#23 「私」と「概念」の間にある目的と使命
#23
“宇宙の音楽と歌の中にいる”と私自らが示しておきながら恐縮至極なのだが、宇宙の音楽(子音)と歌(母音)の中にいることの意味を正確に理解するためにはまず、私たちの本質的には“内側も外側も無い”という概念の本質を地上の人間の立場で知ることから始めなければならない。
例えばこの喫茶『ミストルト』のロビーフロア(客席のこと)は巨大なガラスが仕切っている。
吹き抜けのロビーの天井までをガラスにすることでまるで森の中にいるような景観を全ての席から感じられるように設計している。
それも斜めに吹き抜け方向に立てられているガラスは四角錐を全体像としている。
そのためロビーの天井はフロアの壁でもあり屋根をも兼ねる四角錐の頂点となっているため、どこまでが壁でどこからが天井なのかの概念的な境界はない。
ロビーから見上げる天井はモナドとも言える点として尖っていることからその点のことを天井とするのであればたぶんこの『ミストルト』には天井という概念は無いのかもしれない。
『ミストルト』という店舗はどこだ?という問いも同じだ。
建物の全てが『ミストルト』であるならば、天井も『ミストルト』だし『ミストルト』は天井でもあるのだから、その細部であり外観でありを『ミストルト』であるとするその人間的観測の識別的な視点そのものがそもそも店舗とその内部と外観及び細部を存在させている。
内側と外側の概念もそれと同じだ。
実際、空間は隙間なく貫通しているから内側と外側というのは概念に過ぎない。
ただ、有ると思えば有るし、違うと言えば違うのだ。
確かにガラスは在る。
私を中心とした境界として対照的に対象として明確に存在している。
だがそれは「概念」が発明した主知主義による世界のルールに過ぎない。
「概念」とは魂の寄生する生命環境に意味を付与した人間概念の都合なのだ。
主知主義とは主観を排除した知識の客観性のみを採用する姿勢にあたる。
概念による知識に偏った人間に冷たく堅い印象を抱くのは徹底した人間性を排除した知性による成果だ。
だからその手の人間は芸術創作における背後にある感情に興味が無い。
熱だか主観などというのはデザートやおやつに過ぎない、むしろ余計なカロリーくらいに考えている。
多くの組織が行なっている学校及び家庭教育はその方向性に加担していると考えた方がいいし、教師はもはや信じるべき権威に値しない。
国家の傀儡以上の役割と成果を知らない指導者は生産性のための芸術的価値を説くことくらいしか許されていないし、たとえその価値を理解できたとしてもそれを賞賛と評価の意味でしか述べることができない教師と親がほとんどであることを考えれば理解できるだろう。
芸術創作におる芸術体験への道(運命)はごく一部の人の特権的才能のみに許されている。
そんな認識が個の人間の才能を擦り潰しているのだ。
なぜなら教師や親といった大人の多くが芸術の実践から程遠い生活感にいるからだ。
個の才能を伸ばすのは芸術であり、教育とは芸術であるべきだなどという空気に触れることなく、人間を唯物主知主義的に考える偏見を概念として許してしまったからなのだ。
本来人間の思考が結びつけている概念とは感情という生命エネルギーである。
生命とは認識の記憶であることから現在の人間は「時間」と呼んでいる。
その「時間」が地球という空間となった次元の現代を人類はその本来の芸術性を全く別のものへと変換している時代として観察している。
その「熱」をもって「霊」である自我が魂を導いているのだ。
霊としての自我は思考し生命を概念化している魂を俯瞰している。
だからもし、ガラスが無いかのように森を眺めることができれば、視界にガラスを思わせる反射要素を排除できるだけで私たちの認識は森の中にいる気分にもなれる、といったようにある種高圧的に言っても良いのであれば魂の思考と形態である概念を「私」という自我の俯瞰によって教育することもできるのだ。
教育できるというよりむしろ目的と使命と呼んでも差し支えない。
肉体と宇宙という制約の中で魂の概念を霊的なものへと導く意図を持って「私」は人間の“自分”という概念に顕現している。
内と外が無いようなイマジネーションを魂の概念で獲得させよう、という態度だ。
私たちが現実であると認識している昼間の世界は物質を見る仕様となっている。
その仕様は同じという物が一つとして存在しない分離を理としている。
“識別”という仕様が脳の設計者によって関与されたものだからだ。
その本質は“神は存在しない、神とは別々”という逸脱概念の反映が、“全ては一つ”という私たち自我の原点である元々の根源的世界観(宇宙及び人体の設計現場=音の世界)を“光(物質光)”で反転させることによって生じさせている、「神無き光」のヴェールがその関与にあたる。
神を隠す意志を有した光の反射が物質の存在を可能にしている本質と私たち人間の物及び対象への認識を著しく偏光させている。
その偏光のヴェールのことを私たちは「概念」と呼んでいる。
目を開けて認識している私もまた“分離による識別の概念”に支配されている。
その「概念」は次元を超越した過去として「私」と人類の生命観を支配している。
一応触れておくが私は肉体を有したごく一般的な人間だ。
私は今こうして内側と外側を巧に隔てた『ミストルト』の理念の空気を吸いながら、いつもと変わることなく淹れたてのホットコーヒーを片手に物思いに耽っている、という時空間的な事実の知覚そのものが私自身の自空間だと確信しているだけの普通の人間だ。
もう一度言おう、目の前の時空間が自空間だと言っているのだ。
一般的に目の前の対象物とは客体と呼ばれることで、それを認識している主体である自分自身とは切り離されて考えるべきであることから、私たち人間の知覚は他者と対象を自分とは違う存在であると識別し、自己の認識と目の前の空間とをも別々の関係性であると信じている。
それはそれでありのままを認識しているのであれば見解としては正しい。
だがしかし、その見解をそのまま人間の在り方としているのであれば、その知覚は正しいかもしれないがその認識による見解は誤謬であるということとなる。
実際に物質構造は水が諸行無常であることのように留まる事なく形を変えて、千差万別の姿を万物において表現し続けていることからもわかるように、全ての物事において同じという現象は存在していない。
それは人間の肉体も例外では無いのだが人間の魂による認識だけは“同じ”という概念が他の動物たちと反転した方向で働いている。
人間以外の動物は自然との強い親和性を前提として対象への快不快を生命本能とすることで、個の記憶という概念、つまり生命(自然)の意味を読み取るといった知性、知覚、認識を持たないことから勝手に自然環境を変えたり作り出したりせず、ただひたすら快不快の衝動に従う。
しかし、人間は自分という自我への強い親和性を前提に対象を認識し、その知覚を自分中心に行い、その知覚対象である生命(自然)の反感と共感に意味をつけることで、生命本能から自由になれる自然から逸脱した声を聞くことで“幾何学から言語”を、言語から文字を生み出し、人間は快不快と反感を超えて自分を表現する。
人間以下の存在は自然環境と自分を同じであることの生命本能に従っている。
そして、人間だけが自然への反感を境界とした共同体の知性に従っている。
加えて、人間だけが“ずっと同じ”を願うことで「死」という自然を恐れている。
なぜなら人間の魂は自分の「死」を“殺される”と印象しているからだ。
それが地球紀の人類の魂を縛っている根本概念だ。
たとえ自然死であったとしても「死」はやってくるものであり、あくまで自分の意志で「死」を選んではいないと信じている。
仮に自殺であったとしてもそれは周囲への希望と未来の喪失による諦観と絶望が必ずあるわけで、「死」とは肉体の制約(社会の業)によってもたらされるものである認識から“生命を奪われる=自然に殺される”のロジックが私たち人間の魂は生命の意味を読み上げているのである。
実際にその通りだ。
私たち魂の通路である神経は生命(自然)に締め上げられることによって眠る。
例えば私たちの脳のシナプスは赤血球の活動によって意識を奪われている。
それは夜毎行われていることなのだが、その時初めて私たちの肉体の意志は“生きている”と呼べる記憶の再生と安らぎという人生の中で最も穏やかな状態を自空間で過ごせている。
一方で日中の意識覚醒状態とは血液の循環の動きだけを知覚する神経活動のことだ。
私たちの神経は人体の内部を痛みと熱でしか知覚することができない。
逆に言うと熱と痛みというエネルギーの在り様だけを知覚している。
これは何を意味しているのかというと、私たちは目には見えない熱や痛みといった力だけを自分の内部で知覚していて、そのことは決して神経が身体の運動を司っているのではないこと示している。
不随意筋のことを指しているのではない、随意筋を含めてのことを言っている。
一般には運動神経と呼ばれる神経の筋や腱が人体の隅々までを貫いていて、それらを知覚し反射するのと同時に自らの意思で自分の身体を思った通りに動かしていると思っているが違う。
私たちが神経を通じて知覚している現象は自らの動きを知覚しているだけで、人体の動きはその知覚よりも先に予めその方針を有していて、それをあたかも自分で行っているかのように錯覚している。
その事実については『受動意識仮説』という著書が詳しい。
『受動意識仮説』は慶應大学工学部機械工学科の教授で、システムデザインマネジメント研究科の委員長等を務める傍ら、生理学者のベンジャミン・リベット博士の『マインドタイム』にある“運動準備電位”という人間の自由意志よりも先に自発的運動を示す脳波から、人間の意識とは無意識がベースで意識は無意識が行っている現実活動を観察し、新しい出来事に意味をつけているだけの存在であるとしたことをオシロスコープを用いた実験で証明し、1970年代以来反証に耐えている仮説を基にした論文であり著書だ。
誰が実験しても意識よりも先に生じる“運動準備電位”が観測される。
要は人間の意識による“自由意志は存在しない”ことを証明し続けているのだ。
ただリベット博士は人間の自由意志の存在を“拒否”という行為において“脳波に従わない=動作しない”ことの判断と意志決定の中に存在していることを同じ実験を通じて反証的な示唆をしているが、残念ながら私たちが思うような人間の自由意志は存在しない。
例えば、条件反射や脊髄反射だけでなく車の運転やスポーツ、何気ない歩行や所作の慣れた動き等の日常の暮らしのほとんどが無意識なのはなんとなくだが振り返れることができるだろう。
全ての行動を意識的に行った記憶が無いことの意味を考えてほしい。
また、突如崖っぷちの転落間際の道を歩いたり、車で運転しなければならなくなったり、あるいは“失敗したら終わりだ”などという重圧に慣れない中で何かをしろと命令されたりしたら、どうパフォーマンスが低下するかの想像は容易なはずだ。
なんでもなかったはずの作業が意識が失敗を想像した途端に下手になる、といった経験は誰にでもあるはずで私たちの意識は無意識に解決できない際に注意資源を投じて出現し、その結果の決定的な意味づけに加担することで新たな無意識として後の全体像としての持続的な「私」という演算領域に組み込まれていく、という旨を『受動意識仮説』では脳の働きを通じて述べているわけだが、残念ながらそれさえも違うのだ。
なぜなら意識して行動することもしないことも無意識の選択だからだ。
動作だけでなく無意識が上げるその思い(観念)さえも「私」ではないのだ。




