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楽しいこと以外全部ウソの叙事詩   作者: ばんだな
第1章 レジェンド オブ ヤハウェのために
14/64

#14 記憶とは宇宙の反感という影に過ぎない

#14


父は何かを堪えるような話し方で祖母の最期のことを伝えてくれた。

祖母は100歳を超えてずっと健康で自分の足で動くことができて、老人ホームの中でもかなり元気な側の手の掛からないおばあちゃんだったそうだ。

それが流行りの風邪にあてられて意識を失うとそのまま帰らぬ人となったみたいなことを普段と変わらない感じを隠しているのであろう感じで説明してくれた。

昭和の人間特有の背中だけを見せるプライドの片鱗を私はなんとなく思った。

父方の家族とは私が幼い頃からすでに疎遠だった。

父ともそこそこに距離を開けながらも仲が悪いわけではないという関係だ。

だからなのだろう。

祖母の訃報を耳にした瞬間でもなお父とは違った感慨を抱かざるを得なかった。

「それは大往生だよね」と私は声をかけると「そうだよ。よく生きたよ」と父が応えるとやや感極まっているのを察した私は「また何か決まったら連絡して、すぐ行くから」として通話を終えた。

私にしてあげられることは何もない・・・

ただ先立つ祖先となった家族の先人である祖母に敬意を払いつつ父に対する。

そんな目には見えない些細なことではあるけれど、少しは父を労うことができたんじゃないかなと思えていると「生命の恩寵ぞな」という響きから“死の意味”とでもいえば良いのかよくわからない漠然とした不穏な感じがなぜか母が抱く父方一族への憎しみや嫌悪感のような念として染み渡っていく。

そして、その念が私の記憶の源泉でもある旨の感慨へと変換されていく・・・


「記憶は高められた反感に過ぎん・・・」


自分で自分の身に起こっていることの意味がわからないのに、なぜかその告知による思考をなぞっていく内に、どこかのタイミングでそれがあたかも自分自身の実体験に基づいたかのような経験値としての実感となり、“記憶が何であるのか”の本質らしき知識体系を自分の一部としてもうすでに知っていることになっている・・・

例えば、一般的な記憶とは脳の神経回路網による演算が意識と結びついたもので、その演算処理は脳全体なのか局所的なのかはまだ明確ではないが記憶の出し入れ可能な蓄積を脳中枢付近を囲むようにある海馬という部分が担っているとされている、などとAIチャットのような自動検索による情報がmore than wordな感じで次から次へと私の考えとして浮かび上がってくる。

だが“記憶する力”そのものについてを人間の魂の眷属である脳による学問はその言及を許さない、と自動思考は続く。

骨と神経の意志が死んだ概念である物質認識で阻害しているのだ。

私たちの記憶は都合よく忘却され、ある程度都合よく連想的に思い出すことができる。

その全てを脳神経が行なっていて、忘却と想起のオンとオフを大脳全体が海馬による記憶庫に基づいて行っているとしているが、仮に脳が記憶に過去を焼き付けているとして、どのように人間的な記憶を可能にしているかの発火を構造化している“力”の発露が何であるかは生命のプログラムとされている遺伝子由来であるとしか言えないのが現状だ。

私だってそう思っていた。


ただ、実際の記憶とは空間(意識)と高次元の自我とが横行している生命現象の大元からの断片によるもの、という確固たる意志とともに飛来してくる。


記憶の横行そのものが生命力であるという意味だ。

記憶の横行が途切れた肉体段階のことを私たち霊魂は“死”と呼んでいる。

祖母という霊魂の宿る肉体が生命を維持できなくなることで物質から提供される空間を認識するための記憶の持続を一旦終えていくことで自分以外の誰かは“私の世界”から去っていく。

自分以外の誰かである他者の死による空間的な記憶が私の世界から消えたこととなる。

そして、私たちが記憶と呼んでいる領域で存在し続けることとなる故人及び過去の想起とは、自分を含めた今以外の誰かによって今という空間的時系列に割り込んできている現象なわけだが、文字通り私たちが記憶としている概念とは死者及び過去の自分と他者が運んできているものなのである。

なぜなら私たちの今は常に一瞬毎に過去となっているから。

未来のことを予測的に都合よく夢想しているのも過去の自分であり個人の思想だ。

私たちはそういったもうすでに存在しない過去からの幻影のことを“今の自分”のこととして、自我による時系列な権能によって自分の記憶として整然とした魂の状態を健全なものとして保っている。

私たちが現実と呼んでいる自然風景を含めた記憶空間は実質的に毎瞬間毎に死んでいることと考慮する必要がある、ということとなる。

それを前面として出現しているのが空間を投げかけている魂(意識)存在であり、その背景に自我という自分を時間的存在として思考している「私」が魂の衝動を選ぶ人格的な存在として地上の人間のサイズに収まっている記憶を見ている、そしてそれをお手伝いしている誰かさんの数々といった具合にマトリョーシカのような階層関係が貫通的に一つに複合しているのだ。

現在顕現している人間の視点からすれば私たちの人格は目には見えないし、触れることもできないけれど確かに存在する“影”のようなものとして、内面にあるかのようなものとして持続的に存在しているとされている自我は物質宇宙という最大サイズのマトリョーシカによって覆い隠されているとでも思うと良いかもしれない。

その空間(魂)と時間(自我)とが記憶(生命)によって構造化されている肉体(物質)に融合している複合存在の統一体のことを地上の私たちは人間と呼んでいる。

私たちとはマトリョーシカに覆われた人間の記憶を光のスペクトルのように規定された範囲の限定的な色彩の時代を死ぬことを前提に知覚している存在なのである。


そして、実際の知覚でさえもまた“影“に過ぎないのだ。


私たちはカタチあるものとエネルギーでしか物事の実質と価値を図ることができない。

だがそれらカタチが持つ数的質的価値や表象的実存そのものが“影”なのだ。

空間に存在する物質という対象には必ず影がある。

それはカタチを“形成された”ものは須く太陽によって生まれている影であることの反映をできるだけ見た目通り、可能な限り率直に理解し、天上のありのままを認識する必要が魂だけではない自我を有した人間には求められている。

いわゆる“被造物”へのメタ的な覚醒のことである。

宇宙空間の地球という人間の記憶もまた宇宙そのものによって“形成された”生命の影。

空間はすべて生命力によって代謝しているが決して生命そのものではなく影そのもの。

記憶は光や音、水や鉱物という無機物にも浸透させることができる。

ていうか、予めされている。

もちろん人間の肉体も同様だ。

人間の肉体は細胞から血液に由来する人体構造は純粋な思考である記憶そのものによって各臓器としての機能を担っている。

つまり人体の全てから記憶が再生されている。

人体の新陳代謝は人間の時間的リズムを熱エネルギーとした銀河を投影した鏡と言える。

その人体内の鏡を私たちは皮膚上や熱の変化、排泄物といった外に吐き出された表面化したものの上でしか洞察することができない。

レントゲンに映る怪しい影と同じだ。

正常か否かの違いだけがわかる。

しかし、その判別もまた多くが唯物的な尺度に過ぎないことから人間の人体内部が錬金術的な破壊と再創造からの排出と分泌を常に担っていることの視点を持つことが難しい。

だから人間の肉体そのものが賢者の石であることの意味に決して届くことはない。

物体の影を見れば何となくそれがどんなものなのかが経験的にわかるかどうかのことを宇宙規模で考えることができると『プラトンの洞窟の影』の意味が初めて理解できる、というのも同じ理屈だ。

わかる人にはわかる。

わからない人にはずっとわからない。

だから、記憶とは宇宙の背後から影響を投げかけている存在からの影は鏡なのだ。

その影は宇宙の進化過程において吐き出された代謝の賜物とも言える。

代謝とは一瞬前の人体秩序の状態を記憶し維持するホメオスタシスのことだ。

恒常性とも言う。


この恒常性の再生、更新、維持的認識のことを私たちは記憶と呼んでいる。


そして、その記憶の投映的再生に脳が端末的に関わっている。

代謝というネガが脳によって再生される実際とは宇宙の反感を処理する過程のことゆえに、代謝は恒常的に脳神経による抵抗を余儀なくされている。

私たちは脳が観測している代謝を時間的経験として生命活動を営んでいる記憶を生き、その世界の中で絶えず運用されている読み取り作業である記憶への思考が生命なのであるということと同時に影を影ではないことにしている存在が肉体の知覚の上位に君臨させている、それが脳であることも理解できるはずだ。

そこまで見えると宇宙という生命の記憶が何を代謝させているのかも見えてくる。

その解釈は反転させることもできて、代謝が宇宙に排出された生命の記憶を見ているとも言えて、その主体は生体の視点であることから決して意識によって拾い上げることはできないが、地上に昼と夜とがあるのと同じことわりで宇宙の記憶もまた肉体の表裏として同期的な共有状態にある。

代謝だけではない、心臓のリズムも脳による空間も含めたすべての臓器が太陽系と完全に同期した反感的な記憶の排出と分泌という系と紐づいているし、私たち人間自我は影としての世界の生命観を凝視ゲイザーするための模造である遥か遠くの星座として結びついている。

要は私たちが自分だと自覚する権能である自我とはそれくらい宇宙の反感である地球及びそれら形成物から遠い位置にいる、という意味だ。

よって宇宙は“記憶する力”の影として空間化された記憶という“宇宙の反感”なのである。

私たち地上の人間はその宇宙の反感の記憶の中で活動する存在のことを生命と呼んでいるが、実際は宇宙の反感を吐き出している存在そのものが生命力の本家そのものであり、そこから逸脱した悪ガキのような位置付けとして息づいているのが今の私たちなのだ。

そのことをいかに理念とするかの宿命が天幕であり影として下りている。

いかにして生命を想い、いかにして全てが過去となっていく世界と向き合い、いかにして逸脱した見解を洞察し、浄化の対象であることからの地上の人間の意識している空間への希求、渇望、欲望そのものが“宇宙の反感”という影的な生命の代謝経過による時間共有の因子となっていることの幕を上げる必要があるのだ。


その原点となっているのが宇宙の反感の高められた記憶の縮図である家族なのだ。

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