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楽しいこと以外全部ウソの叙事詩   作者: ばんだな
第1章 レジェンド オブ ヤハウェのために

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#13 グラハムベルには申し訳ないが電話通話はいらない

#13


踏み潰されてたまるか!という大いなる意志の余韻が携帯の着信音に変換されることで私は私の意識に“気”がついていく。

“気”がついた、というのは文字通り先輩の“気”の恩寵であり、私はどういうわけかその“気”の有り様を通じてさっきまでの“音の感覚”とは別の感覚で先輩の気配が身体全体に漲っているのを無視できない程度の設定と仕様にある自分に気がついていた。

要は下の棹がギンギンなのだ、などとという知覚に思考を伴わせると「それは妾のせいではないぞよ」などと声とも呼べない音というより、“思い出す”のニュアンスに近いメッセージの直観のような何かが意識の内側から浸透してくる。

では下の棹は何がために漲るのかを思考していると、そこに「肉体の血液を我が物顔で巡らす意志を持ったお主が肉体の寄生存在として帰ってきたからぞ」という声がまるで自分で考えたかのような、或いはもうすでに知っていたかのような知識として湧き広がっていて、そういや毎朝足から戻って来てるんだったけかな、という思い出すみたいな帰結が自分の意識の中にあることに気がつくと同時に感じられていた。


だが問題はそこじゃない。


それはそれとして問題というより、まるで夢で空を飛んでいたことが夢ではなかったことの確信を描いて気分良く目が覚めるとやっぱり夢でした、“ではありませんでした”というこれまで生きてきた中で経験したことのない経験でかつ、ずっと経験してみたかったことの一つが自分という身体の現象で起こっている夢のような不思議な現象の現実体験が今まさに自分に起こっているというのは、どちらかというと事件だ。

確かに事件は問題といえば問題なのだが、深刻なことなどではなく、昨日と同じように見えて確かに違う自分だけの自分の感覚に私は打ち震えるような高揚に満たされているこのワクワクが問題であろうはずもなく、今私の現実の大きな問題として生じている出来事は言うまでもなく携帯電話によるけたたましいまでの騒音ノイズのことだ。

もっと眠っていたかった朝のワクワクするような夢の時に限ってつんざくような挙動で無理矢理人呼び起こそうとする輩はたとえ非人間的デバイスであったとしても、どこぞの人間が関わり作り出したものである以上何人たりとも許さん、などというおよそフィクションでしか思い描かれないであろう感情が露わとなる。

我が神聖なる眠りから生じたであろう摩訶不思議通信には殊の外静けさが求められていることであるのは容易に想像はつくし、私及び現代人にはおそらくその手の時間がとても有意義であるべくナチュラルに思想化されても別段おかしくもないくらいに進んでいても良いはずなのに、どうやらそうでもないことをも伝えてくるみんな大好き超便利端末機に私は少なからぬ怒りを隠せないでいると「沸点低すぎてウケる笑」とかいう煽り的な何かが私のこの感情に拍車をかけている感じも助けているような気がしないでもなかったがそういうことだ。

図書館のように静かにしなければならない限りなくプライベートに近いパブリックな場で大きな音を鳴らすことを厭わない人間はアウトなのだ。

当たり前のことだ。


でも普段から図書館などという施設に無縁である私の思想とは思えない発想に驚きながらも、なぜそれが自分のことであることに矛盾していないことから色々と病的疾患が疑われてもおかしくない程度に自分の中の矛盾が自分を書き換えていく感じが自然なものとなっていく・・・


先輩的な立場で言うなれば、眠りとは人類の総意を決めている最も神聖なパプリックプライベートとでも呼べるような複合要素の多くが収束している均衡的時間なのだ。

それをわからん奴というのは自分の伝えたい主張のことしか考えられていないという意味で電話という行為は先輩に言わせれば完全に逸脱側のアウト人間にあたる。

だから電話は逸脱存在による知性の発明ということになる。

グラハム・ベルには申し訳ないが、もはや急を迫られているとき以外に電話は必要ない。

あるいは、電話でしか関わる手段がない問い合わせ先等の場合は可能な限り携帯やパソコンのアプリを用いた文字と画像による通信方法で間に合うはずなのだ。

それがご時世というものだろう?と私が悦にいってると“それはどうかの?”のムードが自分の思考と言動に僅かな疑念を生じさせるも私は私の思う思考に意識を委ねてみる。

どうやらメールやアプリによる通信伝達では不十分であるとする人間どものことを現代においては配慮に欠けると言っても差し支えないということを強く思っている。

もちろん、年齢や仕事や家庭の関係上による立場等のほとんどの場合で、様々なシチュエーションにおいて急な出来事による目まぐるしい変化の連続であるからこそ、現代社会においても電話は不可欠な文化と思われがちだが、それも違う。

必要なのは交信を担う通信そのものであって、電話による通話ではない、ということだ。

もしも、テクノロジーの進歩と共に私たち人間の時間の使い方と活動の仕方が変化していることを進歩と呼ぶのであれば、電話をかけるという個人的な行為においての考え方の変化等の配慮は相対的に高まっていなければならない。


もしも、人間の精神が肉体の奴隷でないとするならばの話だが・・・


電話の使用による呼び鈴は言うまでもなく、電話を使用されることによる周囲の人間の耳に入るその会話の音はノイズでしかなく、その目的がなんであるにせよ、自らの声が自分以外の人間にどのように認識されているのかの関心は誰もが持つべきだ。

公の場で無駄に声が大きい連中が全世界に後を絶たず、いつまでも決して絶滅する気配がないであろうことを想像してみてほしい。

その騒々しさを阿鼻叫喚の地獄のようなモラルの欠如だと言うことができない人間がいるとするならば、そいつは自分さえ良ければそれが楽しいとする世界を自然とする地獄に適応したパーソナリティを獲得した側の逸脱人間、いわゆる見境のない人間を同じ穴のむじなが形成する集合的な意識の塊の中に飲み込まれているか、あるいはもうすでに溶け込んでしまっているくらいに多くのことをも盲信していることをまず自覚することから始めなければならない。

会話をやめろとは言っていない。

電話をなくせとも言っていない。

電話事業の恩恵や温床等があるから法律を変えろとも言わないが、電話をかけるという行為自体が相手の時間を奪う行為なのだと言うことを理解しろと言っているのだ。

あと仕事であれば喫茶店で人が目の前にいるにもかかわらず、声を抑えようともしない通話が許されるという発想もやめろ。

社会には、何でそれで良いと思ってるの?ということばかりだと思え。

だから生まれた時代や親の作った文化を子供は消すことができない以上自分の認識を改めて変わることから変えていくしかないのだ。

私は先輩同様に寛容だから電話通話の排除をライフスタイルにしろとまでは要求していない。

ただ電話をするという行為によって相手の時間を奪っていることを知って欲しいだけだ。

“欲しい”などというと結局要求しているではないかと有象無象は騒ぎ立てる訳だが、そう要求せざるを得ない世界観の中にいるということを今よりも多くの人間が“気”がついているはずなのだから、もうすでに知っていることにしてもいいんじゃないかと言っている。


少なくとも“要求”の意味に無知なまま成熟した大人には気をつけた方がいい。


逆になぜ子供が大人の助けを求めざるを得ないのかを考えればわかることがある。

なぜなら赤子、幼児、若者は要求と不足のない領域から我々の世界へと自ら望んで出現しているからだ。

さらに言うと、人間の誕生以前の環境に要求と不足を感じたから誕生している。

これを別の立場から言わせてもらうと要求と不足という欲望の概念を欲する存在とは、宇宙及び霊的諸力が空間となっている世界観にとっての反感、アンチ、負債といった好まざるエネルギーの集合体の顕現体、つまり宇宙の反感として現れているのが地球及び人間のセットなのだという理解があれば自分本位に自分の対象として存在している他人に要求するなどという淺ましい行為はそうそうできないものなのである。

しかし、それでも自分以外との関係性において相互扶助は必要不可欠であるのは事実だ。

そもそも、骨(岩)と肉(草)を組織化している元素と呼ばれる構造そのものが反感なのだ。

ではいかにしてこの反感の塊の世界で息をし、言葉を選び、関われば正しいのか?

もうすでにわかっているとは思うが、反感だけの領域において正しさなどという概念は存在しない。

何をもってしても正しくあることなどはできないのだ。

ただ、あるとするならば良心に耳を傾けながら自らの祈りと願いを信じることの自由だけあるのが私たちに許された立場だ。

だから間違っても「救われたい、救ってほしい」などと、さして信じてもいない神懸かった何かに欲望することで自らの諸力である意思を放棄し、“要求”の端を成した出来事を自分以外の誰かに責任転嫁するような真似をしてはならない。


「全て」の出来事と経験は与えられるべくして与えられているのだから。


その「全て」の中には私たちの肉体とその認識と意思までもが含まれている。

「全て」とは万物の叡智によるもののことだ。

つまり、たとえ宇宙の反感であったとしてもなお、その反感さえも宇宙という地上を超越した空間の背後に凛として存在している「全て」の配慮と恩寵の息の届いた領域の表裏であることに変わりはない。

よって、すべてを提供してくれている万物の創造主を前にして「そこから救われたい」などという考え方の信仰は神を裏切ることへの無知であることの不敬以外の何ものでもないことをまずは知ることから現在の所有欲にまみれた常識を価値だとしているすべての人が始めなければならない。

同時に「全て」の叡智である自然の宇宙の中に「自分のもの」という概念も存在しない、という旨を知ることができれば隣の誰かに対して“お先にどうぞ”という地上における最高の礼節を入り口とした世界との関係が約束されるだの、そして脱出方法がああだのこうだの声とも音とも言えない脈動的な何かとなった何かがなぜか“私の考え方”としてどこからともなく飛来してきていることをファンタジックな事件として、ただ委ねてみることにしていた。

まぁ要は電話という機能と行為は連動していて、そのテクノロジーが副次的にもたらしているものは生活の利便性であると同時に、無自覚に人間個人の魂をいかにして貶めているのかをよくよく知っておく必要があるということをひしひしと感じながらも私は一旦いろんなことを忘れて、携帯の呼び出し音による要求と要請の役割に人間的に対処するのであった。


そして、その電話の主は父からであり「祖母の訃報」を伝えるものだった。

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