#2 自分以外の人格が存在している
#2
何のために生きているのかもわからない。
ただ死んでいないだけ・・・
だから何が正しいのかもわからない。
何かを壊してしまう、自分が壊れてしまうのが恐ろしいだけ・・・
せめて愛することだけはと懸命になる。
愛が何かもわからないからただの性欲と生存責任を愛だと思い込む。
だから大切な人だけでも慈しもうとするがなぜ大切なのかはわからない。
ただ時間の経過を憂いているだけなのに・・・
まとめると人間はただ生きていたいし、ただ生きていてほしいだけなのだ。
いろいろとわからないことは多い。
あまりに多い。
しかし、ただ生きていたい。
そう願うことだけは絶対的に正しいと信じているのだろう。
たとえどんなに醜く、残酷で、品がなくとも自分と周囲の生への願いだけは正しい。
その願いが何のためなのかを考えた時、その合理性は相互に担保される。
自分が悲しい思いをしたくないことと大切な人が苦しい思いをしてほしくないからの願いが自分と他者の双方それぞれに存在することによって生なる願いの正しさは保たれる。
それによって、どのように生きるべきか、までが願いのセオリーにはある。
どのように生きることが私たち人間であり、生命にとって正解なのか、どのように死ぬことが美しく素晴らしいのかがわからないはずなのに、人間世界の有り様は歴史的にも家族的にも空間的にもどこもかしこも願いのセオリーに基づいた毅然とした正しさに満ちている。
はっきり言って狂気だ。
戦死、病死、事故死、災害死、自殺、寿命など、どれもカルマ的な因果が存在しているのだが、その因果を知る術は常に自身の内側だけにではなく、自然空間にも概念として示唆的に絶えず顕現しているにも関わらず、多くの人はその詳細についてを知ろうともしない。
まず多くの人はその術があるという発想に至らない。
たとえオカルトを耳にしてもそんなものは非現実で知ったことではないのだ。
今生きていることが全てである以外に何があるというのか、というバイアスに支配されているあまり、在る対象を在るべき姿として見ようとしていないことによって、個別に空間の認識を歪めている事実に関心がない。
いわゆる盲点となって空間は無意識に沈められた概念で形象化している。
テーブルのど真ん中にある予約席の立て札を無視して自分以外の誰かが予約したその席で歓談を続けるようなものだ。
そのことを無視した代償があるのかどうかなどは度外視して、死んだ時は死んだ時に考えれば良いとでも考えている多くの人間が想定する死への感慨は集団的に共有されることで、「わからないことはわからないのだから言及するべきではない」というウィトゲンシュタインばりの強固な哲学が人類の普遍的な真理として刻印されている。
他者の死によってその事実は明らかゆえに覚悟するように、ということだ。
ただその刻印には、次の瞬間には命を落とすかもしれないことだけは知っていることから、その時のそれまで生きてきた時間の価値のその本質であり続けた死の意味は依然不明であるが、深くは考えないまでも必要以上には恐れないまでが含まれている。
そうやってみんな天然でこの世を去っていくわけだが、なぜ自分という概念が存在していて、なぜ世界は自分の存在の生存を許すような構造があるのか、その構造がなぜ宇宙空間の体を成していて、なぜ太陽系の中で地球だけが絶妙に奇跡的な座標を獲得することができ、惑星の中で唯一生態系を形成できる環境を有した天体であり得ているのかの肝心なところどころか存在についての詳細は科学も哲学も宗教も手も足も出ないレベルで根本的なことがわかっていないこともきっと、私たち人間の願いのセオリーである「ただ生きていたい、生きていてほしい」の前では大切なことには含まれていない。
ウィトゲンシュタインの刻印を後ろ盾とした欲望という名の電車の方向に突き進む生存戦略が何にも勝る快楽となってその日の延長線上である連続的幸福感にその身を委ねる。
その結果、天地が地獄に呑まれようとも自尊心は一向に構わない。
私もその中の1人だった。
ただ、物心のつく幼い頃から「みんな死んだ後のことを知ってたらどうなるんだろ?たぶん死が怖く無くなって、全然違う世界になるんじゃないかな」とは思っていた。
でもそんな幼い哲学とは関係なく私の若かりし日々の運命は度し難いほどに無知で無謀で無頼な世間知らずを絵に描いたようなカオスの権化としての無力感に打ちのめされ続けた。
我が家の家訓は、一芸に秀でる者は百芸に通うずる、というものだった。
いわゆるプロフェッショナルな道に憧れる夢多き自尊心のあまり、公務員が何であるのかも知らず、サラリーマンの給料が学校の成績のような感じで決まり、この世界の報酬は純粋に個人のスキルと実力に比例しているもの、つまり何のプロフェッショナルなのかを競うゲームのような世界観で社会はできているものだと思い込んでいた。
私はその世界観の中で平均よりもずっとだいぶかなり下で深刻な底辺だった。
学校内の成績や部活での実績の縮図が社会に反映されて、様々な分野の各ジャンルに突出した才能集団がいることを考慮すると学生底辺からそのまま社会底辺への移行という一層深刻さを増した底辺ぶりが窺えるのではないかと思う。
20歳を過ぎても何かのプロフェッショナルを追いかけようとする自尊心を持つ私が消えることはなぜかなく、就職もせずに、バイクで配達物を配送するバイトをしては海外を旅行し、冬になったらスノーボードのインストラクターで稼いではまた海外に赴く、といった後先考えずにただひたすらに自分が良いと思うがままに人との関係を彷徨い渡り歩く傍若無人の流浪人暮らしをアイデンティティとしていた。
転機は私の肉体に別人格が出現した時のことだった。
ある時ボードで遊んでいる際に、後頭部を強打して私ではない何者かの人格が私の身体に現れ、好き勝手な言動で周囲を騒がせたことがあった。
受身なしの不意の衝撃が何によるものだったのかわからないくらいに急だった。
それでも気を失うことはなく、激しい痛みに耐えならがらどうにかこうにかゲレンデのリフト乗り場にまで辿り着いた私は、ようやく安静にできる、と再びリフトに乗りながら安堵していると、何となくぼーっとし始めたところから抗えない眠気と脱力感を受け取ったのを最後に私の意識と記憶はそこで途切れた。
そして、再び気がついた時には一緒に遊んでいた仲間たちが私を囲んでざわざわしていた。
どうやら私の意識と記憶が失われるのと入れ替わりで、明らかに私ではない何者かが勝手に私の肉体を通じて、話し、動いて、遊んでいたというのだ。
周りにいた仲間たちもはじめのうちは面白がっていたようだが、元の私と違いすぎる振る舞いに違和感を覚え、やがて大人しくなった頃に「ここはどこ?あなたは誰?お前なんでここにいるの?」などとという同じセリフを何度も何度も何度も繰り返しに繰り返す壊れたテープレコーダーのような私の様子がちょっとしたホラーのような印象を与えることによって、周囲も本気で心配し始めた頃に別人格の私は電源の切れたロボットのように動かなくなると同時に横になった状態でみんなの知る私が戻ってきた、とのことだった。
どこから戻ってきたのかは当時の私にはわからないし、知るよしもなかった。
けれど、今の私にならわかる。
私は私の肉体にはいなかったのだ。
意識がない、記憶がない、時系列に空白ができた等のその言質がもしもウソ偽りでないとするならば、その言葉は文字通り肉体を通じた情報を得ることができていないことを意味している。
その典型例が眠りだ。
またもっと大きな枠組みで明かすなら前世の生死の記憶、あるいは生前の記憶を持たないこともまた、私という自我が肉体を経験していなかったことを意味している。
自分という主体が何であるかの解釈にもよるが、動物にはなくて人間にはある物事の分別と識別を知性とする権能は自我によるものであって、「私」を中心として対象との区別をデフォルトとする意識の最奥こそが私たち人間の本性であって、その本性は夜な夜な肉体を離れ、朝になると足元からゆっくりと肉体の脳へと戻ってくる。
その“戻ってくる感じ”だけを私は覚えていた。
真っ暗だったその向こうから何やら騒がしくしている声がまるで自分のことを呼んでいるかのように聞こえた時、無数のぼやけたプリズム状の六角形が光を集めるようにして視界となっていく経過を“戻ってきた”と感じながら、目に映る風景が雪と緑と人集りに囲まれた通常運転のクリアな焦点へと自動的に私は戻されていった。
着なれた衣服のようにフィットする肉体の感じに微妙なラグを思ったことから自分が気を失っていたことを自覚できた。
特に痛みも後遺症もなく「まったく何だったんだよ」くらいに軽く受け止めているふりをしながら自分に起こっていたことのあらましを周りの人間から聞いていたことを整理するとこういうことだった。
雪を初めて見るような子供みたいな性格だった。
何を言っているのかわからないけど大はしゃぎしていた。
時間にしたら5分くらいそいつは出現し続けていた。
上手いこと勝手にリフトを降りて、勝手にゲレンデを下っていった。