第八章「理想の世界は八〇年代!?」
第八章「理想の世界は八〇年代!?」
ガラリと、音楽室のドアが、突然開いた。
ハッと目を覚ました美鈴は、そのまま椅子から転がり、床に伏せた。右膝を胸に引きつけ、右のブーツの中から、拳銃を取り出した。
「誰かいるのか!」
ドアを開けた者が、呼びかけた。
その声は、中年の女の声だった。
教師だと思った美鈴は、すぐに返事をした。
「はい、います」
そう言いながら、美鈴は立ち上がった。右手の拳銃を、背中の後ろに回して隠しながら。
その中年女は、紺色の制服を着て、分厚い防弾チョッキを着込み、鉄製のヘルメットをかぶっていた。そのヘルメットには、防弾ガラス製のフェイスカバーまで付いていた。
警備員だった。
彼女は、右手を、右腰のホルスターのすぐ上の脇腹に、当てていた。いつでも拳銃を抜けるように。
「早く帰れ! 他を見回ってから、もう一度ここへ来る。その時までに下校してなかったら、お前の名前を、生徒指導の先生に報告することになる。それが嫌なら、さっさと帰れ!」
「はい」
美鈴がおとなしく返事をすると、女警備員は、去っていった。
美鈴は、自分の額に手を当てた。少し、寝汗をかいていた。嫌な夢を見たせいで、気分が悪かった。
美鈴は、机の上のものを片付け、音楽室を出て、保健室へ向かった。
* * *
美鈴は、保健室のドアを静かに開けた。既に消灯後のため、室内は真っ暗だった。暗闇に目が慣れるのを待ってから、音を立てないように気をつけながら、香織のベットのほうへ行き、その脇に立った。ベッドをのぞき込むと、香織が、目を開けた。
「美鈴お姉さん?」
「そうだよ」
美鈴は、口元をほころばせながら、答えた。
「嬉しいわ。また来て下さったのね」
香織の声も、嬉しそうだった。
「起こしちゃったかな?」
「いいえ。まだ七時だから、寝ることなんて、できやしないわ」
「時刻が分かるの?」
「ええ。警備員があちこちのドアを開け閉めする音が聞こえるから。一回目の見回りは七時で、二回目は九時半から。見回りの音が聞こえなくなると、一〇時半を過ぎたということなんだけど、そのあともなかなか寝付けないわ。なにせ、一日中ベッドの上で寝てるから。ところでお姉さんは、まだ下校しないの?」
「うん、まあね」
美鈴は、やや寂しげな口調で答えた。
「お姉さんの自宅は、どこ? 学校の近く?」
しばらく口ごもったあと、美鈴は答えた。
「アタシの家は……、ないんだ」
一瞬の沈黙のあと、香織が口を開いた。
「アタシもそうよ。中三の冬にボロアパートから追い出されて、そのあとは中学校に寝泊まりしたわ。そして高校生になってからは、この学校で寝泊まりしていたの」
「この学校に、寝泊まりできる良い場所って、あるの?」
「ええ。部室に寝泊まりする子が、結構いるわよ。全部で……、四、五〇人くらいかしら」
「香織は、何部だったの?」
「文芸部よ。食堂ホールの二階に、文化系クラブの部室があるの。体育会系クラブの部室よりも狭いけど、文芸部は良いわよ。部員数は少ないし、ほとんど活動らしい活動はやってないから、夜だけじゃなく、昼間も自分だけの部屋のように、自由に使えたわ。お姉さんも、入部なさったら? アタシが元気だった時に、保健室からパクッた、枕と毛布とシーツが、まだ部室にあると思うから、良ければ、使ってね」
「うん。ありがとう」
少しばかり嬉しそうに、美鈴が答えた。
すると、香織の表情も、暗闇の中ではあったが、ほころぶのが分かった。
「それでね、部室の本棚にはね、昔の部員が年に一冊のペースで作っていた同人誌が、ずらっと並んでるの。ここ七、八年ほどは、作ってないみたいだけど。それでね、その同人誌の中にはね、とても面白い小説もあるのよ」
「へ〜え、そうなんだ。どんな内容?」
「アタシね、たまたま三〇年ほど前の同人誌を、手にとって読んでみたの。どうせ授業には出ないし、かといって図書館で勉強するのも面倒だから、時間でも潰そうと思って。で、その中の一つにね、この学校の生徒達を主人公にした小説が、あったの。その小説がね、スゴイのよ」
「どんなふうに?」
「その小説の中に出てくる高校の名前はね、今宿高校っていうの。明らかに、この学校がモデルでしょ。それに、校舎や食堂ホールや体育館の配置が、完全にこの学校と同じなの。それなのにね、その小説の中の世界ではね、麻薬も拳銃も、出てこないの」
「へえ〜!」
思わず感心した美鈴が、真顔で相づちをうった。
「それでね、さらにスゴイのは、主人公達は二年生の女四人なんだけど、彼女達には全員、帰る家があって、しかも全員、両親がそろってるの。母親と父親の両方よ」
「へ〜え。みんなお嬢なんだ」
「そうなのよ。都立校の生徒なのに。しかもスゴイのは、その両親は、みんな、実の親なのよ」
「へえ〜!」
目を丸くした美鈴の声が、半オクターブほど高くなった。
「アタシなんて、実の父親は、三歳の時に出て行っちゃったから、顔すら覚えてないのに。三歳なら、少しくらいは記憶が残ってても良いと思うんだけど、いくら思い出そうと思っても、顔を全く思い出せないの。お姉さんは、実の父親の顔、覚えてる?」
「アタシは、生まれた時から、父親はいないから……。アタシの本当の父は、アタシの母に、アタシを産むなって、言ったんだって。だけど母さんが、どうしても産むって言って、一人で産んだんだって。昔アタシが小さかった時に、母さんが酔っぱらって、そう言ってた。つまりアタシは、父親から望まれずに、この世に生まれてきたってわけ」
「だけどお姉さんは、お母さんに望まれて生まれてきたじゃない」
その香織の言葉を聞いた美鈴は、一瞬言葉に詰まったあと、答えた。
「……、そうだね」
美鈴は、指で目頭を軽く押さえた。
「それで、その小説のストーリーって、どんなふうなの?」
「その主人公達はね、恋をするのよ」
「へっ? 恋?」
香織の答えに拍子抜けした美鈴は、思わず聞き返した。
「そう。恋をするの。彼女達は、恋をして、恋をして、恋をするの」
「一人当たり、何十人くらいと?」
その美鈴の質問に、香織は目を輝かせて答えた。
「それが、スゴイのよ。彼女達は、誰一人として、セックスしないのよ!」
「ええっ? 何それ?」
美鈴が、思わず大きな声を出した。
「彼女達にとって、恋することと、セックスとは、違うことなの。彼女達は、特定の男の子に恋をして、恋い焦がれて、好きで好きでたまらなくなるのに、その男の子に、好きだって言えないの」
「なんで?」
「分からないわ。だけど、たぶん、好きだって言わないから、ますます恋しさが募ってくのかもね」
想像を絶する香織の話に、美鈴は軽く左右に首を振った。まるで理解不能だと言わんばかりに。
「だけど、アタシも自分の人生を振り返ってみると、小六の時に、似たようなことがあったわ。小六になると、同じクラスの女どもが、次々に経験し始めてね。アタシもヤッちゃおうと思ったんだけど、だけど、初めての時って、チョー痛いって言う女も、いるじゃない。同じクラスに、以前から目を付けてた可愛い男の子がいたんだけど、結局痛いのが嫌で、何もしないまま、卒業しちゃったの。そしたらね、中学の入学式のあと、自宅に帰ったらね、継父がね、セーラー服を着たアタシを見て、お前ももう大人だな、って言うの。そしてそのままヤラレちゃってね。チョー痛かったわ。そのあと、帰宅した母にヤラレたことを言ったらね、このドロボー猫! って怒鳴られて、メチャクチャ殴られたわ。自分の男の首に鎖を付けられない女が、人のせいにしやがってね。頭きちゃうわよね。それで次の日、学校で、気の弱そうな男の子をひと気のない女子便所に連れ込んで、無理矢理パンツ脱がせてヤッちゃったの。その子、半べそかいて痛がってた。今考えると、悪いことしちゃったかもね。まあ、男の子の痛みなんて、女の痛みに比べると、たいしたことないって言うけどね。ところで、お姉さんの初体験は何歳?」
「アタシは、一〇歳」
その美鈴の答えに、香織は、思わず息を飲んだ。
「小四の時、一〇歳の誕生日だったよ」
美鈴がそう言葉を続けると、暫しの沈黙のあと、香織が尋ねた。
「継父にヤラレたの?」
「知らないオヤジ。母さんに言われてね。もう一〇歳なんだから、自分の食い扶持は自分で稼げ、ってね。それで、学校から帰宅したあと、ランドセルをしょったまま、車に乗せられ、安ホテルに連れてかれて、知らないオヤジにヤラレた」
香織が、恐る恐る尋ねた。
「チョー痛かった?」
「さあ、覚えてないね。母さんが言うには、ピーピー泣いて、みっともなかったってさ。だけど、二回目からは泣かなくなったらしいよ。アタシは覚えてないけどね。いつからかは覚えてないけど、アタシ、小学生や中学生の時、幽体離脱ができたんだ」
「あっ、アタシの中学ん時の親友も、それ得意だったよ。幽体離脱ができると、どんなことされても、痛みを感じないんだってね。あとになってから、痛くなるらしいけど……。で、その親友、痛みを消すためにシャブを始めちゃってさ……、十五歳の春に、死んじゃった」
「アタシも……、シャブを打たれたよ。元気が出る薬だって騙されてね。十三歳の時から……」
驚いた香織が、目を大きく見開いた。
「ええっ? でも、今のお姉さんは、シャブ中のようには見えないわ」
「やめたよ。十四歳になった時にね。アタシと母さんをシャブ中にした売人を、殺したんだ」
香織が、歓声をあげた。
「カッコイー! その売人って、大人の売人?」
「ああ。そうだよ」
「ますますカッコイイわ。やっぱりお姉さんは、強い人ね」
香織は、尊敬のまなざしで、美鈴を見つめた。
「で、その小説って、最後とか、どうなるの? 麻薬も拳銃もセックスも無しじゃ、大金を手に入れてハッピーエンド、っていう風にはなりそうもないね」
「そうなのよ。その小説の中には、お金の話も出てこないの。卒業後、どうして食べていくかで悩む登場人物は、なんと、一人もいないの。主人公の四人は、全員、大学に行くつもりなのよ」
「へえ〜。四人ともホントのお嬢なんだ」
「それに、その四人が恋をする男の子も、全員、大学に行くつもりなのよ」
「まるで私立校みたいだね。そんなお嬢達なら、悩み事など何もなくて、毎日がハッピーなんだろうね」
「それがね、違うのよ。彼女達は、苦しくて苦しくて、仕方がないの」
「なんで?」
「彼女達は、恋で悩んだり、友情で悩んだりしちゃうの。良美っていう主人公の一人は、チャンスをうまく作って、俊彦っていう片思いの男の子と友達になるんだけど、好きだって言い出せず、悩み苦しむの。で、そんなある日、良美は偶然、親友の絵里が、俊彦と逢い引きしてるところを見ちゃうのよ」
「逢い引きって?」
「女と男が、人目のないところで、隠れて逢うことよ」
俄然興味が湧いてきた美鈴が、身を乗り出した。
「へ〜。なんかヤバイ展開になりそうだね。で、良美は絵里のこと、殺しちゃうの?」
「いいえ。その小説の中では、殺人事件なんて起きないの」
「じゃあ、フクロにして半殺しとか?」
「違うの。その小説の中の世界では、暴力を振るう人は、一人もいないの」
「ええっ? そんなバカな! じゃあ、トラブルは、どうやって解決するの?」
「だから、それが問題なのよ。良美はその日以来、絵里のことを無視するの。ランチを一緒に食べるのも、やめちゃうの」
「それだけ? そんなんじゃ、復讐にならないじゃん。まあ、良美は俊彦とヤッてないんだから、絵里が俊彦とヤッたからといって、復讐する筋合いじゃないんだろうけど……」
「それがね、絵里も俊彦とヤッてはいないの」
「ええっ? 人目のないところで二人っきりだったんでしょ。それなのに、絵里は俊彦のパンツを脱がさなかったの?」
「それがね、実は絵里は、秘密の相談を受けていたの。俊彦の親友の雅彦が、絵里のもう一人の親友の誠子に片思いをしていて、それを内緒で相談していたのよ」
「だったら、絵里は、そのことを良美に言えばいいじゃん」
「だけど絵里は、俊彦との密会を見られたことを知らないの。だから、自分がなぜ突然無視されるようになったのか、全く分からないの。その上、絵里の別の親友の秋菜が雅彦に片思いをしていて、だから絵里は、俊彦からの相談を誰にも相談できなくて、それで悩んでいる時に、良美に無視されちゃったわけ。さらに、良美は、自分が見たことを誠子と秋菜に話したから、その二人も絵里のことを無視するようになるの」
「なんで?」
「その四人の女は仲良しグループだったから、お互いに、好きな男の子が誰かっていうことを知っていて、他の女の片思いの対象には、手を出さないっていう、暗黙の了解があったの。絵里は、それを破ったと思われたわけ」
「へ〜。昔は、いろんなオキテがあったらしいからね。今は、昔の面倒なオキテはみんな、構造改革の自由化で、撤廃されちゃったっていう話だけど」
「で、そのあとも、誤解が誤解を生んで、お互いに誤解し合って、もう、メチャクチャ複雑な状況になっちゃうの」
「それなのに、殺人は起きないの?」
「そうなの」
「じゃあ、その複雑なトラブルは、最後、どうなったわけ?」
「最後はね、ハッピーエンドなの」
「えっ? ハッピーエンド? だけどさっき、大金は出てこないって……」
「仲直りするの」
「はっ?」
「良美はある日、俊彦に声をかけられて、人目のないところに連れて行かれて、相談されるの。雅彦の片思いのことを絵里に相談したのに、そのあと、返事が来ない、って。それで良美は、自分が誤解していたことに気づくわけ。それで良美は、絵里に泣いて謝るの。涙をぼろぼろ流してね」
「へえ〜。高校生にもなって、涙を流すんだ」
「そしたら、絵里のほうも涙をぼろぼろ流して、今まで親友に無視されてどんなに辛かったか話すの。すると良美は、もっと涙を流して、何度も謝るの。そしたら絵里は、良美のことを許しちゃうの。それで、二人は手を取り合って涙を流すの。アタシ達は、また今日から親友よ、って言ってさ」
「へえ〜。それで、誠子と秋菜と雅彦の三角関係はどうなったの?」
「実は、誠子は、雅彦に片思いをしていたの。だけど、秋菜に先に、雅彦への片思いを告げられて、それで、片思いの対象がかぶらないように、わざと他の男の子の名前を答えて、嘘をついていたの」
「じゃあ、今度は誠子と秋菜のバトルが起きるんだ」
「それが、起きないの。誠子が本心を打ち明けたら、秋菜は最初はショックを受けるんだけど、親友の誠子と、片思いの相手の雅彦が、二人とも幸せになるんだったら、アタシもそれで幸せよ、って言って、身を引くの」
「へえ〜〜」
美鈴の表情は、心底驚いているようだった。
「それで四人の女達は、また以前のように仲良しに戻るの。誠子と雅彦は相思相愛になってキスをするの。良美と俊彦もますます親しくなって、どちらも告白はしないんだけど、手をつないで下校するシーンで、その小説は終わるの」
美鈴は、大きく息を吐いて、溜息をついた。
「へえ〜。大金は出てこないけど、ハッピーエンドのような気もするね」
「ねっ。お姉さんも、そう思うでしょ。その小説の終わり方は、ハッピーエンドだって」
「そうだね」
「その小説の中の世界って、ホント、素敵よね。だって、一度壊れてメチャクチャになった人間関係が、元に戻っちゃうんだから。人間関係が再生するなんて、とても素晴らしいわ」
「そうだねえ。これが現実の世界だったら、絶対に殺し合いになるだろうね。良美が絵里を、秋菜が誠子を、撃ち殺そうとするだろうね」
「そうよね。アタシ考えたんだけど、その女達が殺し合わずにすんだのは、たぶん、麻薬も拳銃もなかったからだと思うの」
「それに、お嬢だから」
美鈴が、言葉を挟んだ。
「そうよね。お嬢だから、卒業後、どうやってご飯を食べていくかの心配をしなくていい。だから、大金をつかむことなんかじゃなくて、友情や恋愛がうまくいくことが、彼女達にとっての幸福になるんでしょうね」
「なんかスゴイ世界だね。たとえ、小説の中の架空の世界だとしても。カネよりも、友情や恋愛のほうが大切な世界なんて。だけどよく分からないのは、なんで秋菜は、身を引いて自分の恋を犠牲にしたの?」
その美鈴の質問に、香織は少し眉間にしわを寄せ、数秒ほど思案してから、口を開いた。
「たぶん、それが……、自己犠牲っていうものよ」
「だから、なんで秋菜は、自己犠牲を選んだの?」
「それはたぶん……、秋菜が、いえ、その小説の登場人物全員がそうなんだけど、幸福を、お金じゃなくて、人間関係に求めてるからよ。お金が幸福の基準なら、他人からお金を奪っても、自分は幸せになれるわ。だけど、幸福の基準を、良好な人間関係においた場合、他人から何かを奪ったり、他人に酷いことをしたりしたら、その人間関係は壊れちゃうでしょ。だから秋菜は、自分を犠牲にしたし、それによって秋菜自身も、幸福になったのよ」
美鈴は、思わず唸った。
「自分を犠牲にすることによって、自分も幸福になる、っか。奥が深いねえ。それに、なんか哲学的だね」
「そうね」
「よく分からないような気もするけど、何となく分かるような気もする。いずれにしても、その小説は、スゴイ作品だね。その小説、ホントにアタシらの先輩が書いたの?」
「そうよ。だいぶ昔だけど。作者は、もしまだ生きていたら、四〇歳代の半ばくらいかしらね」
「じゃあ、アタシ達の親よりも上の世代だね」
香織が、溜息をついた。
「そうなるわねえ。その作者、なんでプロの作家にならなかったのかしら。もし、こういう素晴らしい人がプロの作家になって、多くの人達に影響を与えていたら……」
美鈴は、眉間にしわを寄せながら口を挟んだ。
「この小説は、出版しても、売れないよ。現実とは、あまりにも大きく、かけ離れすぎているから。アタシも、そんな世界に住んでみたいと思うけどね。麻薬も暴力もない、食べる心配もしなくていい世界。もしそんな世界が本当にあったなら……」
「天国かしら?」
唐突に、香織が尋ねた。
「かもね」
「アタシが死んだら、そんな世界へ行けるかしら?」
一瞬、美鈴は言葉に詰まった。
「ごめん。アタシ、死後の世界って、信じてないんだ」
「だけどお姉さん、幽体離脱は、得意なんでしょ」
「ガキの頃ね。だけど、その時だって、死後の世界なんてのぞいたことはないよ。いっつも天井につっかえて、上から、ロリコンオヤジに犯されてる自分を見てるだけ」
「アタシの中学ん時の親友も、同じこと言ってた。ある日アタシがさ、幽体離脱できるなんてアンタ良いわね、アタシも幽体離脱して、広い世界を自由に飛んで、この酷い世界から抜け出したいって、そう言ったら、その子、怒り出しちゃったの。天井につっかえて、どこにも飛んで何て行けないよ、って」
「アタシ、高校生になってから図書館で読んだんだけどさ、幽体離脱って、実際には、霊魂とか、関係ないんだってさ。自分の心が破壊されないように、肉体的な感覚を遮断して精神を守る、心の防衛機能なんだってさ。心理学的にはね」
「そうだったんだ……。じゃあ、この世には、天国は、ないんだ……」
香織の口調から、溢れていた力強さが、急速に消えていった。
「がっかりすることはないよ。天国がないってことは、地獄もないってことだから。それに、幽霊もいないから。他人の幽霊に脅えることもないし、自分が幽霊となってこの世をさまよい続けて苦しむこともない」
「じゃあ、人間は死んだら……」
美鈴は、すぐに言葉を継いだ。
「灰になる。そして、海に還るんだよ」
「海に?」
「ああ、そうだよ。アタシの母さんの遺灰は、川に流した。今頃、母さんの遺灰は広い海で、新しい命を育んでいるはずさ。まあ、新しい命なんて言っても、せいぜいプランクトンや、ちっぽけな雑魚だろうけどね」
「それって、カッコイイかも。アタシも死んだら、川に流して欲しいな」
「何言ってるんだよ。まだまだ長生きしなよ。死ぬには若すぎるだろ」
香織は口をつぐみ、何も答えなかった。
二人の間に、沈黙が流れた。
暗闇の中で美鈴は、他の適当な話題を探して思案した。口を開こうとした時に、廊下から、複数の足音が聞こえた。美鈴は急いでブーツから拳銃を抜き、ドア脇に立った。
「美鈴!」
ドアの外から、女が呼びかけた。その女の声は、里沙だった。
「いるよ」
美鈴が答えると、ドアが開いた。里沙、隆子、百合花、サトルの四人が、中に入ってきた。
「早かったね」
美鈴がそう尋ねると、里沙が腕時計を見ながら答えた。
「そうね。少し早かったわね。だけど、もうそろそろ、九時になるわよ」
五人は、警備員の二回目の巡回が始まる九時半まで、保健室の外の廊下で、過ごすことにした。
第八章・終