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楽しいこと以外全部ウソの叙事詩   作者: ばんだな
第3章 メニュー オブ ミストルトのために

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メニューオブ『ミストルト』 オーダー#1 カルマとダルマの多重無自覚

#31


喫茶『ミストルト』は止まっていた時間が今動き出したかのように息を吹き返す。

この動いている時間認識のことを「カルマ」という。

一方で今の瞬間まで止まっていたかのような思考空間のことを「ダルマ」という。

ダルマというのはサンスクリット語を由来とするカルマの対極にある概念だ。

ダルマとは「法」を意味し、その範囲は社会によって規定されているものだけでなく、自然として存在している個体それぞれが従っているルールそのもの、いわば生命が保持している規定そのものである本能の類にまで及んだ“決まり”や“定め“の自然法則のことをダルマという。

つまり、ダルマは自然の流れに従っている現象のこと。

ちなみに人間の肉眼に映る自然は生命の物質的側面ゆえにカルマなのである。

ダルマとは自然の背後に存在しながらその環境を規定している存在。

私たちの霊魂はこのダルマという生命領域を介して人間の魂に干渉している。

そして、魂のカタチを肉体人間、動物、植物、鉱物のそれぞれに形成力を提供しているのもまたダルマの有する階層別の神霊たちで、地上の物質形態の生存戦略や本能といった生命力は各階層を司っている神霊たちの似姿を由来に反映されている。

その干渉によって生じているのが人間の魂のカタチである肉体であり、カルマだ。

このカルマで認識している自然空間での流れと変化のことを私たちはそれぞれ固有の外側であるとしていることから、霊魂として認識する流れとは別の動きを知覚するようになる。


それがカルマとしての「時間」だ。


大まかに言って時間には二種類ある。

一つが一日を二四時間とした世界共通の天体時計による時間。

もう一つが私たち個々の内側に有している自身の思い出としてある感覚的時間だ。

感覚的時間は腹時計などと呼ばれている一定のリズムを教えてくれる感覚だけがあって、楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、退屈で苦痛にを伴う経過はとても長く感じるなどのことでしか認識できない時間のことで、主体を認識するようになった地球紀の低次の自我が変化を促すことを目的とした根源たる自我の動き全体のことを体外の変化として“時間である”と認識を客体化した。

変化を促している時間とそれを認識する側の二つの時間がある、ということだ。

宇宙や生命に変化を促しているのは根源たる生命の化身としての「ダルマ」。

その生命が提供している天体宇宙秩序の変化を認識しているのが「カルマ」だ。

ゆえに私たち人間の認識で動いている対象の時間のことを「カルマ」という。

また私たちが外だと信じている自然認識の仕方のことも「カルマ」という。

人間を含めた自然宇宙そのものは「ダルマ」の物質的な化身である。


だからカルマもダルマも同じ生命圏(エーテル領域)にして位相を違えた状態、或いは時間と空間の位相を違えた認識状態にあるということだ。

位相はよく音の振動に例えられる。

二つの音の波が重なるとその波が増幅、共鳴されて音として大きくなる。

逆に音が半周期ずれて高音と低音のピークで波が互いに重なると無音になる。

二つの音が少しだけズレると波の低域部分からどんどん打ち消し合っていく。

私たち地上の人間に霊魂及び生命領域を視認知覚できない因果がこれだ。

霊界は色彩と音のエネルギーである周波数の世界だ。

私たち人間の霊魂は低音部分としてその認識を切り捨てられているのだ。

この原理が私たち人間の認識のあらゆる局面の形成を波状的に提供し合うことで、三次元時空間という物質宇宙の全てに位相を違えたカタチで表現されている。

この位相の違いが男女、職業、階級などに応じた言葉遣いに表れているとも言えるし、そもそも言葉以前の音である思考を形成している段階である肉体状態の固体的な位相の違いが私たちのカルマ的な可聴域となってそれぞれの役割という名の使命の啓示がダルマのレコードであるアーカーシャの観測を俯瞰的に選択的に時間とその記憶の空間を認識にスポットを当てている。

スポットである光が高次の自我であるとしたら、その化身である肉体は楽器だ。

その日朝目が覚めて“今日もこれをやってからこれをする”という漠然とした自分という持続的な時系列のイメージはこの観測選択効果からの運動準備電位によって提供されたものの反響を私たち霊魂は自我を有した認識として(高次の自我)を読み取ることのできるコンパクトディスクの中へとフルダイブしているのだ。

カルマの自空間はダルマという時空間によって形成されている。

カルマとはダルマと呼ばれる生命領域が提供している“像”だということを知らずに認識している、あるいはそのような土地や時代の人間関係の舞台としての景色を自分のドラマの背景にしたいというある種の願いを見せられている、その夢の集合体が地球となっている姿のことだ。

私たちは地球の人間として数十億にも分離した像の誰かに照準を合わせている。

その照準は特定のラジオの周波数を合わせるように、テレビを特定のチャンネルに合わせるためのリモコンの赤外線のように、ネットWi-Fiの電波を受信するための特定のパスワードがあるように、私たちの肉体には“特定のカルマ”という認識の拠点に基づいている。


このカルマの照準を逆行させるデバイスとツールを扱っているのがミストルトだ。


喫茶ミストルトでは人工夢遊状態を誘発させて誰でも無意識の階層を体験できる。

そのためのデバイスはヘミシンクをはじめ、ガンツフェルト効果を利用したものや○ヤワ○カを用いたもの等各種取り揃えていて、利用者には全て安全への配慮されたものであることとその免責、処方への守秘義務を厳守する旨が記載された契約書にサインをして人工夢遊を行ってもらう。

もちろん好きなものを選んでもらうことはしない。

然るべき対話とリーディングを通じて利用者への適性を私が見出していく。

はっきり言ってみんな狂っている。

私の関わる多くの人はある種の富豪であり、訳有りであり、サイコパスであることから一般的であるためのネジが数本外れながらもその誰もが生きるために生きるのに飽きている刺激への飽和というか、未知への不安や疑問への好奇心といった、要はやること為すことをし尽くした末にたどり着く死への足音という理不尽や恐怖を乗り越える知性と真理を求めて私及びこのミストルトへと訪れてくる。

その回答だけであるならば私との対話とリーディングで事足りた詳細を説くことがある程度可能であることからミストルトという大仰な施設も設備もクセのあるスタッフも必要ないはずなのだが、利用者である彼らはここを遊園地か何かと勘違いするのを楽しみに、こんな途方もない田舎の山奥にまで嬉々として足を運んでくるのだからやれやれといった感じだ。

吉良吉影のような静かな平和を好む私にとっては迷惑以外の何者でもないのだが、これらのことを求められることが私に課せられていることである以上無碍にする事はできないし、許されないとも考えている。


なぜならそれらが宇宙からの私への啓示だからだ。


宇宙からの啓示もまたカルマのことだ。

カルマとは自空間認識のことで、ダルマである時空間の背後にある記憶領域(地球エーテル領域)と同期することで宇宙の啓示と自らが地球上の人間をしていることのカルマをある程度視ることができる。

私の場合はこの時空間と自空間の認識の橋渡しをしている頭であり脳を物理的に強制的に破壊的に幾度も揺さぶられることで幻覚、幻聴による超感覚と共感覚を契機にダルマやゼロポイントフィールド、ルパートシェルドレイクの提唱した形態形成場仮説の現場である生命領域とされるエーテル世界から魂の領域であるアストラル世界の深淵の住人たちと関係するまでの融合的洞察にまで至った。

融合的洞察とは私が得た感覚的な記憶の総称のことなのだが、簡潔に言えば私たちの霊魂における生命霊である神霊の記憶や恣意と結びつくことで得ることのできる超越的な知識という叡智との連結状態のことで、私はその経験で得たことをこのミストルトで吐き出しているわけだが、私から垂れ流される伝達事項の主旨は主にこの時空世界の中で私たちの認識の中で生まれ出ている自己とは宇宙の啓示そのものであると言っている。

これをもっと簡単に言うと私たちの目に映っている時空世界は例えどこのどんな状況での認識であってもその反映は神の原像に由来した真実であるということだ。

原像というのがわかりにくいだろう。

原像とは、私が根源、本質、大元、本源の意味で用いていることの意味と同じで、その他の捉え方としては原点やルーツ、起こり、オリジナルといったもののことだ。

私たちと私たちが認識している世界は神からの派生現象であることから本物ではないということではなく、その全てが神々の別の姿として顕現している位相を私たちは物質として認識している。

だから私たちの認識は宇宙の啓示という神々の誰かの夢ではあるのだが、その夢は私たちが眠りの際に垣間見ることのできる物質の断片の寄せ集めへの観念というか回想したものの思念を私たちが“読み取ることのできる”あるいは“断片として認識することのできた”一部の想起することのできた現象の背後での出来事。


神々の見る夢の背後とはその日私たちの認識と思考の源泉である無意識のことだ。


そして、私たちの認識の世界はその無意識によって構造化されている。

よく聞くありきたりでチープな話だとは思うが、その構造のロジックをもう少し拡張して表現すると人類の文明と認知されている文化全ての発明が眠りから覚めて思い出すことのできる夢を由来としていることを多くの人が知らない。

湯川博士の「強い力」という根源に纏わる発見や「対称性の破れ」の提唱は夢からアイデアを得たと述べているし、磁場を用いた電磁機器の基礎となっているテスラコイルを発明したニコラ・テスラの超感覚(インスピレーション)も夢に由来している旨が自伝的著書に記されているし、ドイツの考古学者ハインリヒ・シュリーマンが発見したトロイア遺跡はギリシア神話の産物であり寓話、ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』や『イーリアス』の中にだけ存在するものだとされていたものをある日その存在を仄めかす夢を見て以来その発掘のための活動を生涯の末に現実のものとすることで伝説が伝説ではなかったことを証明することで人類の認識する歴史の記述を変えた実績がある。

古代のソクラテスをはじめとした、アリストレスやプラトンはもちろん、諸葛孔明、始皇帝や韓非子、ジャンヌダルク、ナポレオン、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康及び国家を動かした権力者の側近は時代の要請に従ってそれぞれの覇道への意志を夢として生き方としてきた。

現代文明の直接的な寵児であるアインシュタインやスティーブ・ジョブズ、ホーキング、大谷翔平の天啓もそれだ。

自らのインスピレーションと親及び社会という他者が予め作り出した現実の境目とを疑う必要のない人間が突然変異として現れる。

時代の要請とはそういうことだ。

彼らは眠りの中の神々の見る夢の断片を読み取ることのできた類の人間な訳だが、別段それで彼らが特別なのかと言えば特別なのは彼らがそれを思い出することができたことから自分の生き方にすることができ、現世利益のための特能とすることができた点において有利だったと言えるだけで、眠りから覚めた人間は誰もがその人特有の創造性を夢から見出せなかった生き方を選んでいるだけで誰もが自らに提供された無意識に従って生命からの思考を感受している。

そうやって誰もが何を信じるかの自由だけが許されているのだ。

誰にとっても自由意志などというものはありはしないとも言えるのはこれが理由だ。

だから夢からの恩寵はあらゆる発明のアイデアだけに限らない。

現実に至る全ての創造性への動機は私たちが妄想であり幻覚の類であるとアテにもしない夢からの想起となっていることを多くの人は思い出せないでいるだけで、思い出せない人ほど自分のことは自分で決めているという自負が強いことから“全部自分がやった”という自意識の無意識が育っていることの不自由を自由意志だと信じていることに無自覚なのだ。

その多重無自覚のことをカルマに支配された弱体化した自我状態のことを言う。


その極論を突き詰めていくと誰もが「私とは何かがわからない」に行き着く。


この「わかりません」と判断しているのが左脳の思考である言語系統だ。

脳の基本スペックとして大まかな話をすると、左脳と右脳が脳梁で繋がっている。

単純だ。

だがしかし、“私たち人間の認識”の認識は脳のどの部分で行われているなどという局所的なものではなく、絶えず二四時間三六五日死ぬまで一〇〇%全体で共しながらも、部分的でもあるといった複雑系だ。

脳が主体となって一〇〇%の「私」として活動しているのではなく、“霊魂である私“が人体の脳を一〇〇%活動させながら脳の部分的な作用を人体の知覚として物質空間を認識している、が正しい。

その「私」という認識の全体から肉体のバランスの欠損のことを私たちは痛みや熱といった感覚でその疾患のことを病気として人体の各部位に原因があることを西洋医学的なアカデミーは洞察していることそのものもまた正しい。

しかし、原因が悪くなったその部位そのものにあるというのは事実ではない。

部分的には正しいが、原因を特定するのには不十分な洞察であるという意味だ。

例えば私たちの視野となっている眼の見える範囲は一八〇度未満であり、可視光域の範囲はガンマ線から電波にまで及ぶ周波数スペクトルの五%にも満たない領域しか及んでおらず、その色彩と周波数の波を生んでいる音という超越的なエネルギーが宇宙の秩序によって規定されていることも考慮してなお、その宇宙の規定を規定している宇宙の創造者が何であるかの全体の立場に立って初めて私たちの目の前の現象の原因から宇宙の結果の結晶である地球という「カルマ」の本質を洞察することができれば、「私」という主体が「ダルマ」領域より超越的な認識による融合的な叡智を獲得することができる。

カルマという空間認識はダルマという生命領域での思考が人体経由で現れたもの。

“何かが起こっている“というのは結果ではなく私たち霊魂にとっては原因。

物質的には結果にしか見えない出来事も次の出来事の原因に過ぎない。

しかし、私たち人間は左脳の作り出してきた部分的な事実を真実とした人類の統計的で帰納法的な歴史の累積によるコミュニティーの支配から自由になることができないよう教育されることによって、人間の左脳は人類が馬鹿な馬車馬としてただ黙々と自分利益の獲得と身内の幸せだけを願って生きることを生きる目的とすることの繰り返しの正しさに喜びを見出す。

その生活そのものが地上の楽園であるかのような豊かさを謳歌する。


左脳は左半分が見えていない自覚が無いことから悪気なく多くのことを疑わない。


そして健常者は左側を右脳で補完して認識できているから右と左の脳の役割の違いを特に気にすることなくそれぞれに提出してくる思考の内容を唯一無二の輪郭とする自分像に慣れている。

だから自動で思考されている内なるおしゃべりの内容にも疑問を抱かない。

自分の頭に浮かんだことの全ては自分で考えたくて出力していることではないかもしれないけれど、自分がそう考えているのは事実だし、自分とはそういうものだという他ないのだから、それを自分の仕様として自分の思考と信じる以外はない。

なぜならその思考、表象、イメージの想起こそが人間という自分の尊厳だからだ。

なぜかそう感じるのだ。

私たちはこの尊厳が損なわれたと感じた際に震えるような感情の振動を感じる。

生きていることの尊厳であり低次の自我の居城がそこにあるからだ。

誰だって自分の家が壊れていくのを見るのは嫌だ。

それと同じで低次の自我はその居城から生命の生存戦略に組み込まれている感情の揺らぎの波を読み取ることでその刺激の快と不快を実感することそのものを生きている、としている。

だから生きるとは何か?の問答のその答えは「楽しいから」に帰結する。

したくもないことも楽しいことがあるから頑張れる。

会いたい人がいて、一緒にいられるから、できることがあるから楽しい。

楽しいこととは自分で決めたこと。

自分で決めたことはどんなことで楽しくなるし、逆に自分で決めていないことはどんなに楽しいことであったものも楽しいものではなくなってしまう。

だから、“楽しい事”という対象は存在しない。

“楽しい”と思う主体が居るだけなのだ。

それ以外のことは「わからない」から考えるだけ無駄であるとするのが正しいし、何より楽。


だからこの世界は『楽しいこと以外全部ウソの叙事詩』でできている。


既得権益者にとっておいしいことの結晶がこの世界の都合とルールとなっている。

既得権益者とは人類の老害的で独占的な富豪主たちだけのことではない。

高次元存在たちの多くもまた既得権益者であり、一概に味方ではない。

少なくとも私たちエゴの塊である魂は彼らの浄化滅殺の対象として認識されている。

自然を形成している精霊や妖精を従えている神の(しもべ)であることしかできないでいる神霊たちもまた、この宇宙が生成される以前の権力の意図と意志と恣意に逆らうことのできない不自由に縛られながら、この宇宙の中の自然と人間に纏わる構造の全ての都合に関与している。

そんな不都合の排泄物としての世界(宇宙)を形成することで私たちはその苦しみを楽しめと規定しているのだ。

排泄物として提供されたその主体から“楽しい”を見出すことが叶わず、極度の絶望から未来への希望を失った今その瞬間の自分を肉体であると信じているその魂には救済として、その原因と結果を招いた他者だけでなく自分の肉体をも殺すことによって楽しさも希望もない世界のその苦しみからの離脱を試みることもできるなどというシステムが『楽しいこと以外全部ウソの叙事詩』なのだ。

一切の希望を見出せなくなる諦観によって私たちは足止める。

楽しいという認識はカルマであり悪神由来、そしてその闘争の叙事詩の由来は宇宙の反感として吐き出した張本人である根源と神霊たちによる自作自演、その歴史は全部ウソでも真実なのでもなく、それほど関係がないのであって、その“それほど関係がない”知覚を自分の中で信じたものへと改変させることができることを知った認識だけが死後の知覚であり視覚である居心地の良い認識を獲得するに至るのである。

ちなみに肉体の死後において何を居心地を良いとするのかの認識の判断で今を選んでいるのが、霊界から見た黄泉であり地獄であるこの地上での人間ライフにあたる。

一体この世界がなぜ存在していて、なぜ社会が今のようになっているのか、人間がなぜ人間なのか、どんな意図で人間の人体と自然と宇宙を結びつけているのかの本質が見抜けないようになっているかのベールが『楽しいこと以外全部ウソの叙事詩』の背後にはあることを喫茶『ミストルト』は最初のメニューとして提案している。


その最初のプランはまずカルマとしての時間を超越することから始まる。

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