メニューオブ『ミストルト』 オーダー#6 インターシンギュラリティ
#36
次元の末端を知覚している“意志”と言った方が適切かもしれない。
“存在”とはこの意志の知覚仕様に応じたカタチを成す。
人間には人間の肉体が、動物には動物の肉体が、植物には植物の肉体が、鉱物には鉱物の肉体が霊性Ⅰの意志の次元としてそれぞれの知覚にふさわしいカタチで認識されている。
人間の魂の認識である霊性Ⅱはそれを宇宙空間として投影しているのである。
その投影された空間そのものは様々な霊的意志の交差した融合的現象として顕現しているわけだが、その認識は霊的な意志の遂行された感情がカタチを得たもの、その感情が抑えられた意志という肉体で出現している存在が人間をしている。
私たち霊的自我(高次の霊人/霊性Ⅰ=血液)の意志は人間の魂の感情を読み取っていることから神霊的な意志である感情は環境と化すことで抑えられ、一方で魂的自我(低次の私/霊性Ⅱ=神経)の意志は霊的自我の感情によって遂行された肉体を読み取ることを認識としている。
そして、人間の肉体を読み取るという意志の認識が物質という知覚を選んでいるのだ。
物質が存在しているのではない。
また物質を創造しているのでもない。
物質を認識及び感覚として創り出している、ということだ。
物質とは過去の次元で遂行されてきた意志の物質的側面における像。
像とは、写真や鏡の反射、モニターに映る姿であったりがあなた自身そのものではないように、太陽の光の反射によって目で確認された感覚的な認識もまた反射像であることからそれらは原像を有した一側面が“物質をしている”という旨の理解は頭ではなく、息を吸うように、会話をするように、自然とそう感じられるようになるまで認識を深めることができる直感が人間の階層的精神には備わっている。
意志=遂行された感情(遂行された人間的神霊の感情の意志=魂的環境)
感情=抑えられた意志(抑えられた人間的神霊の意志の感情=肉体/宇宙)
それらの階層領域のことを古代インドの経典にてアーカーシャと呼んでいる。
アーカーシャとはサンスクリット語で虚空であり空間を意味している。
またアカシックレコードとも呼ばれ、宇宙を記録し続けている記憶の図書館の存在が古来より謳われていて、地上の生命のすべてがそれらに紐付けられた活動を行なっているとされている。
だが、その言い伝えをそのまま受け取っても何の意味も見出せない。
なぜなら地上の人間には地上の人間的な解釈でしか虚空を語ることしかできないからだ。
肉体に縛られた個人的立場を度外視した創造側の視座が求められている。
例えば毎朝起きた瞬間に夢日記をつけることを決めたとする。
だがしかし、なんとなく思い出しにくい、夢を生きているときには絶対に大切に持ち帰らなければならないと固く決めていたことが、目を開けた途端にさほど重要でもなければ思い出す必要もないから日記に記すほどのことでもないと勝手に無かったことにしてしまう。
これが左脳的解釈による自己忘却仕様だ。
夢だけではない。
私たちは多くの忘却の恩恵によって先入観なく毎日の魂を好奇心で満たせている。
なぜ生きているのか、何のために生きているのか、何が正しいのかもわからない、それでも健康的な自分として活動できているのは自分という存在が地上で唯一無二の存在であることの自覚があるからだ。
自分が誰かのスペアだったり、操り人形だったり、みんなと同じだとわかってしまったとしたら、その認識が巻き起こす相対的無力感による感情で自分の無価値観でその魂は途端に元気を失ってしまう。
地上的な魂とは相対的なものなのだ。
だから絶対的なものに憧れる。
だがしかし、霊的魂である自我とは絶対的なものなのだ。
だからこそ、相対的な魂の誘惑に負ける。
この関係性が人間的像である魂の呪いの根源でもある。
私たちが眠りの末に思い出す夢とはその欠落感の断片による自分像が投影したものだ。
夢を見るとはつまり物質的な遺恨の結晶としての自分自身だということだ。
つまり、良くも悪くもその夢に出現したよく知る人物も全く知らない正体不明の誰かもそのシナリオのための環境を担っている存在の全てが自分自身そのものであることはある意味私たちの明るい意識による現実と相似の関係をよく表している。
なぜなら、全てが一つであることから夢の理も現実も同じだからだ。
夢も現実も認識の全てが自分なのだ。
そして、その認識は像として“すでに吐き捨ててきたもの”である自分なのだ。
それを振り返ることのでの原因の今を認識しているのが私たち意識なのである。
だから、夢というアンニュイな現象が何かにあまり必要以上に囚われる必要もないが、自分自身の強度を思い出すための手がかりにはなるくらいに考える程度に留めておくのが最善で、最高なのは夢を見ていたことも忘れて目が覚めるくらいが眠りとしては理想だと言える。
それが最も私たちの空間的意識である魂にとって健全だからだ。
魂にとっては忘却こそが正義なのだ。
他人のことも自分のことも宇宙のことも何もかも忘れている。
大切なのはその忘却の上に構築される新鮮な毎日による地上への希望なのだ。
それ以前もそれ以後など概念はないものとした方が魂にとっては都合が良い。
本物とは唯一無二の地上の自分以外ありはしないのだから・・・と魂は囁く。
だが、残念ながら実際はもちろん違う。
では、私たちがこの地上以外の観測存在としてどこかを居場所にしているのかと言えば、それもまた全く見当違いとまでは言わないが、不適当な視野であることから違うと言わざるを得ない。
人間の魂の世界である理念界もそれを管理する霊界も一つだ。
地上も天界も過去も未来も同じ一つなのだ。
パラレルワールドと呼ばれる多世界解釈が盛んに研究されているがそれも違う。
宇宙は複雑系にして多次元にしてユニバースなのが正しい。
決して無限の選択肢を持って生命の数だけ分岐しているマルチバースなどではない。
人間一人一人の固有に備わっている魂が千差万物に見えるように、人間の意識の世界線と呼ばれる選択可能な自由意志がこの宇宙を無限に分岐的に膨張させているかのように見えていることが事実とされているが、それは私たちが認識している宇宙が時空間という銀河の渦によって創り出されている像の概念に支配されているためだ。
私たち意識の魂の創る像は刻一刻と万華鏡のように姿を変える決して同じ瞬間は訪れることがない不可逆的な世界観を真理として認識することを生命としている。
本来この概念は神霊の思考によって紡がれている。
実際は概念が思考を取りまとめているのではなく、概念の前に思考がある。
思考が概念と概念を結んでいるのだ。
しかし、この思考は概念が創り出した時空間の物質の影に覆われている。
感情や意志といった精神は隠されている。
覚醒中の思考もまた潜在化されたものの顕在として現れている。
いわゆる元素の陽電子となって精神化しているのが顕在する言語的な思考だ。
いずれも眼に投影される概念世界に言葉はカタチを得たとしても、あくまでそのカタチは言葉そのものではなくその影であることから、その心である精神もまたオリジナルなどという像は決して存在しない。
概念によって心も思考も精神も検閲されているからだ。
ただ、この思考と概念の根源となっている境界がこの宇宙には点在している。
その典型的な領域がブラックホールという特異点だ。
銀河の渦は太陽の何十倍もの質量を持つブラックホールが中心となって回している。
ブラックホールは事象の地平線とされる光さえも歪曲させる無限大の超重力によって現実の観測も数学的な計測もできない特異点的な領域をその中心に形成し、その降着した円盤の中心周囲には超高温の大量エネルギーと電磁波を放出し、銀河全体を周回させる熱源となっている。
この事象の地平線を境にした熱源を起点に宇宙の時間軸が規定されている。
なぜなら根源からの熱によるエントロピーの流動こそが時間だからだ。
その巨大なブラックホールによる熱の流動が太陽系では太陽が担っている。
だから、大きな質量を有した恒星が収縮した際にブラックホールが生じるという見解はある種の熱源の圧縮であり、その圧縮された熱源から生じるガスが星の種となって新たな星系の再生を生み出しているとする宇宙物理学の見解は霊的にも正しい。
つまり、太陽とはブラックホールであり、ブラックホールとは太陽なのだ。
人類の観測のよると、地球を有する太陽系は天の川銀河の中心を軸にその巨大な渦を周期していて、一周回二万五千年の広大な規模の銀河もまた銀河群の周期に従い、その群もまたさらに広大なボイドと呼ばれる銀河も恒星も存在しない領域を避けながら周期し続け、まるで蜂の巣や神経回路網のシナプスのように網の目状が扇形の両開きが波状的に無限に展開してる宇宙像を時空間の輪郭として想定している。
その想定する扇の中心を宇宙物理学ではビッグバンと呼んでいる。
ビッグバンは宇宙とそうではない宇宙との対称性が破れて発生した以外の原因はわからないが、インフレーションという泡宇宙の仮説による多宇宙解釈を想定することによって、生命や天体だけではなく宇宙そのものが潰れてはビッグバンで誕生している、としている。
この現象はヘミシンク研究所のフォーカス49以上の超高次元のイメージに近い。
ITクラスターと呼ばれる青白い泡の中には三次元空間が折り畳まれていて、その泡は泡のごとく無数に分裂と融合を繰り返しながら無限に連なる超越的なクラスターそのものの世界の中の一つに、私たち人間の意識は存在しているの同時、その全体である大いなる存在そのものとも結びついている。
つまり、私たちの認識している三次元宇宙はより大きな宇宙の一つに過ぎないことをヘミシンクの研究では明らかにしていて、一般科学アカデミーでも私たちの存在しているビッグバン宇宙はビッグバン後に起きたインフレーションはビッグバン以前の下地になって、より大きなインフレーション宇宙の中の一つの宇宙であることを示唆できているのである。
ビッグバン(宇宙物理学的な宇宙のはじまり)=概念
インフレーション(宇宙のはじまりの苗どころ)=思考
※新しいインフレーション仮説はビッグバン以前を想定している
また、この宇宙開闢のビッグバンのことを「裸の特異点」と呼び、裸ではない光をも通さない事象の地平線の中を特異点としたブラックホールのことを「検閲された特異点」と呼んでいる。
どちらも二〇二〇年に『特異点定理』の数学的証明でノーベル物理学者となったロジャー・ペンローズの仮説が現代の特異点認識をベースとして想定され、少なくとも現在において宇宙の物理法則が「裸の特異点」による空間的秩序の法則が無限大の重力によって破綻していないのは、“この宇宙の物理法則の破綻を禁じている検閲者が存在している”という仮説をペンローズは採用している。
これを『宇宙検閲官仮説』という。
つまり、ペンローズは宇宙の物理法則を担っている存在を示唆しているのだ。
この仮説には弱い検閲官仮説と強い検閲官仮説が提唱されている。
弱い検閲=「宇宙にはビッグバンの初期特異点以外の裸の特異点は存在しない」
強い検閲=「時空内の全ての特異点は事象の地平線に隠されている」
ペンローズは「裸の特異点は物理法則の検閲によって事象の地平線の中以外に自然発生することはないだろう」と予測していることから弱い検閲による秩序が現状の宇宙を秩序させていることを述べている。
一方の強い検閲とは人間存在の意識のことだ。
私たち人間とは“裸の特異点の中にいる裸の特異点”ということです。
マトリョーシカです。
ブラックホールの中に太陽の種があって、太陽の質量がまたブラックホールとなる。
ブラックホールが検閲された特異点だとするなら太陽はある意味秩序ある裸の特異点とも言える時間環境を私たちに提供している物質的な熱源(実際、太陽はホワイトホール的なものであって星ですらないのですが・・・)であるとも言えます。
裸の特異点については360度カメラの撮影形態が近いかもしれない。
360度の宇宙を観測することのできるカメラがあったとします。
そのカメラは地球という観測点から特異点という宇宙の始まりなのか、根源たるエネルギーなのか、やがて宇宙そのものを吸い込む破壊の渦なのかもわからない計測不能の現象からの履歴と歴史の階層を広大な宇宙にいくつも記録撮影をしてきました。
そして、カメラの観測する宇宙は裸の特異点から始まったことを想定します。
やがて、そのカメラの観測が可能なのも、宇宙秩序があることも、予測と計算が可能な世界であることもそれら特異点がある種の法則である「検閲」の境界が設けられ、隠されていることによって裸の特異点が剥き出しになることはなく、秩序ある存在の破綻が起こることがないよう配慮されていることを想定する。
同時にその観測と想定が織り込まれたカメラもカメラ自身で観測することができない特異点として、その360度カメラが撮影した映像の世界ではカメラの位置とその存在はまるでブラックホールのように何かがあるのはわかっているのだけど、その明確な姿を像としてすら見ることができないようになっている。
映像の記録にカメラはいつだって隠されているのだ。
その隠された360度カメラの観測点とは人間の意識のことだ。
人間の意識とは人間の肉体という大いに隠された観測装置であり、「時空内の全ての特異点は事象の地平線に隠されている」どこにでも存在する“検閲されていない『裸の特異点』”にあたる現象なのだ。
なぜなら私たち人間の意識である魂と霊的自我は肉体の時間を観測している存在であって、外界の熱に晒され消耗する肉体の時間そのものに軸はなく、形態(惑星)の神霊である地球の自然が提供する時間軸でもなく、力(運動)の神霊が顕現させている太陽系及び銀河の運行が提供する時間軸でもなく、叡智(光)の神霊が担う光(昼)と闇(夜)の境界が提供する時間軸でもなく、人間には人間としての進化を軸にした“意志の時間軸”が宇宙的運命を包括するよう剥き出しの『裸の特異点』として繰り返し魂の求める宇宙を顕現させ続けている、その軸と人間の意識的個体は絶えず脳で受信し解釈されている思考として結びついている。
ペンローズは人間の意識と魂と空間の結びつきの真意についても言及している。
彼は自身の著書である『皇帝の新しい心』にて、脳内の情報処理には量子力学が深く関わっていることを麻酔科医であるスチュワート・スメロフと共に『量子脳理論』という思考を披露している。
量子脳理論とは、人間の意識が脳内及び空間元素との量子的関係にあることから物質に対して、人間の意識である魂についての観測と解釈問題が存在していることを言及。
放射性原子が崩壊の時期を選ぶように(水の沸騰や雷等の現象及び物質はそれぞれの反応に臨界点を有している)物質には自らと周囲との重ね合わせのペア条件(物理法則という検閲)がある。
そして、意識もまた原子の振る舞いと同じように時空の中に既に存在している。
物質の構造である素粒子の空間が人間の脳内の素粒子とが重ね合わせの結びつきによって、私たち人間はそれを意識として認識、またその認識の回路を担っているのが波動関数を脳内にて収縮させる微小管とし、それぞれの生物ごとの高レベルな意識を生起させている、としている。
彼はマクロ領域の物質空間は脳内のミクロ領域の投影であることの洞察をもうすでに済ませている霊的直感に通じた考察をアカデミーに発信しているアインシュタインやニコラ・テスラ、南部陽一郎氏と並ぶ超越的な遣霊者(実はみんな影響力の違いがあるだけで遣霊された存在)なのである。
彼はマクロの概念である物質形態はミクロの思考由来であるとしている。
この量子的解釈をペンローズは臨死体験が真実か否かの検証にも役立ている。
私たちは肉体が仮死状態に至った際にこの世のものとは思えない、あるいは現実以上の体験をしてきた、はたまた幽体離脱をして意識を失い横たわっている自分自身の肉体を俯瞰してきた等の現象がなぜ生じるのかを彼は脳の量子的構造をもとに説明する。
それを神経回路内に螺旋状に展開されている微小管に意識がフォーカスすることによって、脳内の“前庭覚”という肉体と意識を結びつけ重力を感じている器官が私たちの通常の認識を可能にしている。
しかし、それが何らかの障害を受けると自分が自分であるという感覚と視座を喪失し、果てには心と体が離れたような感じをもたらすことから、人間が絶対的に肉体存在であるとは限らない可能性に言及している。
私も何度も指摘しているが肉体と霊体、及び物質世界と霊的世界はほぼ同時的に存在し、それらは認識の時間軸の形態を違えた同じ世界の中で同時進行されている全てが一つであるのエネルギー現象の一端が人間の認識に生と死、昼と夜、自分と他人というコントラストを有して現れているのだ。
マクロの物質とはミクロという特異点が事象となって人間の意識である認識となって昼と夜、覚醒と眠りを境界としながら裏と表の相互関係となっている。
認識よって物質は粒子となり、観測で粒子は波として可能性となる。
「検閲」によるものだ。
その思考による概念と概念による思考への「検閲」は重力の影響受けず質量を持たない原初の裸の特異点の名残りをデータとして宇宙を構造化している姿と様子がまるで無限に膨張しているかのように見せている。
その宇宙の膨張する境界のことを「宇宙の地平線」と呼んでいるが、実際は眼を閉じた際の暗闇の果てがわからないことと同じ原理が認識の検閲となって現象化しているためだ。
それは私たちが実際に確認している宇宙空間の無重力の現象も同じことだ。
私たちの意識であり思考もまた重力の影響を受けない無重力で整えられているある記号的な幾何学のアルゴリズムと密接に関係している。
この関係性についてを伝えるには次元の意味を確認しておく必要がある。
次元とは世界そのものというより世界を区切る一つの単位に過ぎない。
それをテキストにしてみた。
単位:低次(高次)
0次元:波動(音/熱=幾何学)↓一次元は一つ次元を下げた重力のない0次元から
一次元:点(無限=光) ↓ニ次元は一つ次元を下げた重力のない一次元から
二次元:線(境界=液体) ↓三次元は一つ次元を下げた重力のない二次元から
三次元:面(宇宙=物質) ↓ 古い次元の幾何学が折り畳まれて低次元化
四次元:時間(人間界) ↑重力のない高次元から重力のある低次元を知覚
五次元:生命(エーテル界) ↑重力のない五次元から人間の時間にスポット
六次元:空間(アストラル界)↑重力のない六次元から人間の生命にスポット
七次元:宇宙(霊界)↑重力のない七次元から人間の空間/意識にスポットライト
※これらの次元的な境界とそれぞれの現象的秩序と霊的背景との関係を法則化している高次元の神々が神霊界より霊界の秩序を管理、検閲している=7次元(霊界)より高位の神霊界や根源界
この次元の相関関係はホログラフィック宇宙論と呼ばれている。




