#5 色彩からわかる叙事詩について
#5
あの日、目が覚める前のまだ瞼を開けておらずその日見た夢を忘れないようにしている頃に、なぜか『楽しいこと以外全部ウソの叙事詩』という言葉を見出しにしたメッセージの中に大切な何かが収束されたような感じばかりが頭の中に浮かび、割としっかりとした残り方をしていた。
どこかいつもの夢とは異質で、とにかくなぜかとしか言いようがないのだがとても大切なメッセージであることは検討の余地もないくらいに理解できてはいた。
だがしかし、そのあまりのスケールにどこの何が大事なのかすらわからない「でも決して壊してはならないぞ」と慎重になって目を閉じ続けることで完全に覚醒するのを回避していたのがバカバカしくなるくらいにはあの日残された『叙事詩』による記述は丈夫だった。
その固定された『叙事詩』のメモリーはまるで別の端末からダウンロードされてきたことを隠そうともせず、最新にして最速で私の記憶の一番上に圧縮されたPDFファイルのように威風堂々と決して壊されることないであろうくらいには強固に守られている何かとして、それは私の中でカタチとなって在り続けた。
私はそれを『叙事詩』として頭の中で自分とは別の端末として見ることができた。
自分の思考とは別の思考パターンの装置のようなものを認識するようになった、が正しいのかもしれない。
要は脳に携帯電話が埋め込まれているような感じだと思ってくれたら話は早い。
何せ普通に生活しているとだな、絶えず行われている何気ない思考と意識と感情の渦というか波の中に見切れるようにチラついている何かに痒さが気になるようになっていた。
暇になるとつい自然に無意識に携帯画面に触りたくなるように・・・
まさかクモ膜下出血でもしてるのかなと思っていると、痒いところを意識的に注視してみると近未来映画やアニメに出てくるような透明なスクリーンが浮いた空間に投影されている何かとして灯っていて、それは目には見えないけど意識のムードみたいなのと関連して確かに脳内の確固たるスペースを確保していたのだ。
さらに焦点を合わせていくとそのスクリーンには紐のようなアラビア語に似たフォントの文字が表記されていて、その表記は私の意思や感情の思考とは無関係に自動でその綴りを更新しているようだった。
普通に暮らしている内にいつの間にか私の思考回路とは別のAI検索エンジンのような外付けのCPUがスクリーンと文字とで常に電源が入っているかの感じで起動していた。
こうして、あの日を境に私の脳裏でのチラリズムから一緒にご飯を食べるくらいには当たり前のことへと推移していったことで、そいつは取り立てて違和感のない空気のような感じの装置として煌々と意識のムードとともにあり続ける生活は繰り返された。
まるで昔からずっとそうであったかのように・・・
だが、その文字のような何かを解読することはまるでできなかった。
私はシャンポリオンではないのだ。
また、『叙事詩』のスクリーンも文字も私の都合でオンにしたりオフにしたりもできないから、完全に無視することもできなかった。
まるで携帯端末だ。
そして、携帯でスワイプして拡大するように意識の焦点をスクリーンにズームすることで注意深く観察して考察することはできたから相応に調べてみたところ、どうやら電源らしきものはないことだけがわかって、じゃあそれが何であって何が記されているのかが全くわからないことがわかった。
完全にわからない。
どうしてもわからない。
何をやってもわからないものはわからないのはそれはそれでとても良いことだと思った。
むしろ幸いですらあった。
ただでさえ、わからないことがあると余計な仮説で余計にわからないことにするのが我々人間の性なのに、自分の内側に自分ではない誰かのメッセージのようなものの意味にいちいち思考を向けて感情的意識を揺さぶるようなよくわからない何かが頭の中にカタチある装置として在ることを考えてみてほしい・・・
たぶん生きるのをやめたくなる。
不快な人がすぐ隣にいる生活を絶対に止められないのと同じだ。
ゴキブリのような心を持った人と生活をしなければならないのは地獄だろう?
だから私たちは他人の心がわからないことに感謝すべきなのだ。
私たちには他の誰のものでもない絶対領域であるATフィールド(固有の心の壁)を何故か所有できていることにもっと幸いを感じるべきなのだ。
ゆえにATフィールド全開はたとえ神であってもこの世界の条件だとそれなりにやばいことになる。
つまり、絶対に無理な人とは理解したくないのに理解しなければならない人のことだ。
私たちはそういう直観をもっと大切にして良いのだと思う。
だから苦手な人とでも我慢して付き合う必要があるというのはウソだ。
“付き合う”の程度にもよるが、基本的には自分と似た近しい人と一緒にいるのが正しい。
なぜなら「類は友を呼ぶ」という実感こそが私たちの居場所であるはずだからだ。
類からは学べないというのも不当だ。
学びは類からしかないことへの無知が自分がどこにも属していないという自分への過剰な信頼という誤謬と勘違いへと酔わせているのだ。
英雄ゆえの孤独、孤独ゆえの孤高、孤高ゆえの独尊が多くのことを見失わせることになる。
ただ自分を勘違いさえしなければ類を友と呼べるはずなのである。
友とは理解の対象であり、理解を超えて、理解を求めない関係のことだと思っている。
互いに要求し合わない関係ほど尊いものはない、ということだ。
本当の友とはそんな家族のような存在のことだ。
そしておそらくだが、この『叙事詩』と呼んでいる自分の中に存在する自分以外の誰かとはその手の類として自分と関わっている何かなのだと思う。
おそらくとはしたが直観的には確信に近い。
まず『叙事詩』のスクリーンとは、つまるところ感情のことなのだ。
『叙事詩』の記述そのものは恒常ではなく、主に私の目に映る対象についての思考が疑問にまで結びついた際にコメントし始める傾向がある、或いはそのコメントが私の疑問、思考、言語の根源である可能性まである。
私たちは反射的に認識して、条件的に言葉を用意しては、瞬発的に別の言葉を発射したりしているわけだが、そういう忙しい時ほど案外頭の中は真っ白で何が先で何が後だったのかだなんて意識の在り方や向きの瞬間を把握するなどというのが如何に不可能であるのかをこの装置は教えてくれる。
たとえ何らかのデバイスが存在していたとしても頭の中の意識状態の詳細の機微を把握するだなんてことは到底無理だ。
ていうか、この領域に後とか先とかの概念があるのかさえ疑わしい。
ただ、無理であることの不可能性の中からわかったことがいくつかある。
それが記述の反応に呼応して『叙事詩』の記述を映すスクリーンが色を変える、ということだ。
ラブホテルのナイトライトのような感じだ。
その色彩はグラデーションをデフォルトとしていることから特定の色であるというのはないのだが、私たちの身体(脳)はこのグラデーションの推移であり温度差のことをおそらく感情と呼んでいる。
ちなみに特定の色である赤や緑や青とされている単色という概念は存在しない。
白が全ての色(光)の反射であるように、黒は全ての色の反射を拒んだ可視光線領域内のグラデーションだ。
よって、私たちの都合で単色としている特定の色は必ず隣り合った色調間ありきの固定された反射に過ぎず、それ単独で存在できる絶対色というものは存在しない。
そして、もっと実際的な表現をするなら色は光の反射ですらない。
そのことはこの『叙事詩』のスクリーンと私の感情の輝きが私の目覚めであり眠りと結びついていることからわかった。
夜の眠りの中で見る夢に色がついていることがあるだろう?
きっと誰にとっても夢が色彩の輝きを認識するヒントになる。
一般に私たちが色彩と呼んでいるパレットに並んだ色の数々は感情の影だ。
光の反射を拒んだ可視光線領域内の黒(影)というグラデーションに色という力を与えている存在がいるという意味だ。
影を投げかけている色彩のグラデーションである感情が目を通して反射したものとして私たちの意識に「このように見ろ」という色の領域を提供しているのだ。
それをクオリアとも言う。
クオリアとは私たち人間が感じる経験の質感そのもののことで脳の癖とも言える。
例えば私たちは赤や青を見た時、なぜそれが赤や青に見えるのかを説明できない。
広義にはなぜ可視光線しか見えないのかやなぜ認識が有限で固定的なのかの問いにも繋がる。
絵画やデザインの色彩の芸術センス及び学問やスポーツ、戦争や文明の創作その他すべての表現はこういったこの領域の限界を突き破ろうとする感情の共感と反感による像ということになる。
また感情が価値観を選ぶことから善悪の共感や反感も色彩の輝きの影響から派生している。
色彩の輝きは感情による最も強い共感である白として自分の精神を照らす光であり、最も強い反感である黒は他者の精神として自己の感情とは対照であることから自己の共感の光は他者の黒によって吸収されることで色の彩りであるグラデーションとなって視界に展開されているのだ。
そのため黒は死者の像であることと同時に自己の生である白をより際立たせ、互いの感情の輝きが精神化し合うことでのグラデーションの均衡として生命の影である血液の赤、感情を纏う肉体による生きた像である桃色が私たちの肌として人間的に認識されている。
つまり、像である色とは感情の影であり、感情とは色彩の輝きそのものであることから影を投げかける本質として、人間の意識のムードに多大な影響を与えている装置をスクリーンと『叙事詩』というカタチで私は可視化しているわけだが、問題は頭の中にあるスクリーンに色を投げかけている『叙事詩』の記述が何者かの意志であり誰かの思考であることだ。
そのことから意識の中のムードを決めている感情の輝きであるスクリーンの色彩もまた影ということとなる。