#17 「あえて言おう、カスであると」という射手までの叙事詩
#17
射手とは宇宙そのもののことだ。
異論は認めない。
宇宙そのものというのは宇宙全体のことであることから、射手とは宇宙のどこそこの何々といった具合の局所的なものではないことをまず知る必要がある。
宇宙のどこの何かが人間の射手として地球のあの母親を弓にして宇宙のあそこから矢としての子供を放ったとかではなく、宇宙全体が射手なのだ。
射手が宇宙全体であることの異論を認めるとするならば、宇宙と根源叡智なる存在を結びつけることのできる精度の高い真理に精通した霊的な融合経験のある特異な思考体系のみであり、その一元的な思考のみが射手とは宇宙そのものであるとした概念以外で説明することを許される。
ただし、宇宙についてを現代の一般の人間に通用する言語と概念で表現することのできないメッセージはあまり人類にとって有効であるとは言えない。
真に隣人についてを想うのであれば叡智に基づいた自己を地上概念にまで落とし込むことで、人間真理の本質に像の側面から寄り添う努力をする必要がある。
だから私たちは空を見上げることで満天の星空の広がる空間の意味と地球環境との関係を人間であるという立場からそれぞれの自我で疑いを看破するに値する信頼できる自分自身を確信しなければならない。
わかりやすくいえば、肉体という偏見についての度合いのことだ。
肉体の対義語である霊魂についての具体的な思考をどれだけ運用できているか?
それが人間の魂に自我が明晰に搭載されている最初にして最大の命題とも言える。
よって物事の思考は全体から行わなければ意味がない。
全体とはどれくらいのことなのかの記述も必要だろう。
まず、人間及びその他全ての対象のことを知るために細かく刻んで細胞単位及び単一構造から見ることにはほとんど意味がない。
何事も切り離して観察したものを事実としてはならない。
人間はもちろん、他の生物も無機物を構造化している元素さえもだ。
なぜなら全ての対象は結びついていることから関係性の中から人間の認識において発生している現象を考察することで初めて、“今その瞬間”が常に次の瞬間のためを考察するための原因であることがわかるはずなのに、物事を切り離すことで今その瞬間からの関係性からも切り離した見解によって、“原因であるはずの物事を結果及びその連続である”と誤謬を生じさせてしまうからだ。
過去とはまず今その瞬間が原因であることを知るために存在している。
また未来とは今その瞬間の原因によって生じる死の先にのみ存在している。
私たちの肉体に宿る魂と生命の運命はつまるところ如何にして死ぬかによって始まるのかを知らなければならず、そのための根本的な一歩として宇宙そのものとは何かの全体性の理解にまで自我と融合している私たち人間による魂の理性は及ぶ必要がある。
誕生から死の瞬間までが全て学びであるとするならば、その全てが原因であるということがわかるだろうし、学びがあろうとなかろうと全ての運命を結果とするならば、現実成果を伴わなかった学びと生産性のない晩年の人間的な価値がどんな原因となるのかを想像して見てほしい。
今その瞬間が絶えず学びの原因となっていることを微塵も考えることのできない老人たちが世界中の社会で今その瞬間にどんな価値を見出して、人間的な暮らしと自分自身をどのように理解し表現しているのかを想像するといい、ということだ。
もちろんその想像は様々あっていい。
人間は良くも悪くも自由なんだ。
人間の社会が人間の老後にどんな教養的な顛末を提供しているのかも、まだ老人には達していない人間たちにとっての“考える自由への原因”なのだ。
その自由に何を見出し、どんな学びとするか、あるいはしてきたのかにあえて結果があるとするならば、それは肉体の死後のみなのである。
少し難しいスケールの話をしようとしているのはわかっている。
ノミが人間がなんたるかを想像するのが難しいように、地上の人間が宇宙全体を俯瞰することがどれだけ困難であるかは、目の前の見えるものだけを信じている存在にとってはあってないような関心事に等しいことから、宇宙の星空のことはともかく宇宙全体が何であるかの想像は容易ではないだろう。
モブ人間には高嶺の花が考えていることがわからないのと同じだ。
天才には凡才への理解が及ばないのにも似ているかもしれない。
ただ人間と宇宙の尺度におけるスケールはみな平等だ。
あなたという人間が一人しかいないように宇宙も一つという意味だ。
この叡智の知見が大いなる思考に至るための原因となる。
その原因はまず地上の人類とは生きるゾンビであることを知ることから始まる。
誤解しないでほしい。
ゾンビなのだ、と筆記しているのは確かに私だ。
だが信じてほしい。
これらのほとんどが私の恣意ではない。
部分的に恣意的なことを述べてはいるがその一面は私の感想であったりリアクションであったりの文学にも似た人間的に限った表現のみであり、その論理のほとんどは私の意図によるものではなく、ファントムを使役し創造した大元の存在の分枝である守護霊と堕天使とを融合させている霊人のシナリオが指示していることに、私は従わされていることを“自覚しない”生きたゾンビ、である私たちが自分だと信じて疑っていない肉体の私の所業なのだ。
そう言わざるを得ない。
よって色々と勝手に伝えてくるし、伝わっていることからわかることは多い。
けど多くのことの詳細まではわからない。
私だって今の自分に何が起こっているのかの詳細は知らされていない。
詳細へのエクスキューズはできない。
できないけれど、その旨の多くは勝手に手足を動かしてペンを取り、ノートを開き、オートマチックに丁寧に私とは違う筆跡と文体で文字を少し変わった熟語等で綴られてくるその記述を私の私は目で細めながら観察していて、その視野からわかることの一端を今こうして記述しているのだ。
つまり「こ、これが自動書記というやつか」とずっと震えている私がいる。
自動書記を指示している私の中身がいる。
その中身たちの活動の今を眺め観察しているメタ的な私がいる、という構図だ。
よって、この記述で大事なのはそれを一番上から眺めているメタ私だ。
さらにわかりにくく説明しよう。
一般の私たちが目を開ければ空間の風景をただ飛び込んでくる出来事の移動を時空間として疑いなく認識しているように、今の私はファントムの目とファントムの心が融合した思考と認識による操作が行う筆記を私は私の思考でメタ的に追っている。
また同時に明確に肉体を客体的に観察している私の思考の土台は肉体に代わる別のユニットに担われているのを自覚している。
しかし、メタな私を投影し反射を促す対象が今の所確認できていないことから、肉体以外の何かとして活動している自分の像を知ることはできない。
さらに、ここが説明の難しいところではあるのだが、肉体の私の恣意や意識や感覚は生きたゾンビである肉体と同期している部分にて夢遊病のように虚ろな肉体の状態と振る舞いに従ってただボーっとしているのを、メタ私の思考と自我は割と明確に明晰にただ観察している、ということになっている。
この人間的立場と感覚的現象は走馬灯に似ている。
走馬灯を見た時、私たちの思考は“あ、これが走馬灯かぁ”と思考することができる。
要は思考は変わらない。
一方で意識は思考の下の方でスローモーションになっている。
時空間内の肉体の危機的寸前の状態を迎えているようとしている意識のその感情の逸っている感じ等の進行上にいるのを思考は思考が認識する空間の下の方で見切れる程度に見ている。
では走馬灯時の思考は何を正面にしているのかというと、映画のフィルムネガのような過去映像が空間全体を覆うように渦巻いている様子の一つ一つを懐かしむように眺めることをしている。
私が昔にバイク事故を経験した際にはそんな感じだった。
空間の全面に広がる思い出スクリーンのリアルタイムはいつまで続くのかが気になって、肉体の自分を確認するとスローモーションながらも少しずつ事故対象に迫っていて、いよいよぶつかるぞ!、という直前に私の思考と意識は肉体のリアルタイム感覚に急激に戻されることで私の走馬灯体験は終了したが、今はそれに近いような現象が私の正面に展開されている。
近いと言っても、立場的には私が走馬灯という現象を肉体の私で思考している私に提供しているという、やや一般的とは言えない二重も三重も向こう側にいる複雑に融合統一している肉体の私のことを肉体の中身と思われる二人の意識を介して実感しているメタ的な私がいることからもわかってほしい。
だから“生きたゾンビである”と筆記している肉体は私でないのだ。
やっているのは肉の私と肉体との間に存在している連中なのだ。
走馬灯の領域で生命のフィルムを記憶のネガとして回すことで原作に忠実であろうとする守護霊のファントムとその生命のフィルムのシナリオが気に入らずに生命の光を太陽の光へと書き換えることで絶えず新たな宇宙を描こうと試みる脚本家として干渉している魂のファントムたちのことだ。
彼らはかつて肉の私が色彩の世界と解読不能な叙事詩と呼んでいた存在だった。
肉体だけが私であったと信じていた時のただただ脳視覚的に認識していた色と文字による精神現象には実態があったのだ。
おそらく初めて走馬灯を見た際にも彼らが周囲にいたのだとは思う。
しかし、その時はまだ一般的な物の表面しか理解できない普通の理性だったことから彼らを彼らとして視ることはできず、私の認識前提であった肉体の条件に倣った世界観のようなものが物質的な記憶像のシンボルであったフィルムが空間に展開され“これが走馬灯か・・・”として刻印されたのだろう。
それが今ではとても狭いお茶の間で二人してコタツに入ってフィルムを選びながら私の肉体の運命を如何様にするのかを嬉々として議論を交わしては夜な夜な小さなテレビモニターで上映会をしているかのような情景へとだいぶ簡素に擬人化されていた。
堕天使はまっ黒でロックな風貌で胡座してお茶を啜っている。
一方の守護霊は白ベースのカジュアルな私服で座してみかんを剥いている。
お茶の間は畳6上程度の箪笥と障子に囲まれた昭和臭丸出しの居間だ。
ある種の哀愁が漂っているためか二人の対極的な関係は、そのあまりに違いすぎる性質の違いほどには険悪には私には見えていなかった。
少なくとも私にはそう見える。
そう見えるという観察点である思考の下というか内側のようなニュアンスの所で以下の二人はモニターを通じて「あーでもない、こうでもない」等の何らかの話し合いの波動が高度な人体秩序とメタ私との結びつきを地球へと展開させている。
宇宙の存亡をかけたSF夫婦喧騒だ。
つまり『楽しいこと以外全部ウソの叙事詩』の是非のことである。
堕天使たちが『楽しいこと以外全部ウソの叙事詩』を誘惑的に推進することで退屈を吹き飛ばす自由を満喫したいし、守護霊たちはそれは夢幻であることの悟りの覚醒を促すことで穏やかさによる中和と浄化へと導きたいしで、朝晩と昼夜の中間であるトワイライトにてそれらの折り合いを人間の肉体を通じて行われている。
もっとわかりやすく言えば、この折り合いというか寄り合いによる協議が人間という現象の一つ一つの所作の恣意と欲求の生理として現れていると考えていい。
身も蓋もなくいえば、今は現在の人間という条件の背後で宇宙の観察が行われているだけで、この舞台裏とその上映の関係を遥か次元を超えた階層を貫いた先に起源を持つ宇宙開闢にまで遡ることができれば誰にでもわかる、この夫婦喧嘩の多様性こそが宇宙の縮図だということだ。
私たち人間と地球という地面と見上げる空という現象はこの喧騒による闘争という戦争であり、発想による転換と変換と相転移であり、あっちとこっちの作用反作用の反射の多様化が宇宙の創造と膨張を投影的に出現させてきたのだ。
もちろん物理、力学、化学的な作用反作用の法則等は背後関係からの反射だ。
物だけで押し合っているのではない。
物そのものが物ではない諸力による反対側から排出的に押し出されているのが宇宙であり、エネルギーであり、空間であり、物質であり、人間という時間的認識存在なのである。
この発生のことを人間の論理と信仰である科学ではビッグバンとしている。
またはインフレーション仮説による多世界宇宙の一つの始まりをビッグバンと呼び、私たちはその無限数存在すると仮定する宇宙の投影を光速以上の加速で膨張している宇宙に無限の広がりを見ている、ということとなっている。
だがしかし、人間科学はビッグバンの射手についての考察を禁忌としている。
ビッグバンの射手も人間が何であるかの射手も観測がない限りは学校の教科書に掲載してはならないのだ。
それらは今の所事実ではない以上ウソだから。
目には見えない幽霊の存在をちゃんと教えている学校や親なんていないのと同じで、よくわからないことを事実であると公に口にしてしまうと、嘘つきとして袋叩きにされ、炎上し、干され、やがて触れてはならない取るに足らない存在となる。
それはビッグバンですら同様だ。
ビッグバンもまた直接の観測は不可能だし、あくまでその痕跡と思われる赤方偏移のような物的及び知覚可能な可能性を仮説の根拠として有力であるだけで証明などはできるはずがないのだ。
ただ、今ある要素を考慮して、その根拠にある種の権威が「もう宇宙の始まりそれでいいでしょ、とりあえずは・・・」というノリと、「九割くらいは正しいはずだから問題ないでしょ?」の路線で宇宙への見解を世界中のアカデミーで共有されているに過ぎない。
権威とはそういうものだ。
正しいから存続しているのではなく、ただねじふせ勝ち残ったから権威なのだ。
「あえて言おう、カスであると」




