オリジン オブ シビリゼイション#2 アカシックレコード:地球紀アトランティス人編(プラトンのアトランティスとソクラテスの哲学)
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アトランティス大陸の伝説はソクラテスの時代のプラトンの著書に有名だ。
アトランティス大陸が登場する『ティマイオス』、『クリティアス』、『ヘルモクラテス』のタイトルはそれぞれプラトンの時代に生きた知人たちの名前である。
完結しているものと未完のものとがある中でアトランティスの時代には神話に登場するオリンポスの神々の争いが人間の世界の権力と勢力に影響していたその栄華と衰退が描かれている。
そのことからプラトンの視たアトランティスが現在の人間に近いことがわかり、描こうとしていたのがアトランティスの晩年の様子であることがある程度わかる。
またそのソースが人間の魂の原型を由来していることからプラトンは対話編という形式を採用し、現代に至るまでに多くの著書を私たちの世代に残すに至っている。
そして、その知性は“神霊に憑かれた哲学者”の代弁者たる役割を担っていた。
ソクラテスである。
彼はソクラテスに師事し、ソクラテスの語る多くとその顛末を詳細に記録し、プラトンはソクラテスがいかにして“ダイモニオン”としての代行者であったのかをその著書『ソクラテスの弁明』等に記している。
“ダイモニオン”とは古代ギリシアにおけるダイモーン(神霊・神格)の形容詞表現であり、神々がソクラテスの姿を借りて語られるその言葉は神の理性、ロゴスであることからソクラテスを通じて語られるその声は神に由来する人間の魂の理性であるとされた。
彼の進言は「汝自らを知れ」に尽きる。
古代ギリシアにおいてもうすでに人々の本能から信仰が忘却されつつあった。
自らの神を感じることのできない人々は外なる神を信仰し、偶像を強めていこうする準備の中から新たな神となりうる救世主が待たれるほどの退廃を人類は時代の潮流として、“生きるために食べるのではなく、食べるために生きていた”。
ソクラテスはそんな神々の暮らす神霊界を忘れてしまった人々に理性を提供する。
それが「無知の知」である。
ソクラテスは「唯一の真の英知とは自分が無知であることを知ることにある」とし、「自分自身が無知であることを知っている人間は、自分自身が無知であることを知らない人間より賢い」としている。
その心は「(自らの)魂の探求のない生活は人間にとっての生き甲斐のないものである」とし、「(他者への)妬みは魂の腐敗」以外の何ものでもないとしている。
そんな思想をアテナイの賢者たちに向けて「知らないことを知っていると思い込んでいるより、知らないと自覚している方が賢い」などと指摘する問答をライフワークとしたことで名声を得てしまい、そのおかげで無知を指摘され続ける賢者たちはソクラテスの存在を疎ましく思う等あって、公開裁判にかけられ死刑に処られた。
その際の弟子たちとの問答で語られたのが「悪法と言えど法は法」である。
ソクラテスは死についてを「死は言うまでもなく、肉体よりの解放に他ならず」、「死は人間の持っている全ての恵みの中でも最高のものである」としている。
その問答の末、彼は「出発の時が来た、そして私たちはそれぞれの道を行く、私は死ぬ、あなたは生きる、どっちが良いのかは神だけが知っている」とし差し出された毒杯を自ら飲み干しこの世を去った。
彼は「死ぬことと自分の信念とどちらが大事か」の答えを示したのだ。
彼は「私は最小限の欲望しか持たない、したがって私は神に最も近い」とした。
欲望とは快不快の感情体が示す一つの方向性への意志であり本能である。
それが知的好奇心として現れているのが私たち現代人の意識体のことで、その意識体を導き司っている霊である人間のみが持つ自我特有の本能は魂及び生命体が要請する睡眠欲や性欲、食欲といった生存にまつわる作用のことではない。
霊としての自我の持つ本能とは神を知覚し、認識し、神々の意志と同一化すること。
かつて人類は神々の世界と交流して生きていたのだ。
私たち現代人はその名残りである神話を御伽噺として、神々があらかじめ与えてくれている霊であるための霊的な本能を忘却という封印のもと、まるで見当違いな衝動を本能と理解することで自分という人間の認識の遠回りを余儀なくされている。
ゆえに私たち人間は再び霊であることを明るい意識のもとで思い出す必要があるのだ。
だから私たち人間霊にとって自らに沸き起こる快を目的化したり、不快を排除しようとしたりすることの要請はさして重要ではないのだ。
私たちの多くは快が手に入りそうだから頑張る努力をする、快がなさそうそうだから全力を尽くさないといった損得勘定を目標とした“投機心”を絶えず動機としている。
“投機心”とは少ない投資で大きなリターンを求めようとする心理のことである。
この“投機心”に基づいた考え方と目標設定を行なっている個人や組織と関わっている限り、私たち現代人は不快が提供してくる意味が理解できないことから、人生の苦悩や苦痛を悪として遠ざけることで決して人間基礎に提供されている叡智を創造することができない人生と死後が約束されることとなる。
つまり、「快」そのものを目標にすべきではない、ということだ。
なぜなら、快不快とは目標ではなく物事の結果として現れることであって、まだ訪れてもいない期待感の結果如何を追い求めることに味を占めてしまうと、「快」を追い求めること自体がやがて「不快」を生じさせることとなり一生不満足なサイクルが自分自身であり、「快不快」こそが人間本性であると人間基礎を誤認してしまうこととなるからである。
お金を軸とした“投機心”に終始した定義が自分という像に付与されることなる。
達成が「快」である成功であり、未達成が「不快」である失敗となる、常に勝ったか負けたかの損得の結果に左右される人間性以外の関わり方を知らないコミュニティの一員と成り果てるのである。
この価値観によって連綿と続く有志以来の歴史の経験則の結果、人類は一つの成果として資本主義コミュニティを多くの国家が採用しているが、もちろんその選択の状況が最良であり完成形であるはずがないのは火を見るよりも明らかなはずだ。
ソクラテスはそのことを以下のように述べている。
「人間に関することに安定などないことを忘れてはならない
それゆえに、繁栄している時には過度の喜びを避け
逆境にある時には過度の落ち込みを避けなさい」
地球紀の人間である以上「快不快」の感情の手招きからは決して逃れられない。
その不都合な一面である不快から逃避し、耐えようとしないのではなく、私たちは人間としての自我が認識するよう定めて出現させているその瞬間にある目標への期待感による“追及そのもの”に喜びを見出せるよう関わり、その働きかけを受け入れれば良いのである。
その追求にどんな意味を見出して、どんな使命を感じるのか、それに伴う快不快とはそもそも目標ではないはずであることから克服すべき地上で生きるにあたっての人間的な課題ということとなり、その過程そのものには目標達成に関わらずある種の人間基礎に貫かれた“方向性そのもの”による霊的な「快」が存在することとなる。
“追求そのもの”は何であっても構わないが、地球で人間をしている自分が何者であるかのある程度の人間基礎の上での自由に基づければ、その自由をもって肉体を脱ぎ捨てた後の変容にも耐えうる自己の知覚を形成し得るだろう。
その穏やかなる“追求”の際の心掛けがイザという時の助けとなる。
例えば誹謗中傷や謂れのない心なき風評に晒された時に人は感傷し疲弊する。
人に待たされた時や思い通りにならない時に私たちは焦燥感に駆られる。
許せない時には我を忘れて言葉を選ぶことなく敵対する人間を罵倒する。
そんな感情のトゲが自分の内面に入り込んでくる前に抜き取る方法がある。
コツは何が起きても辛抱強く沈黙し、待ち続けることで「無駄である」と想定する。
普段から自分が感情的になるであろうイベントを想定して、自分に働きかけてくるであろう感情の波の影である思考が「何を言っても自分とは関係がない、影の思考である」と割り切る。
あるいは自らの修羅場での経験をそういう自分が巻き起こしているものだと悟る。
そうすることでイザという時にその想定を蘇らせることができれば、自分に対して行われている心ない言葉の嵐に晒されても、まるで第三者のことであるように受け入れることをしながら平静でいることができる。
それがそれぞれの地球の人間の魂に吹く風なのであると・・・
私たち地球紀の人間はそれぞれの時代の風に吹かれることを味わっている。
ソクラテスやプラトンの時代は古代ギリシアからローマの第四文化期にあたる。
その区分はアトランティスの時空が大洪水によって崩壊し、ノアの方舟以来を地続きとする有史以来から約二〇〇〇年ごとの地球の歳差周期運動による四つ目の時代区分である、ということです。
私たち現代人は第四文化期に次ぐ第五文化期での運命を進行させている一四一三年から三五七三年の魂の歴史を課題とした人間を味わっている一つ一つの霊魂なのである。
その自我的な霊魂とは地球紀の人間のみに付与された神々の断片。
私たちはその畏敬と恩寵を忘れる一方で、その神々しいまでの本能から解き離れた自由な思考によって物質の細部と宇宙の最果てをも見渡そうにまで至る科学的な知性と論理を獲得し、その明るく明晰な叡智を物質の持つ暗く破壊的な本質と人間は同一化しようとする傾向をますます強めていく時代を私たちは体験しているのである。
つまり、私たち現代人は自分が何者であるのかを知らないことを知らないのだ。
だから私たちは自分の欲望と他人の欲望とが区別できない。
欲望が引き起こしている顛末についても「人間だから仕方がない」の理由で経験則的な対処を繰り返す帰納式で「人間だから仕方がない」の膨大なサンプルを人類はその原罪が何かも贖罪が妥当なのかも知らないままに取り越し苦労という誤謬を積み重ねている。
いわゆる罪悪感と後悔である。
逆に言えば人間の欲望を由来とするこの二つを克服するだけで良い。
現代の人間霊はたったそれだけのことで地球の魂から自由になれる。
かたや、その欲望から一足先に自由になっていたソクラテスとプラトンをはじめとする当時の秘儀参入者と呼ばれる見霊能力の名残りを有していた偉人たちは私たち現代人の見本とも言える。
彼らの神々の意志とその声を知覚し、その理性をロゴスとした言葉でその時代の人間の魂をあるべき霊への道へと導く手助けをする、その所業は人間の外から神霊が私たち人間存在に向けて行なっていることと同義であることから神霊の手助けをしているようなものなのである。
プラトンはそのソースのことを「イデア」と呼んだ。
イデアとはプラトンの認識した感覚世界の原型であるアストラル世界のことである。
プラトンはソクラテスのいう「無知の知」を元にした本当に知るべき叡智であるプシュケー(魂の活動)を可能とさせている心や魂の基盤である生命のカタチある場所にこそが確実の知であり、その概念領域のことを「イデア」とした。
人間の魂に生きる機会を与えている愛の力が働いている霊界の下層領域のことである。
かつて霊界にいた私たち人間霊はイデアであるアストラル世界を見て地上に来ている。
地上の人間はどの時代においても多かれ少なかれそのことを忘れて思考を行なっている。
そして、その不完全な認識による反射像を自分のこととして、その反射の連続からイデアからの由来であることを少しずつ思い出す想起を通じて、魂の本当の故郷が目に見える地上ではないその原型たる“真善美”の世界へと至るための使命に回帰することを目的に地球は創造されている。
それがプラトンの“イデア論”である。
イデア論の説明は「洞窟の比喩」と呼ばれるプラトンの著書『国家』の中で語られるメタファーによってなされている。
「洞窟の比喩」では、洞窟には看守と囚人がいて、囚人たちは看守が火を通じて投影させている壁の世界を現実であると思い込み、囚人たちは看守と火が背後にあることを知らなままに自分自身を定義し、一喜一憂している旨をプラトンは「洞窟の比喩」にて囚人たちの無意識の隷属についてを述べた。
また、その火とは太陽であり、太陽が遠く離れた宇宙空間からその光と熱を届けているというのも暗に間違いであることを示唆しているのもプラトンのイデア論の真髄にあたる。
なぜなら、りんごにはりんごのイデアがあるように、太陽には太陽の、看守には看守の、宇宙には宇宙のイデアがあるからである。
宇宙空間という世界観を提供しているのは太陽が提供している像である。
その像を認識するよう働きかけているのが地球の前世である月の因果の名残りであることから、太陽が宇宙空間の太陽系に君臨する巨大な恒星として、ただ光と熱を届けている天体であるという見解は囚人として見せられている幻想像を現実と信じている信仰に過ぎない、ということをプラトンのイデア論はロゴスとして伝えているのだ。
プラトンはそのイデアの中にアトランティスを視たのだ。




