#1 必要なことなど存在しない
#1
飼い犬には紐に繋がれた自由がある。
人間にも宿命という紐に繋がれた範囲においての自由がある。
では、私たちは自由意志があることの意味を理解できているだろうか。
もしも、自然法則や社会秩序への適応能力を自由意志だと信じているのなら
あなたの自由意志の拠り所である世界の終わりに裏切られることとなるだろう。
それゆえに全人類に向けて断言できることがある。
多くの事も物も人さえも必要がない。
必要性という概念が必要ない。
断言できる。
私たちはこの必要性の要請に応じて存在しているだけで私たちが知覚している全ての対象は本来私たちにとって必要のないはずなものなのだが、あたかも全て必要であるかのように必要を強いているだけであって、やはり客観的に見ても楽観的に考えてみても必要性は必要がない。
我々の認識する多くとはただ在るものだと考えている。
多くの“人々”とは、「私」の用意した“自分”のための鏡だと認識している。
多くのことを捻出しているこの「心」をどうにか伝えたいのだが簡単ではない。
簡単ではないことを伝えるのは難しい。
難しくしているのはいつだって必要性であることはわかっているのだけど、そのわかっていることの知識を知恵に変えて、知恵を叡智に紐づけられるならば、既存の必要性が現在及び未来の必要性ではないことを伝えるのが難しいのだ。
ちなみに、既存とは生前の“人々”ことであり、現在とは“自分”の立ち位置であり、未来とは肉体の死後である星空よりも遥か彼方に待ち構えている「私」の視座のことである。
その旨を伝え、理解させ、導けるようにする。
簡単なことではない。
必要がないことを伝えるのはやはり難しい。
ただ、困難なことは大抵の場合は正しい、とハリウッドの某有名俳優も『救命士』という映画の中でそんなセリフを述べていた。
しかし、必要性の不必要を伝えると「私」は“人々という世界”の中の悪者になってしまうことになる。
不必要な悪法や習慣と言えども法は法なのである。
ある法が間違っているか否かという議論は動物的な人間にのみある概念であり、その時代その地域の法とは人間の願いの結晶であることから、“そこには近づかない”が敢えて言えば聡いと言える。
法であり集団組織に抗うということはその時代の人間と敵対することを意味する。
そういったことの“自分”の立ち回りの自由とその意味の解釈の自由への尊重が人間本性の本文であることを考慮すると、何が起こったところでそれらはその人間の宿命なのであって、「私」はそれに対してどうしても寛容であることしかできないことが難しいのだ。
??「誰だお前!勝手なことをベラベラと」
私「あなたこそ誰なんですか、突然大きな声でまるで超人先生じゃないですか!?」
??「さすが少年誌立ち読み歴うん十年は伊達じゃあないようですね」
私「やべぇバレてる、なぜです?誰なの?」
??「私は全人類の集合体のようなものなのです。だから何でも知っています。あなた方の暮らす地上世界そのものの代弁者であることから人間世界代表とでも思ってください。しかし、あなたのことだけがわからない。なぜですか?」
私「なるほど、おそらくあなたが考える人間と私の考える人間とでは同じではないので伝わらないかもしれませんが、私はあなたの世界の代弁者であることに対抗して全知全能を代表した個としての私人間ということで、あなた方の考える必要性は必要がない旨についてをお伝えしていこうと思います」
世界「私人間さんですか、どうやら必要性が必要ないとは随分と破綻した意見をお持ちのようですが、一応その心を伺ってもよろしいですか?」
私「はい、その心は文字通りに必要な物も事もこの世界には実際に“一切無い”という意味であります」
世界「では、光も酸素も米も必要ないのですか?」
私「はい、必要としているものではありません、それらは手段です」
世界「ではそれら手段を必要としないでいられているところを見せてください」
私「あなた方はきっと私が死ぬに違いないと思ってますね」
世界「ええ、あなたがクマムシでもない限りはそうなるでしょうね」
私「私はクマムシではありませんが、クマムシ及びあなた方の認識を超えた存在であることは確かです」
世界「では、あなたが我々の認識を超えたクマムシ以上の存在であることを実証して見せてください」
私「私は存在していないことによってあなた方並びにクマムシ以上の存在であるということです」
世界「仏教ですね」
私「般若心経の方が近いです」
世界「それも仏教ですよね」
私「まぁ、仏教と言えば仏教です」
世界「まさかとは思いますが、存在の有無についてを仏教思想で代弁するおつもりですか?」
私「まさか、私が仏教徒ですと間違って言ってしまった日には、宗教の祖であるこの私がまるで仏陀を崇拝しているみたいになってしまうではありませんか」
世界「宗教の祖とは一体なんのことですか?まさか、自分が父なる神であるとでもおっしゃるつもりでは?」
私「そういうところなんですよ。あなた方の言う父なる神が何なのかが抽象的過ぎて私の言う意味と同じであるかどうかは甚だ疑わしいですが、その懸念と疑念と不信感によって、かの時代に出現したキリスト・イエスを十字架に磔にしたのがあなた方です」
世界「いやいやいやいや、我々は今あなたのアイデンティティについてを言及しているのであって、我々人類の遠い過去の罪に置き換えて煽ってくるとかなんか違いませんか?」
私「違わない。私が何者であるかのほんの一端についてを明かしただけで話題をクマムシやら宗教やらにあらぬ解釈で私が伝えようとしているメッセージを歪めているのはあなた方ではありませんか、そうですよね」
世界「理解の及ばない言動を繰り返すあなたについてを我々なりにわかりやすくしようと比喩的に努力していることにもう少し配慮してもらうことはできませんかね?自称宗教の祖であるあなた様」
私「だから余計な努力をしてわざわざ私のメッセージを歪めるのをやめましょうと言っているのです。聖書の創世記をはじめとした黙示録もモーセの十戒も仏陀の原初の経典も般若心経もヴェーダや神話、御伽噺、童話も全てそのまま素直に文字通り受け止めれば良いのです。それなのにあなた方ときたらあまりに自らの認識する時代の現実とそぐわないことから、エゴによる曲解と誤謬で世界の認識を不必要なあらぬ方向へと塗り替え続ける歴史を繰り返していますよ、と私は言っているのです」
世界「それだと、我々の世界を支えているイデオロギーや宗教による文化や組織がまるで悪の導きみたいな言い方ではないですか」
私「悪が存在しないとでも?」
世界「う・・・そういう側面も確かにあります。我々は弱く儚い存在故に、どうしてもあらぬ方向へと揺らいでしまうんです。しかし、どんな人間でも皆、心のどこかに良心と呼ばれる善なる意志を有し、それと葛藤しながら懸命に生きているのです。だから人類の全てがみな悪ではないことは断言できます」
私「常套句よな」
世界「なんですと?」
私「全知的な神への贖罪の際によく聞くような方便よな」
世界「ぐっ!勘違いするな!お前に対する贖罪ではないからな!あくまで人類には拭うことのできない原罪のようなものがあることへの畏敬の誠意を示したまでだ!」
私「わかった、わかった、とりあえず歪んだ宗教観念に基づいた歴史的な戦争、誤った裁判、狭い認識による行き過ぎた権力と支配体制等による教育と文化が全ての人類に不必要な価値観の煽動をし続けてるってことでよろしかったか?」
世界「まるでよろしくはないが、最後に1つ聞かせてください」
私「何ですか?」
世界「一つの生命を必要に尊ぶことについても同じことが言えますか?」
私「言えます」
世界「我々の認識では必要のない生命は存在しないと考えているのですがわかり合えませんか?」
私「その考え方が諸悪の根源なのです」
世界「では、あなたのその思想は我々人類全ての存在にとっての敵である、という立場でよかったですか?」
私「そういった考え方もまたあなた方人類の必要悪としての過程であるとするならば、私はその自由に対して寛容である他ないのです」
世界「必要悪とはずいぶんですね」
私「それを宿命と呼びます」
世界「今のところ、全人類八〇億人の活動を必要悪としたことで、あなたは炎上してます」
私「お前らはやはりクマムシ以下のカスだ」
世界「いやそれお前のことだから、この人間以下のゲスが!」
私「ふん、やはりわからんか、私を含め、全ての存在が人間であり、その成れの果てなのだよ」
人類とは必要性の檻の中で“自分”という自尊心を携え紐に繋がられた犬である。
犬は小屋に繋がれている紐の長さの範囲において自由意志を有して活動している。
では、人間はどうだろうか?
人間の多くは何にも誰にも繋がれては活動していない。
どう見ても犬とは違う。
犬と人間はどう考えても違うことは明らかだ。
だがしかし、その意識(感情意志)が犬であり、猫であり、猿であり、その他全ての動物なのだ。
私たちが精神(霊的意志)、意識(魂的意志)、心(生命的意志)、性格(肉体的意志)及び自分と呼んでいる、目には見えない部分というのが目に見えている動物と同じ状態なのだ、という論文でも提出した日には「人間の祖先は猿である」としたダーウィンの再来が如くアカデミーはアレルギー反応を起こして叩き潰しに来ることだろう。
実際のところ、ダーウィンの『種の起源』による生命の定義は一本の木の芽であった最小の生物からの自然淘汰と突然変異による枝分かれのことを進化論とし、その優生学的な考え方はある国の国家教育のイデオロギーにも取り入れられて以来、現人類の文化認識の価値観に強く浸透されている。
進化を遺伝子異常と自然現象でしか説明できず、その先が肝心なのに、わかった気でいる。
少なくともわかった範囲の中で遺伝子を取り扱うことを善としている。
当たり前のことだが、ジャンクDNAと呼ばれる90%以上を占める用途不明の組織の方が種の個体に対して大きな影響を及ぼしているのだが、それを役割を持たないDNAなどという狭い認識による解釈にも関わらず真意を知らない多くの人間はそれが真実である前提で物事を決定してきた。
現在の解釈では、ジャンクDNAは機能不明で必要か不必要なのかもわからない部分の呼称であり、それらの多くはIPS細胞による細胞分化対象への翻訳を受けずに何らかの役割を果たしている、とされている。
こうしてダーウィンやメンデルの時代から生化学に限らずあらゆる分野が進歩を遂げているのだが、それらは正しいものとして勝ち残ってきたのではなく、強かったゆえに正しいとされた、歴史的勝者による権威が作り上げ続ける常識の連鎖なのである。
ダーウィンは言う。
私たち人間を含む自然はプログラムされている、と。
私たち人間は動物進化の延長線上にいる存在である世界観のダーウィンの進化論に基づいた昔からの権威のルールの下に組織の思想は方向づけられている。
大きな誤謬である。
実際は誰も競争も闘いも行っていない。
ただ共存しているだけなのだが、人間の意識だけが善と悪の動機というフィルターを有して、ストロングポイントとウィークポイントとを探り合いながらその知性を動物的判断に委ねることによって、対象の巻き起こす現象についてを勘違いした解釈で生命及び自己存在の本性を見誤っている。
ただ見誤っているからと言って、人間として終わっているわけではない。
私たちが認識しているありとあらゆる対象とは自分を知るための要素。
自由とは何かを知るための対価であり、現在までの人間の宿命である他はない仕様なのではあるが、人間本性を認識するための方向性からかけ離れた見解であることに違いはない。
もちろんダーウィンの進化論は二〇〇年前の古典とされていることから、最新の理論ではもっと多様な概念を包括した進化の可能性を示す仮説があるのだろうが、どんなに科学技術の効率化を果たしても、若い研究者や指導者による新しい考えとやらが歴史的な秩序を築いてきた権威に基づいた考え方の視座にある限り、人類は自ら明らかにしてきた自然哲学の臨界点を突破することのできない袋小路での議論をし続けることとならざるを得ない。
なぜなら、私たちの知性は未だ「死」の意味をわからないままでいるからだ。