#21 ある日のそのまたある日の事実がもたらした暇と余計なことの顛末
#21
大きなガラスに雨がつたう水滴を眺めているあるゴッツイ喫茶店でのことだ。
完全木造で大きな丸太をふんだんに使用したゲレンデのロッジのような建造物はグリズリーとかがいそうなアメリカのロッキー山脈を思わせる大自然の麓をロケーションにその喫茶店は佇んでいる。
それはもはや喫茶店ではなく山小屋だろ!とも言いたくもなるが、こんな世間離れした立地にも関わらずちゃんと登山での休憩や避難以外の目的で利用する人の流れがある以上、ここは単なる山小屋ではないと無理矢理にでも成立させている理由があって人々は集まってくる。
私もその流れに関わっている人間の一人だ。
ていうか、流れを作っているのが私だ。
私はここで暇な時間を持て余す毎日を繰り返している。
それでいて余計なことはしない。
暇なのに余計なことはしない。
余計なことはしないのに暇なのだ。
余計なこととは、繰り返し以外のことだ。
もちろん毎日そっくりそのまま同じことの繰り返しにこだわるのではなく、同じ時間に起きて、同じ場所に赴き、昨日の続きや明日必要なことをして、だいたい同じくらいの時間に眠るといった具合に左右にだけ揺れるメトロノームのように坦々とただ時間と空間の中での移動を繰り返す。
それは注意資源のマネジメントためだ。
私たちは一瞬ごとに思考を緩めない。
私たちの思考はオートマチックでどんなことにでも注意が行き渡り、ほんの少しの変化にでも思考は刺激を求めたがる傾向があり、より必要で必須で知りたい対象に思考のリソースを割いた後に疲れたり、眠くなったりして何かに集中するための思考が有限であるのかもしれないことを経験しているはずなのだが、毎朝目が覚めるたびに自分の思考が有限であることを忘れて、再びどことも知れない日常の些事に注意資源を割きながら思考を消耗していく。
その注意資源のあり方の変化とその性格のことを成長と呼んだりもする。
私はその思考の消耗を最小限にするための仕事と生活に満足している。
最小限というのは、自分の目的への推進力とそのクオリティ向上のために注意資源を活用することで、より大きな判断と決断に朝目が覚めたばかりのような新鮮な思考を働かせるためだ。
ジョブスやマークザッカーバーグやオバマ大統領のようにな。
だから私はゴッツイ喫茶店の様々なメニューの中から選ぶことをしない。
ホットコーヒー一択だ。
だから私は外出のための服を選ばないから買う必要もない。
私が着る物は身だしなみを問われないオーダースーツにしか手を伸ばさない。
だから私は朝はパン、昼はカレー、夜は和食みたいにだいたい決めている。
洗濯、掃除、ゴミ捨ては週に一回だし、布団は干さない。
だから人間関係などというのは以ての外だ。
基本仕事以外の人間とは関わらない。
人間及び自分にも他者にも興味がないと言えば興味がないのだが、私は私の注意から無縁ではいられないことから、興味の有無とは無関係にそれ相応の自分と人々と関わらざるを得ない、というのが私の立場なのだ。
つまり、現在は仕方なく人間をやっているという属性が濃厚と言っていい。
よって、少なくとも私から自分以外の誰かに何かを“要求”することはしない。
なぜなら“要求”とは人間の欲望における最も次元の低い行いだからだ。
“要求”とは他者に自分を押し付ける行為。
その“要求”が通るか通らないかは置いておいてそれはつまり、他者の自分状態に割り込むこと行為と言動による働きかけそのものが自分を目指す人間の方向性を阻害している干渉に他ならない。
要求の原点は家族への願望にあることから、人間の社会そのものが要求の歴史に左右されながらあるべきメンタリティの妨害の嵐の中でしか人間は前に進むことができないようになっている。
自分が誰かの“要求”に従うというのは自分を誰かに委ねるという意味だからだ。
現次元の人間の魂が表象(投映)している社会の根源構造のことなのだが、魂が生命に干渉していることへの選択の仕様でもあるゆえに、お願いをすることはあっても“要求”はしない、という境地は容易ではない。
またお願いと要求の違いは動機でもあると同時に霊的振る舞いの分岐でもある。
お願いの場合は目的を共有し、その道への賛同がある対等関係が前提にある。
まぁ、対等というのは現実社会においては幻想なのだが、その幻想(対等のこと)こそが自分を自分と言わしめている関係性の因果の真理であることから、他者へのお願いの配慮は必ず宇宙を通じて完全なる等価交換として真の現実である死後に返ってくる。
一方で要求の場合は利権による上下関係の責任の綱引きが前提としてある。
その意味で後者の対象へのリスペクトを欠いた動機が生じているケースでは著しい不敬な行為へと発展していることに無自覚なことが多く、受け取り側への配慮を内情はどうあれ要求に基づいて排除しても構わない、などという作用の中に全ての悪が濃縮されていることを私たち人間を人間たらしめている神経回路は学ばなければならない。
なぜなら、私たちと世界の関係は神経回路のみの認識では成立していないからだ。
その心は私たちの神経が自分の身体の挙動にほとんど干渉することができない、にある。
私たち人間の魂(神経)は肉体の内側を痛みと熱以外の知覚を知らない。
私たちが感覚と呼んでいる知覚とは、もっぱら身体外部の皮膚表面における境界での神経作用のみのことを指していて、その解釈と認識を土台とした洞察が外部(神経認識)にばかり向くことによって“要求”が生まれている、という意味で私たちは自らに予め備えられている本質的な認識を損ねている謙虚なインテリジェンスが魂の化身である神経には課せられている。
これは私たちは人間の魂を知覚することができないわけだが、私たち人間の人体は肉体を通じて生命に干渉している魂の在り方を知覚するための萌芽がすでに備えられている、という意味だ。
私はその感覚の開発と拡張のための仕事というか使命に従事している。
私はこのゴツい喫茶店というかロッジのような重厚な建造物である『ミストルト』でその手の人間精神の開発を事業とする起業家をしている。
他にも運動感覚を楽しみながら養うためのスポーツクラブの経営や私の思想や精神洞察のテクニックというか真髄のようなものを提供する講座をSNSの動画で行ったり、実際の街中のフロアを使って講演形式で霊的な見解を通じた時事考察等の私見を述べるようなイベントを行うことを事業として運営している。
喫茶『ミストルト』はその中でも特別な事業拠点として個人的に気に入っている。
その意味では山小屋でもなければ喫茶店でもないのかも知れない。
なぜなら、私がこの静謐な空間で営んでいることは人間の未来を占う実験場としての役割を実際に行うことで、その成果と効果の価値に理解をいただけている人のみが利用できる、いわばネット上ではなくリアルなサロン、言い方によってはちょっとした秘密結社のコミュニティ的な場となっているのが喫茶『ミストルト』の現状だ。
それゆえに都市伝説やオカルト、神秘現象に関わる著名人との交流もある。
動画制作のためのコラボや私の持つ特殊な情報共有に個人的な相談までも応じる窓口を割とオープンに展開していることからその反響や盛況はそれなりに好評で、私は私なりの役割を果たせているという自らの使命への自負が私の今の生活を満たしてくれている。
ある日やある日、そのまたある日に超常的的な出来事を度重ねているうちにいくつかの扉が時にゆっくりと、ある時には突然蹴り破られるが如く音を立てて決壊するかのような勢いで、私の考える既存の常識を覆すに値する真理というか叡智というか事実としてそれは私の新たな認識としてやってきたことがあった。
私は私の世界の始まりと終わりを自分の体を動かすのと同じ感覚で理解した。
その理解は、世界が毎日一瞬ごとにゆるりと始まりと終わりを繰り返す原因の連続の認識であって、その原因が毎日一晩ごとに私たちの認識の届かない世界にとっての結果として持ち返られている。
その夜の出来事が結果であり成果となっていつもと変わらない朝が現れている。
その結果と成果とは魂の表象の進行の過程で抱いた空間への「思考」にあたる。
これは私たち昼の魂の「思考」は夜の生命体の『思考』によって練られている。
つまり、私たち人間の「思考」には二つの流れが存在するということだ。
その事実は私に暇と余計なことへの理解をもたらした。




