SNSとざまぁ
ニュースというものは、ネガティブなものが多い。
それを見て、こんなにも愚かな行為をする人間がいる、逮捕されたりして、ざまぁと感じるのだろう。
賑わうのは、芸能人の恋愛や不倫、炎上行為。
こういう人間の愚かな行為を叩く性向が増えているのだろう。
だから、ざまぁが流行るのだろう。
犯罪にあった被害者がいても、被害者の落ち度を叩いて、ざまぁしたいわけだ。
SNS化された人類の性向が、そのままネット小説のざまぁ人気傾向へ移った。
SNSの世界も、一般の人から見ると、遠い世界のものだ。ポリコレ、フェミニズム、おバカ系の迷惑動画ーー。現実問題、全く関係の赤の他人の問題だ。
でも、ネガティブな情報を得たら、自分よりも不幸な人間がいる。だから自分の方がマシだと、思える。そういう快楽を得られる。
ざまぁ系も、かなりバカな行動をするやられヒロイン、やられ間男を作り出し、そいつを痛ぶって、楽しむわけだ。
復讐系とざまぁの違いは何なのか、とふと疑問に思う。
復讐は、いつかやり返してやる、追い詰める、みたいな楽しみがある。
ざまぁは、残念でした、実はーーみたいな感じがする。何よりも相手の失敗・ミスを喜ぶ気持ちを感じる。復讐の場合、復讐相手は、なかなかに手強いけど。
SNSの最大の特徴は、比較。
自分と他人を比較するというもの。
ざまぁにも、その流れを感じる。比較、とにかく、主人公は成功側、元ヒロインやその彼氏とかは負け組側。そして、何より見たいのは、負け組が転落する様子。
そして、あまり主人公が元ヒロインなどを許すことはない。許してはいけない。叩いていい人間はいくらでも叩いていい、というSNS的な部分を感じる。そして、デジタルタトゥーのように、過去の行いは消せないのような歪んだ正義感。
ヒロインの過失を許さないというのは、完璧主義が増えた昨今らしさも感じる。他者に完璧であることをもとめる心理。失敗を許さない、という傾向。別に恋愛の失敗なんと思春期あるあるのはずだが、なぜか完璧な恋愛を求めている。
まぁ、現実の完璧主義者が他人に完璧性なんて求める前に諦めて、理論とか科学とか論理とかに向かいがちだけど。他人に完璧性を求めるのはサイコパスっぽい。絶対に完璧にならないから、クレームし放題。たまに優しくなったりもするよ。
完璧主義者が、そんな飴と鞭のバランスが崩れた状態で我慢できるわけもなく、何より自分が完璧でありたい病だからね。
なんでSNS化された人間の傾向が、フィクションにも流れ込むのだろうか。
まぁ、当然だけど、ニュースとか人の雑談とかも、所詮、加工済みの話半分の情報なわけだ。そして、そういうノンフィクションと呼ばれるもので味わう快楽は、当然、フィクションでも味わえる。
他者をざまぁと思うように、フィクションの登場人物にざまぁとも思える。
ニュースやまとめサイトでも、他人のことをバカにするように、こいつはもうダメだ、あの企業は不振だ、大赤字というふうに誇張して書いていくわけです。
それを見ると、なんというか、寒い優越感を味わえる。流行りの言葉だと、シャーデンフロイデですね。他人の不幸は蜜の味。
そして、その他人は全世界からネットで集まる。蜜漬けで見続ける。おっと、寒い失笑感。
SNS的な感情移入の正義感が、そのまま、フィクションへと流れ込めば、ざまぁ小説人気の完成だ。
分かりやすい善悪の判断、一度の失敗を絶対に許さない、相手の不幸を願う。
ざまぁ以前は、異世界に転生したり、空気系・日常系だったり、セカイ系だったり、世界変革から日常を生きるから現実逃避、みたいだったけど、今は、弱者叩き、追放ですね。
自分のコミュニティを守る、自分自身への過保護、とにかく守備からの攻撃、やられたからやり返した、過剰防衛へ。
SNS的なコミュニティ観は似た価値観で集まりがちだしね。