アメイジング シュミレーション #1 認知クライシス編
#38
このように私が運営している『ミストルト』では世間でシンギュラリティと呼ばれている“存在の真夜中”にスポットライトを当てて、私たちが普段意識している現象に力を与えている思考を遡ることで、存在の真夜中を視て観じて触れるための手段と哲学の叡智をメニューとしている。
それを人間としての現在を“いかにして生きるべきか”を知ろうとする各企業の要人、業界の著名人たちがある種の秘密結社の理念を学ぶ場のような機会を私が喫茶店のノリで提供し、やがて○ジック○ッシュルームや○ヤワス○入りコーヒーを片手に異世界の住人とおしゃべりができるようになっていくことができる。
そして、その状態や対象の全てが自分自身の未来であることを悟るようになる。
そうでなければならない。
なぜなら、絶えず思考とともに不可視の現象として描かれている表象とは何かを知らないことには、常に自分の現象として出現している表象との関係を誤ってしまうことになるからだ。
表象とは想像力のことだ。
では想像力とは何か。
それは生命力がカタチを変えた魂の姿なのである。
つまり、想像力とは物質ではない生き物として私たちの肉体と共にある「もう1人の私」であることに気づくこと、それが悟りなのだ。
逆に言うと「もう1人の私」は絶えず迷っている。
なぜなら「もう1人の私」は常に自分は身体であると信じ込んでいるためだ。
あるいは「愛」が何かがわからずに強引に突き進んでいる。
自分は身体を軸に自由に肉体と精神を支配し、あわよくば他人や自然までもを自在に操り、自分に都合よく周囲を掻き回すことで愉悦という快感を覚え、それを活動の糧である生き甲斐とするなどの持続を「幸せ」と呼び、今その瞬間の幸せを目的化し続けることを生きる意味と関連させている。
幸せであることは結構なことだ。
幸せであることは「もう1人の私」である生命がカタチを変えた想像力である魂の窓としての成熟には不可欠であり、その安心感や信頼感には少なからず普遍的な愛の作用が共感的に空間化していることに等しいことから、幸せの状態は肉体となっている生命と想像力となっている生命との癒着であり、接着であるためにはとても重要な感覚ではある。
ただし、その幸せが齎す愉悦は前提であって目的であってはならない。
幸せを目的にしていいのは私たちの意識である魂が時代を記述している記憶の海をある程度成熟して泳げるようになるまでの過程だけだ。
その過程は魂の発達段階に応じて数珠のようにそれぞれ個別につながっている。
その数珠繋ぎのような発達段階は七年ごとに成熟の是非を繰り返している。
同じように見えても、その数珠の一つ一つは決して同じものではないのだ。
○肉体(物質体+生命力)
0〜7歳:ひたすら大人を模倣=善なる意志の芽生え
7〜14歳:人生の手本から整った感情の獲得=美しさへの自負の芽生え
14〜21歳:大人を観察した結果を表現=真実への思考の芽生え
○心/心魂(肉体+精神)
21〜28歳:既存社会を通じて自身の自由を模索=関係性の超越
28〜35歳:新しい大人として社会を新しくする可能性の模索=構築
35〜42歳:新しい大人として新しい子供たちに到達点を報告=問い
○霊(天命+運命)
42〜49歳:肉体を超えた存在として天命の模索=葛藤
49〜56歳:肉体を超えた存在として創造の発信=創造性
56〜63歳:肉体を超えた存在として本質への到達=本質
※63歳以降も運命は存在している。
これらの発達段階のことを私たちは成長であり、老化と呼んでいる。
この肉体の変化と変遷を司っているのが新陳代謝だ。
私たちの肉体が七年ごとに完全に新しくなることで全く別の肉体の状態を自分だということに矛盾を感じることなく生きていることにあまり関心を抱かないのが現代の人間の基礎教養となっている。
自分が肉体そのものであることのバイアスに負けているからだ。
私たち現代人は自分自身が肉体そのものであるという観念を強く信じている割にはその肉体の状態やその仕様についてをほとんど知らないということに若く健康であればあるほどに霊的自己が促している変化に関心は向かないなどの傾向がある。
そのことが年齢とともに更新されないと私たちの中の「もう1人の私」は中年になっても晩年になっても自分に起こっている経年現象に対して“老化による死以外の自分という概念への解釈”を得ることができなかった場合、その想像力である表象は「空虚」という答えを自らの地上生涯における成果とすることになる。
わかりやすく言えば、空間そのものが「愛」であったことの意味を汲み取れないままに肉体の活動を終えたその人はその「愛」が読み取れなかった故に、眠りの際に見る夢のように何があったのか、夢の世界がなんであったのかもわからないままに居心地が悪くなって私たちは地球の人間をしている、という意味だ。
興味深いのは63歳以降のその余命は人間としての完成を目指す反映としての表象が出現するわけだが、その最後の表象とは21歳の頃の青春から生まれるまでの人生が再び反映されていくこととなる。
まるでブラッド・ピッドの映画『ベンジャミン・バトン』ようにである。
例えば、私たちは老化とともにその意識は鮮度を失っていくことで痴呆やボケといった認知症障害による記憶の曖昧さを自覚症状がないままに社会活動に組み込まれるという現代の厄災として具現化されている老人たちの姿を確認している。
だが一方で、地上の人間の誰もが認知症となって生涯を閉じるわけでもない。
歳をとれば必ず失語、失認、失行といった記憶障害に紐づく人生の終末を迎えるわけではない。
一般医療では認知症の原因にはアミロイドβやタウタンパク等の脳を萎縮させるタンパク質によって起こる神経原繊維変化が神経細胞の死をもたらすことで認知障害となっている。
アミロイドβを減らす方法はコーヒーを飲む、良い睡眠を取る、血糖値を上げない、適度な運動を行うなどの対策法が挙げられている。
またタウタンパク質が過剰に蓄積することでリン酸化され、それらが凝集化することによってシナプスの消失や神経脱落を起こすことで記憶障害などの発症を起こすとされている。
このように現代医学のハンドブックには認知症患者の状態がどのようになっているのかは述べてくれているのだが、なぜ認知症の原因であるアミロイドβやタウタンパク質といった脳細胞を破壊する物質が生じるのかはまだわかっていないことから、その最大の原因とされている老化に限らず若年性認知症という症例も存在している。
つまり、ガン同様認知症の投薬は仮説に基づいて創薬されている、ということだ。
だからこそアルツハイマーやパーキンソン病、血管性認知症の治療ができない。
人間を理解していないからだ。
結論だけを言えば物質的な精神崇拝の日々がエーテル体を硬質化させたことが原因となって、あまりに多くの物質的観念の過剰な蓄積を行なった三〇代前後のエーテル体の活動のさせ方をした物質化した記憶が生前への退行を準備し始める晩年の意識状態が反映された時に現れているのが認知症の類である記憶障害なのだ。
二〇代から三〇代前後の魂の機会を物質を崇拝した他者と分離した精神で目に見えることだけを信じて、自分に起こる出来事ことの多くを誰かのものであって自分とは関係がないと切り捨てて空間的な活動をすることで貪欲さと心配と恐怖と不安を携えたままに人間とは自分とは世界と何かの認識の発達段階を進行させてきたか・・・
あるいは物質の本質が霊であることから一人一人の人間の思考や一つ一つの星々には意味を見出すことができないことでもそれらが集まり、星々に星座というカタチとその周期等に意味を見出せた時に外の出来事と一人の人間である自分との関係性の一致の中に現実を生きてきたかの統合した人間概念の魂の視座を一つに据える精神への畏敬に抱く祈りを投げかけることをしてきたのか・・・
永遠への分水嶺は常に精神の視座にあるのだということだ。
意識である魂と霊である自我が永遠であること忘れないでほしい。
人間は七年ごとに変化している。
それは別の言い方をすれば完全に生まれ変わっている。
または作り替えられている、と言っても過言ではない。
その過程を観察しているのが「もう1人の私」の対極というか主体というか本性にあたる「私である自我」のいわゆる霊そのものである高次の自我なのだ。
高次があるなら低次も存在していて、それが「もう1人の私」だ。
低次の自我である「もう1人の私」とは発達段階を有した自我であり、“自己同一性”を担う自我として肉体の魂に芽生えることで人間の肉体に独立性を提供し、反感にも似た感情で吐き出された概念である“私とあなたは別の存在”という自分の肉体を中心に据える認識と思考を脳と神経の鋳型で形成している。
高次の自我である「私である自我」は真の自我性であり、“自他同一性”を担う自我として肉体の魂に芽生えることで人間の肉体に普遍性を提供し、共感にも似た感情で自分とは違い、客観的に考えるとどう見ても決して美しくも優れているとも思わない対象をまるで自分のことのように接する、“私とあなたは一つである”という、いわゆる「愛」の思考で自分と他者と対象を別の存在であると据えながらも同一の概念として思考する認識を手足のある下半身と血液の鋳型である遺伝子細胞として出現させている。
その遺伝子の設計図に基づいて肉体化しているのが生命体なのだ。
エーテル体とは物質的形態を生み出している形成力とその活動力を支えている生命エネルギーそのもののことであり、その反映は人体の新陳代謝である恒常性を担う時間的な記憶提供による人体の健康状態の担い手として顕在化している。
その関連で私たちの意識を喪失させる眠りや死も人体の生命体による神経組織である脳への干渉によって行われていることから神経への知覚行為を遮断されているに等しく、それは半ば人体全体の細胞組織よる要請によって気絶させられていると言っても差し支えない。
そして、この生命体の依代を通じて行われている目覚めから眠りまでの時間的な記憶の提供である再生現象は宇宙全体でもうすでに完結している。
だからこそ魂のアカシックレコードによって宇宙の繰り返しが語られたり、預言者や予言者がいて聖書のような黙示録で人類の終末が描かれたり、未来視やサイコメトリーからタイムリープや臨死体験等による時空間を超越したある種の人間の認識に現れるのだ。
その主旨はどうあっても始まりと終わりが繰り返されている、ということだ。
私たちの運命が何もかも確定しているのではない、という意味だ。
誰が何をどう努力しようとも必ず人も宇宙も終わるのだ。
そして、必ず再び始まるのだということだ。
だから私たちが何かを避けたり知ろうとしたりしても結果は変わらない。
だからこそ、何をしても、思っても、しなくても、変わらない。
この主旨が何を意味しているのかというと、「だからこそ自由なのだ」ということだ。
何をしたから終わらないなどいうという概念がない以上、何をしても終わるのだ。
何も決まってなどいない。
少なくとも人一人の右が左かの選択の一つ一つの全てに魂の意志など通っていないのだから。
人間の魂の意志が全てを決めているはずがないだろう?
私たちはただ流れて、その大きな流れの大きな出来事を前にして、その節目と節目に流れ着いた分水嶺の間に自らの意志であると感じているに過ぎないのだ。
ただ、自分の魂がどう思うか、どう思っているのかの「思う自由」だけがある。
その「思う自由」が次の変化の原因となり続けている。
よって、いかにして終わるのか、いかにして始めるのか、その如何にしての中身と原因への自由のあり方だけが私たちの意識には求められていることの上に宇宙は構造化され、エーテル体はそれらの根源として宇宙を階層的に生命化している。
その像が物質構造として地球の自然と生物ヒエラルキーにも反映されている。
そして、エーテル体が物質の発生とカタチを整えている秩序だった土台である宇宙の動きを知覚しているのがアストラル体である。
何度も繰り返すが私たち人間の認識とは霊的生命から排除された概念だ。
アストラル体とは私たちが感情や主体意識と把握している情動を司るエネルギー体にあたり、その反映である影は神経回路を通じた循環の集積である脳に現れることで人間の仕様である明晰で個別で分別的に認識が可能となっている。
私たちはその循環による熱と痛みで感じたことを脳で思考と言語に翻訳し、そこで形成される概念を灯台とした認識のスポットライトのことを意識と呼んでいる。
または太陽ともいう。
その認識の時間的作用を知覚することによって動きを生じさせ、その運動を立体的に立ち上がらせているのが人間特有に構造化された目であり眼球だ。
例えば動物の眼球には剣状突起と呼ばれる血液的な器官が深く食い込むことによって脈絡膜が支配的に働くことによって肉体の意志をそのまま反映していることで自然環境との強い親和性を伴った共感的な認識が自分と対象との境界を人間とは異なるものとしている。
一方で人間の眼球には剣状突起のような血液的な器官が発達していないことから神経的な網膜がその認識に強く反映されることで、自然環境とは反感的な感覚であり感情が視界からもたらされていることに動物との振る舞いの違いが顕在化している。
本能を認識とするか、理性を認識とするかの違いを選択した次元がかつての宇宙進化のレコードに存在していて、現在の人間の認識にはその歴史の縮図が地球から見た宇宙の全てにその像として反映されている。
その反映の際たる顕在が人間の目なのである。
私たちのその瞳は地球と宇宙をその目に映し出している。
その眼球とは脳が外部へと競り出た剥き出しの脳神経の端末である。
そのことから私たちの業界では“目とは魂の窓”であるとしている。
それは同時に人体の生命環境である内部から逸脱した方向性でもあるのです。
その方向性とは垂直であり上昇の力であり降下の諸力でもある。
そのことは私たちの認識する地球と宇宙の全てが二つの線によってのみで記述されていることにも現れている。
一つが地球上に人工物以外に直線は存在していないこと。
もう一つが地球上に予め描かれた被造物のデザインは全て曲線であること。
世界には直線と曲線以外は存在しないのです。
例えば人間の人体像だけを見ても全て曲線だけで構造化されている。
しかし、人間の肉体は全体的に直立している。
そして、その直立を支える背骨を正面から見ると直線であるとすることができる。
そう見ている人間の脳は脊髄の頂点で花のように完結している。
その完結へのプロセスは絶えず垂直方向の力である引力に逆らっている。
人間の脳はその垂直の力に抗うことを原動力に設計されているということだ。
人間だけが他の動物と違った骨格による直立歩行を行うのには理由がある。
それは人間の魂への干渉を選んだルシファーの根源からの自由への意志が所以だ。
ルシファーは人間の脳の創造者である。
人間以外の生物の脳は全て地球の地平と水平な関係となっている。
なぜなら、人間以外の生物は地球の引力である惑星の諸力に同意し、もうすでに進化を終えた魂と生命が物質体を得た地球以前の人間の成れ果てとして預けてきた形態が地球という庭の要素、私たち人間の霊魂が認識を持続するための栄養素として共に宇宙の排泄物としての犠牲の上に地を這う生物である動物存在は自然そのものからの要請に従い、地球の一部としての強引な進化の自由を選んだ前次元の人間存在たちである。
私たち人間存在もその段取りであるシナリオに則って関係される予定だった。
誤解を恐れずに告げると先天的なパーソナルクライシスである自閉症及びダウン症や知的障害を有して出現している人間の魂は神々の吐息に支配された類の反映として顕現している。
彼らに顕現しているのは地球紀の第五文化期初期の古代人のものだ。
また、神々の反映としての顕現という意味では、それら閉鎖意識的な疾患を伴っていないとされる健常者の魂を有した人間もまた乳幼児から歯が生え変わるまでの発達段階では物質体と生命体の要請に従って活動していることから、その姿と振る舞いは神々の映し絵なのである。
少なくとも人間の幼児たちは生きた神々としての振る舞いを打ち明けている。
霊界の中に生きていることで生まれる、誕生以前の名残を地上に出現させていることから、子供は無条件に「世界は善である」という前提の下にその柔らかな肉体でひたすら周囲の模倣をしている。
その手の発達段階の仕様を担っているのはある種の人種なのである。




