第七章「十四歳の誕生日は拳銃の日!?」
第七章「十四歳の誕生日は拳銃の日!?」
白いスーツを着たヤクザが、やせ細った女を殴った。畳の上に倒れたその女を、ヤクザは、さらに足蹴にした。そのやせ細った女は、美鈴の母だった。幼い美鈴は、声も出せずに、部屋の隅にうずくまっていた。
「このアマ! さっさとカネ払え!」
ヤクザが、美鈴の母を踏みつけた。
「堪忍、堪忍して下さい!」
美鈴の母は、骨と皮だけのやせ細った両腕で、ヤクザの足にしがみついた。ヤクザは、彼女の頭を上から殴りつけた。
力が抜けた母の両腕から足を抜き取ったヤクザは、彼女の頭に唾を吐きかけ、ののしった。
「このチョッパリめ!」
チョッパリとは、豚の足という意味の、日本人に対する罵倒の言葉だ。英語のジャップに相当する。
美鈴の母は、畳の上でうずくまり、激しく嗚咽しながら、言葉を絞り出した。
「アタシの体で、利子を払うから……」
「バカヤロー! てめえのようなババアに、金を払う男が何人いる?」
「美鈴だって、がんばって働いてるし、上客さえつけば……」
「バカヤロー!」
ヤクザは、また彼女の頭を殴った。
「大人になっちまったら、上客なんてつくわけねえだろ!」
美鈴の母は、弱々しい声で、つぶやいた。
「美鈴は、まだ十三歳だよ……」
美鈴は、部屋の隅で両膝を抱えながら、心の中でつぶやいた。
「アタシ、今日、十四歳になったんだよ……」
両膝に顔を埋めながら、考えた。母が、自分の誕生日を覚えていたのは、何歳の時までだったろうか、と。確か、一〇歳の時までだった。その日、小学校から帰宅した美鈴に、母は言った。
「もう、アンタも一〇歳なんだから、自分の食い扶持は、自分で稼ぎなさい」
そして美鈴は、初めて、客を取らされた。
それ以来、美鈴は、学校に行かなくなった。小学校の卒業式の日も、自宅のボロアパートの一室で、ロリコン中年オヤジの相手をしていた。四年生の時の友達は、卒業式に出ているんだろうな、と思いながらも、友達の顔は、誰一人として思い出すことができなかった。
中学の入学式は、セーラー服を着て、参加した。母が、撮影年月日の入るカメラを押しつけてきた。中学の正門の前で、中学名の看板が入るように、自分で自分の記念撮影をしてくるように、と命じて。もちろんその理由は、中学生であることを証明するためだ。その日以来、中学校には、登校していなかった。
「バカヤロー!」
ヤクザが、美鈴の母を怒鳴りつけた。
「あんなに身長が伸びちまったら、もうガキには見えねえだろ!」
「だけど、美鈴は、まだ顔は子供っぽいし……」
「さっさとカネ払え!」
ヤクザが、また、殴りつけた。
「カネを払えねえんなら、前にも言ったとおり、てめえのガキは連れて行く。そしてバラバラにして、内蔵も心臓も、それに目玉も、全部売り飛ばす」
「堪忍、堪忍、それだけは堪忍して下さい。アタシの内蔵は売り飛ばしていいから、美鈴のだけは堪忍して下さい……」
「バカヤロー! てめえみたいなシャブ中の内蔵なんて、売れるわけねえだろ! 売れるのは、せいぜい目玉くらいだ」
「じゃあ、じゃあ、アタシの目玉一個売るから、それで堪忍して下さい」
ヤクザは、また、彼女を殴りつけた。
「てめえの目玉なんか、何個売っても、借金は返せねえ! ところが、てめえのガキの内臓は、今が売り時だ。中坊の内臓は、品不足だから、大人よりも高値で売れるからな」
「どうか、どうか、それだけは、堪忍して……」
美鈴の母は、再びヤクザの足にしがみつこうとしたが、ヤクザはそれよりも一瞬早く、彼女を足蹴にした。
「娘の内臓を売りたくねえんなら、てめえが自殺するしかねえな。てめえが自殺すれば、生命保険が支払われて、それで、てめえの借金は、チャラだ」
美鈴の母は、畳に額を押しつけて嗚咽した。
「どうする? てめえが自殺するか、てめえのガキをバラバラにして内臓を売り飛ばすか」
ヤクザは、薄気味悪い笑みを浮かべながら、悪魔の選択を、彼女に迫った。
「ア、アタシが自殺したら、美鈴は……」
「ああ。借金はチャラだからな。てめえのガキにとっても、そのほうが良いんじゃねえのか」
美鈴の母は、畳に額を押しつけたまま、何も答えなかった。
すると、ヤクザは台所へ行き、包丁を一本手に取り戻ってきた。その包丁を、彼女の顔のすぐ脇の畳に、ズブリと刺した。
「三〇分待ってやる。オレが三〇分後に戻ってきた時に、まだ自殺していなかったら、てめえのガキを連れて行くからな」
そう言って、ヤクザはボロアパートから出て行った。
美鈴の母は、しばらくの間、そのままうずくまって嗚咽し続けた。十数分後、彼女は、包丁を畳から抜き取った。
「美鈴……」
母が、美鈴を呼んだ。だが美鈴は、動かなかった。
母は上体を起こし、畳の上に横座りをした。長い髪を、かき上げた。
「美鈴、母さんのところへ、来なさい」
美鈴は無言のまま母の前へ行き、畳の上に座った。
母は、美鈴の両手を、自分の両手で包み込んだ。
「美鈴、ごめんね……」
母は、ぼろぼろと涙をこぼし始めた。
「バカな母さんでごめんね。頭の悪い母さんでごめんね。母さんがバカだったから、悪い男に騙されて、シャブ中になっちまって……」
そこで、母は号泣した。美鈴は無表情のまま、無言で、号泣する母を見つめた。
やがて母は、泣きながら、話し始めた。
「アタシがバカなのは、家が貧乏で、塾に行けなかったからだよ。塾に通って勉強をいっぱいして、大学へ行って、さらに勉強をいっぱいして、賢い女になっていれば、アタシの大切な娘を、こんな目に遭わせなくてすんだのにね……。だからアンタは、母さんが死んだら、母さんの角膜を売ってお金を作りなさい。角膜ってのは、目の一部のことだよ。母さんの死体を市立病院に運んで、角膜を売りなさい。そのお金で、アンタは塾へ行きなさい。塾に行って勉強をしっかりして、大学へ行きなさい。そして、アタシよりも賢い女になって、自分の娘を、幸せにしなさい」
しばらく泣いてから、母は美鈴に、すこし下がってなさい、と言った。美鈴が部屋の隅へ行くと、母は美鈴に背を向けた。そして、横座りのまま、自分の頸動脈に、包丁の刃先を当てた。
母は、一気に、包丁を引いた。
鮮血が、ほとばしった。
薄汚れた部屋の壁が、赤く染まった。
母の体は、畳の上に、うつぶせに崩れ落ちた。
美鈴は、部屋の隅で、両膝を抱えた。額を、膝に押しつけた。
涙は、一滴も出なかった。
心の片隅で、思った。これで、地獄のような毎日が終わった、と。
唯一の肉親である母が死んだにも関わらず、その時は、不思議と、悲しみは感じなかった。
しばらくして、ヤクザが戻ってきた。死んだ美鈴の母を見て、吐き捨てた。
「チョッパリが、手こずらせやがって」
ヤクザは美鈴の髪をつかむと、奥の寝室へ引きずっていき、美鈴を犯した。美鈴は無言のまま、抵抗を一切しなかった。心のどこかで思った。この男に犯されるのも、これが最後なんだ、と。
ヤクザは満足すると、立ち上がって服を着始めた。ヨレヨレの白いスラックスをはき、ベルトを締め、黒い拳銃を、ベルトの前の部分に刺した。薄汚れた白いジャケットを羽織りながら、振り返った。
美鈴はまだ、布団の上で、潰れたカエルのような格好をしていた。
「オイ、さっさと服を着ろ。これからは、別の場所で働いてもらう。てめえには、まだまだ働いてもらって、てめえのお袋の残した借金を返してもらわねえとな」
そう言って、ヤクザは、嫌な音を口から漏らした。その音は、笑い声だった。
美鈴は上体を起こし、ヤクザをにらみつけた。そして、口を開いた。
「借金は、チャラなんでしょ」
ヤクザは目を丸くして、美鈴を見つめた。
「お前、しゃべれるんだ。てっきり、口のきけない奴なんだと思ってたぜ」
ヤクザは、嫌な声で笑った。
「さっさと立って、服を着ろ!」
そう言ってヤクザは、裸のままの美鈴の腕をつかみ、引き起こそうとした。だが、美鈴は抵抗した。立ち上がるのを、拒否した。
「このアマ!」
ヤクザが、美鈴の頭を殴った。
美鈴の目に、星が飛んだ。
布団の上に倒れた美鈴が、叫んだ。
「約束が違う!」
ヤクザも怒鳴り返した。
「バカヤロー! 騙されるほうが悪いんだ! このチョッパリめ!」
ヤクザが美鈴の左腕をつかみ、強引に引きずり起こそうとした。美鈴は右手で布団をつかみ、抵抗した。ヤクザが、さらに力をこめた。美鈴は、布団ごと勢いよく引き寄せられた。美鈴の顔面が、ヤクザの腰骨に激突した。ヤクザが、上から、美鈴の頭を殴りつけた。
「さっさと立て、このアマ!」
そう言ってヤクザは、美鈴の左腕を上へ引いた。
その瞬間、美鈴は、勢いよく立ち上がった。立ち上がりながら、右手で、ヤクザの拳銃をつかんだ。
銃口を、ヤクザの腹に、突きつけた。
その瞬間、轟音が轟いた。
ヤクザは、全身の力が抜けたように、畳の上にへたり込んだ。
へたり込んだヤクザの頭は、ちょうど、立ち上がった美鈴の胸の高さにあった。
ヤクザが、苦悶の表情を浮かべながら、言葉を吐き出した。
「チョッパリ……」
美鈴は、引き金を引いた。ヤクザの言葉が終わる前に。
ヤクザは顔面を撃ち抜かれ、即死した。
そのあと、しばらくの間、美鈴は呆然と立ちつくした。何も、考えられなかった。頭の中が、真っ白になっていた。その時間が、何分なのか、何十分なのかは、分からない。だが、しばらくすると、ようやく、思考能力が戻ってきた。美鈴は、服を着た。セーラー服だ。なぜなら、それ以外の外出着を、持っていなかったから。
美鈴は、母の遺言を実行しようと思った。寝室のふすまを開け、隣にある居間を見た。母の遺体が、見えた。美鈴は、母のそばに立った。死んだ母を見下ろした。そのまま、時間が過ぎた。一時間か、あるいは、二時間か。
やがて、美鈴は、母のそばに座り込んだ。涙が、溢れてきた。その涙は、止まらなかった。いったん溢れ出した涙は、止めどなく流れ続けた。美鈴は、いつの間にか、嗚咽しながら泣いていた。
美鈴が泣いたのは、実に、四年ぶりのことだった。
一〇歳の誕生日に、客を取らされた時から、母のことを、内心、憎んでいた。死ねばいい、と思ったこともあった。
だが、今の美鈴には、母に対する憎悪は、もうなかった。涙と共に、母への怒りも憎悪も、流れ去った。幼い時の、楽しかった母との思い出が、甦った。美鈴が小学校に上がるまでは、母は、優しかった。その頃までは、病院で、准看護師として、働いていた。母一人子一人の貧しい家庭だったが、美鈴は、幸せだった。
それが変わったのは、美鈴が小学三年生の頃だった。母が、いつからシャブをやるようになったのかは、分からない。まだ二〇代の女盛りだった母は、日本人の振りをした在日ヤクザの甘い言葉に騙された。すぐに、シャブを勧められた。ダイエットの薬だと、騙されて。そうして母は、シャブ漬けにされた。やがて本性を現したそのヤクザは、母を殴り足蹴にし、借金で縛って春を売らせ、そのうえ、小学生の美鈴にも、客を取らせるように強要した。
美鈴は、母の遺体を見つめながら、思った。悪いのは、母ではない。シャブが、麻薬が、悪いのだ。そして、麻薬を売る連中が、悪いのだ。母は、全く悪くないのだ、と。
美鈴は、母の遺言を実行するために、立ち上がった。母の携帯電話で、市立病院に電話をかけた。救急車を寄こすように頼んだ。だが、住所を言うと、拒否された。治安の悪いスラム街には、公務員は足を踏み入れたがらない。その事実を、その時初めて知った。
美鈴は、自分で母の遺体を運ぶことにした。ボロアパートの前には、死んだヤクザの自動車があった。美鈴は母の遺体を後部座席に乗せ、見よう見まねで、車のエンジンをかけた。
小学四、五年生の頃は、その車に、毎日のように乗せられていた。上客が、たくさん付いていたからだ。ヤクザの運転するその車で、市内の繁華街にあるホテルに運ばれていた。小学六年生頃になるとその回数は減り、自宅のボロアパートで春をひさぐ日が多くなった。中学生になってからは、ホテルで客を取る回数はさらに減り、中学二年生になると、身長が伸びすぎたせいで、上客はほとんど離れてしまい、ボロアパートから一歩も出ない毎日が、続くようになっていた。
だが美鈴は、記憶力が良かった。エンジンをかけることに成功し、車を出した。
スラム街の中の道路は、一車線の狭いものだった。既に深夜零時を回っていたせいか、他に走っている車はなく、美鈴はなんとか事故を起こさずに、車を走らせた。
二ブロックほど進むと、小さな病院があった。コンクリート製の三階建てで、けばけばしい赤い色に塗りたくられた建物だった。美鈴は、その病院の脇に、車を停めた。その病院は、中国人の中年女医が経営する非合法の地下病院だった。近辺では評判が極めて悪く、美鈴も、小学生の時に、母に注意されたことがあった。あの病院には、決して近づいてはいけない、と。近所の子供達が何人も、その病院の付近で、行方不明になっていたからだ。近所には、行方不明になった子供を、その女医がお菓子で誘って病院内に連れ込むのを見た、という者もいた。その女医は、多くの子供達を騙して殺し、その内臓を売り飛ばしている、という噂が流れていた。
美鈴は、どうしようかと、躊躇した。しかし、市立病院の場所を知らないことに、気がついた。それに、繁華街の広い車道に出たら、自分の運転技術では、すぐに交通事故を起こしてしまうのではないか、とも思った。
美鈴は、決断した。車から降りて、病院の呼び鈴を鳴らした。何度も鳴らし、玄関ドアを強く叩いた。しばらくそれを続けると、女医が現れた。死んだ母の角膜を売りたい、と告げた。女医は、気味の悪い薄ら笑いを浮かべ、病院の中で話を聞きたい、と言った。だが美鈴は、病院の中に入ることを拒否した。しばらくそこで押し問答を繰り返した後、女医のほうが根負けした。病院の前で、二人は、価格の交渉をした。価格は、すぐに決まった。二〇〇万円だった。
美鈴は思った。二〇〇万円という高価格を、すんなりと提示するのは、絶対におかしい。なぜなら、その女医は、とてつもない強欲女だとの噂だったからだ。
だが、美鈴は何も言わず、母の遺体を女医に引き渡した。女医は、遺体を病院の中に運ぶ作業を、手伝ってもらいたい、と頼んできたが、美鈴は拒否した。そこで、さらにしばらく、押し問答となったが、女医は結局、車椅子を病院内から運んできて、一人で遺体を運んだ。
玄関ドアが閉まるとすぐに、美鈴は、病院の周囲を歩き回った。病院の裏には、狭い駐車場があり、その駐車場の奥には、小型の焼却炉があった。美鈴が、焼却炉の冷たい鉄のふたを開けると、中には、注射器などの医療廃棄物の燃えかすが残っていた。
美鈴は、病院の裏口ドアの脇に立ち、しばらく待った。
すると、母の遺体を病院内に運んでから三〇分もしないうちに、裏口のドアが開いた。車椅子を押した女医が、現れた。その車椅子には、母の遺体が乗せられていた。
美鈴は、開いたドアの陰となったため、女医は美鈴に気づかなかった。女医は、母の遺体を、焼却炉に捨てようとした。
美鈴は、女医を呼び止めた。ヤクザから奪った拳銃の銃口を向けながら。
女医は、美鈴の拳銃を見ると、脂汗を流しながら、言い訳を始めた。美鈴はその言い訳を無視して、尋ねた。病院の中に、病院関係者が何人いるかを。女医は、たくさん、と答えた。美鈴は、嘘だと思った。
そこで美鈴は、引き金を引いた。
射殺した女医の遺体を、焼却炉に入れ、燃やした。それから病院の中に入り、自分が受け取るはずだった二〇〇万円を捜した。病院内は、一階が病院の諸施設で、二階が事務所、三階が女医の自宅になっていた。事務所には、大型の金庫があった。だが美鈴は、どうせ開けられないと思い、その金庫を無視して家捜しをした。机やタンスの引き出しの中、それに、化粧箱の中や、さらには冷蔵庫の中からも、一万円札の束が出てきた。その合計額は、三〇〇万円ほどだった。美鈴はその現金を持ち、車に戻った。母の遺体を車の後部座席に戻してから、自宅に戻った。
美鈴は、ヤクザの死体を車のトランクに納めてから、再び赤い地下病院へ向かった。焼却炉でヤクザの死体を燃やしてから、美鈴は、車を走らせた。スラム街を抜けて、繁華街に出た。広い車道の脇に車を停めてから、目印となる大きなビルを探した。それから、携帯電話で、救急車を呼んだ。今度は、拒否されなかった。
市立病院は、すぐに、死亡診断書を書いた。その日の午後、美鈴は、市営葬儀場で、母の遺体に別れを告げた。
シャブ漬けだった母は、骨がもろくなっていたらしく、遺骨は全く残らなかった。そこで、遺灰のみを骨壺に収めた。
美鈴は骨壺を胸に抱き、夜遅く、ボロアパートに戻った。そのアパートからも、スラム街からも、出るつもりだった。二度と、戻らないつもりだった。
美鈴は、中学に入学する時に買った、学校指定のスポーツバックに、衣類を詰めた。ほんのわずかしか、なかった。他に、何か詰めようと思ったが、何もなかった。母の遺品を、何か持って行こうと思ったが、何もなかった。
しばらく考えた末に、美鈴は思い出した。まだ、美鈴が幸せだった頃に、母が好んで履いていた、お気に入りの黒いブーツを。美鈴も、そのブーツを履いた母に手を引かれ、公園を散歩するのが、好きだった。
そのブーツを、押し入れの奥から、引っ張り出した。流行遅れの武骨なタイプだったが、本革の丈夫な代物で、ほとんど痛んでいなかった。美鈴の細い足には少し大きすぎる気もしたが、美鈴は、それを履くことにした。
美鈴は、母の形見のブーツを履き、遺灰の入った骨壺を胸に抱き、三〇〇万円の入ったスポーツバックを背負って、アパートを出た。その日の夜は、繁華街のネットカフェで、夜を過ごした。
翌日の早朝、さいたま市のはずれを流れる荒川へ行き、母の遺灰を散骨した。
そのあと、美鈴は一年半ぶりに、中学校に登校した。学校は、荒れていた。二年生の教室の中で、一番静かそうなクラスに入り、空いている席に着いた。席は、半分近くが空いていた。誰も、美鈴に声をかけなかった。生徒達は、数人ずつ固まって、雑談をしていた。一〇時になっても、十一時になっても、教師は教室に現れなかった。やがて、廊下から、バイクの爆音が聞こえてきた。それに、拳銃の発砲音も。
発砲音が聞こえた途端、教室にいた生徒達は、一斉に、床に伏せた。美鈴も、慌てて伏せた。しばらくして、バイクの爆音が遠ざかり、聞こえなくなった。教室内の生徒達は、再び、椅子や机に座って、何事もなかったかのように、雑談を始めた。
美鈴は思った。こんな学校では、勉強はできない。やっぱり、大学に行くためには、塾に行かなくては、と。
翌日、美鈴は、質屋を訪れた。質屋は、母がよく訪れていた。美鈴も、一緒に行ったことが何度もあったため、どんなものか、知っていた。美鈴は、死んだヤクザの黒い自動式拳銃を売り、代わりに、銀色の回転式拳銃を買った。その拳銃を右足のブーツの中に隠し、たまたま看板を見つけた塾に、足を運んだ。
塾では、中学校とは異なり、秩序が保たれていた。その塾は、個人指導形式だった。美鈴は、塾に、週三回、通うことにした。夜は、ネットカフェで寝泊まりするようになった。塾の先生の指示を受け、中間試験や期末試験の前後には、中学校へ行き、試験を必ず受けるようにした。
三年生になってからは、塾の先生の助言を受け、内申書を少しでもよくするため、クラブ活動を始めることにした。美鈴は、バレーボール部に入った。放課後の校庭では、頻繁に不良生徒がバイクで暴走し、発砲事件も度々あった。それに比べると、体育館の中での練習は、いくらかは安全そうだったからだ。それに美鈴は、以前テレビで、バレーボールの試合を見たことがあった。それ以来、一度やってみたいと思っていたのだ。
バレーボール部の部員数は、一年生を除くと、五人しかいなかった。そうしたこともあり、背の高い美鈴は、三年生になってからの入部だったにもかかわらず、他の部員は誰も文句を言わず、むしろ歓迎してくれた。結局、参加した大会は、全て一回戦で敗退したが、練習の成果で、基本は身に付けることができた。
三年生の一年間は、あっという間に過ぎた。美鈴は、県立高校に合格した。最底辺の高校ではあったが。だが、それでも、塾の先生は喜んでくれた。なにせ美鈴は、初めて塾を訪れた段階では、小学四年生の漢字も、満足に書けなかったのである。
美鈴が入学した高校は、ひどく荒れていた。しかし美鈴は、毎日高校に通うようになった。なぜなら、その年から、給食が、無料化したからだ。
その高校には、風紀委員が一名いた。風紀委員は、入学したばかりの一年生に対しても、助手の勧誘をしていた。その説明会に偶然参加した美鈴は、助手は、稼げる仕事だと思った。懸賞金のかかったスクールギャングを殺せば、数百万円も手に入るのである。既に資金が底をつきかけていた美鈴は、仕事をする必要があった。だが、売春はもう、するつもりがなかった。それに、たとえ売春をしても、高校生では、たいして稼げないことも分かっていた。だから美鈴は、風紀委員の助手になった。
その日から、美鈴は、拳銃使いへの道を、歩き始めた。
第七章・終