最終章「明日に向かって撃つ!?」
最終章「明日に向かって撃つ!?」
美鈴は、保健室のドアを開けた。スポーツバックを、背負っていた。香織のベットに行くと、その脇にしゃがみ込んだ。
暗闇の中で、香織が目を開けた。
「今日は、変な日ね。警備員の見回り時間中に、銃声が聞こえたわ」
「友達が、殺されたんだ」
ぼそりと、美鈴が言葉をこぼした。
「そう……。悲しいわね」
香織が、目を伏せ、答えた。
美鈴は、香織に全てを話した。今夜起こったこと、昨夜起こったこと、それに、埼玉県で起こったこと。自分が、埼玉でお尋ね者になって、東京へ来たこと。東京でも、風紀委員を殺してしまったため、お尋ね者になるのが、確実なこと。その上、百合花殺しの汚名を着せられたため、億単位の懸賞金がかかり、全国どこに逃げても、拳銃使いの賞金稼ぎに、命を狙われるだろうということ。
美鈴は、堰を切ったように話し続け、全てを香織に話した。香織は、その間、黙って耳を傾け続けた。
美鈴が話し終わると、香織が尋ねた。
「それで、美鈴お姉さん、五〇〇〇万円分の麻薬は、どうしたの?」
「全部、トイレに流したよ」
香織は、満面の笑みを浮かべた。
「さすが、美鈴お姉さんだわ。お姉さんって、本当に素晴らしい人ね。五〇〇〇万円分の麻薬を全部捨てるなんて、普通の人じゃできないわ」
「麻薬は、多くの人に不幸をもたらすからね。この世から麻薬さえなくなれば、この世の不幸の全部とは言わないけど、半分くらいは減らすことができる。たぶんね」
「ええ。そうね。半分くらいは、減らすことができるでしょうね。麻薬さえなければ、アタシもホームレスにならなくてすんだしね」
そのあと、数十秒の間、沈黙が流れた。
美鈴が、重い口を開いた。
「そういうわけで、アタシは、今夜、この学校を出る。二度とここには、戻れない。香織ともう会えなくなるのは寂しいけど……」
香織が、美鈴の言葉を途中で遮った。
「お姉さん、アタシに、良いアイディアがあるわ。お姉さんが、もう誰にも追われなくなる、良い方法」
「えっ? そんな方法、あるの?」
「ええ。アタシを殺すの。そして、アタシの名前と戸籍を使うのよ」
美鈴は、驚愕した。
「そ、そんなこと、できないよ!」
「できるわよ。アタシの死体は、重油をかけて燃やして。体育館の暖房用ボイラー室に行けば、重油はあるわ。アタシの遺灰は、川に流して。お姉さんのお母さんのようにね。そうすれば、アタシとお姉さんが入れ替わった証拠は、どこにも残らないわ」
「そういう意味じゃないよ。香織は、まだまだ生きなきゃ。まだ若いんだから」
香織は、急に、悲しそうな顔になった。
「アタシ、もう、生きられないの」
「そんなこと言うなよ」
「事実なのよ。アタシの体、手足の先のほうから、壊疽を起こして、腐り始めてるの。このままだと、すぐに体中に毒が回って、死んじゃうの。本来なら、壊疽を起こした手足を切り落とす切断手術をするんだけど、ここは学校の保健室だから、手術は一切できない。アタシも、手足が切り落とされるなんて、まっぴらだけどね」
美鈴は、香織の衝撃的な告白に絶句し、口を開けなかった。
「実はね。おとといのお昼休みに、保健委員のコ達が言ってたの。ああ、この女、もうダメだな。何カ所も、壊疽を起こしてる、って。それで、保健委員長がアタシの枕元に来てね、こう言ったの。どうする? このまま放置して、苦しみながら時間をかけて死ぬか、それとも、安楽死するか、って。アタシ、聞いてみたの。安楽死って、どうやるの? 彼は答えたわ。点滴のパックに、洗剤を入れる、って。それで、アタシ言ったの。少し考えさせて。すると彼は言ったわ。分かった。三日間待つよ。それ以上経つと、痛みで苦しむことになるよ、って。そう言われた次の日に、この保健室に、美鈴お姉さんが来た。そして、安楽死をするか否かを答える期限が、明日の昼休みなの」
美鈴の顔は、大きく歪んでいた。悲しみと、苦悩で。二つの瞳には、涙が、いっぱいにたまっていた。
香織には、生きるための選択肢がなかった。どの選択肢をとっても、死を数日延ばすことしかできない。
美鈴にも、選択肢はなかった。生き延びる唯一の方法は、香織と入れ替わり、香織の名前で生きていくことだった。
美鈴は、香織の申し出を、承諾した。
香織の希望によって、美鈴は、香織を校庭に連れ出した。校庭の中央に、シーツでくるんだ香織の体を、横たえた。
「夜空を見上げるのは、久しぶりよ。春の夜風も、とても気分が良いものね。満月は、ちょっと欠けてるけど、だけどそのほうが、風情があるかもね」
香織は目を閉じ、静かにつぶやいた。
「願わくは 花のもとにて 春死なむ……」
そこで目を開け、美鈴を見た。
美鈴は、香織のそばにひざまずいていた。
「この先が、どうしても思い出せないの。この三日間、ずっと考えてるのに。国語の授業をサボってばかりいた罰かしらね。美鈴お姉さん、知ってる?」
美鈴は頷き、静かに答えた。
「そのきさらぎの 望月のころ」
香織の顔に、笑顔が溢れた。
「この歌の歌人は、この歌の通りに、亡くなったそうね」
「らしいね」
美鈴は、香織の前髪を、優しくかき上げた。
「そうされると、気持ちいいわ。昔、アタシがちっちゃかった頃、母さんは、よくそうしてくれていたわ」
「香織、もし最後に、何かしたいことがあったら、何でも言って。アタシにできることなら、何でもするから」
香織は静かに微笑みながら、答えた。
「したいことはもうないけど、お願いはあるわ」
「何?」
「もしいつか、美鈴お姉さんが、どこかでアタシの母さんに出会ったら、こう伝えて。香織を産んでくれて、ありがとう、って。以前は、母さんを憎んだことがあった。恨んだことがあった。呪ったこともあった。だけど今は、香織は、感謝してる。母さんが産んでくれたから、十六年の短い人生だったけど、生きることができた。短い人生だったけど、楽しいことも、少しはあった。嬉しいことも、ちょっとはあった。それに、ほんの少しだけど、友達もできた。そして、最後に、大切な人のために、役立つことができた。香織は、この世に生まれて来れて、本当によかった。母さん、ありがとう」
美鈴の瞳から、涙が一粒、こぼれ落ちた。美鈴が涙を流したのは、母が死んだ時以来だった。
「香織、分かったよ。もし出会うことができたら、絶対に伝える。約束するよ」
「アタシ、美鈴お姉さんの役に立つことができて、嬉しいわ。美鈴お姉さんのような素晴らしいひとと、出会えて良かった」
「アタシも、香織のような素晴らしいコと出会えて、本当に良かったよ」
「じゃあ、お姉さん、ひと思いに心臓を撃ち抜いて。アタシ、首から下は、全身不随で何も感じないから。撃たれても、痛くないわ」
「分かった」
美鈴は、静かにうなずいた。
銀色のリボルバーの銃口を、香織の心臓に当てた。
香織が、満面の笑みを浮かべた。あまりにも大きな悲しみを、覆い隠そうとでもするかのように。
「お姉さん、さようなら。香織の分も、長生きしてね」
香織が、静かにまぶたを閉じた。
美鈴は、顔を背けた。香織の顔を直視することは、できなかった。両目を、強く閉じた。にもかかわらず、その両目からは、大量の涙が溢れた。
美鈴は、歯を食いしばった。引き金にかけた指先に、力を込めた。両目を、閉じたまま。
銃声が、轟いた。
三十八口径の銃声は、まるで、彼女の慟哭のような響きだった。
美鈴は、声をあげて泣いた。泣きじゃくった。大量の涙を流し、嗚咽した。そして、叫んだ。何度も、何度も。その叫びは、一言も、言葉にはならなかったが。
しばらくの間、号泣し続けたあと、美鈴は、自分の涙を拭った。香織の顔を濡らしていた涙も、手のひらで優しく拭った。
その涙は、美鈴のものなのか、それとも香織のものなのか。おそらく、両方だろう。
強い風が、吹いた。ひとひらの花びらが、香織の頬に、舞い落ちた。
桜の花びらだった。
美鈴は、風が吹いてきた方角を見た。食堂ホールの脇に、数本の桜の木があった。既にほとんどの花びらが落ちていたが、まだわずかに、花が残っている枝もあった。
その枝の一つを、手折った。
美鈴は、桜の枝を、香織の胸の上に置き、手向けた。彼女の安らかな眠りを祈って。
香織の耳元に、くちびるを寄せた。
「さよなら、香織。アタシの大切な、妹」
美鈴は、立ち上がった。右手には、銀色のリボルバーが、握られていた。月明かりを反射し、輝いていた。深い悲しみを湛えたような、輝きだった。
最終章・終
これで完結です。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。ご感想のほど、よろしくお願いいたします。