鏡語り
今日、以前私が児相の担当者として訪問したことのある、とあるお宅にお邪魔したんです。
そのお宅は見た目の立派さに比べ中は暗く、少し湿っぽさを感じました。軋むフローリングの廊下を進んで行くと、彼女の部屋はありました。どうやって気付いたのか、彼女は部屋の扉を開くことなく、私にこう言いました。
「ちょっと待って、私ちょうど今、話し相手が欲しかったの。なぜなら、私産まれてからこの部屋を出たことが無いの。誰とも会った事もないし、喋った事もないの」
扉を見れば小さな硝子がはめ込まれた小窓があってそこから覗いているようでした。
「馬鹿なことを言わないでちょうだい。あなた今喋ってるじゃない。産まれてずっとそこにいて誰とも会わずにどうやって言葉を覚えたのよ」
「それもそうね、じゃあ忘れてちょうだい。とにかく私はあなたとお喋りしたいのよ。ほら始めて出来た事って嬉しくってついまたやりたくなるでしょ?始めて自転車に乗れたとき、暫く自転車に乗って遊んでるのと一緒よ」
「まぁ良いわ。何お話ししましょうか?あまり時間は無いのだけれど」
「知ってるわ。アナタは倉田やす子。両親共働きの一人っ子。いつも寂しくお人形さん遊び」
「な、なにを急に。何でそんなこと」
私にかまわず彼女は続けます。
「貧乏って辛いわよね、ずっとそうなら慣れっこなのかしら?」
「う、五月蝿いわね、ほっといてよ」
「良いものあげる。ほら、上着のポケット」
言われるままポケットに手を入れると何か入っていました。それは折り畳み式のナイフ。
「アナタ中々踏ん切り付かないみたい。ねぇ、もっとこっち寄って」
言われるまま私は扉に近寄りました。そして相手の顔を見てやろうと、目一杯小窓に顔を近づけました。
「アナタ何者なのよ!」
その時突然彼女の顔が小窓一杯に現れました。
「私は倉田やす子よ」
そこには私と同じ顔がニヤニヤと不気味な笑みを浮かべていました。と次の瞬間私は気を失って、次に気付いたら真っ赤に染まったベッドの横で血塗れのナイフを持って立っていました。
「、、、で人を殺したその足でこの交番まで自首しに来たってわけか、ちょっと待っててね」
交番の窓越しの受付で話を聞いていた警官はどこかへ電話した後、少しはずして女を中に通そうと準備を始める。
「巡査長、何か気味悪くないですか?あの女ずっとニヤニヤして」
「うーん、でも見た感じ血も付いてないし、凶器らしいものも持って無さそうだし。まぁ今本署に連絡したし身元確認もしてるから、って電話だ」
「あ、俺出ますよ。はい、駅前交番。はい、、、え、はぁ、じゃああの人は、、はい、わかりました」
若い警官は首を傾げながら電話を切った。
「巡査長、おかしいですよ。倉田やす子さん、自宅に居るそうで、、、」
「おい!どうやって入った!」
「へ?、、、」
その時、若い警官は背中に鈍い痛みとそこが熱くなっていく感覚を覚えた。
「いってえ」
振り向くとそこには倉田やす子と名乗った女が立っていた。そして手には赤い血の着いたナイフが握られ、数回またど突くと若い警官はそのまま膝から崩れるように倒れ込んだ。
警官を刺した女の目は見開き、瞳孔はまん丸に開いていた。
「おまえ、誰なんだ、、、」
得体の知れないものを前に巡査長は精一杯の声を出す。どこがとは言い難いが、とにかく人とは別の何かに変容しているのは間違い無かった。
「ケケッ」
笑い声とも動物の鳴き声ともとれる声を聞いた巡査長は気を失ってその場に倒れ込んでしまい、次に目覚めた時はもう女の姿は無かった。
その後の調べで、交番から数キロ離れた家で老夫婦が刺殺されているのが発見された。しかしその家には扉に小窓の着いた部屋は無く、設置されていた防犯カメラの映像では廊下の壁に取り付けられた小さな鏡を何者かが覗き込んでいる姿が確認された。
交番の警官刺殺事件以後、倉田やす子と名乗った女の消息は掴めていない。