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楽しいこと以外全部ウソの叙事詩   作者: ばんだな
第3章 メニュー オブ ミストルトのために
32/64

メニューオブ『ミストルト』 オーダー#2 童貞の状態と時間認識は似ている

#32


カルマとしての時間を超越する、というのは童貞を卒業するのと似ている。

私たち男子はかなりの水準で成熟していないと本当の人としての童貞の皮を脱ぐことができない。

人間を俯瞰することができない。

それがまるで女性を人間として見ることができない童貞と同じだということだ。

真正の童貞は男女の関係が本来どのようなカタチであるのかの事実を一通り把握している上で、“男子の息子が女の人の中に入るなんて本当にあり得るのか?実際そういうことになっているというのは知っているけど、そういうことになっている風に過剰表現にした童貞や男女の関係にもはや飽きてしまった未成熟な人間の刺激の要求に応えたビジネスなんじゃないのか?”と思っているレベルでの純正でのことを言う。

素人童貞はもはや童貞とは呼べない。

人間の時間への知性もこれと似たようなものだ。

スピノザやカントは時間は存在しないと言い、ニュートンやアインシュタインも時間の正体は明らかになっていないとしている。

時間の中にいながらにして時間がわからない。

いわゆる時間童貞だ。

地球人類の中でも最も頭の良いとされる部類の人間が時間のことを童貞が女子を思う時と同じようなことを言っているとまでは言わないが、童貞にとっての男女関係の不明性と似たような発想で時間のことを認識しているのが何となく可愛くて狂おしいのだ。

女性の実態がよくわからない童貞と同じだ。

だから人間存在の本質と本性がよくわからないのもまた人間童貞なのだ。


そういう意味で人類はみな人間童貞のままに人間をしている真正の人間なのだ。


だがしかし、人間とは時空間と自空間の霊的複合体による肉体と認識の多重無自覚を進行させている個体であることを把握している人間はある種の受け皿が整っている段階であると言える。

人間とは“それ”という単一的な解釈をこの地上では行うことができない現象だ。

男には女、女には男、親がいて子供がいる、子供がいるから親でいられるみたいな。

時間も同様だ。

時間とは記憶という生命の思考があることによって可能な認識であって、認識があるから生命の記憶があるといった、ニワトリが先か、卵が先かのアビバレントな愛憎共存の順序の目安として時間は主体と対象の境界に存在している。

その順序としての時間から序列に過ぎない時間の区分を示唆した人物がいる。

20世紀初期のケンブリッジ大学でヘーゲル哲学の研究員だったジョン・マクタガートは一九〇八年に『時間の非実在性』という時間に関する哲学論文を提出した。

その主張は一般的に決して遡行することのない一直線の一方向にしか向かわない時間の矢としての時間規定とその認識には矛盾があることの説明が不足していることから、「時間は存在していない」という旨の詳細を記述したのが彼の『時間の非実在性』である。

マクタガートは時間に関する三つの可能性を述べている。


A系統:過去から未来へと流れる時間が“現在に収束している”一般的な時間系列

▶︎過去未来現在は言葉内で存在し、三つの概念は絶えず現象として排除関係=矛盾

B系統:未来への変化の向きとしての前から後ろへと流れる位置の時間系列

▶︎未来への向きを存在(時間的に)させているが変化自体を体現していない=順序だけ

C系統:B系列の未来への向きを排除した固定された位置だけがある時間系列

▶︎永久固定の現在があるだけでその固定された位置の全てに前後(認識)がある=現在


マクタガートはあらゆる出来事は同時に過去、現在、未来の特性を含んでいるものであり、無限の現在による無限の未来からの過去への系列などという絶えず未来と過去を排除し続ける時間の概念(A系列)には時間を説明するのに時間を仮定しなければならない悪しき無限系列としての矛盾があるとしている。

例えば“未来だった”し、“現在である”し、“過去だろう”の物差しのために、現在は過去であり未来でもあるという絶対時間を共有している割に、現在以外の複数の軸が重複しているのを排他しなければならない矛盾した時間系列による説明が必要とされている、という意味だ。

マクタガートはそれらの矛盾点から一般的に共有されている時間の概念を認めないとした。

マクタガートの主張する時間とは未来、現在、過去という人間の認識にとっての事実を全て同時的に両立させているものであるべきであって、極論的には私たちの世界(認識)には現在しか存在していないのだが、そのあらゆる現在において(未来)後ろ(過去)としての順序(認識)だけが存在していて、それらは無数に存在している現在である連続の一枚とその前後を“時間の流れ”として観測し認識している人間が作り出した概念である、という旨をマクタガートは現在から一〇〇年に提唱していた。


時間(記憶=天体を動かしている力)≒天体(天体の運行を時間と呼んでいる) 

↓過去=今今(記憶=エーテル体(生命体)

↓現在=今今(記憶=アストラル体(魂体=意識(影))

↓未来=今今(記憶=肉体(物質体=天体由来)

↓   ※今今=マクタガートの時間序列(固定された今=ブロック宇宙論)

前世=生から死までの“今を流している”存在(記憶=自我(霊 体=霊格)

   ※記憶=霊視概念  ※霊格=生命体が持ち帰ることのできた性格


この時間論のことを現在では『ブロック宇宙論』と呼んでいる。


ブロック宇宙論はMIT(マサチューセッツ)工科大学の物理学者であるマックス・デグマーク教授の「時間は現在しかない世界を認識している脳が記憶を留めておくことによって生み出している一連の流れという幻想である」という結論に基づいた“時間が存在しない”ことを述べた物理的時間論のこととされている。

またイギリスの物理学者で相対性理論研究者であるジュリアン・バーバーは一九九九年に著書『END OF TIME』の中で、「無数に静止した現在が宇宙に少しずつずれた物質現象を人間の脳が流れとして認識している」と述べている。

以上のことから時間が流れるという感覚は人間が作り出した概念であり、時間は存在しないと現在の物理学アカデミーのトップに結論づけられているが、人間が作り出している知覚と認識こそが事実であり真実である以上私たちが感じている現在からの流れは存在している。


つまり、時間は私たちの中に存在している、ということだ。


私たちが“私だ”と認識している意識(自我)が時間の概念を作り出し、感じているのだ。

これを別の言い方をすると一日を二四時間とした世界共通の天体時計による時間の運行は永遠を象徴し、その永遠とは輪廻を含んだ繰り返しにまで及ぶ固定された魂の生命(思考)が刻印された宇宙という像のこと。

現在の私たちによる宇宙とは霊界から逸脱した固定された魂による認識(観念)、宇宙の存在とその果てが無限に見えるのはその境界が(認識)の鏡として反射させられているためだ。

私たちの魂の認識はある意味この宇宙に封印されている、とも言える。

私たちの魂の個々の内側に有している思い出という感覚的時間とは封印されていた空間にスポットライトを当てることで、私たち霊魂は連続する瞬間という生命の営みに時間という流れと揺らぎの規則性を発明した。

占星術によるナイルの氾濫の予測技術のことだ。

また、瞬間とは私たち霊魂が感じている今という現在の視座であり立ち位置にあたり、占星術の本源である星を動かす力の側にして同時に私たちの魂と霊である自我は人間をしている。

この規則的にして超越的な永遠を模倣し、膨張する宇宙空間と連続する瞬間を持続している人間的な認識の二種類の時間軸が同居している奇妙な世界観をわかりやすく言うと、チープでありきたりな安い結論が真理として現れてくる。


まず一定量のミルクが真っ黒なコーヒーの中に落ちたとしよう。


それを観察する私たちはミルクとコーヒーが混ざり合いの進行を確認する。

時間の進行とともにミルクとコーヒーが乱雑さを増しながら複雑に関係している。

その進行の様子が私たちには時間の矢のように見えることから時間の方向を理解することができる。

エントロピーという熱力学第二法則と時間の方向が一致していることと同時に、熱力学的にはこのことを時間は決して過去に戻ることがないことから不可逆性問題としている。

次に時間が逆向きになっても問題のない現象についてのイメージをしてもらう。

完全な真空状態の空中で無地の球体が一つだけ振り子のように動いていたとしよう。

それを観察する私たちにはその球体がどちらに進行しているのかがわからない。

どういうことかというと、観察している対象の振り子が馴染みのある時間の方に動いているのか、その現象が実は逆再生(馴染みのない時間の逆行状態)されたものなのかが観察者にはわからないはずなのだ。

もう少し理論的に言うと、単一の対象物があまりに対称性を保った動きをされると私たちの認識はどちらの向きが私たちに馴染みのある時間の方向なのか、実際は逆再生された投影物なのかの区別がつかなくなる。


つまり比較対象のない条件下では時間の方向であり感覚は問題ではなくなるのだ。


要は何もない無重力の宇宙空間にいる自分だけが放り出されている状況のことだ。

そういうあなたの状況をどこかで観察している人がいたとしたら、あなたの動きが本当に時間通りに再生されているものなのか、逆再生に編集されたものなのかがわからない、ということがあり得るという話だ。

無論、あなたが比較の存在しない空間にいるならば、あなたも時間がわからない。

まとめると物事のバラバラな背景が認識できれば変化による時間を確認できる。

だけど、対象が一つにまとまり整い過ぎていると変化がないため時間を確認できない。

もっとシンプルにすると、多様性に富んだマクロの領域である私たちの宇宙では時間が存在していることを確認できる、そして、物質の最小単位である単一の粒子の個体及び原子や素粒子の単体のみを扱うミクロの領域にフォーカスすると時間の流れが問題ではなくなることから私たち人間には対象とされる物体(空間)に時間の方向性が有るのか無いのかすらわからなくなる。

時間がわからない、というのは“今”があることしかわからない、という状況だ。

時間がわかる、というのは過去から未来への“変化が確認できる”という状況だ。

時間は物と物、対象がある状況から存在しているのだ。

だから極大のマクロ(ブラックホール)ミクロ(電 子)内では時間が存在していない。

少なくとも私たちの認識ではそういうこととなる。

これらの時間的な反映は意識、光、素粒子のように対象として流れを観測できない領域の諸力、自然の背後で活動している存在にとっては問題にならない。


その背後存在とは私たち人間の魂に宿っている自我()のことでもある。


なぜなら(自我=霊)もまた「今を流す」そのものの諸力の根源より展開されている無限の階層の一つに君臨している王の一人だからだ。

無限の階層とは宇宙空間を反映させている霊的諸力そのものたちの霊格のこと。

そして、その各階層に君臨することができるのは絶対的権力を振える王。

一人の人間の肉体を国や城と例えるとしたら、その王であり主は人間なのです。

肉体において力を振っているのは肉体そのものではなく、人間そのものなのです。

人間とは形態の神霊によって地上での自我の権能を開示されている対象のこと。

自我とは地球の人間の階層で自分のことを「私」と呼んでいる人間界(霊界)(自我=霊)の住人(霊格)の影のことだ。

この住人が霊界での暮らしを生命とする霊人です。


この霊人こそが人間の始まり(カルマ)なのです。

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