#27 時空間をデザインしている肉体(融合体) 後編
#27
私たちは人間であるという概念の認識は霊魂である。
※魂体はメンタル体込み、霊体はコーザル体以上の階層含む
そのための詳細を知ることから治療(教育)はまず始まる。
知ろうとしない人間は治療(教育)が行われないまま運命が進行していく。
地上で活動している私たち霊魂がどちらを選ぶのかの選択肢はほとんどない。
だからどちらを選ぶかの自由やどちらが正しいのかの考察や結果さえもない。
ただ、そう信じる人とそう信じない人とがいるだけで、自分をどのように思うのか、対象をどのように認識しているのかの概念のバリエーションとして無限の時系列と宇宙空間の生命ドラマの縮図の全てが人間概念の間で共有されている。
その共有空間のことを心魂界と呼んでいる。
私たちはこのアストラル界の要請に従い思考し、関係し、活動を規定されている。
私たち霊魂は絶えずこの空間(意識)に滞在することで肉体を通じて地上を体験している。
当たり前のことだが地上体験とは昼と夜の繰り返しの現象のことだが、実際に“在る”と信じられているのは昼という現象だけだ。
夜という現象の実際については現代の人間のほとんどは忘却させられている。
なぜなら実際の夜の現象は地上体験とは異なっているからだ。
私たち霊魂の地上での体験と治療は昼と夜の相互関係によって行われているのだが、その実態は昼の一方通行で完結している、という話だ。
夜の過程には昼が関係しているし、昼の過程には夜が関係している。
単純に身体の状態を振り返れば容易にイメージすることができるだろう。
要は自律神経と呼んでいる肉体の生命活動は夜であり、随意筋をフル活用した昼間の神経活動は昼で、その消耗に疲弊をきたしたら自然と眠りに落ちる。
この“自然と“と“自然ではない“部分とが融合しているのが地上の肉体なのである。
もちろん自然ではない部分とは霊魂である私たち人間のことであり神経として顕現している。
自然の部分とは自然法則である神霊であり、その眷属たちが元素霊としての精霊がそれぞれの権能を宇宙の法則から地球の法則へと姿を変えた現象を巻き起こし、時間を周期させながら自然から逸脱した存在である人間の経過観察をしている対象世界は現象化され、そこで造形された人間による像認識が顕現させている心魂界を生命化させている「有」の全てのことだ。
繰り返すが人間の認識とは脳ではなく霊魂によるものだ。
その土台でありステージとなっているのが地球と人間となる。
地球は人間の肉体の主体である。
物質体と生命体の融合である肉体は地球の素材を由来としている。
または共有している、ともいう。
肉体は基本物質であるが、そもそも物質が生命由来であることを知る必要がある。
物質は物質から生まれたのではない。
生命が物質になったのだ。
それは人間も同様だ。
人間も地球においても最初から物質だったのではなく生命そのものに属していた霊魂であったことをかの『聖書』における創世記の各章において語られている。
それがアダムだ。
アダムは土から創造されたとされているが、“土”とはアダマの塵、アダマとは大地、大地(地球)の本源は生命を創造した根源にあたり、その土と根源の連絡通路が生命なのである。
要はエネルギー体である霊魂と物質世界とを接着させているのが生命であり、それが物質化したものが宇宙空間にあたるのだが、それはあくまで物質的な側面からの表現であり、それを霊視的な立場から視るとそのエーテル空間を満たしていたのが原初の血液なのだ。
もちろん原初の血液は液体でも気体ですらない。
創世紀の地球はエーテルの海が空気のように漂う亜空間(低次の霊界)に生命の吐瀉物としての熱を拡散させ続けることを目的として当時の人間にそのための装置として死ぬこともない知能を持たない神々の目としてゾンビのような活動(労働=原罪)をさせていた。
そのエーテルが動物となり、動物が植物となり、植物が土となる退化を規定するエッセンスとなっていたのが宇宙進化の繰り返しを司ってきたルパやアルパと呼ばれる天球の遺伝子で、かつて人間だった神霊の影としてのエネルギーを元に人間自我という高次の人間の意志であり単なる熱だったその器が空気の塵(反射の像)となる。
その塵(反射触媒)が霊的な生命(霊界)と通信するための装置となることで、惑星とその自然に関わる神霊の意図に従う元素霊とともに痛みを有する原罪を担ったイブの呪いが人間のエーテルである血液に課せられる。
だから、地球とその環境を創造していたのは他でもない私たち人間自我なのだ。
血液とはエーテル由来以前からの人間自我に浸透した霊人の影。
霊人とは、ある神霊(天位階三位)の意志が私たち地球の人間自我を初めて顕現させた熱宇宙(三つ前の宇宙)を私たちと同じ人間自我を有して過ごした人類の神霊化の先輩でありモデルのこと。
その霊人がまるで雪のないゲレンデに人工雪を撒き散らすように、人間を亜空間と宇宙空間との出入り口として、その境界を起点に血液の原型となりうる要素を人間進化の通信装置として外へ外へと吐き出された霊界の吐瀉物として地球は形態化されていった。
このことはミルトンの『失楽園』に詳しい。
失楽園は旧約聖書「創世記」第三章の挿話である。
著者であるジョン・ミルトンはイブがサタンの誘惑によって堕落し、アダムはイブを一人にしないために楽園を追放されるまでの天魔戦争の伝説を『失楽園』として一七世紀に書き上げた。
天界は人間を神の御子としてその進化を守護し導くために人間以前の人間である神霊を人間に遣わし、それに対して神の人間への寵愛に憎悪した神にも等しい神霊の一人であったサタンが同じく人間を憎む神霊を天界から逸脱させることで、人間の宇宙の三分の一が混沌という状況下に地球のエデンに神の御子であるアダムとイブは何の欲望も抱くことなく新たな神となるべく楽園で安らいでいたが、サタンに知恵の実を与えられたイブは人間の宇宙への興味と好奇心に傾き堕落することで、楽園追放の刻印が施される。
これが原罪というやつだ。
ミルトンはカトリックが支配的だった時代のイングランドで、職業の自由、離婚の自由、信仰の自由を王政に訴えたピューリタン革命に関わった人物で、革命指導者だったクロムウェルと共にイギリスの王政を打破し、共和政国家を実現する外国語秘書官として活動するも、王政復古後は獄中生活を余儀なくされることで諸々の要因でミルトンは40代で失明することとなる。
ミルトンはその状態で口述筆記という形式で『失楽園』を完成させた。
その心は神への畏れと敬愛からのものだった。
一七世紀のヨーロッパはルネッサンスが終わり、蒸気による発明の数々で産業革命へと歩を進めようとしていた新たな大航海時代。
ミルトンはそんな社会や政治に対する幻滅や悲観、そして軽蔑の念を込めて、それらが神の世界からの逸脱の顕現であることの意味を、イブに準えた警告の書として叙事詩にしたのだ。
私たちは常日頃“身支度”をして家の扉を開けて出ていく。
男性ならリクルートスーツ、女性ならアイラインを欠かすことなく、軍人であるならば有事を想定した訓練等の日常がそもそも臨戦態勢という常識が現代社会にあって、その準備は経験則的にそれぞれにとって最も合理的なスタンバイであって、私たちの世界における生存戦略においてオントロジック(哲学的存在論=概念化された対象の記述)な信号に書き換えられることによって準備完了、ということとなっている。
だがしかし、実際に準備が完了するということはありえない。
なぜなら何のための何を持っての準備なのかの運命の意味を誰も理解していない世界の渦中にいて、誰もが何を持って“終わり”であるのかの不安さえも忘れて、オントロジック(概念)な要請に従うことの準備に追われているだけだからだ。
ミルトンの時代ではそれが王政であり、信仰であり、戦争だった。
創世記ではそれが太陽(霊界)であり、月(原罪)であり、地球(黄泉)だった。
争いからの支配、支配による安寧からの崩壊、そして再び争いが始まる。
些細なことから時代を揺るがすことに至るまでの全ての現象には背後がある。
ミルトンの『失楽園』は準備も身支度も備えることのできなかった故に楽園を追放されたイブの顛末が絶えず繁栄を続ける我々神をも恐れぬ地上の人類とを擬えての叙事詩であり記述なのである。
私たち人類の霊魂とは常に楽園と失楽園の要請の間にいる存在のことなのだ。
楽園は地球(地獄)の対義語にあたる。
また地球の反対は裏側のことでもあることからそれは地球の核のことでもある。
人間の物質体が生命体によって肉体が活動しているように、地球という物質体もまた惑星サイズの生命体を展開していることによって多くの魂が肉体で活動できる環境を提供してくれている。
そのエーテル領域のことをエデンという。
人類の祖であるアダムとイブとは元々楽園に暮らす神聖な生命体だった。
彼らは苦の根源因子である宇宙への好奇心と葛藤によって人間へと堕天した。
そして現代の人間は地球の細胞の一つとして地上の霊魂の依代となっている。
私たち地上の人間が思考と呼んでいる現象は心魂体の影にあたる概念で、その概念を巻き起こしている本源は地球と月の軌道内の領域をテリトリーとしている諸力による作用だ。
※アストラル体はメンタル体(思考、知性、概念)含む
いわば死者や亡者といった過去の人類の想念の集合体のようなものの断片であり一端のパフォーマンスによる一生をまるで自分の思考とパーソナリティのように受け止めることを運命とした霊魂(自我+心魂)体験をリアルとしているのが肉体(物質体+生命体)なのである。
亡霊たちへの憧憬を虚言と戯言のままに踊っているとも言える。
私たち地上の人間は自分が肉体であることの自尊心という偏見で生きているのだが、この関係は「虫こぶ」という植物に寄生する生物によって作られた現象に似ている。
虫こぶはある植物の葉にある昆虫が卵を産みつけることで形成されるコブで、このコブは本来の植物のものではなく、寄生した昆虫の卵が植物の生命力に働きかけることで植物の葉はあるべき色や形等を変形させられながら昆虫と共存している。
人間を含む動物に宿っている霊魂と地球の生命体との関係がこれだ。
また人間の肉体と心魂体との関係もまた同様と言える。
私たちが精神と呼んでいる自尊心とは、人間という種の肉体が有する生命体に寄生している概念的なメンタル存在なのである。
つまり、私たちの霊魂及び自尊心はそれ自身では物質の世界に存在することのできない幽霊のような現象で、生命体の活動を前提にすることでその器から栄養を補給し、その栄養である生命エネルギーを消費することによって私たちの霊魂は肉体での生存を“時空間を意識することのできる存在”として活動ができている。
その関係上、私たち霊魂はある程度まで生命体を制御することができる。
生命体の記憶に基づいている代謝や血液の循環に神経組織を通じて干渉している。
その機能が好奇心を起点とした欲望や情動による感情のことだ。
この感情が提供してくる快と不快の温度差の感覚を底辺とし、私たち霊魂はアストラル界より生命力をエネルギーに循環器系を回し、人体内の様々な要素をひとまとめにした状態を意識として神経に出力することを知覚とし、それを感覚と呼んでいる。
また知覚と感覚とは実際の私たちの意図的な肉体動作のことではない。
私たち霊魂は人体の骨格の関節を筋肉で動かしているのではなく、その力の流れを概念の水準に応じて知覚しているのだ。
だから果ては天体の回転までも力の流れとして知覚することが可能だ。
それをテレパシーという。
その超感覚を促す権能を有し、担っているのが肉体(感覚)の本質にあたる。
人間の肉体に宿る霊魂はそれ自体が元々超越的なものとして飛躍させることを目的としているのが肉体を通じた霊魂の自由なのである。
その多くの顛末が全て過去の地球の亡者のものだ、という話をしている。
またその顛末に干渉している存在がために人間自我は時空を超えて奮闘しているのだが、それはまた宇宙顕現以前の開闢の因子にまつわる原罪が本能として人間と宇宙とは結びついているという話をのちに深淵からさせよう。
人間自我(神霊天位階七位の時代と人格の霊=霊人)とはある意味、地球のアストラル体(神霊天位階八位の民族と言語の霊=生命霊)の要請に従い、その亡霊の魂に生命体(神霊天位階九位の個人の守護と自然霊=霊我)の貸し出しを人間自我がその隣人である地球の神霊たちに申請することで、その時代、国家、家族、性別、立場、人格からの運命が空間化されたものの時間体に肉体として接続している私たち意識人間の無意識の状態である霊魂のことで、私たちの個の感覚で語る自我よりも遥かに大きな規模で人間を認識(観察)し、把握(想起する力)し、思考(創造)している。
つまり、私たちが概念として認識している感覚とはすでに超感覚なのだ。
しかし、考えようによっては取るに足らない感覚と認識し解釈することもできる。
一方で霊魂は回転の作用をも司って生命体を対象化し、その宇宙の運動空間を時間的に認識することをしている超感覚が認識として機能している現象のことを人間と呼んで運命を生きることもできる。
人間である自分自身をどのように創造することを選んだのかを信じる自由がある。
私たち霊魂は肉体経験を通じて毎瞬間未知なる創造を自由に行なっている。
その思考する自由が肉体の神経によって与えられているのだ。
私たちは脳と各臓器を繋いでいる神経作用によって、多くのことを忘却することによって地上での自由を獲得している。
私たちは文字通り本質的なことの全てを忘れて肉体そのものが自分であり、人間性が全て肉体由来であることを完璧に疑わないことで、必要以上に隣人と社会が誤謬で混乱しているにも関わらず平気で間違ったことを正当化されていることを見過ごし、自らの生存戦略がためか無知がためか受け入れられているのは、他でもない根源的な霊魂としての人間像を非常に完全に完璧に忘却していることの恩恵なのだ。
でなければ、とてもじゃないが自殺などということはできない。
人間として生まれてきたばかりの頃のことや自分がどこからきたのか、昨日何を食べたのかはおろか、昨日会った人と話したり聞いたりしたことを平気で忘れて今に集中できるのも、今その瞬間とその前後関係の想起に都合の悪いことは大体なかったことにしてくれるのも、それは忘却による仕様のものなのだ。
忘却こそが人間霊の自由への恩寵となっている。
忘却を土台とした自由への使命を私たち霊魂は担っているとも言える。
同時に記憶することの難しさから私たちは外部ツールに情報を保存する。
私たちの霊魂はどんなことを記憶したいかを望むことで記憶デバイスのための術を発明し、映像としてのテクノロジーとして進歩させてきたのかを思い浮かべて考えてほしい。
大切な情報を保管するためだ。
大切な情報とは地上の美しさであったり、人類の豊かな生活を保障できるものであり、地上での人と人の関係において交換価値のあると判断された良い情報だ。
良い記憶は「物」として残る。
悪い記憶や取るに足らない記憶や不必要な記憶は「物」として残りづらい。
では私たちの記憶はどうだろう?
私たちは良かった記憶や良い思い出を明確に記憶することができない。
一方で私たちは嫌悪感を抱く反感的な思い出と記憶は殊の外覚えている。
なぜなら私たち低次の自我は魂の世界の感情を読むことで記憶しているからだ。
限りある命の制約と知識を得た原罪による危機感というやつだ。
原罪のことを本能ともいう。
私たちは対象への反感を忘れることができない。
一方で共感という許しを相互に心から得ることができると綺麗に忘れられる。
昨日の敵ですら私たちは友とすることができるのは共感という忘却のおかげだ。
穿った言い方をすると、この世界は元々宇宙の反感として吐き出されている魂による意識空間で、そういったものを観測するために創造されていることから、思い出したくもない不快で醜い対象及び自分自身の像へのスポットである感情への知覚を低次の自我は積極的に行わざるを得ない仕様となっている。
いわゆる反感への共感というやつだ。
私たちの神経は反感に共感し、霊的世界への反感が共感となって現れている世界観を何より尊ぶというメンタル(アストラル)体(思考、知性、概念)が残そうとする意志が大切なものの投影として、データとして、テクノロジーとして、「物」としての豊かさや美しさで地上の楽園を演出する想起を発信させている存在がいるということだ。
そいつの影が脳と神経回路だ。
神経によって生命体に無理をさせることで肉体を濫用することができる。
神経によって無理をした生命体は霊魂を戒めるために肉体を病気にできる。
神経によって病気になった肉体は衰えることで生命体を枯渇させられる。
神経によって枯渇した生命体は肉体から出ていくことができる。
神経によって生命体を失った肉体は肉体から生命を失い物質体となる。
神経によって生命体を失った肉体は霊魂に「死」を教えることができる。
霊魂はその肉体からの教えに基づいて次の回転へと輪廻していくこととなる。
物質体に蓄積された死までの経験である手足をセットとした脊髄を次の肉体の脳として折り畳み、来世でその脳を触媒として選んだ霊魂の治療が続けられていく。




