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雪降る季節が似合う人  作者: 河口翼
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再会のために

 すると今僕の耳に流れ込んで来ている声に、再び彼女を感じた。数メートル先では戦時中の健気な一人の女性がちゃぶ台の前に座っているが、彼女の口から発せられるその声は僕の耳に届くまでに、幻の薄皮を剥いで櫻井(さくらい)(ふゆ)という、現実の女性を露わにさせた。彼女は、肌を一部露出させたような、見るのもためらわれるほどの生々しさがあった。


 


 暗転。高まり切った光と熱は、暗い洞穴に一気に放り投げられたように僕の目の前から消え去った。そしてある穏やかな衝動だけが残った。


「今から何とかして冬さんに話し掛けられないだろうか」


 彼女は今、楽屋にいるだろう。つい一か月前に僕が感じたような、達成感と安堵で団員たちとくつろいだり語り合ったりしている様子が明瞭に浮かんだ。すぐには外へ出てくることはないだろうし、そこまで面識のない自分が突然楽屋に押しかけてせっかくのムードを壊してしまうのはもったいない。どうすれば目の前の千載一遇のチャンスを手の平でこぼさずに掴み取れるだろうか。僕は考え巡らした。そして、突如浮かんだ唯一の策にすがってみようと思った。


 


 ともに楽しく談笑し合っている目の前の人たちのほとんどは、前にミュージカルで共演したことのあるメンバーだった。口々に今日の公演の調子はどんなだったか、お客さんの反応はどんなだったかを語っている。ある人は笑い、ある人は目の前の鍋をつついている。この話題が尽きることのない豊かな会話をしている見慣れた人たちを注意深く見れば見るほど、今自分がここにいることの不思議さは僕の中で強まっていく。


 僕は舞台後の打ち上げに参加していた。かつての共演のよしみで何とかこの場に加わらせてもらうことができた。


 一人の女性に焦点を合わせた。


 彼女は演技などしていなかった。しぐさ、声、表情……そしてちょっと注意深く見ていると分かる、彼女が時折見せる、まるで子供のような愛らしさのある瞬きの多さ。一見彼女が纏う気品が崩れたかのように見える ―― 人によっては下品とも見えるかもしれない ―― その独特の笑い方。


 彼女は「素」だった。


「今日は本当にお疲れー!」


 目の前で隣の共演者と労いの挨拶を交わす彼女を盗み見る度に僕の中の何かが喜び踊りだすような感じがあった。彼女の見たことのない一面を知れば知るほど、その歓喜は増大して行った。


 誰の人生も生きていない完全な「櫻井冬」としての彼女を見ていると、官能的な手が伸びてきて僕に纏わりつき逃すまいとしている何かの感覚に襲われた。貪欲な自己主張を奥に秘めた、彼女の「表現しない表現」の仕方に悩まされた。それは役に身を投じている時の表現ではなく、彼女の人間としての表し方だった。つまり、もはや言語を無能なものとして廃絶させたかのように彼女がそこにいるというだけで分かる、癒しの雰囲気、可愛らしさだった。


 そんな彼女を見ていると僕の内部の眠りは妨げられて、彼女のその体の柔らかさを僕の身内にまで染み込ませるまで強く抱きしめてしまいたいという衝動にかられた。


 彼女は楽屋にある冷蔵庫から500mlのビールを取り出して来て飲む。熱々の鍋をよそって食べる。またビールを飲む。もう一つ煮込んであった別の鍋をまたよそっては頬張る。そして隣の人との話に笑いながらまた飲む。


 僕は箸を動かしながら、そんな彼女の、貪欲に見えるほどの「正直な姿」を見て一層体が温まるような感じがあった。




 みんなと違って一応、部外者としてこの場にお邪魔している立場なので一足早く抜けて、例のスタジオを出た。頬を切るような夜気が僕の心の温度との対照を作り出し、戯れているようだった。僕の暗い緑色のコートに入っているスマートフォンは彼女との再び会うための可能性そのものだった。僕はついに彼女のラインを聞き出すことに成功した。その胸いっぱいの喜びのために夜中の街灯はいつもより明るく見え、眩しいほどに輝いていた。

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