#28 霊性Ⅰと霊性Ⅱの融合体としての人間 意志と感情編
#28
肉体の対義語とは霊魂である。
ただ、霊魂と言っても大きく二つの流れが人体内で共存している。
霊という自我、魂という感情体、それらが生命体として肉体化している中での霊と魂という二つが存在しているだけではなく、物質体の中を神経系を貫いている霊性とそれ以外を担っている霊性との二つが一つになっている、という意味での二つの霊性の融合までが人間の肉体なのである。
肉体だけをとっても幾重にも融合状態であるのと同じように霊魂もまた肉体以上の融合的な干渉が世界化していることを地上的に認識できる特権的権能が人間自我の「光」なのである。
その「光」が私たちの世界を詳細まで三位一体のマトリョーシカにしているのだ。
人間という現象はマトリョーシカが認識しているとも言えるし、認識がマトリョーシカをしているとも言えるその融合体が人間の肉体で、その統一体は二つの霊性が干渉しあうことによってありのままとは控えめに言えない完全性からは一線もニ線を隔てた世界が展開されることとなっている。
それが物質光の世界だ。
だがしかし、光は単一の物質現象ではない。
だがしかし、全ての世界は単一だ。
だがしかし、モナドには窓がない。
17世紀の科学革命時代を生きた政治家にして数学者だったライプニッツは宇宙を構成する基本的な存在として“モナド”という、人間の心や神の概念までの全てを含んだ無数の精神的な原子のようなものを“モナド”という完全に独立した自閉的に自己完結にも等しい存在原理を提唱した。
それらの調和は神の意志であり、創造の段階で世界は予め計画調整された、「予定調和」の現象をモナドが再生しているという、当時の思想潮流でもあったデカルトの「心身二元論」に対して、ライプニッツは物質精神を区別しない「一元論」のことをモナドで主張するというスタンスだった。
ライプニッツの思想は「モナドには窓がない」のだ。
神が選んだ最善の世界の中で、独立した分割分離することのできないモナドの意志を私たちは認識として泳いでいるだけに過ぎない一つの生命であるが故に、その最小単位には入口も出口も存在しない。
単に完結した世界であることが彼の『モナドロジー』には記されている。
それを現代では約100年前から不明の原理として「不確定性原理」と呼んでいる。
原子や電子などの世界では、一つの粒子について、位置と運動量、時間とエネルギーのように互いに関係ある物理量を同時に正確に決めることは不可能であることが一九二七年のハイゼンベルクによって物質そのものを一つの括りで定義することが不可能であることを「不確定性原理」として提唱され、現在まで引き継がれている。
物質は人間の観測によって粒であり波である量子の二重性が確認されていて、私たちの認識が粒として認識するまで対象は波として揺らぐことで無限の可能性を背後に有している。
またその揺らぎである原子核から発せられている波としての電子の霧は“弱い力”と呼ばれる内側から外側に向いた見えない力によって私たちは物質という概念の世界を形成させられている。
原子核と電子の霧として働く“弱い力”の関係はよく一円玉(原子核)と野球場(電子範囲)に例えられることがよくある物質のスカスカを説明しているわけだが、要は私たちの精神である認識が物質という現象を細胞のようなモデルを構築したものとしてスカスカではない概念を具現化しているのだ。
少なくとも私たちの意識にはそう見えている。
そして同時にほとんど何も視えていない。
その具現化の状態を決めているのが自然を司る霊性タイプⅠにあたる。
その具現化の認識を決めているのが神経を司る霊性タイプⅡにあたる。
霊性タイプⅡである私たち神経人間(脳と骨格)は中間地帯で目覚めている。
霊性タイプⅠは私たちの人体内部(筋肉以下の血液と内臓)で深く眠り夢を見ている。
また人間の周辺部である外部環境には他者としてのタイプⅡの霊性と宇宙の反感として吐き出された人間の形態化を助ける元素霊(神霊の眷属)としてのタイプⅠの霊性が絶えず眠り続け、人体内での深い眠りがそのまま自然環境として出現していて、一方で自然の対極として他者の夢が創造してきた自らの叡智と思い込んでいる文明の歴史を鉱物、植物、動物、人間の時代の現実と呼んでいるある神霊の夢の記憶の一部分として取り出されている。
それら現象の融合体がこの時代の人間の肉体を意志することによって私たちタイプⅡの霊性が人体の血液から神経として分離したときから脊髄を構築し、やがてその頂点を人間の脳へと変容させました。
霊性Ⅱの輪廻:月から脳へ、脳から神経へ、神経から月へ、月から脳へ
霊性Ⅱの1日:脊髄から脳へ、脳から手足へ、手足から脳へ、脳から太陽へ・・・
現代の人間の霊魂は物質として完成された肉体の中に不完全な霊魂が意識として貫いていて、その肉体の意志による挙動とその力の流れは足元からやってきていて、その日一日の深夜までにかけて首から頭にまで届いているのが霊性Ⅰです。
それによって私たちの意識である霊性Ⅱは夜毎肉体から追い出されている。
私たちが夜になると眠くなるのはゆっくりと霊性Ⅰに締め上げられているからだ。
肉体が死んでいないだけで意識である霊性Ⅱは毎晩死を体験しているのだ。
眠りの間、意識が暗くなり、深く意識を閉じて目を覚ました時には朝になっている。
時間を忘れて眠ることができるのは肉体としての時空間から無縁になっているためだ。
私たち霊魂Ⅱとしてのアストラル体の影であるファントムは夜毎自我とその隣人たち(高次存在)によって、肉体の生命体(守護神霊)の経験に基づいて次の日の朝からの活動内容をプロデュースし、その決定された方針に沿う形で肉体に編み込まれた記憶の意図を私たちの意識媒体である霊性Ⅱは足元から脳へ、脳から手足へと跳ね返るようにして肉体の中の神経回路に入り込むことで思考し、認識する自由を獲得している。
霊性Ⅰからすると、霊性Ⅱの存在することのできる神経回路は空洞にして虚空間による所業にあたるため、日中の意識作用には多く関与することができずただひたすらに前日までの経験である“既に遂行された感情による意志“に基づいた自律活動が眠りの間に霊性Ⅰの認識した霊性Ⅱの運動の記憶にあたる。
霊性Ⅱである脳はその運動を“抑えられた意志である感情“として認識している。
霊性Ⅱは神経組織を霊的に“無”の領域として貫くことによって、人間の脳を通じた意識作用の感覚に対象認識の自由を物質化に関わる霊性Ⅰが構造化する無限に個性化している像によって自らを自由に思考する像を獲得している。
それによって神経組織は体の中で絶えず死んで鉱物化しようとする傾向を同時に提供され、いわゆる老化を経過させながら、霊性Ⅰと霊性Ⅱは死への階段を登り上らせることによる秩序と法則を宇宙から“霊化”という働きかけを関係性としているのだ。
私たちが秩序や法則と呼んでいるものは一つ残らず霊的構造の影なのだ。
意志が遂行された感情で、感情が抑えられた意志であるとした意識構造もだ。
意志とは肉体の組織構造の仕様そのもののことで、例えば遺伝子でいうと、その組織そのものは物質化に関わる一つの条件が顕在化したもので法則そのものではなく、物質化の過程の一つが霊性Ⅱの認識に通用されている一部分に過ぎず、要は意志(肉体構造の秩序と法則)の洞察には誕生から死までの地上的な人生の中ではまだ完全に作り出すことができないということだ。
意志とは悟性や認識する思考が把握する以前の純粋な感覚知覚だからだ。
意志と感情はとてもよく似ている。
私たちは感情によって物事を決定している、とよく言う。
しかし、それ以前に意志というもっと前提的な認識が感情のきっかけとしてあることを知らないことには感情の本質を洞察することができないゆえに、感情とは抑えられた意志なのである。
霊性Ⅱはその住処である神経組織を霊性Ⅰに全く関係を持たない唯一の組織とすることによって人間の意識に空間を提供した神経の在り方を通じたその手腕からこう呼びかけている。
「お前が進歩できるのは私が障害にならぬよう自分の生命を経っているから」
私たちは霊性Ⅱの干渉によって霊性Ⅰからの支配から守られているのだ。
私たち意識は霊性Ⅰが構造化している血肉の通う臓器による生命から遮断されることによって思考や感覚をまるで自分で行なっているかのような自由な認識できている、という意味だ。
同時に私たち意識が自分の人体内部の熱と痛み以外を知覚できない理由でもある。
私たちが自らの肉体である霊性Ⅰと調和することのできる可能性があるのは、神経が人体から遮断された眠りという死を体験しているときにのみ、抑えられた意志の背後で隣人である霊性Ⅰと共にプランニングされた遂行された意志を感情で理解することで私たち意識は霊性Ⅱが見せ続けていた夢の意味を知るのだ。
そして夢から覚めることによって物の在り方がどんどん鮮明化された夢を知覚し始めることを私たちは現実と呼び、その完全には決して見通すことのできない対象の肝心なところに疑問を持ちながらもそれを現実だと信じて、絶えず眠った夢の延長線上である体の外の秩序と法則に基づいた感覚知覚の周辺部を自分以外の対象として誰かの夢を見る自分だけがリアルであると感じている。
そう認識させているのが霊性Ⅱの回路の創造主であるルシファーだ。




