オリジン オブ シビリゼイション#8 アカシックレコード:地球紀アトランティス人編(アトランティスの皇帝マヌと光るムカデという巨人の神の因果)
#56
アトランティスの第三亜人トラテケン種族、通称トルテックは太陽系惑星の神託者として偉大な記憶と圧倒的知性による文明の父として人類に降臨した神々の使いと崇められた存在だった。
彼らは現代でいうシャーマンである。
トラヴァトリ種族と比べてさらに赤褐色に染まった赤または銅色の肌をしていて、その身の丈は二メーター半前後あり、その体格は古代ギリシャのパンクラチオンに勤しんでいたかのような筋骨隆々のがっしりとしていた。
トルテックたちはその時代を生きた種族の中でも群を抜いて活力に満ちていた。
その活力は神託者としての啓示を告げるだけ告げて導こうするのではなく、剣と魔力の両方を携え自ら前線に立つことで活路を開く英雄譚を人々に焼き付けることで、その信頼の記憶を各集落から小王国にまで轟かせていく。
その実績がアトランティス大陸中の人間種族の記憶に拡散され、共有されるようになることでトラテケン種族の覇権への絶対的支持が確立されることで、やがて数万年にもわたってトルテックの血筋を軸とした混血が進んでいった。
その血縁が構築する記憶細胞のもたらす絶対的記憶崇拝は混血の影響をものともすることなく、他の種族の傾向を淘汰する力を有し、トラテケン種族の英雄譚と共にその子孫の姿形はトルテック人的なままであり続けた。
彼らの支配した約一〇〇万年前以来数十万年間の絢爛たるまでの英華の遺伝子の退化した刻印が現代のメキシコやペルーで暮らす人々の体系にその名残りが刻印されている。
ちなみに、トルテックとはアステカ語族に伝わるナワ語群に属する言語であるナワトル語の「賢明な芸術家」という意味で、先住民たちの間で方言といったレベルで今尚受け継がれている。
その強すぎる遺伝的な物質形態の継承力は逆にいうと本質的にトルテックの種族タイプを変更することができなくなったことの事実を私たちは現代において観測することができていることの証でもある。
これが人類における遺伝的継承の原則が最初に確立された事例である。
非常に活力に満ちたトルテック人たちは地球の生命力を操る大きな力とそれを万人が扱えるためのデバイスとして公的に供給しすることで、彼らはアトランティス大陸全体で物質的な力を享受し、その記憶に基づいた組織力をアトランティス大陸の支配力としていった。
その支配を統率するのに役立ったのが階級だった。
そのトップに君臨したのが「奉仕者」と呼ばれていた太陽系惑星の神託者たる記憶を有していた、後のクリシュムナルティを指導者とした神智学崇拝者の魂が、彼らトラテケン人の目を通してアトランティス黄金期の風景の記憶を現代にまでヴィジュアライズしているのだ。
貴族と中流階級だけがトルテックの純血としての記憶を継承し続けることで、当時のアトランティス大陸のマジョリティを占める混血児としての下級階級の子孫たちは伝説的な人類の記憶からどんどんと遠ざかっていくと共に生命力と結びついていた自然を支配していた超能力の格差が、そのまま彼らの政治体制としてアトランティス大陸上で広がっていった。
その体制に加わった独立小国の数々は次々と合併していくことで大連邦組織へと規模を拡大していくための戦争を数百年から数千年かけて行い続けた戦いは主にたった一人の首長によって成し遂げられていた。
それがマヌである。
マヌとはアトランティス時空において最初の帝国を築いた皇帝のことであると同時に太陽の神託を受けた神人のことでもある。
太陽系惑星の神託者たちが神々の使いであるとしたら、マヌは太陽そのものが人間をしているかのような高次元の存在として地上に降臨していた、いわば神そのものである。
と言っても、私たちが見上げている太陽はマヌが思考した強すぎる自我の光による霊界に存在している霊的な太陽をモデルにした模像、本物の太陽存在ではなくあくまで化身であり影であることからやはり逸脱した太陽を通じて神託している超越者のことである。
いづれにせよ神人であることには変わりがない。
現に私たちの観測であの太陽が宇宙で燃えているという認識を常識として共有させて、人類の九九%に疑いの余地もないと思わせるくらいの強い認識を、あの太陽の光のもとに私たちを洗脳することに至らせ続けていることからもその権能の強大さが伝わることだろう。
太陽の神託者マヌは現時空でいえばキリスト的な存在が信仰の対象としてアトランティスの黄金時代において何万年間もの長きにわたって人間たちを統治していたということだ。
その神人マヌは「焔の雲」の中の高次の神霊として崇められた皇帝だった。
秘儀参入者である奉仕者たちはその存在を知覚し、その予感のような理解を法則として自らの記憶の中に刻印させることによって神々の使いとしての権威を指導者として振りかざしていた。
彼らはマヌの存在を通じて神界と地上の概念世界を自らの思考で行き来することができ、その知覚経験から叡智の神殿を自らの記憶に宿すことで、“マヌの記憶を共有する者”として地球上の認識を現在のような物質だけで構造化されているものという幻想的な記憶を太陽の光によって絶対的なものへと生命観を書き換え続けていた。
それが物質という概念の絶対視の始まりであり現実への思考の始まりとなる。
マヌの目的はその思考の普及のためのみ今尚人類と関わり続けている。
しかし、マヌは原則的にどの時空においても人間とは直接関わることができない。
秘儀参入者たちは人間の姿をしていたが、神人であるマヌは人ならざる存在としてでしか地上の人間と関わることができなかった。
神人であるマヌは人間だけが人間の姿で現れることができる原則を超えられない。
マヌは人類を導く原則を伝えることができなかったため、神の思考と人間の魂の両面を有した人類の創造をアトランティス時空の過程の中で起こる、あらゆるシチュエーションにて人類の新しいモデルを試し続けていた。
それが恐竜の時代を終えた頃の海に生きた人間である海人である。
マヌは神である自らの思考に全くそぐわない堕天使にして巨人ネフェリムの霊化を諦めることでアトランティス以前の時空を種ごと終わらせたことがある。
時空と種を終わらせるとは、人間としての視座を変更するということだ。
例えば、猫や犬の形態が進化に優位だとして人間認識の中心視座として見据えたとしたら、彼らが生態系の進化に相応しい環境が用意される。
そのことで地球そのものが作り替えられることから、時空そのものが新しくなる。
もしも、動物存在の魂に人間の中心を据えたとしたらその世界は月となるのだ。
そして、動物存在を捕食しうる存在は必要のない種として絶滅させられる。
現在の人間が物質的な地球を霊長のトップとして優位に認識できているのは、人間の魂に自分という中心の霊であり核を降ろすことへの価値があるからであり、その価値とは人間が人間に求められている思考に相応しい器を作り出すことができたからだ。
つまり、マヌとは人間の魂の天地創造に関わり続けてきたということだ。
その新たな進化体をもとに再創造することとしたのが海人だった。
アトランティス時空の大陸はその海人を始めとした人種と種族に応じた地球環境が現在でいうプレートテクトニクスとは別の仕方で移動し、沈んでは隆起することで地球全体は動かされていた。
それを行っていたのがいわゆる人魚たちでアトランティス人の祖先である。
人魚たちは言霊にてありとあらゆる創造と破壊を可能とする生命力を自在に扱っていたわけだが、その権能の源がロゴスという神々の思考との直接的なつながりによるものだった。
無意識ながら音響によって霊界とつながることのできた彼らの血液と細胞は、その意志によって岩をも砕く超音波を発し、意のままに海の中の岩壁や氷を切り裂いては自在にその形をデザインした。
その大陸をも創造する思考と意志を音響として提供していたのがマヌだ。
まだ自我という思考を持たない彼らに地球での役割とその力の橋渡しおよび可能性を提供していたのがマヌなのである。
人魚であった彼らの名残が現代のイルカやクジラ、マナティといった海の哺乳類達の形態としてその痕跡を遺伝子による肉体とそれに応じた精神にのみ残している。
その後、数千万年もの果てに再び上陸するのに選んだのがルモアハルス人である。
童話『人魚姫』の原型的なエピソードがこれだ。
現代から二〇〇万年前の更新世の時代に類人猿に似た原人に適性を見たマヌは、人間的な地上の活動に相応しいと目をつけたある日を境に、地上のルモアハルス人の原型である存在の人間化に着手する。
着手とは、ある種の寄生とも提供とも機会とも言える。
マヌは常に人間の生命体とそれにふさわしい生命体を行き来することのできる思考体そのものであることから、何者にでもなれるし、何者にもなれないという神的素養を存在の原則としている。
それでも人間の魂が各惑星からアトランティスの地球に降り注いでいる以上、人間の“思考の可能性“を模索し続ける必要があったその末に、ルモアハルス人のような地上の神になりうる生物をマヌが機会として渡り歩き始めたことが人間知性の直接的な起源にあたる。
人魚姫が人間の王子を見つけて人間になったように、マヌもまた地上の原人を見つけてその心を地上に移していった、という経緯が人魚姫伝説として私たちの無意識の中に語り継がれている。
もっとわかりやすくいうと、マヌとは『進撃の巨人』でいう光るムカデである。
光るムカデとはカンブリア紀に存在していたとされる原始生物ハルキゲニアをモデルとした有機生命の起源的な生物のことだ。
劇中のクライマックスで巨人化ウィルスを拡散する光るムカデのような謎の害悪はより強く大きな存在を生命体の器として選び続けた先に、最も繁殖しやすい生物に巨人化できる人間とのハイブリットを生存戦略とした狡猾な知性を持ち合わせた寄生生物なのだが、その容姿は人間の脊髄から派生する神経系がそのまま生命化したかのような生物形態なのだ。
その憑依体が人間のうなじを核として一体化していたため巨人となった人間はうなじを切断されるとその生命機能が中断され、巨人はその肉は溶解し、その骨までも気化するように消滅していく。
最終的にその光るムカデもまた始祖の巨人の首の切断と共に消滅する。
ゲームで役割を終えたモンスターのように綺麗に巨人とその根源は消滅する。
生物の死は必ずその痕跡を残すことからそんなことは現実ではあり得ない。
しかし、光るムカデと巨人の話はフィクションなのだから当たり前だ。
ただ、おそらくこの作者は人間の本質を肉であるとは考えていない。
巨人に淘汰される人類という関係を通じて、その生涯に“心臓を捧げる”ことの意義を問い、巨大な暴力の系譜のことを“道”と呼び、その無限の記憶の砂粒には増えるために必要な大切な「何か(因果)」をこねて創ることのできる時空を超えた“座標”で死のない空間を表現している。
同時に第一話のミカサの「いってらっしゃい、エレン」の一言と「二千年後の君へ」というタイトルは死んだエレンに向けた記憶のやり直しを繰り返しを終わらせる意味とミカサの自由がエレンの物語とは別の大いなる干渉であったことを示唆している。
進撃の巨人とはすでに決められた円環の中での自由を与えられた存在だった。
二〇〇〇年にも及ぶ巨人の系譜の中で最も強い自由を希求する人間の衝動に宿ることで、巨人群の全ての魂の記憶に干渉する自由の中を生きることができるという、全ての巨人の業を見てもなおどこにも行くことのできない最も不自由な魂の運命であることをエレンは悟ると同時に絶望したのだ。
円環は一つの円としてエレンの自由意志による干渉も含めて完全に閉じていた。
エレンは自由意志があるのかないのかの葛藤の果てに八方塞がりとなり、その円環を創造した「何か」との因果の間にある自由との狭間で、あらゆる記憶に垣間見ては干渉し続けることでちゃめちゃになった思考の末に「人がいるから戦争がなくならない」という結論へと至る。
これは「人がいるから自由意志への葛藤がなくならない」という結論と同じだ。
戦争とは人が人ゆえのエゴと欲望と暴力の結晶だからだ。
だったら、自分を含めて人間がいなくなればいい・・・
だがそれでも巨人として戦い続ける円環への回帰は止まらない。
それが達成されると再びエレンは記憶を失い、まだ巨人ではない頃の自分家族とミカサのいる時空間に戻される、というのがエレンという人間の思い出の始まりであり、終わりからの円環の始まりにエレンは絶望していたのだ。
その過去も未来もない円環に自由に干渉できるはずの神にも似た全てを俯瞰する記憶の自由に触れたエレンは、どうにでもなるが変えることのできない二〇〇〇年の縮図と自分自身の進撃の巨人の固有能力である“記憶の共有”の中で自らミカサに殺されよう誘導することで、二〇〇〇年にも及ぶ巨人の因果を生んだ自分自身の壮大な物語の“巨人の円環”が消滅に至る。
ユミルの民である全てのエルディア人のエレンによる巨人化の因果を断ち切る。
「これはお前が始めた物語だろ」の力を使ってだ。
おそらくこの声はエレンであると同時に自由意志の根源である作者の声だ。
無数の因果を確定させて練り上げていたのがエレンの声で、自分がいなくなるだけでは“巨人の円環”の消滅に至らない未来を見通したエレンはあの壮大な伏線と犠牲の過程の中からミカサを導いている、“巨人のいない”世界という未知(道)の可能性を見たのだ。
確かにエレンは二〇〇〇年という巨人の円環を過去も未来もない自由な存在として、決してその二〇〇〇年の因果空間から抜け出すことのできない不自由な自己としてループしていたとも言えるが、実際は座標という無限時空の砂の全てがエレンだった。
二〇〇〇年そのものがエレンだった。
エレンの自己の意志そのものが巨人であり、光るムカデだったのだ。
だからループも過去改変もエレン自身は行っていない。
エレンをはじめ、登場人物の全ては光るムカデの影だった。
エレンという光るムカデが巨人として転生し、その転生による様々な経験の中で元々求めていた何かが完結し、終わるまでのひとつなぎの記憶が光るムカデのユミルの遺伝子を砂とした時間の存在しない空間から、巨人というグループ魂が人間というグループに新たな可能性へと導いていた。
問題児が両親、あるいはその時代のために生まれてくる因果と同じようなものだ。
同時に人間という魂がエレンという存在を導いていた個と全体の関係をエレン自身に神であった自分自身を思い出させることによって、ミカサの生きるであろう人間だけの世界の別の円環にいる作者という創造者の意図である“愛”の存在に気づけたのだ。
そのためにエレンは母親だけでなく、多くの仲間と人類の八割をも犠牲にする廻り道をしなければ、光るムカデによる巨人の円環と巨人の道を選んでいない人間たちとの円環の循環を断ち切ることができなかった、という物語だった。
マヌとはエレンを巨人の神とした光るムカデと同じ存在である。
光るムカデが巨人化の権能を人間に与えることのできる神人だとしたら、マヌは人間に思考による分析と変換が可能な権能を与えることのできる神人にあたる。
マヌはアトランティスの人間を人種として神と同等の思考が可能な人類の創造を目指す。
そのために悠久なる時をかけて人間の魂をアトランティスの時空に招き入れる。
その試みの成功例が太陽系の惑星神託者である秘儀参入者であるトラテケン種族の人種に、現代では当たり前とされている思考能力の回帰のための秘術を渡し、彼らの絶対記憶の継承のプロセスに矛盾なく浸透させることによって、まだ自我を十分に成熟させることのできていなかったルモアハルス人種やトラヴァトリ人種を淘汰し、支配し、洗脳していった。
その一〇万年間にも及ぶ活動で達成されたのが大陸中の「黄金門の都市」だった。
黄金門をシンボルとするクリスタルを基調とした美しい都市は大西洋上の無数に存在し、あらゆる暮らしが営まれる全てのアトランティス人がその黄金郷の恩恵を享受した理想がかの時代には広がっていた。
また大西洋上の大陸と言っても、現代より遡って一〇〇万年前から八〇万年前の大陸の分布では、ちょうど大西洋を中心とした現在の海上のほぼ全てが陸そのもので、その大陸を西端とした陸地が東に向かって赤道上至るまでが土地になって、その東端をほぼ日本くらいにまで繋がっていたものをアトランティス大陸としていた。
東は地中海を陸としてサハラ砂漠を含む以南と東ヨーロッパとロシア全域が海でありながら中東、中央アジア、カムチャッカからアラスカ南の海に至るまでが陸続きだった。
そして、西はメキシコ南、南はブラジル、北はアイスランド付近までの大陸がアトランティス文明が最初に起こった主たる大陸として存在していた。
ちなみにカナダ全域及び中央アメリカ、アラスカ、南米チリとペルーとアルゼンチン周辺は海中であったため八〇万年前のアトランティスには陸地ではなかった。
加えて、レムリアから残る大陸もムーとされる土地は北は北極圏及びグリーンランドにアトランティス人に追いやられるようにして移住させられ、それにインド洋と南アフリカの一部に、インドネシアからイースター島に至るまでの太平洋上に複数の大規模な大陸が存在していた。
そして、その土地に存在していたのはアトランティスの時代における巨人群であり、各地の壁画や化石にあるような原人もまた人間の遺伝子を共有しない黒の部族で、原始的な文化さえも持たない動物に等しい生活を営む形がアトランティスの時空において貫かれ、レムリア由来の彼らはその時代に安置されることで後の現時空にて新しい人間像として現代に転生されることとなる。
またこの大陸分布も幾度もの洪水と海の創造主たちによって変異され続けていく。
さて、当時の地球の赤道上を帯のようにして東西に伸びるアトランティス大陸のその絢爛たる美しさを誇る都市の数々は大西洋上を覆う最も大きな大陸に多数存在した。
その支配圏はやがて地球全土の人間という人間を同じ文化と文明で統治するに至るという黄金郷の時代を築いていった。
そして、その都市文明のどの街の呼称も同じ「ルカ〜」と呼ばれていた。
なぜなら、マヌという絶対的な記憶による統一的な思想と思い出が国家規模の幻想として疑うことなく全世界の人間が共有していたことによってほぼ完全に近い洗脳が支配されたアトランティスの人間の認識に須くその自然本能の固有的力によって刻印されていたからである。
あの秦の始皇帝による中華統一の荒唐無稽の支配の発想はアトランティスの黄金郷時代の皇帝マヌの理想を継承したものだったのだよ。
いづれの理想もマヌの掲げた人間の自由意志での思考獲得を目指したものだった。




