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楽しいこと以外全部ウソの叙事詩   作者: ばんだな
第4章 アメイジング シュミレーションのために
42/64

アメイジング シュミレーション#5 アカシックレコード:月紀編

#42


太陽紀の歩みは新しい土星を生み出すことから始まり、その宇宙進化の果てに新しい土星と一体となって太陽紀の宇宙そのものを凝縮することで光と空気と熱と闇とが再び融合状態となる。

休息期とはつまり宇宙現象とその本性である霊的領域の結合期なのである。

ゆえに人間の進化も宇宙進化と絶えず照合されているという話をしている。

またここで肝心となってくるのが私が人間と称しているのは土星紀より発生している(いち)なる自我として霊界にてその神的寵愛を育まれてきたその萌芽のことだ。

萌芽とは芽の出る萌し(きざし)が転じた物事(文明)の始まりを意味している。

胡散臭さを恐れずに正確に呼ぶのであらば宇宙的胚珠が人間なのだ。

種子の元となる胚珠にはその成長の全ての要素が約束されている。

その過程と顛末はともかく、開花し、成熟し、そして枯れ果てたその根が再び胚珠となり種子となるサイクルを有しているのは植物だけではない。


人間はもちろん宇宙もまたその萌芽と設計の生命因果の循環に基づいている。


だから人間を知り、語るためには目に見える人間像だけではなく人間全体を視野に入れて認識しなければならない。

それは霊的萌芽についてを考察する時だけではなく、地球社会における人間関係を円滑にする上でも同じなはずで、目に見える上辺だけの言葉や評価の底の浅い人間の醜さや愚かさは周知の通りだ。

よって霊である私たち人間とは宇宙そのものといかにして関係しているのかを見通した上で初めて、私たちの目の前に展開されている、私という身体の土台となっている環境の価値と意味を見出することができる。

その前提を以て(もって)してのみ宇宙の星との関係を明らかにすることができる。

同時に宇宙の星域が人間の全体像が何たるかを悠然なる語りを耳にできる。


例えば土星宇宙はエーテル的要素を含んだ非物質の熱であり空間ですらない。


この「空間ですらない」はあくまで今産声(土星紀に)を上げた私たち熱人間(土星自我認識対象)にとってだ。

土星紀の熱宇宙とはまだ物質ですらない私たち人間の進化状態を立場とした認識及び意識水準のことを言い示しているのであって、実際は高次元の意識体状態の呼称であるエーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体及びその階層領域をマナス界、ブッディ界、モナド界、アートマ界といったエーテルの元となっている精霊から霊人や神霊までが暮らす神的霊的世界の様々な階層の中の一つの宇宙である「熱領域」にぽっと出てきた一末端の現象を覗いているだけである。

それが土星紀の人間界から宇宙を観察している私たち自我の立ち位置だ。

土星紀の熱宇宙及び現在の地球から見上げている無限の宇宙空間とはエーテル及びアストラル的な物質として出現している神霊界の(いち)認識の状態のことで、実際はあらゆる神々が姿を変え、分離し、観察可能な統一的な環境の背後に全て存在している。


高層ビルのようにただ住む階層が違う、ということだ。


また、私たちの始まりの宇宙である土星紀とは認識が行き届かないという意味では最も次元の高い存在たちに囲まれ続けいていた時代のことでもあるのだ。

その時の人間のことを熱人間と呼んでいたわけだが、この存在的な定義は意志の神霊の声とその犠牲に応じて生じた霊的自我から注ぎ込むことのできた人間の究極形態の一部が「熱」という私たちの時間認識へと進化し、やがては霊的な時間を注ぐようにもなり、神的な時間を以って宇宙を認識するにまで至る胚珠の全てが根源からの意志に転じて生じた土星宇宙の熱には含まれていた。

人間の究極形態は人格の神霊として霊界から自我を提供している霊人のことだ。

霊人は地球紀の私たちが所有している自我を体として活動している霊界の住人のことであり、私たち人間はこの自我の神への到達するという目的を予め有していると同時にその潜在的な可能性の種子である胚珠をすでに持ちながら土星紀に存在していたということだ。


人格の神霊(天位階七位)の構成要素=人間に自我を提供している神

萌芽(ヴルカン紀の段階)叡智霊(主天使)太陽系の感受的心魂(太陽系の神=霊界の神)

萌芽(金星紀の段階)運動霊(力天使)太陽系のアストラル体(地球の集合魂の神)

萌芽(木星紀の段階)形態霊(能天使)太陽系のエーテル体(地球の生命体の神)       ○人間の構成要素

主体(地球紀の段階)霊人(権天使):地球紀の時代を形成する人格を提供▶︎萌芽(権天使認識);ヴルカン紀に到達

 (月紀の段階)生命霊(大天使):地球紀の群を形成する魂を提供 ▶︎萌芽(大天使認識):金星紀に到達

生命(太陽紀の段階)霊我(天使):地球紀の自然を形成する生命を提供▶︎萌芽(霊我=天使認識):木星紀に到達

肉体(土星紀の段階)自我(霊体):地球紀の自我を知覚する自我霊(自らの分霊=低次自我)▶︎自我(人間霊):地球紀に獲得

※人格の神霊は地球紀自我以下を“直接”見れない ▶︎動物(アストラル体):月紀に獲得

 地球人が鉱物以下の元素が見れないように   ▶︎植物(エーテル体):太陽紀に獲得

 霊人から見た人間自我は石ころ(鉱物)のような関係性 ▶︎鉱物(物質体):土星紀に獲得


繰り返すが土星紀の熱現象とは人間の物質体の萌芽である。

そして、その物質体は土星紀の未来である地球紀において肉で覆われたものとして出現し、その受肉した物質体である肉体は次の次元の原因となって来世へと導く性質を有している。

物質体及びエーテル体、アストラル体といった自我よりも位階の低い要素体は人間霊の顕現現象である自我に従うことで霊化される。

それにつれて、やがて土星紀に提供された物質体の萌芽は地球紀で物質としての究極の状態となりその役目を終え、その完結性がやがて地球と月とを一体にし、太陽とも一体となることで宇宙そのものを消滅させる力となっていく。

人間自我とは宇宙体に直接関与することで宇宙進化と共にあった。


それが霊化である。


霊化とは浄化でもありことから消滅を意味する。

例えば土星紀の熱人間の霊的状態の完結とは熱の消失でもあることを想像してもらえれば、それが宇宙にとってどのような現象なのかは分かり易いはずだ。

人間が死んだり、星が死ぬとは熱や生命、魂がそこからいなくなるということ。

つまり消えていくのだ。

だから、もしも地球から人間がいなくなったら地球環境はどうなるのか?というエクスキューズにはほとんど意味がない。

なぜなら人間的な要素に従って地球環境とそのための宇宙が存在しているからだ。

完全に人間のいなくなった地球宇宙は静かに消えていく。

このことを現代アカデミーではいわゆる“人間原理”で説明している。

量子の二重性に紐づけた観測選択効果と呼ばれる観察者の能力や性質によって対象の認識に偏りが生まれる最大現象に宇宙と地球と人間の因果が関係している。

要は人間の認識によって地球は存在し、認識なくば地球は存在しない。

その因果を平たく言うと地球は人間の死体によってできている、とも言う。

わかりやすく言うと死者の願いや祈り、死後も消え切れていない念のことだ。

もっとわかりにくくに言うと死者たちの意志が“幾何学”となったものが地球となって、その地球の意志に宇宙の惑星と恒星がそれぞれの諸力で応じることによって、宇宙の法則と地球環境と人間の運命が結びついた世界に私たちは自我という権能を有した生命体と魂を個別的に知覚しているのだ。

ではなぜそんな周りくどくて遠回りでよく見えない運命を選んでいるのか?

それは決して宇宙を進化させるためではない。

地球を存続させるためでもない。

ましてや進化のためでもない。


私たち霊魂は宇宙に属し、地球と共にあり、人間のいる世界にいるだけなのだ。


ではなぜ宇宙があるのか?

なぜ地球があるのか?

なぜ人間(生物)がいるのか?

その「なぜ」(好奇心)の因果を食い止めるための進化を阻止するための進化がより多様な宇宙となって現れ続けているし、繰り返してきたし、もうすでに終わった現象の記憶から、とある神的人間のイノベーションのための観察現象がさまざまな宇宙として投影されている、というのが今敢えて語れる真理の一つだ。

その真理の対象であるアストラル体とその領域が生じた因果が月にある。

退化人間が作り出していた古い土星領域とエーテル体を完成させた植物人間の世界である太陽領域とが一つになることで太陽紀の宇宙空間は消滅的に閉じられ、土星紀以前の純粋なる霊的領域の時間世界へと帰っていくそこで月の運命である魂の顕現体が約束される。


それが月紀と呼ばれる宇宙となる。


○月紀循環

第一循環:土星紀の繰り返し(物質体の改造=月紀仕様へ)

第二循環:太陽紀の繰り返し(エーテル体の改造=月紀仕様へ)

第三循環:運動の神霊(天位階五位)デュナミスが人間のアストラル体(魂体)を流出

➡︎太陽の単一的宇宙から月が分離し、太陽の周囲を公転する流動遊星の現出

第四循環:薄明の神霊である天使が人間の身体(流動する動物人間)に住むことで人類段階へ到達

➡︎私たち地球紀の人間はこの身体(流動する動物人間)のエーテル体存在として感受

               ※人格霊(アシュラ=闇の霊)によってこの魂体に独立性の萌芽付与

第五循環:薄明の神霊が自分の身体(流動する動物人間)の感覚を利用する

➡︎月紀人間身体(流動する動物人間) ▶︎身体=天使 エーテル体=大天使 アストラル体=権天使

           ※私たち地球紀の人間は大天使の領域の精霊(ウンディーネ)として存在

第六循環:薄明の神霊のエーテル体が受動的性質を持った一種の快苦を発達

➡︎このエーテル体の受動性を反映させて出現したのが

 アストラル体の怒り、憎しみのような激情、本能、情熱が発露

➡︎月紀人間身体(流動する動物人間) ▶︎身体=人間 エーテル体=天使 アストラル体=大天使

 ※エーテル体(動物人間の)の不活発な受動的快苦は私たち精霊ウンディーネによる

第七循環:それまでの二つの宇宙領域(植物界と鉱物界)が低次の段階に突き落とされる

➡︎月の衰退期=古い土星紀と古い太陽紀の領域と月紀の領域とが一体となり消滅


月紀はいわゆる水の世界だった。

水と言っても現在の地球の液体とは違う。

太陽紀の熱が凝縮して光と空気が生成されたように、月紀ではその空気がさらに凝縮したことで液体の原型となる進化したエーテルが宇宙空間に展開される、それが水の世界としての月だった。

だから月と言っても現在の私たちが夜空に思う天体ではない。

だがしかし、夜空に浮かぶ天体としての月はかつての月紀の名残なのだ。

かつての月が霊化された際の不純物として霊界から排除された残留物なのだ。

また、地球の海をはじめとした液体としての水もまた霊界の排泄物にあたる。

かつての水はもっと濃密で生命的だった。

月紀の生命状態も太陽紀で形成された植物界(エーテル界)全体が次の段階である動物界(アストラル界)に進化できたわけではない逸脱した存在たちを土台に、より多様な天体環境の進化を霊化するための宇宙としていた。

例えば太陽紀の人間(地球紀の大天使)は仲間の一部をより粗野な鉱物界に突き落とした。

土星紀をやり直している存在たちの領域があるおかげで月紀にも一定の熱というエーテル物質が存在し、その熱を素材とした太陽紀のやり直し存在である植物の原型のような新たな生命体が月紀の生態系であり地面のような役割を担っていた。

月紀の鉱物は地球紀の鉱物と植物の間との中間存在だった。

月の岩石(液体)は生命を有し、芽を出し、成長する性質を持っていて、ある種の植物的な性質を宿しながら月紀を過ごすことによって、太陽紀にて神々に置き去りにされた意識のやり直しを図っているのである。

月の植物もまた鉱物同様に太陽紀の神々に置き去りの烙印を押された存在として、その権能を月紀に持ち越されたことで独自の発展をやり直していたことから、その姿と性能は植物でありながら動物的な性質を持った生物として月紀の環境となっていた。

これら存在の全てが生命を有した濃密な液体生物として月を形成していた。


それが月紀の宇宙環境であり、天体状態だ。


それらは太陽紀から月紀への休息期に意志の神霊(天位階三位)の意志熱が「光と空気」となった供儀を受け取らなかった叡智の神霊(天位階四位)がいた。

そのことによって、宇宙は進化する存在とそれを拒否する存在とが同時に展開される空間に神々の時間が浸透していくこととなる。

叡智の神霊から逸脱した神々は言った。


「我々が供儀を受け取れば、宇宙進化全体が我々に服従することになる、我々から自由な存在、叛逆する存在を我々は欲する、それゆえ我々は供儀を受け取らない」


根源の神の意向とその意志を汲んだ供儀を諦め拒絶した意志が「音」となる。

その「反旗を翻せ!」の声に応じ、受け取られることのなかった供儀である「光と空気」の提供者、叡智の神霊はやがて悪神ルシファーと呼ばれる堕天使に誘惑され、その供儀を奪われることによって「色と音」に変換されて月紀の空間に浸透していくこととなる。

その色と音とが月紀の動物人間のアストラル体の認識にも波及していく。

音はやがて「響き」となり、月の水は音に浸透されることで規則正しい動きがもたらされ、そのリズムが肝臓など生物の内蔵器官の形成の萌芽となっていく。

つまり、リズムが質量に打ち込まれることによって秩序が生まれたのだ。

その波打つ内的振動の状態の変化が月の水の中で組織として発生の契機となる。

聖書でも「神はすべてを数と量と重さによって秩序づけた」とある。


その秩序とは音による響きのことである。


音の響きは月の水の成分の素性であるアストラル要素を刺激する。

月紀の動物はそのアストラル要素を体としていた。

月の動物存在は地球紀の動物と人間との中間的存在(月紀の動物人間)だった。

その骨格は柔軟な液状な軟骨でできていて、その運動は歩行ではなく、飛び跳ねたり、浮遊したりの空中遊泳を移動の手段としていた。

なぜなら月の大気圏が濃密な液状の層で覆われていたからだ。

彼ら動物存在(動物人間)はその生命を有した層そのものを養分を吸収することで、その成分と一体となりながら鉱物、植物、動物とがそれぞれに固有の力を発揮し、その液状成分から受精する力をも共有していた。

この“空間の持つ受精する力”との共有の意味は、各人間(鉱物植物動物は皆人間)にはまだそれぞれに性の分離が行われておらず、人間たちはみな液体状の大気から形成されていた。

その様子を私たち地球紀の人間の意識は夢のような境界のない虚な世界にいた。

その世界にはまだ明晰な輪郭を見出すことはできない。

あるのは形態と色彩の海に現れている快か不快かを示す波長だけが道標だった。


それが色彩だ。


良いものであれば明るい、ヤバいものは赤い、みたいな色が意識だった。

この月の意識である形象意識とは“外と内の間に完全な対応”が生じていることから、それによって生じる内的に形象される意識に混乱も悠意性も宿命やプライドも存在しない。

要は自分及び中心という概念が無いということだ。

全体及び対象からの反射の全てが自分であることを疑わない。

ただ現象化される有益か、無害かの本能とされる生存戦略的なシグナルである「色彩」だけに応じる感情の合法則性のみが反射的に支配する色彩像の世界を地球の自我となる魂である私たちは生きていた。

この感覚は現在の地球紀に存在している犬や猫の持つ意識も同様である。

私たち地球紀の人間はこの月紀の環境と動物人間の内と外をまだ持たない液状の空気を(えら)のような器官を通して呼吸し、その咽頭と耳とが一体となった器官にのみ干渉できる時代の仕様を通じて感情を感受するアストラル体を獲得したのだ。

もう一度言おう。

地球の動物もまた咽頭と耳が一体となった部分にしか干渉できない。

だから顔の表情筋を感情に反映させることができず笑うことができないのだ。

その魂に自我が芽生えることによってその感情を笑うのだ。

自我によってその感情を思考し、その思考で感情を俯瞰することで対象として扱うことができ、自我の思考が感情を制御することでその対象は霊的なものへと変容を始める。

すでに自我を有していた月紀の動物人間たちの中でその霊性を冷静で思慮深いものとして渡されるに至った動物的な魂は穏やかなものとなり、粗暴で奔放なままの感情の快楽を疑うこと、変わることを知らないまま月紀を過ごした動物存在たちは自我の恩恵を受けることなく進化の終着地を迎えると“やり直し”となる。


こうして逸脱し、停滞を選んだ動物的な要素が地球紀の動物種なのだ。


月紀の動物的魂を有した動物たちは人間との中間的存在だったこともあり、現在の地球の動物存在よりも高次の段階にいたことから高い感情的知能を有し、その感受していた権能によるプライドに執着し酔っていた。

その感情権能に与えられていた表現力による影響力は大きく、夢のようなハチャメチャな空想が空想ではなく空間にそのまま反映されては消えていく。

そんな動物人間の気分が月紀では環境となる。

動物人間のその自由奔放で粗暴なまでの想像力が暴れ回ることでの心の不満と満足とが渦巻き荒ぶる時流の空間を月の世界は時空としていた。

その権能を提供したのが動きの神霊デュナミスだった。


力天使とも呼ばれるデュナミスは天位階五位に君臨する運動を司る神霊だ。


彼らは太陽系の惑星間におけるあらゆる現実性を実現させるための可能性である魂の力、アストラル的な力として付与することで星々と各生物の運動性の因果を繋いでいる。

古代のアリストテレスはこの諸力を『エンテレケイア』という用語で記している。

エンテレケイアとは“完成された現実性”という意味で用いられている。

人間で言えば、完成された現実態が生きた人間であり、その生きた運動性を付与されているのが言わば屍とも言える人間の肉体である可能態であるとし、その可能態を完全現実態にしている力の背後にはデュナミスの権能であるアストラル体があることによって人間の“完成された現実性”であるエンテレケイアの状態と存在を発揮させている。

つまり、可能態である卵の持つ潜在的な力と可能性のことをアリストテレスはデュナミスと呼び、すでに何かになって存在の現実性を確立している状態のことをエネルゲイアと呼び、古代に生きていたアリストテレスは星の声を聞くことのできる最後の末裔としての名残りを『エンテレケイア』として現代にまでその名と叡智の声を轟かせている。


同時にその叡智を現代の地球紀において断絶させているのもアストラル体だ。


なぜなら現在の地球の集合魂であるアストラル界が堕天使した力天使たちの権能によって創造され、その夢幻的なイマジネーションの発信が彼ら堕天使によって支配管理されているものだからだ。

いわゆる文明やテクノロジーの故郷というやつだ。

現代の地球の文明期は科学技術全盛の時代を迎え、その知的衝動の愉悦の快楽によって地上の楽園を築こうとしているわけだが、現代のその知性は“唯物論的思想”が大勢を占めることで人間の都市環境をはじめとした生活習慣は「ものだけ、金だけ、自分だけ」の思想を自分のアイデンティティの都合としている。

これらの思想は月の諸力の反射として投影されているアストラル体の帰結だ。

望遠鏡の進歩によって宇宙の状態と可能性が時代によって違うことを顧みてほしい。

宇宙が何であるかを決めているのは人間の認識を定量化している魂なのだ。

アストラル界なのだ。

私たちの思考や感情の意識は見せられている像であり反射であるということだ。


何度でも言うが、我々地球の人間が見上げている宇宙は月が見せている。


月が太陽の光を反射させた像が宇宙の無限と暗黒を演出しているのだ。

月は月の背後にいる太陽系を形成している霊的存在のヴェールとなっている。

私たちが観測している宇宙は月の外壁を際限なく見せられている。

そして、その月の力は地上の動物界を維持する力を担っている。

よくある、満月の時に発情したり、出産を催したり、新月の時に陣痛が軽くなったり、波の満ち引きといった月に纏わる伝説は月に棲む者たちによる人間の魂の誘致と関連しているのだ。

その誘いの対象となっているのが幾何学を住処とした物理的本能を担う魂である。

月紀とはこの魂の世界であるアストラル界が宇宙に出現した時代でもある。

そして、その月紀の来世である地球紀はその魂が血で血を争う戦場となるのだ。

地球での生存欲求のための強い感情と賛美は月紀の動物人間が抱いていた粗野で奔放で愛への思慮と配慮を欠いた動物的感情の顛末と同じ末路が用意されている。

今の盲目な霊魂が聖書の黙示録に記されている地球終末へのロンド(舞踊)となっていく。


その感情衝動の起源であり皮切りとなる事件が月紀の始まりと終わりにあった。


月紀の始まりは叡智の神霊が逸脱したことによるエーテル界の「水」への変換。

そして、月紀の終末には運動の神霊である力天使たちが逸脱したことが夢幻的なイマジネーションをより具体的に顕在化させることで世界を変容させていく。

その変容はそれまでエーテルだった液体状の水の原型が私たちの知る水に近づいていくことで水銀のような固形化の進んだ液体がイマジネーションの具現化を従来の月の水と違う世界観を展開させていく。

その自然現象の相転移とも言える突然変異的な展開の反映には背後があった。

逸脱した運動霊である力天使たちと根源の神託を意志とした神霊たちとが当時太陽系を担う霊界と月宇宙の境界であった火星と木星間で激突がそれだ。

その天界の戦いは次なる宇宙の進化の意向をかけた神々のケンカだった。

正規の神々の意志を貫こうとする神霊たちは後に均衡の神として信仰されるデュナミス格の神霊キリストに率いられる。

一方で根源の神への叛逆の意志に誘惑された運動の神霊たちはルシファー存在の“自由な宇宙創造への意志”に従うことで堕天使と化し、ルシファーの眷属へと逸脱した彼らは人間の魂に干渉する権能であるアストラル体を悪用し「色と音」を認識する動物人間のアストラル界を介して「土(物質)と生命(自然)」を創り出す未来を奪い取る。


その投影が現在の太陽系宇宙の光景となっている。


投影しているのは太陽ではなく月であるのはこの天界の戦いが契機だった。

現在のアステロイドベルトと呼ばれる大規模な小惑星群がその痕跡として地球紀にもその名残りが太陽系宇宙にそのままの位置に刻印されている。

アステロイドベルトとは月紀宇宙の破壊と創造の舞台の断片でもあったのだ。

そして、その刻印もまた投影による設計の一つであり、その根源は幾何学だった。

幾何学とは私たち魂の故郷である月からの響きであり、その音である波長は月によって展開される像としての光の反射なのである。

つまり、人間は二重の宇宙を見ている、ということになる。

⒈地球の周囲に開示されている宇宙(()が見せている全宇宙=投影)

⒉月に反射された宇宙(地球に反映されていない元々の宇宙=霊界)


その幾何学側の投影を支配しているのが物質(幾何学)の神アーリマンなのだ。

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