#6 たとえゴキブリのような叙事詩であったとしても
#6
少なくとも『叙事詩』の記述はそう言っている。
私はシャンポリオンのような言語への才も狂気もないから『叙事詩』の解読に意欲を見出すことはできなかった。
ヒエログリフやシュメール文字、神代文字などの誰にも知られていない文字を既知の言語アルゴリズムのフィルターにかけて、わずかな規則性を多くの共通構造に結びつけることで現代の言語体系で理解可能にする、みたいなことはできないし、する気もなかったのだが、あるメールを契機にそう投げやりになることもないのかもしれないと思えるロゼッタストーンを見つけた。
普通に読書をすればよかったのだ。
きっかけはダントンよりという宛先アドレス不明の迷惑なメールだったと言える。
仕事で使っているブログの問い合わせメールの中にそれはあった。
毎日無数の迷惑メールの処理をすることから1日が始まることとは無関係に私の迷惑メールへの憎悪と耐性はなかなかのものだ。
何しろ実績が桁違いだからな。
過去、半年の間に2回も手続き不備系のメールを鵜呑みにして割と迷うことなくクレジット番号と口座番号を丁寧に安心して感謝しながら入力したことがあって以来、もう絶対にあのような脇汗はかかないことを心に決める程度には辛酸耐性を獲得していた。
おかげで国税庁だとか妹の名前を語った極めて悪質な支払いの請求をも冷静に無視することができるくらいにはこの世界の純粋な悪意を認識できる自負が私にはあった。
そんな中、ダントンからは短い英語のメッセージで、私の仕事ぶりが素晴らしくかけがえのないものでその活動をこのブログから遠く見守っている、あなたは他の誰とも違う、そのままでいいんだ、などとした幾分私の気分を良くするものの最後に「愛を分かち合うためにここに来た、ただの笑顔の訪問者、ところで並外れたスタイルをしているな、大胆に、また大胆に、あくまで常に大胆に立ち向かえ、ジョルジュ・ジャック・ダントンより」というメールだった。
なんのことか全然わからなかったのだが、どうやらダントンとはフランス革命における重要な人物らしくロベスピエールという革命家と派閥を分つことで断頭台にかけられた豪胆で勇を成した政治家であることがわかった。
だがそれがどうした?という印象だった。
ただ、他のメールと何か様子が違う感じがしたのは、このメールにはホスト名その他を示す数値の記載がなく、そのあまりの白さに私の感じた違和感がちょっとした恐怖となり、恐怖が興味となり、興味がやがて好奇心になって、このどのサーバーも経由したことになっていないメールに返信をしたらどうなるのかを試してみたら、コンピューターウィルスに感染して私の携帯が使い物にならなくなった・・・
なんだろう・・・
このどこにも向けられない気持ち・・・
あんなに気をつけながら・・・
あんなに大切にしてきたのに・・・
たすけて・・・
付き合ってはいけない小悪魔的に可愛くできた女の子の類の誘惑に何度も酷い目にあってきたのに、いつまでも見抜けない可愛らしさの裏にまるでゴキブリのような不気味さと不穏さを見せつけられることで我々なりの歪んだ愛というか羨望というのか、そういう下心も含めた我々には持ち合わせていないであろう愛の抱擁による救済の求めを踏み躙るようなよくわからないけど大切で幻想的な部分を崩されることでの精神汚染が発覚した時のような何度も味わったことのある眠りたくても眠れない夜の救助信号と闘っていた。
救助信号と言っても野獣的な渇きを潤すための助けを求めた信号ではない。
もはや昔の私とは違うのだよ、昔とはな・・・
辛いことがあった時に、過剰な快楽や無理な忘却に手を伸ばすなんていうのは愚行だ。
もっと精神的などうしようもなさみたいなのを自分自身で受け入れなければならないことを悟らざるを得ない自尊心の分岐点に立ち尽くしているかのような機会にいると思おう。
その闘いはもっと崇高であるべきで誰の助けも求めるべきではない。
とりあえず寝れないから誰かを求めるなどもっての外だ、ちくしょうめ・・・
それにしても私の携帯・・・
もう戻らないのか・・・
難しいけど私にできることは眠るための努力をすることしかなかった。
だから私は読書をした。
読書とは私にとっての最高の子守唄だった。
私は俄然購読は単行本派なのだが、それは九九%見栄のためだ。
個性的なブックカバーをつけた単行本の破壊力は素晴らしく、知性をエロチシズムに変換することに成功したお姉さん型の女性と意気投合するのに単行本の携帯は非常に有効で、特に名著と呼ばれる格式のある小説や科学分野の著書に興味があるふりをすることができれば、なんとなくマウントが取れた気になれるから単行本は単行本であるだけで私の中の大切な自尊心という名の虚栄心を啓発してくれる、いわば心のカウンセラーとして部屋にいくつもの眠れる蔵書として陳列させていた。
実際にそれらの蔵書はしゃぶしゃぶのようにサラッと軽く湯に通して口にする程度に目を通しては即眠るための睡眠薬のようなものとしてしか扱ったことはない。
だからデートで会話が単行本ルートに入った際には予めネットで調べた中身を適当に掻い摘んで引用してなおマウント精神を獲得できれば私の勝ちだし、むしろ相手女性のオタク精神を引き出してしまった際には単行本のハリボテが明らかになることで話がチグハグとなり色々と終わる。
そういった失敗を糧に私の虚栄的な武装は映画やアニメといった映像ものへと退化シフトすることで身の丈に合った興味と情報で太刀打ちできる相手と向き合うことで成長を目指すようになるのはもう少し先の話となる。
さて、眠れない中で読書をするというのは私には決して楽しいものではなかった。
活字を追うことでその“決して楽しいものではない”のオーラを放出している世界が現れている。
色彩の世界は広く淀んだ廃倉庫のあまりよろしくない四露死苦な輩たちの取引現場のような世界を展開していた。
色彩と呼べる輝きの色を落とすことで『叙事詩』が私の頭の意識の照明もオフにしようとしているとき、スクリーンに記述されている文字の羅列にいくつか見たことのある“ひらがな”らしき形態になっていた。
ほんの一文字とか二文字とかの僅かな変換からでは意味まではわからないが、今までずっとヴォイニッチ手稿並みにどの言語とも共通する要素を見つけることすらできなかったのに、不意に現れた始めた“ひらがな”らしき文字には流石に動揺した・・・
何がきっかけだったのかももちろん気になったが、今まで無害でかつ意味がわからないからこそ良き隣人として放置しておくこともできたが、私のようなナンパで未熟な精神が感情の源のような知性を正しく理解して、上手く関係していくことができるのか甚だ疑問すぎて不安を超えた不気味さしかなかった。
組織の闇の根幹であったり、大切な人の本性及び邪悪な意志やグロ映像の類のように、世の中には途方もなくわかりたくないことが根本となって大部分を成しているのだが、自分の内面のどこの誰だかよくわからない所作の詳細などというのもそれらと同じくらい知りたくないことだった。
だが、それはそれで無責任なことだとも思った。
知りたくないだとか、関係を持ちたくないだとかのことだ。
色彩の世界は目に映る世界と人々と同じくらいのレベルでどうにもならない。
つまり、私の所感では私という主体と感情は同一のラインにはいない、という意味だ。
私たちの感情には他人や環境のデザインや表象といった対象すべてに対する共感と反感があるように、私という自分が所有していることになっている色彩の世界が展開する感情にも同様の反感と共感を抱いているわけで、その私が色彩の世界でどう在りたいとかどう輝かせたいかの恣意を持って扱えるのかないのかで言えば無い。
これは断言できる。
私たちの主体は感情ではないことだけは確かだ。
泣きたくないのに勝手に涙が溢れることでより悲しくなったり、笑いたくないことでも笑っている内に勝手に震えるくらい笑っていたり、すれ違う人を一人残らず適当にジャッジしたりするのを別の自分が諌めたりと感情は美しくも醜いグラデーションを内側と外側との両面から勝手に私とはかけ離れたものとして私のものであるかのように向けられているのだ。
その旨を理解している洞察者だけが真の役者としての演技を辛うじて全うできているに過ぎない。
誰かが私の目の前で勝手に笑ったり、怒ったりしている様子を私が窺うのと同じレベルで、私は私の感情が好き勝手にグラデーションしているのを対象化しているわけだが、違うのはその感情を撒き起こしている関係性のような何かと私の身体がどうあるべきかの因果とは密接に結びついている、その密接に結びついている部分において“自分や私は”という関係性が生じているといった感じがある。
おそらくそれが謎に記述を繰り返す『叙事詩』の役割であり内容とみている。
だから、どうにもならないからと言って自分と無関係であるのかと言えば無関係ではない。
無関係であるとも言えるけど、少なくとも目の前の現象として出現している出来事のキャストやそれに応じて私に巻き起こっている感情の所作は私に逃れようのない決定への道筋に絶妙に無駄なく周囲の相互と網の目のように影響し合うことで、死角からのフックブローのように関与しているとも言えるし、していないとも言える。
つまり、よくわからないわけだが、わからないからと言って何も知ろうとしないのは些か無責任であるというより、今の私の知覚条件での無知はもはや無謀ですらあるという認識にあった。
たとえゴキブリのような全く知りたくもない対象であっても、反感が誘発する想いの都合と一致するかどうかだけでその関係を知る必要がないと断じることは危ない、ということだ。
ゴキブリが飛びかかってくることを知らないと偉い目に遭うからな。
色彩の世界と自分という存在概念との隔たりを結ぶその関係性を『叙事詩』のスクリーン及びその記述による刻印の客体化によって知ってしまっている私にはむしろ知る権利があるとさえ感じていた。