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楽しいこと以外全部ウソの叙事詩   作者: ばんだな
第2章 時空間をデザインしている肉体のために
22/64

#22 宇宙の音楽(子音)と宇宙の歌(母音)の中にいる人間(思考)

#22


「この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈するものなのだ。そういうものだ。僕の人生には退屈する余裕はあっても、飽きているような余裕はない」


例えばコーヒーは退屈だが飽きない。

なぜなら、コーヒーとは基本的にありきたりで過激さもなければ、刺激もない世界中の人がよく知る嗜好品であることから決して特別とは言えないことから、退屈か退屈でないかのどちらかとするならば退屈側にいる。

だがしかし、コーヒーには無限にバリエーションが存在し、そのどれもが個性的であり、砂糖やミルクといったアレンジが個人の好みに合わせられ、嗜むことが可能であることから毎朝でも毎晩でも飽きることなくその人の一部として決して飽きられることはない。

一方で、某メジャー店舗で扱われているフラペチーノは退屈ではない。

なぜなら、それは完成されたデザートだからだ。

様々なテイストでフラペチーノはフラペチーノであることが可能なのだが、その完成された一つのフラペチーノはそれ以外のそれ以上にもそれ以下になることもできない完結してしまったメニューであることから、ある期間ごとにフラペチーノは色を変えて違うフラペチーノとなることで退屈ではない特別なメニューとして企画演出されなければならない。

その努力の本質はフラペチーノそのものが飽きられることにあるからだ。

私たちはデザートだけではやっていけないのと同じだ。

デザートとは“あってもなくてもどちらでも良い”という意味で「退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なもの」の淘汰の前に絶え間のない努力が必要なのだ。

就中なかんずく、現代の人間社会の飽和はデザートでできているということだ。


『海辺のカ◯カ』という小説の中にそんな一文があったことを思い出していた。


コーヒーとは人間の生活に普遍的に必要な営みのことだ。

フラペチーノとは人間の生活に彩りを提供する流行のようなものにあたる。

小説に登場する「僕」はそのことを「人生には退屈する余裕はあっても、飽きているような余裕はない」としている言語表現に、当時の若い私は震えたのだ。

この人は人間の作り出す物への“飽和”についてを語っていることに震えたのだ。

以来私はこの人の本を読み漁る。

その作品の多くはニヒルな視点をもって退廃した世界を描くことに徹していた。

子供は大人に飽きて退屈し、若者は希望を諦めながらも現実に縋りつき、老人は贖罪を抱きながらも世の諸行無常に嘆くことはせずに人間の才能を食い潰す社会を是とする亡霊のような世界の背景を語るのだ。

彼の文体は欧米文学とその由来をリスペクトする文化資源を駆使し、音楽や書物や建築等の歴史的起源とその概念への造詣の深さによる知的マウントと多彩なメタファーで、文字が色のついた物語となってコーヒーのような嗜好とフラペチーノのような至高の飽和社会を穏やかに、そして美しく闇に溶かすようにして考察せざるを得ない仕方で物語に幕を下ろしていく。


その物語は太陽で照らされている私たちの地上描写の構成そのものなのだ。


私たちが世界と呼ぶ宇宙は“太陽”がその芸術創作として表現しているもの。

彼による『海辺の◯フカ』他の作品は思いつきに近い“感じ”で書かれている。

途方もない知性を評価されてはいるが実際は天然で書かれているから、おそらく当の本人は産みの苦しみという苦しみはなく、ただ頭に浮かんでくる色や形や言語、それが彼にとっては文体なのだ。

やや超越的にだが・・・

これは私たちが普段話す言語も同じだ。

よく考えているようで、その言葉、その行動、所作には無意識に自分の信じている世界のルールと仕様という常識のバイアスがかなりの割合で働いている。

私たちはこの世界を独自の枠組みでメタ的に俯瞰的にそれぞれの立場で認識する。

その視点は鳥というよりむしろ“太陽(生命)”による現象なのだと私は言える。

その意味で私たちの世界とは太陽庇護の下でのある種の芸術空間とも言えるのだ。

その芸術空間を書き出している作業のことを生命や記憶として映画の投光器のように表現しているのが“太陽”であり、私たちはその太陽を個々に有しているという意味で神々の分神なのだ。

世に出ている作家をはじめとした芸術家とはその代弁者のような存在なのだ。

凡夫もまた“凡夫とは”の代弁者なのである。

私たちのありとあらゆる所作は太陽である心臓に許されている。

作家も凡人も分け隔てなく太陽による過去の魂からの投映である。

そして太陽が私たちの個性を表象の思考であったことを忘れさせている。


そんな表象世界の一端が音であることの旨を少しだけ明かそう。


“太陽”とは私たちが直観インスピレーションと呼んでいる現象のヴェールだ。

私たちはそのヴェールのことを「光」と呼んでいる。

その「光」もまた音である言語と同様に波であり振動とされている。

私たちの地球の現在はその過程の末端にあることを人体の心肺機能の核である肺からの空気の循環等の生命現象から知ることができる。

例えば言語だ。

言語とは肺からの吐息を喉で震わせて口頭で母音と子音との組み合わせでなる。

その言葉は“太陽”からの意志そのものなのだ。

その意志は母音に現れている。

母音とは人体の口腔内から発した音のみの声のことだ。

人類の有史以前の言語は純粋なる声である「歌」だった。

かつてのその「歌」は現代の人間の人体とは違った構造を楽器として、有機体全体の意志を伝える役割を持って、母音という宇宙(霊界)に響き渡る音をそのまま吐き出すようなことをしていて、それが大気中の血液を回す原動力としてハウリングが目に見える波のように「歌」で漂っていた。

それが言語の原型として空間のインテリジェンスとして存在していたのだ。

その太古の現象は月の影響等も相まって、内が外となり、外が内になるという認識の天変地異である精神的相転移が私たちの魂に生じ、その顛末の果てに現在では主に人間の赤ちゃんや幼児、動物の発する鳴き声等に反映されるに留まっている。

変な話、人間の呻き声なども母音を基調としていることから肉体の悲鳴を魂が霊的に開示されたものとして発した歌であり言語の原型としての名残だということだ。

言語は元々は歌であり、母音の波であり、その波は大気(空間)と熱(時間)の反映である肺と心臓のリズムである呼吸組織で生きていたものがやがて人体を彫塑的(周囲からしっかり区切ること)に形成化していく過程で生じた神経組織による子音によって「歌」は「詩(言語)」へと分かれて認識されるようになる。

その再創造を人体組織の全体である有機体的な枠組みを有した楽器で奏でた時に言語という発明が人間の魂の中で共有されるようになった。

この再創造というのは生まれ変わりをイメージする際に用いられた表象のことだ。

そのシーンではまだ生まれる以前であることから、人間は肉体を介さない言語である歌を参照することで自らの運命を構造化し、その運命の歌詞である母音の響きを人体形態に委ねることによって子音を獲得していく。


それがバベルの塔の伝説の由来です。


つまり、聖書の伝説的な側面の多くは地上以前の神々の表象の語りなのです。

私たちの扱っている言語の由来は母音による歌から子音による歌詞へと変化することで、母音に含まれていた表象的な思考の洞察を失いました。

私たちは母音で歌うことをやめました。

私たちは子音から表象を取り出すことを選び、形と運動を形態化させます。

その形態状態である身体で母音を取り出す際に歌を発生させている。

歌とは私たちが生まれる前の体験を思い出すための手段ということだ。

それらは母音による歌を通じて全て惑星間の領域において行われいる。

母音そのものが霊界での魂だからです。

私たちの本質である霊魂とは母音なのです。

私たちは夜毎にこの母音の世界へと舞い戻り、その音色を身体とした結びつきを色として、地上で取り出してきた子音の時系列を彫塑的(枠組み=境界)に形成させるための活動を各霊的階層を巡ることで毎朝の形態を発生させています。

そして、子音が歌を歌ではないメッセージである言語としたのが“太陽”です。

一般的には地球圏の太陽は恒星の一種とされていますが、実際は別物です。

人間とサルくらいには違うと考えてください。

その上で子音を運んでいるのは太陽の背後に位置している恒星群です。

人間の心臓が個別に太陽と結びついているのと同様に、無限にも等しい恒星もまた個別に地球圏の太陽と結びつき、それを最も顕著に象徴しているのが植物です。

植物は根において地球と宇宙の揺り籠の同一性をシンボルとした顕在です。

一つの植物は根と土の鉱石を介して宇宙と通話している。

人間が会話やサイバーネット等で全ての人間とコミュニケーションが可能なように、植物も植物という物質体をサーバーとした一つの関係で結ばれています。


また、植物だけではなく全てが一つです。


生命という思考を通じて地球と宇宙を一つのものとして繋がっています。

その通話を介しているのが四大元素霊と呼ばれる精霊や妖精、怪異の類なのです。

元素は彼らの影です。

元素の本質は生命エーテル界を由来とすることでその触媒を植物としています。

彼らが植物を地上へと押し出すことで、地上の大気となることで風や水、火や土の物質要素のサイクルが宇宙の意志として形態化して出現している。

その恒星群のことを黄道一二星座、または獣帯と呼んでいる。

つまり銀河全体のことです。

その領域こそが魂の衝動の故郷であり、子音はこの星座の世界から飛来している。

子音が母音の表象した自我の創造した運命に形態の彫塑を逸脱的に付与し提供することによって、私たち人間の魂は地球の各時代の特定の個人として受肉しているのです。

一方で動物の自我はこの獣帯に留まり地上には受肉していない。

動物の種族ごとの魂の音源を本能とした母音のみを地上に響かせることで人間の霊魂の受肉活動を助けている。

また植物の魂もまた星座に存在しているがその自我は銀河のさらに果ての高次元に位置し、その母音は魂の領域だけに預けることで根を張り、茎を伸ばし、葉をつけ、花実を咲かせる生命の本能にのみ響かせ、地上の動物体とその魂の色付け(本能的思考エーテルの提供)に参画している。

最後に鉱物の自我は宇宙そのものの像を形態化させている子音そのものだ。

その子音が宇宙という像であり、宇宙という像が子音なのです。

音は魂の身体になることから物質とは鉱物の魂にあたります。

宇宙そのものが鉱物の音色である子音であることがわかると、獣帯という銀河全体から奏でられている子音の根源が宇宙という彫塑を形態作っているのが鉱物の自我であることがわかるのです。

鉱物の自我にはその背後に存在している上級天位階の神霊が関与しています。

彼らは私たち人間の地球と物質体の構造にも関与しています。

そんな関係の中で私たちの人間の自我は宇宙という鉱物世界の音色の中を魂の視点でその“語られ(音であり思考)”である宇宙の運命の過程を自らの人生であるとしているのです。


私たち人間自我は宇宙の音楽(子音)と宇宙の歌(母音)の中にいる。

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