしていることから、そのループの過程で人間を目指してきた時間的存在である元素霊であるサラマンダーから人間に目覚めた意識で宇宙を対象として観るとその痕跡が過去に見えるのである。


いづれにせよ、根源の母は根元の父を蹴落とすことによって純粋なる子となった。


それにより父は自らが根源の三位一体ではなくなる運命を歩んでいくこととなる。

根源の父は神霊でもない、そして人間ですらないただの霊となる。

しかし、その霊は自由への好奇心を抱いた精霊だった。

自由が何たるかを純粋に何も知らない精霊が見上げたのは十二の空間に君臨する神々であり、その内の七つの空間を秩序する神々がその精霊の道標になることを根源の母に約束しながら、彼らの放つ煌々たる光と鈍く重たい思考を有した自分とを切り離す姿だった。

切り離す担当を担っていたのは人格を司る神霊アルカイである。

アルカイは言った。


「キミの名はルシフェル、自由という()を担い、空間に時間をもたらす者」

私たちが活動することを始めた空間は始まりからすでに完成されていた。


その完成は完成された神々の権能が惜しみなく注ぎ込まれた上でなお、完成された神の神殿である肉体を宇宙とした空間を見渡す限りの自由でもって私たちは観測して選択をして進むことが許された。

その歩みを『楽しいこと以外全部ウソの叙事詩』として描き切った、というのはウソで、はっきり言って不完全燃焼にして不完全言及における不完全構成にて終えるができて、むしろ安堵だけがある。

その安堵とは伸び代であり、まだ事足りていないことへの可能性である。

その可能性を感じた際には私は再び記述する決定を喜んで行うことだろう。

なぜなら、それをしたいと自分の内から込み上げてくる好奇心だけが真実だから。

『楽しいこと以外全部ウソの叙事詩』は自分で決めたこと以外は全てウソであり、それは同時に自分で決めたもの以外のことしか存在しない、という主旨でタイトルした割に、その回収が十分ではなかったかもしれない。


だがしかし、その主旨は冒頭の“必要性は存在しない“の件で既に述べている。


私たちが必要としているもののすべては人体の要請する人体的な感覚を満たすために必要なものであって、私たちの主体とは肉の塊ではないのだ。

その肉の経験を知覚したことでの自由の解釈の何を自分であるとしてきたかの、今のところ決して目には視ることのできない精神現象の繭そのものにのみ価値があるのである。


例えば老化である。


私たちは例外なく時間と共に使い果たした生命体を失った末に逝去する。

その時間をどのように感じてきたかの精神に応じて、私たちの肉体は時間を経過させ、その経過に応じた衰えを肉体は老化として反映させるのだ。

わかりやすく言うと時間を忘れて活動できた人の肉体はその時間で感じてきた自分のままでいられ、一方で労働や子育ての義務に追われた等による自分のため以外に使ってきた時間を辛く長いという印象の感じに応じて私たちの精神は肉体の中で衰え、その衰えのことを退化であり老化と呼んでいるのだ。

だから、引退することのない芸術家はいつまでも活動している限り若くエネルギッシュで、かたや世の中の要請に応じて活動してきた大人たちはみな世の中のテンプレート通りの衰弱した精神のままに肉体を老化させ、その現象を退化と自分の多くを諦めながら自らの意志から認知を切り離されていくこととなる。

自分という魂の生命力を他者に委ねることによって意志が肉体から乖離していく。

そのことで、私たちの認知は自分の意志による理性的な制御を忘れ、自らの自尊心を見失い、家族を識別できず、感情のままに暴言を晒すなどの認知症と呼ばれる人間的恐慌及び凶行状態に抗えないパーソナリティを空間に提供する存在となる。

あるいは空間から高次元の課題を有した時間存在としてハンデを授かる。


つまり、仮に今ある自分というのは仮初である、ということだ。


そもそも、胎児及び幼児期に自分が自分だったとする自覚などありはしなかったのだから、当然と言えば当然のことなのだが、私たち健常者はその当たり前のことを忘れて、昔から自分だけは絶対であるという信仰のもと時空間を理性的に闊歩しているわけだが、それは一切において幻想であり、私たちとは時間存在そのものとして、空間に時間(自分)を与えている存在である、という話を最後にしていく。


繰り返すが空間は神々の象であり、神々が自らの精神性の影を物質化したもの。


また象とは、目で見られない物を何かの形によって示す、似せた形を作る、かたどる、といった象形文字をはじめとしたシンボルのことを象とする。

そして、改めて空間とは神々の象である。

私たちは星空の光を夜毎見上げてはいるが、その光は数万光年前のものであり、今その瞬間にその星が存在しているかどうかも確認することができないほどに遠い存在の光が地球に向けられている、その背景のことを心であり、射影幾何学であることを本編にて述べてきた。

そのことを踏まえて、人間の肉体やその他生物とされる鉱物を含めた天体存在の全ては神々の心を反映させた被造物であり、人間が人間として活動するに相応しい運命のために提供されたステージのことを私たちは宇宙と呼んでいる。

その宇宙を動かしているのは人間の自我に与えられている時間を感じることのできる魂で、この地球紀で人間にまで上昇してきた魂の特別な点はその空間に時間存在としてだけでなく、自由な思考と共に自らの魂が個的なページを捲ってきた感慨を直感することができるということだった。

例えば、映画や漫画に小説でもゲームでもなんでも自分の興味と注意を向けることで初めて自分にとっての対象の時間を進めていくことが始まっていくようにだ。

その自らの関心によって始まった時間的な進行の理解を自由に解釈することで、自分の趣向に合うとか合わないとかの判断のことを性格として、空間だけでなく時間をも対象とするようになった解釈を人格化しているのが、現在の人間が“自分の心”であると信じている意識魂なのである。

時間という生命が肉体を代謝させ、意識という魂が肉体に変容している。

熱だった私たち精霊がやがて生命を獲得し、その生命が魂として活動するようになり、その活動が自分を意識するようになった魂を霊化させるべく、地上の運命というページを一瞬ごとに捲っているのが私たち人間なのである。

だから、多くのことが思い通りになりながらも多くのことが思い通りにならないと思っている。

だから、運命が決まっていると思う時もあれば、運命は自分で切り開くものだと思えることもある。

だから、自分という個の存在には意味があるとも言えるし、宇宙の中では全く価値がないようにも見える。


この二極の間にいる限りは人間の仕様である思い込みの繭からは出られない。


ゆえに、私たちは肉体に起こる出来事が想起する思考に委ねるべきなのだ。

全ての出来事は起こるべくして起こっているからだ。

例えば、一人でいるときに考えていることと、実際急を要する出会いやトラブル、仕事や家庭での実務的な関係性に対処することとの言動や行動は必ずしも一致しない、妥協点が存在しているはずである。

純粋に思った通りの活動など一切ない、という意味だ。

人の扱う言語とは妥協の産物であり、その現象が仮に事実であったり、その後の存在の骨組みになったとしても、その存在を通じた人間本性に関わる真実は一ミリも存在していないのである。

ゆえに、私たちは必ず何かが足りないわからない選べないという不完全さをその思考で想起すること自体を可能性としているのだ。

改めて、私たちが自分の考えとして知覚していることは全て運命の設計図であり、予めすでに行われいていることの青写真のことを自分で考えたと思い込むようプログラミングされている。

そのため、実際には私たちの純粋な思考が何かをもたらしていることは無い。

ただ、その純粋な思考による予感だけを影として受け取ったものを自力による直感と勘違いしているだけの仕様によって、私たち人間の脳は元気になれるようセッティングされている。

だからこそ、私たちに降りてきている精神の影である思考を自由に解釈し、どんなことでも自分にとって都合の良いように解釈して、多くのことに寛容となれる精神で気分良く幸せになって良いのである。


そのことこそが私たちが人間として生まれ堕ちてきていることへの目的なのだ。


私たちが目にすることのできる現実の対象の全ては可能性であると同時にもうすでに完結してきた空間での出来事である。

未知なる可能性だったものが私たちの観測によって粒子化し、過去の一点となる特徴を持つ光をはじめとした物質を構成する原子、電子、素粒子のエネルギーの振る舞いを学問化した量子力学とは、私たち人間が被造物から創造者となってこの地上での魂の運命を隠すためのフィルターとして到達することのできない神々を認識の境界に立たせていることの反映だ。

そのフィルターとはもうすでに一度築き上げれた世界であることの隠蔽である。

私たち魂は地球で人間の段階を通過することのできる権能を有した精霊及び神々の経験を、まるで昔見た懐かしい映画を棚から取り出して見直すようにして、その好奇心に応じたやり直しを宇宙的に行なっている進行形にある。

黙示録の霊言や占いに透視やデジャヴの啓示が存在するのはそれが理由だ。

だから、私たちの肉体がいつ死を迎えるのかはもちろん、なぜ生まれてきたのかも、その完成された宇宙を俯瞰できた範囲において必要な経験ができる機会として、私たちの魂は自我を有した意識で観察点を地球人類のこの時代と選んだ方舟に乗って宇宙を渡り歩く旅を自由に満喫している。


いわば、私たちの魂とは肉体をタイムマシンとした時間旅行者なのである。


私たちとはこの完成された空間を通じて未熟な魂を知覚しているタイムトラベラーとして、何度も何度も死んでは生まれての転生を繰り返してきた、いくつもの惑星を渡ってきた宇宙を凝縮させた存在が集まっているコミュニティーによって地球という宇宙を観測的に存在させている超越者の一人なのである。

この未熟な魂の知覚とは自分自身に感じている人格のことではない。

未熟な魂の知覚とは自分の肉体を通じて知覚される他者生物のことである。

私たちの自我は自分を中心にしてこの宇宙のすべてを対象とした知覚を霊的なものである世界での知覚と認識を拡張させるための経験を“未熟及び不完全”という意識を通じて、すでに完成され、完結し、完全なる空間秩序のための法則を自由に解釈し、その知覚を死後における自分の視座を見つける視覚や洞察力としていくことを目的としている。


その霊的感覚の土台は地球でしか養うことのできない自由にあるからなのだ。


その本願がために私たち人間の魂である自尊心は自分の自由を損なうと病む。

この構図から見えることは健康よりも上位の義務が存在している、ということだ。

それが自由である。

私たちは自由への義務を怠ると自分を失い、元気をなくなり、霊的なバランスを損ない、肉体を衰えさせ、健康を害するのだ。

そのことを示唆するために『楽しいこと以外全部ウソの叙事詩』を存在させた。

すべて虚構なのであるとしたら、その行いに責任など存在しないことの理解だけが必要なのであって、米や空気などは勝手に存在しているものの全ては人間が人間であるための手段としての必要悪なのである。

すべてが勝手に必然的に存在しているだけなのだ。

そして、私たち人間の魂はその必然の領域を自分にとって都合の良いように考えて良い運命として選んで、その経過を未知なものとして観測することを好奇心に顕現している、ように感じている。

その自由の感じの中には自殺する自由をも含んでいる。

幼児突然死症候群や不慮の事故という不測の死などは存在しない、ということだ。

なぜなら、ある視点において死とは魂にとっての救済だからだ。

誤解を恐れずに言うと、自殺は自らを救うために行われているとも言える。


それもこれも『楽しいこと以外全部ウソの叙事詩』の脚本通りなのである。


楽しい物事など存在しないのだ。

ただ楽しむ心だけが存在しているのだ。

私たちが楽しいと感じる時、そこには義務などなく、自由意志があるはずなのだ。

だから、自分で楽しいと思ったこと以外はすべてウソなのである。

なぜなら、自分であり続けた過去のカタログしか存在していないから・・・

自分で決めたこと以外は存在していないし、これからも自分で決めたことだけが正しいということだけを信じて、私たち魂はその瞬間の意識を肉体の未来に委ねれば良いのである。

地上に生まれてきてなお、それ以外に必要なことなど存在しない。


だって、我々は霊界にいられなくなったことを発端に顕現しているのだから・・・

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